西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

高槻市の町歩き(1)歩き方と市民憲章

2005-11-30 | 地域居住学
写真をクリックするか、日付をクリックすると写真が大きくなるので見てください。これはJR高槻駅北口前にある「高槻市民憲章」の看板である。これについては一度ブログに書いたことがある。(6月28日、8月2日参照)今日、フィールドワークで高槻市の「町歩き」をした。1回生8人を引き連れて、だ。課題は、町中で鉄やコンクリートで出来ているもので木に置き換えれるものの発見である。又、並木や植栽の改良方向の発見である。その前に、「町歩きの仕方」を寒い高槻市駅北口で話した。(1)駅前の地図で町の大体を確認。(2)市役所に行って「市政概要」パンフレットを貰う、これによって人口や産業構造、町の地図や将来の都市計画を知る。出来れば市の人の話を聞く。(3)一番高い所、町全体を見渡せる所に上がって町全体の「町見」をして町の空間構造を知る。(4)最後に、その日どう歩くか決める。何回も歩く時は都心から郊外への計画を頭に描く・・そして駅前の「市民憲章」を見ながら「何処の都市も市民憲章は大抵五項目、高槻のは覚えやすい。卒業までに覚えて、就職活動の面接で大学で勉強したことの一つとして披露したら注目されるよ!」「今日の町歩きは日常の高槻の町を歩いていると思わずに、ロンドンかパリを歩いていると思ってワクワクして歩いて下さい」と話してから市役所に向かった。(続く)(写真は「高槻市民憲章」)

思い出す先生方ー大学編(2)多田政忠先生(物理学)

2005-11-29 | 京都の思い出(学生時代)
京大1回生の時のクラス担任が人文地理学の藤岡謙二郎先生だったが1961年に2回生になり、京大本部の向かいの吉田分校(旧制三高)に通うようになり、クラス担任は多田政忠(ただまさただ)先生となった。物理学の先生だった。教科書も書いておられる。温厚な先生だった。同級の加藤はつひこ君(日立製作所から湘南工科大学教授へ)が名付け親でフランス語の「ヌパンザンコール」というクラス会誌が発行されたが、そこに担任の多田先生が巻頭言を書いておられる。多田先生は、実は日本でノーベル賞を最初に受賞した湯川秀樹先生と、旧制・京都府立一中(現・京都府立洛北高校)、旧制・三高、京大理学部物理学科とづっと同級だったのだ。湯川先生は喫茶・進々堂で見かけたことがあるのは前に書いたことがある。(8月8日のブログ)(写真は、多田政忠先生の同期・湯川秀樹先生若い頃)

アムステルダムの自転車道

2005-11-29 | 奈良の思い出(助教授時代)
LRTのことを考えていたら、自転車道も思い出した。私が最初に海外旅行したのは、33歳、1974年の夏であった。京大から奈良女子大に移った年である。木村春彦先生(当時、京都教育大学教授、国土研理事長)が旅行団の団長で、私が幹事で国土研から初めてヨーロッパにダム崩壊現場を調査する目的で出かけたのだ。当時は未だアラスカまわりで、アムステルダム近郊のスキポール国際空港で下り、アムステルダムにも行った。その時、初めて自転車専用道路を見た。早速、自転車を借りて市中を乗り回したことを思い出した。日本の交通システムと違うので戸惑い、危ないこともあった。オランダは、それより10年ほど前に絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生(1964年当時、西山教授の下の助教授)が交通事故で亡くなられた地である。私がアムスで初めて自転車道を走ってから31年も過ぎてしまった。(写真はアムステルダムの自転車)

市電(LRT)の復活へ

2005-11-29 | 地域居住学
今朝の『毎日新聞』大阪本社版では、堺市にLRT(ライト・レイル・トランジット)が将来導入されることを記念してのシンポジュームを特集している。広島では既に走っている形であり、富山も導入するようだ。京都でも検討と言う。北側国交相も「支援したい」と言っている。私は金沢市で市電に乗って町を覚えたし、京都の学生時代も市電に乗っていた。先輩の広原盛明さん(現・龍谷大学教授)が事務局長で「京都の市電を守る会」で運動したが、残念ながら廃止された。今回のは見直し検討で、結構と思う。金沢でも是非「復活」検討して欲しい。LRTは昔の市電より色々技術革新で前進している。建設費用が地下鉄に比べ格段に安い、低床で高齢者・身障者も乗り降りしやすい、連結して多くの乗客を運べる、電気効率も良く音も静かだ等々だ。ヨーロッパの事例が昨年NHK衛星テレビで連続放映されていた。フランスのストラスブール、スイスのチューリッヒ、オランダのアムステルダム、イギリスのマンチェスター等だ。新聞では、ドイツのカールスルーエも上がっている。来年行くときには、これらも計画に入れたい。これで、私の考える都市の交通としては、先ず安全に楽しく「歩くこと」の確保、自転車道、諸種のバスサービス、LRTそして基幹公共交通の段階構成となり、自動車は「補助的」に活用する、という構想となっていくだろう。(写真は、ストラスブールのLRT、「LRTのある風景」より引用:http://www.sunloft.co.jp/gallery/lrt/menu.htm)

京都国際会館

2005-11-29 | 訪問場所・調査地
京都国際会館(京都国際会議場)には何回も行ったし色々の思い出がある。まず、学生時代に西山研で設計コンペに出す図面描きの手伝いをした。「西山夘三先生の思い出」ブログに書いた。落選で東大の大谷幸夫先生の案が当選だった。私が京大助手の時、西山先生の還暦祝いをここでした。西山先生の赤いベレー帽姿を思い出す。奈良女子大助教授の時、水俣病患者の住宅改善について国際研究集会(HESC)で初めて英語で発表した。その時の司会が東京工大教授の華山 謙さんだった。(彼は、その後、自殺した。残念だった!)京都府立大学名誉教授(仏教大学教授)だった京大建築西山研先輩の吉野正治先生を偲ぶ会が行なわれた。そして昨年8月、国際家政学会(IFHE)が行われ、不肖私が実行委員長だった。今後も色々あるに違いない。(写真は京都国際会館)

地域バスを(路線バス以外にも)充実させよう!

2005-11-28 | 地域居住学
一寸前にNHKTVの「ご近所の底力」で地域に無料のバスを走らせた話をしていた。その費用は、その無料バスのバスストップにある「商店」などの負担による、としていた。商店としても顧客が増えてペイしているようだった。青森県五戸町の例だ。
詳しくは:http://www.nhk.or.jp/gokinjo/backnumber/051110.html#idea02
精華町や木津町でも行政が「ワンコインバス」を路線バスが走っていない所で走らせている。今度、奈良女子大院生の井倉雅子さんに聞くと、生駒市でも例えば北の鹿野台(住宅地)から生駒の商店街へ向けて、他に生駒市にある公共施設にも止まる「ショッピングバス」とでも言えそうなマイクロバスが導入されたようだ。商店でいくらか買い物すれば無料、片道のみ負担(100円)等となるようだ。結構なことだ。私は、更に大きな駐車場をそなえたショッピングセンターでも出来れば、この「バス方式」を可能な範囲で導入したら良い・・と思う。そのことは(1)高齢者など自動車運転出来ない人へのサービスになり、(2)総体としてガソリン消費量が減って地球環境に優しく、(3)広大な駐車場スペースが減って土地の有効利用となる等々のメリットがあるからだ。こういうことをあちこちで可能な限りやっていこうではないか!(写真は、新鋭のマイクロバス)

玄関の間と玄関

2005-11-28 | 金沢の思い出
玄関の間は、玄関から内部に上がった所で畳3畳である。間口1間奥行き1.5間である。畳3枚が玄関手前から奥に敷いてある形だ。この一番奥の畳の左手が「茶の間」の入り口で、奥が襖を介して八畳の「座敷」で後述する。玄関は、間口1.5間、奥行き1間で、間口の半間分は壁で向こうは「茶の間」である。畳2枚目の縁と茶の間側の壁際に2枚折の金屏風が置いてあった。玄関の間と玄関の境は2枚の板戸で真ん中にガラスが入っていた。普通はこれは寄せて半間分開けてあった。私は小学校3,4年生頃、「吉村不二子先生の思い出」で既に書いたが、毎朝一番に起きて、この玄関の間で朝刊を読んだのである。玄関は、「たたき」風で畳の玄関の間の間に「上がり框(がまち)」が1.5間にわたり付いている。玄関左手壁には、傘立て、コート掛けを持つ下駄箱が寄せてあり、右手壁際には、前車輪を「上がり框」に載せた形で自転車が置いてあった。玄関の扉は、4枚の引き戸で、桟にガラスの入ったものだった。玄関は、玄関の間のラインから外に小屋として出ており、外から見ると小さな入母屋風屋根がかかっていた。玄関自体は、前に説明したように、外から向かって右手の台所より、中に引っ込んでいたので玉置さんや増田さんに「玄関後退型」と呼ばれたのである。

煙突掃除

2005-11-28 | 金沢の思い出
「へっつい」の前に表に面した窓があり、へっついから出た煙はその窓からも見える外の煙突(ブリキ製)を通り上空に抜けていた。時々煙突掃除をするが、その時は、外に出て板塀の端の隙間から板塀と家の間に入り込んで、そこで煙突の下を開けて、そこに「ワッシャー」を入れてゴシゴシやって煤をこすり落とした。ざーと地面に落ちるのだった。この時は手ぬぐいで頬かむり、マスクもして軍手もはめて作業した。それでも顔など黒く煤けた。こういうことを経験していたこともあるが、それ以前の子供時代から、こんな狭い煙突を、どうやってサンタクロースは入ってくるのだろうか、と不思議に思っていたのである。(写真は煙突掃除のイメージ、この縦管の一番下を開けて上に向かって掃除した。煙突の最上部は、この写真とは違い、横に二つの口になっていた)

台所の踏み板、勝手口

2005-11-28 | 金沢の思い出
約2坪(細長い4畳)位の台所では踏み板の上を歩いた。いづれ全体の図面を示さないと、空間構成がはっきりと分らないが、私の家では既に述べた4畳半の「茶の間」と「台所」は直結していなくて、途中に「玄関の間」3畳があった。又、台所の踏み板から上がった所は台所から見て右半分が2階へ上がる階段、左半分が板の間で、それが更に左手の3畳の玄関の間と繋がっていた。板の間から台所に向かっては一段低い踏み板に下り、更に少し低い長い「へっつい」までも通じる踏み板があった。台所は元々は土間だったかもしれないが、履き替えが面倒で、踏み板を置いたのではなかろうか。「へっつい」の手前で右手に勝手口があった。勝手口は引き戸で、戸は1/4位下が板で上が木の桟にガラスだった。勝手口の「鍵」は、つっかい棒だった。今から考えると極めて無用心と言える。

井戸と漬物桶

2005-11-28 | 金沢の思い出
台所の流しは水道、と言ったが古い井戸は残されていた。夏など西瓜を冷やすのに利用していた。大雨の時など、井戸でもざあざあ音がしていたので、割と浅い井戸だったと思う。井戸の横に大きな漬物桶があった。12月になると正月用の(浅漬け)大根を漬け込んだ。これも手伝いしたので様子を述べる。11月中に大根100本ほどを近郷の農家から買う。その葉を落として、「身」を桶に「井桁」に漬け込んでいく。最初の段に並べ終わったら、塩と小糠を振る、そして次の段と段々に上まで「盛山」に漬ける。葉っぱをサンドイッチに置く。それに蓋をして、いわゆる漬物石で重石をする。数日経つと大根からの「水」が出てしぼみ蓋が下がって「水」があがってくる。大体一ヶ月が食べ時の始まりで、正月に「お初」を切って食べていた。なお12月の終わり頃にもう一樽、今度は「沢庵漬け」の漬け込みで、これは、浅漬けを毎日3本(!)食べるとして、なくなる2月頃から「沢庵大根」を食べるのだった。(写真は木の漬物桶)

流し台まわり

2005-11-28 | 金沢の思い出
現在、流し台は殆どステンレスの一体成型で出来ている。私の子ども時代(1945年から1960年頃まで)、金沢・桜畠の家では、木材、コンクリート、コンクリート・タイル貼りと変化した。昔あったと言われるしゃがみこんでする流し台ではなく立ってするものに既に変化していた。水は水道からになっていた。木の時は、底がぬるぬるした感じになって最後は気持ちよいものではなかった。やがてコンクリートのものを経て、それに小さなタイルを貼り込んだものに変わった。ステンレスに変わったのは、妹夫妻が、この家を改築した時なので、大分後となる。朝の洗面もここでしていた。「歯磨き粉」は最初は正に粉であった。流し台の上に今でもあるタオルを数枚引っ掛ける金物の棒が何本か回転するものもあった。昼間の洗濯も、この流し台の横でしゃがんで木製のタライに木製の洗濯板を使ってやられていたのではないか。戦後(1945年)直ぐには、犀川まで洗濯板を持ってやっていた時期もある。流し台の横には、小さな料理用のガスコンロが設置されていた。(写真は洗濯板)

吉村順三の「小さな森の家」

2005-11-27 | 住まい・建築と庭
今日、NHKTVの「新日曜美術館」で「簡素にして品格あり」の建築家・吉村順三(元・東京芸大教授)をやっていた。やはり三男建築家である。(坂倉準三、丹下健三、西山夘三等)テレビでも紹介されていた軽井沢の山荘は、PHAIDON社の「The House Book」にも掲載されている。この本は、世界から500の住宅を選んで紹介するものだ。1階は湿気を考えてコンクリートの「基礎的部分」、2階が木造で片流れの屋根である。2階の居間で窓を開け放つと回りは森、樹木の海である。吉村は「小鳥籠」にたとえている。「そうだな」と思う。吉村は、奈良の国立博物館の別館をも設計した。奈良公園に溶け込む設計を目指したようだ。とにかく彼も自然との「つながり」を重視した建築家の一人だった。

へっつい

2005-11-27 | 金沢の思い出
今まで、金沢で18年間住んだ桜畠の家について、中心の4畳半の「茶の間」の「部分空間・部品」について卓袱台(ちゃぶだい)から始まり色々ブログに書いてきた。カテゴリー「金沢の思い出」をクリックしてみて欲しい。これから次に「台所」のことについて色々描写したい。私の家は大正末期から昭和前期の建築と思われるが、江戸時代からの間取りの伝統を引いていたと言える。この伝統間取りについては、亡くなった玉置伸吾さん(元・福井大学教授)と弟子の増田達男さん(金沢工大教授)の研究により「玄関後退型」と呼ばれる前田藩の足軽級のものと分かっている。桜畠には足軽級が住んでいたのだ。「玄関後退」ということは、逆に「台所突出」ということだ。台所は、1間×2間の2坪ほどだった。表に面した所に「へっつい(かまど)」があった。私は家人から「男のくせに・・」と批判されつつ、へっついで火を焚くのが好きだった。「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、炊き上がるころ又ちょろちょろ」と言うのが焚き方だった。上の口が薪をくべる口、下が空気口である。上の口を開けたままだと火が煙突の方に流れて効率が悪かった。そういことも現場で覚えたのである。へっついの横が薪置き場だった。(写真は、へっついのイメージ)

増田友也設計の京都・東山会館の思い出

2005-11-27 | 奈良の思い出(助教授時代)
私は京大・建築学科では「建築意匠論」を増田友也教授に習った。設計製図の多くも増田先生の指導だった。私は、先生の設計では、「東山会館」が好きだった。1988年に取り壊されて今はない。場所は、南禅寺、疎水の近く、現在、京都市国際交流会館のある所だ。この東山会館で、私の印象にあるのは、入り口前の樹木、そして中庭である。樹木について、先生が「あの樹木があそこにあるのは必要なことで、仮に何かで枯れても同じように再現してもらう契約になっている」といったことを言われたことを覚えている。樹木が、建築にとって極めて重要なのだ、と頭に入った。次に中庭だが、一寸舞台になっている所もあって、回りの廊下辺りからも良く見えてよかった。この建物で色々な会合や「コンパ」風の集まりもあったが、一番の思い出は、西山研究室の先輩の三村浩史先生が京大教授、広原盛明先生が京都府立大学教授に前後してなられた時に、後輩達がお祝いの会を確か1985年の暮れに開いたことである。その時に、西山夘三先生は「教授になっておめでたいが、次を考えないと・・」と言われた。その言があったからかどうか分からないが、その後、広原さんは京都府立大学学長になられた。(写真は、増田友也先生)

どうだんつつじ

2005-11-27 | 生活描写と読書・観劇等の文化
桜が丘の家から「つなね」の家へは、専用歩道を通り、高の原駅前を通って25分ほどだが、今日は時間があったのでぶらぶら行った。その道筋に積水ハウス総合住宅研究所があり、中に私も理事の一人のNPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫がある。その積水ハウスの敷地には研究用のモデルハウスもあるが、庭木や並木の研究用に種々の樹木も植えてあって、名前が表示されているので勉強になる。今日は、真っ赤な「どうだんつつじ」に目が行った。これも春と秋に我々の目を楽しませてくれるのだな、と思って写真を撮った。(後ろが積水ハウスの研究所)