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初の法成立、レジェンド尽力(その2止) 33年、声上げ続け

2019-06-02 | 先住民族関連
会員限定有料記事 毎日新聞2019年6月2日 東京朝刊
 ◆台湾で同性婚切り開いた60歳
危険を顧みず活動
 台湾はほぼ中心部を横断するように北回帰線が走り、南部は熱帯に属する。4月13日、台南市の大通りに詰めかけた2万人のパレードは熱気に包まれていた。メークに余念がない大柄の男性や、カップルで虹色の模様を顔に描いた女性たち。「いよいよ、私たちも結婚できるぞ」と歓喜の声が上がった。気温は30度を優に超え、額から汗がしたたり落ちた。
 同性婚実現の原動力となった祁家威(きかい)さん(60)は、ビルの屋上から虹色の旗を振って参加者を励…
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https://mainichi.jp/articles/20190602/ddm/010/030/036000c

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クラシック音楽のバロック、バッハやヘンデルの音楽は今より独創的…岡本太郎との共通点も

2019-06-02 | アイヌ民族関連
ビジネスジャーナル 2019.06.01
 現代の日本人は、縄文人のDNAを約10%受け継いでいるということを、国立科学博物館などの研究チームが発表しました。縄文人は狩猟民族として知られていますが、肉や魚を消化しやすい体質の遺伝子を持っていたそうです。夏には海のアザラシ、冬は山のシカやイノシシを食べ、カツオ、マグロ、サケ、貝類、クジラ、ブドウ、栗を楽しんでいたとみられており、今の時代から考えても、かなりグルメな生活を送っていたようです。
 この研究に当たっては、北海道・礼文島の船泊遺跡から出土した3500年前の縄文女性のDNAを分析しています。この女性は、お酒に強かったということまでわかったそうです。今でも縄文人のDNAを色濃く残しているのは、北海道のアイヌ民族、沖縄人ということですが、同じく縄文人の比率が高い九州、東北地区も含めて、お酒がとても強い人が多いのは有名です。九州・沖縄地方の人々は度数の高い焼酎を好みますし、東北には日本酒の名産地が多く、東北の人々は酒量も多い傾向にあります。縄文人は、ビール1杯で赤くなってしまう傾向がある弥生人とは違うといえるでしょう。
 縄文人は、お酒をたしなみながら、燻製、塩漬け、煮干しもつくっていたようで、今まで考えられていたような「縄文人=原始生活」とは、イメージが変わってきます。少人数で移動しながら狩猟を行う縄文人とは違い、その後やって来た弥生人は、米づくりにより集団での定住生活を可能にし、土地や財産の所有権という概念が生まれました。その結果、土地を束ねて外敵から住民を守る権力者が生まれたことは自然な流れといえ、それが国家に成長したという歴史が日本にはあります。とはいえ、食生活の豊かさだけを考えれば、弥生人は移動をしながら各地のさまざまな肉、魚介類、木の実を食べている縄文人には及びません。これを芸術の分野でも見抜いたのは、芸術家の故岡本太郎氏です。
 彼は著書『日本の伝統』(講談社)の中で、このように書いています。
「私が思わずうなってしまったのは、縄文土器に触れたときです。からだじゅうが引っ掻き回されるような気がしました。やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです」
 岡本氏は、あえて平仮名を多用した文章を書いて、その感動を音化しているわけですが、それに引き換え弥生式土器については漢字を使い「縄文時期と正反対の整形された幾何学的な均衡と、柔和な優美さがあり、このあたりが今日考えられている日本の美、伝統のふるさとと思われる」と書き記しています。
 自然を相手にしながら、山野を越え、満腹と飢えを繰り返しながら、少人数で移動を続ける縄文人。ご存じの通り、日本は火山列島で起伏が多く、海は海流がぶつかり、とても変化に富んだ、美しい自然に恵まれた土地です。そんな刺激を受け続けている縄文人と、起伏が少なければ少ないほど作物の栽培に便利な土地に定住し、毎日同じ光景を眺めている弥生人とでは、美意識が大きく変わってくるのは当然です。縄文芸術は岡本作品のように変化と衝撃に富んでいる半面、弥生芸術は弥生土器のような単純な美をとことん突き詰め、様式化されて現在の日本の美につながっているのだと思います。
クラシック音楽誕生

 岡本氏は、縄文芸術という古い過去の美意識を発見し、自分の芸術で再び花開かせたわけですが、過去の美を再発見し独自の芸術をつくりだしたという点では、モーツァルトやベートーヴェンにも共通しています。とはいえ、彼らが独自に考えたというのではなく、同時代に活躍した“古典派”と呼ばれる作曲家たち、さらに芸術家たちにも通じる話です。
 皆さんは小中学校の音楽の授業で、バロック→古典→ロマン派と時代が進んできたと習われたと思います。ちなみに、バッハやヘンデルが活躍したバロック時代は、少し古めかしい感じがすると思いますが、実はまったく反対です。バロックという言葉は、“真珠や宝石のいびつな形”という意味を持っていて、それ以前のルネサンス芸術から考えると、実際にはアバンギャルドな芸術なのです。バッハやヘンデルの音楽を聴いてみると、独創性に富んでいるという点では、今の音楽以上かもしれません。
 そんな時代が進んできて、少し倦怠化してきたころに、イタリアのナポリの近郊で大きな発見がありました。それが、世界遺産にも登録されているポンペイの古代都市遺跡です。西暦79年、キリスト教徒の迫害で有名なローマの暴君・ネロ皇帝が死んで10年ほどたった頃、ヴェスヴィオ火山の大噴火により一瞬にして火山灰の下に埋もれた古代都市です。これが発掘されたのが、1748年です。
 この発見はヨーロッパ中の芸術家たちに大きな衝撃を与えました。火山灰の厚い層が、当時の様子をしっかりと保存してくれていたことで、1世紀のローマ帝国に花開いた彫像、建築がはっきりとよみがえり、それまで考えられていた“いびつな形=バロック”という印象とはまったく違う、様式美を持ちながらもエネルギーに溢れた芸術に、当時の人々は夢中になったのです。もちろん、流行に敏感な芸術家たちは、その様式美を取り入れて、新しい芸術をつくり始めました。それが、1700年も前の古い遺跡の再発見から始まったので、“古典派”と呼ばれるようになりました。
 そんな時代に作曲家たちは、様式美の極致でもある交響曲やピアノ曲に使われる「ソナタ形式」を確立したわけです。ちなみに、モーツァルトも少年時代にポンペイの遺跡を訪ねたと、記録に残っています。
 この古典派の時代に、モーツァルトやベートーヴェンのように、クラシック音楽の正統的かつ模範的な音楽作品が生まれたわけですが、「クラシック」こそ古典という意味です。語源としては、ポンペイ遺跡の発掘により一大ブームになったギリシャ・ローマ芸術から来ています。クラシックは、古代ローマ時代における6つの階級の中の最高階級を表し、「正統的な、模範的な」というラテン語「classici」に由来しています。つまり、クラシック音楽は、本来ならば「正統派フレンチレストラン」と同じく、「正統派音楽」ともいえるのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)
●篠﨑靖男
 桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。
 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。
 2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。
 国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。
 現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。ジャパン・アーツ所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/
https://biz-journal.jp/2019/06/post_28159.html

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宗教改革と「海賊国家」 悲劇の島アイルランド その2

2019-06-02 | 先住民族関連
ブロゴス 2019年06月01日 21:08 林信吾(作家・ジャーナリスト)
【まとめ】
・16世紀のイングランドは、名実ともに「海賊国家」だった。
・イングランドのカトリック対峙はアイルランドの悲劇的運命に拍車。
・イングランドは周辺国から信仰と経済活動の面で恨みを買った。
【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=46077でお読み下さい。】
前回、イングランドにおいて国教会が成立し、ローマ法王庁と袂を分かったことから、アイルランドは宗教対立に飲み込まれて行くことになったと述べた。
もう少し具体的に述べると、国教会が成立したのは1534年のことで、それ以降、法王庁への忠誠すなわちカトリックの信仰を保ち続けたアイルランドは、イングランドの王家から目の敵にされるようになったのである。
もちろん、イングランドにはイングランドの事情というものがあった。この当時、ヨーロッパ大陸においてはスペインの勢力が台頭し、黄金時代と呼ばれていた。具体的には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500〜1558)が、ヨーロッパ大陸のほぼ西半分と広大な植民地を領有し、その息子フェリペ2世(1556〜1598)はポルトガル王も兼ねてイベリア半島を統一したのである。
このフェリペ2世は、よくも悪くもカトリックの信仰に篤く、「異端者の上に君臨するくらいなら、命を100度失った方がましだ」との言葉まで残している。
もともと神聖ローマ帝国自体、中央で勃興したハプスブルク家が、法王庁の政治・軍事部門を勝手に買って出た、というべき存在で、フェリペ2世はカトリックによるヨーロッパ再統一を真剣に考えていたのだ。
このため。同じカトリックの新興を守るポルトガル人に対しては、まことに寛大な当地を実施した反面、法王庁に刃向かった「異端」のイングランドに対しては、「いつか叩きつぶしてやる」と言ってはばからなかった。
念のため述べておくと、信仰だけが両者の対立の原因であったとは見なしがたい。
スペインの黄金時代を支えていたのは、中南米の植民地からもたらされる豊富な銀や物産であったが、イングランドはと言えば、王家までが海賊に投資して(!)その交易船を盛んに襲わせていたのである。投資の見返りとして上納金を受け取ったわけだが、その額たるや、当時の国家予算に匹敵したという。
昨今、国際社会から白眼視され、経済制裁を受けている国が「瀬取り=会場密貿易」を続けているとして問題になっているが、16世紀のイングランドの行為は、それどころの騒ぎではない。事実スペインからは「海賊国家」と非難されていた。
もちろんここでも、イングランドにはイングランドの論理がある。スペインによる侵略の脅威にさらされている以上、その経済力に打撃を与え、海上輸送能力を削ぐことは、国防上きわめて有効な手段であった。
それゆえ16世紀イングランドの人々の目に映る「カリブの海賊」とは、冒険心と愛国心を兼ね備えた勇者たちだったのだ。
20世紀以降のハリウッド映画や日本の漫画にまで、こうした世界観が持ち込まれるとは、まさか思わなかったであろうけれども。
話を戻して、信仰の面からも、また経済的な思惑からもイングランドに対して堪忍袋の緒が切れたフェリペ2世は、1568年、無敵艦隊を差し向けて来た。
これを迎え撃ったイングランド王こそ、エリザベス1世女王である。彼女はなんと、海賊の親玉であったフランシス・ドレイクをイングランド艦隊の副官(事実上の司令官)に任じた。そのドレイクは、遊撃戦法で無敵艦隊を疲れさせ、最後は薪などの可燃物を満載した船に火を放って敵艦隊のまっただ中に突入させるという特攻作戦で、辛くも勝利を得た。
かくして、イングランドがやがて連合王国=英国となり、スペインに代わって「日の沈むことなき帝国」の座を得るに至る道が開かれるのだが、それはまだ先の話で、無敵艦隊を追い返したからと言って、スペインの脅威が消えたわけではなかった。
そしてこのことが、アイルランドの運命を一層悲劇的なものとする。
これまたイングランドの立場から見れば、スペインを中心とするカトリック勢力を正面と見て対峙した場合、カトリック国アイルランドは「背後の脅威」以外のなにものでもない。事実、前述の無敵艦隊は、まず北方に遁走した後、ブリテン島北部を迂回してスペインに逃げ帰ったが、一部は途中アイルランドに寄港して補給を受けていた。この間イングランド艦隊はと言えば、兵糧の準備が充分でなかったため、再度の出撃はできなかったのである。このためイングランドは、アイルランドを制圧すべく、派兵を繰り返し、1600年代からは世に言うアルスター植民を開始した。
アイルランド北部のアルスター地方に、主にスコットランドから多数の移民が送り込まれたのだ。前回述べた通り、アイルランドとスコットランドの住民はともに「島のケルト」すなわち民族的に同根で、文化的な結びつきも強かった。しかし、この時期にスコットランドから渡ってきた人々は、古来のゲール語をすっかり忘れて英語を母国語とし、プロテスタントの信仰を持つようになっていた。
さらには、彼らの言う「植民」とは、もともとアルスターで暮らしていたカトリックの住民を特定の居住区に押し込め、奪った土地に自分たちの生活圏を築く、というものであった。言い換えればカトリックの住民の立場は、新大陸における先住民、あるいはアフリカにおける黒人と同様のものとなったのである。
その後300年を経て、具体的には20世紀末の統計ということになるのだが、このアルスター地方においては、金融資本の100%、製造業の70%以上、サービス業の過半数がプロテスタントのもので、カトリックは下層労働者階級と同義語であった。
とどのつまり、スペインにおいてもアイルランドにおいても、イングランドは信仰と経済活動の両面から敵視され、恨みを買うに至ったのである。
繰り返し述べるが、イングランドにしてみれば、強大なカトリック勢力の脅威に対抗するため、という大義名分があったわけだが、いつの時代、どこの国でも、もっとも立場の弱い者が最大の被害者になるという構図だけは変わることがない。
しかしその構図も、永遠に変わらないというものではなかった。
追い詰められた弱者が武器を手にした時、歴史はまたも大きく動き、そしてさらなる悲劇が招かれるのである。
https://blogos.com/article/381253/

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