西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ラジオ深夜便のねじめ正一さんの話よりーお天道様と貧乏性ー

2010-11-30 | 時論、雑感
昨日から今日の「ラジオ深夜便」で詩人のねじめ正一さんの話を聞いた。

〔ミッドナイトトーク〕わたしの”ニッポン”再発見で面白かった。

ねじめさんは、ニッポンと聞くと、まず「お天道様」を思い出す、と言う。もう一つ「貧乏性」を「勿体ない精神」とともに思いだすらしい。

まあ、私も一寸前のブログで、日本は「日の本」の国で、最初の神さんが「天照大神」であるように元々太陽信仰の国がらであり、日子、日女という言い方まである、と指摘した。

だから「お天道様」を思い出しても当然だと思った。「天子南面す」だし、住居の造りでも南からの日照を重視している。

次に「貧乏性」だが、元々資源に乏しく皆が贅沢に生活したんじゃ全体が持たない。「貧乏性」でいくより仕方がない。

しかし、自分達は貧乏だ、と言ったのではプライドに傷がつく。そこで「勿体ない精神」を創り、刺身のように一番安上がりだが「新鮮で美味しい」食べ方を発見しひろげ、柱なども伊勢神宮のように金のかかる塗料を何も塗らない無垢の木として「それが良いのだ」という考え方を流布し、化粧も薄く「素肌美人が良い」としたのだ。

今後も、これらで行けば良い、と思った。

最近の月曜昼食は大学生協食堂

2010-11-29 | 生活描写と読書・観劇等の文化
まあ、最近は「毎日が日曜日」のようなものだが、現在、週一で月曜日に奈良教育大学で非常勤で「住居学」を教えている。午前中だ。

で、終わったら、先週から大学生協で食べている。サラダバーがあるし、ご飯もL,M,S,SSと細かく量が分かれているし、魚や煮野菜も結構ある。外の一般食堂では昼食は800円ほどなのに、ここではほぼ500円台で十分だ。

今日食べた物:豆腐(冷奴)、ライスSS、味噌汁(若布と麩)、とろろ(芋)のりかけ、納豆、スライスおくら、鯖生姜煮で7品目で535円だった。(奈良女子大生協食堂では、納豆がなくなっていたが、ここは未だあって良い。)

レシート下方には、タンパク質34.2g、カルシウム174mg、塩5.3g、641キロカロリーと記載がある。日記にでも貼りつけておこうかな。

日本の「古代」は太陽暦?神武天皇は実在したかも?

2010-11-24 | 生活描写と読書・観劇等の文化
これも雑誌『図書』(11月号、岩波)の記事からである。

長島要一さん(コペンハーゲン大学DNP特任研究教授)の「W・ブラムセンの情熱ー「和洋対暦表」と古代日本ー」である。

W・ブラムセンとは明治の初めにデンマークからやってきた青年(20歳)で海底電信ケーブルを敷設するため長崎電信局に赴任してきた。

彼は、古銭学にも関心を示し「和同開珎」の「和同」は西暦では何年に当たるのかなど、日本の暦の各月の1日が、西洋暦の何年何月何日にあたるかを容易に分かる『和洋対暦表』を上梓した。

英語版も発行されたが、その序章で、ブラムセンは、日本では年を表示する方法は四つあることを説明しているようだ。(1)天皇の治世、(2)年号、(3)干支、(4)「紀元」すなわち神武天皇即位の西暦紀元前660年を元年とする年、である。

で、明治以降、天皇一代につき年号一つと決められ、「紀元」は1873年に制度化されたが1945年に廃止された。

ブラムセンの「概説」で「特に注目すべき点は、日本人が、中国から暦のシステムを導入する以前に、「1年」をいかに数えていたかという、暦法の根本に関するブラムセンの仮説である」「『日本書紀』を読み解く過程で、彼は初代天皇神武から第16代仁徳までの平均寿命と、17代履中から32代崇峻までの平均寿命とが、それぞれ109歳と61.5歳というように、著しく異なっているのを発見し疑問に思った。」

「しかし、神話的な存在だから長命だったのだろう、などと考えなかったところが異色で、彼によれば、仁徳天皇の治世(313-399)に中国の暦法が導入されたが、それまでの日本人は、昼と夜の長さが同じになる春分と秋分を起点とし、春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ「1年」として数えていたと言う。まさにそのために、『日本書紀』では仁徳天皇以前の歴代天皇の寿命が2倍になっていたのだと説明している。」

「単純明快すぎて、だまされたような感じさえする仮説である。」

「古代の日本では、天照大神の末裔の国にふさわしく、月ではなく太陽を、時間を計る単位にしていたにちがいない、とブラムセンは確信する。」と言う。(そういえば、ひこは日子だし、ひめは日女が元である。正に日の本の国である。)

これで計算してみると、神武天皇の治世は紀元前660年に始まるのではなく、紀元前130-93年となり、今の古代史の弥生時代中期に即位となる。

また「たとえば、崇神天皇を実在初代天皇と見なしてその在位を紀元前97年から30年とし、神武天皇から崇神天皇の間の8人の天皇を「欠史8代」とするのが通説であるが、ブラムセンの説では8人とも実在の天皇と見なされ、同様に、実在性を疑われている成務、仲哀の両天皇もよみがえる」となる。・・・

古代史のプロに再検討してもらいたいものだ。

W.ブラムセンは、コペンハーゲンの実家に立ち寄った際、「腹膜炎を起こし、短時日のうちに亡くなった。享年31歳、惜しい人物を失ったのだった。」

しかし、やはり「歴史は発掘し、考え抜いてみるものであろう。」

雑誌『図書』は、岩波の宣伝誌ではあるが、毎月来る「教養便」である。各分野から刺激を受けられる。月刊誌、100円、年千円、10年で120冊で一万円である。私は10年単位で郵送してもらっている。
(郵送料は10年の場合は書店持ち)

リタイア後の生活費は?

2010-11-23 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今朝の『朝日』(大阪本社版)の「asPara会議」28頁で表記の話題(リタイア後の生活費は)で「京都の人に聞きました」の結果が出ていた。

生活費は毎月いくら必要? では、109人が回答(アスパラクラブの会員に聞いている)している。
・10万円未満 3人、・10万~20万円 32人、・21万~30万円 60人、・31万~40万円 12人、・40万円以上 2人という結果。まあ最低と最高水準をカットすると、殆どが10万から40万円に入る。最も多いのは20万円台だ。

まあ昔知り合いのフィナンシャルプランナー(家計計画専門家)に聞いたら、リタイア後の毎月の必要希望費用として「最低欲しい」のは24万円ほど、「余裕ある生活をするには」37万円ほど欲しいとの調査結果がある、とのことだった。

まあ私は(夫婦二人で、妻は一時短期間働く)、私が43年間働き、年金掛け金も43年間支払って、年金は、月20数万円(「最低欲しい」ほど)ほどだ。(最終月収の半分以下だ!)もう少し必要だな、と思っている。

健康小食、ほろ酔い、早寝早起き、歩け歩けの健康生活を基礎とし、必要な後期青春時代に必要な教養のための本や音楽会、美術館、博物館、旅行など文化に相対的重点をおいて何とか生活できると思っている。

現役時代と比べると? 回答101人で、
・少ない人 62人、 ・同じくらい 38人、・多い 1人 である。同じ位にするには、特別に財産ある人を除くと継続的に働くか、会社などに個人年金掛け金を掛けたか、であろう。
当然、私も相当少なくなった。

家事共同の形について

2010-11-22 | 生活描写と読書・観劇等の文化
私は、職場人間から地域人間になると必然的に生活の基礎として家での家事を、配偶者がいる場合には、一般に配偶者と共同でやらねばならない、と言っている。

それらの家事は、炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所づきあいの七つである、と前から言っており、それらが出来ることは、基礎的生活力があるということだ。

私は、それぞれゼロ能力ではないが、まだまだだと自覚している。

それで、それらの家事は、出来れば配偶者と色々な形で共同でやれれば良い、と思う。その形をちょっと考えてみると、それぞれ独立して分担というのもありうるだろうが、少ないのではないか。

つまり上に言った七つを2人できっちり分担するという形である。炊事は妻、洗濯は私、掃除は妻、・・・という形だ。これは少ない。

それぞれを分担部分や割合は違うが共にやる、という共同が一般的と言える。その中でも一緒に同じように微妙に分担しつつやる形の他、リレー式に前半と後半のようにバトンタッチでやる形もある。例えば、洗濯するのは「妻」、干す一部と取り込む一部は「私」、整理、収納は「妻」、またゴミを集めて分別袋に入れ玄関先まで出しておくのは「妻」、次の朝、ゴミ置き場に運ぶのが「私」などである。

とにかく共同でやると、夕方のビール、酒の最初の一杯が美味いと感じる。恐らく妻もそう感じているだろう。

「フォスコ・マライーニの最後の弁明」(谷 泰さんによる)

2010-11-21 | 生活描写と読書・観劇等の文化
過去、この世を去るに際して、形式的葬儀はせず、知り合いに向けて「最後の言葉」を残した先達として、先輩の吉野正治(よしのしょうじ)さんがいる。私は過去のブログで紹介した。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/29825f69a6440424473c41fe71bd5535

今回、雑誌『図書』11月号(岩波書店)の谷 泰さん(社会人類学)表記小文によると、「イタリアにおける日本学研究の草分け、民族学者、登山家、すぐれた著述者かつ写真家として」日本でもしられていたフォスコ・マライーニが2004年6月8日に92歳で人生を閉じるに際して「自己信条の一貫性をつらぬくべく、教会の葬儀ではなく、世俗の告別式を望み、なぜ自分がそう望むかの理由を明記した弁明の文を、告別式への参会者にむけて予め書き残していた。」以下がそれである。

「親しき友人諸氏へ
このたび、宗教色抜きの葬儀の常として、いかにも味気ない葬儀場に集まっていただくことになったことを心苦しく思います。もちろんわたしの愛するフィレンツェの、崇高で歴史の香りあふれる教会、讃美歌、散香の香り、音楽、そして花にみちた場に、皆さんをお招きできたのなら、言うまでもなくすばらしいだろうと重々承知のこと。ただそれを拒んだのは、次のような自己の信条を最小限貫きたいという思いでありました。

 あなた方は尋ねることでしょう。いまお前はどこにいるんだ、いったいどういう信念のもとで、だれも避けることのできない不思議な旅に向けて地球を去ろうとしているんだと。
それに対して、わたしの人生でのある決定的な出来事から話し始めたい。
1965年から66年にかけてのこと、わたしはニューヨークの出版社ハルクート社の依頼を受け、かの三大宗教の中心である都市エルサレムについて一書(引用者注:Jerusalem:Rock of Ages,1969)を執筆することになりました。
・・・こうしてエルサレムに数カ月滞在することになっただけでなく、この滞在を機に、聖書(旧約と新約)とコーランを丹念に読むことにもなったのです。・・・

 ともあれこの経験以後のことです。わたしは神の〈啓示revelation〉という問題を真剣に考え、・・・真の意味で偏見から自由な精神の持ち主から見て、この「啓示」というものは、なにもエルサレムにおいて発せられたかの有名な三つの啓示に限られるものではないと思い始めたのです。

 それこそ視野を広げて、啓示はゾロアスターの思想にも、ヒンドウーのリシの考えにもある。いや仏教をどうして無視できるでしょう。サッダルマ・プンダリーカもまた啓示のひとつではないか。・・・それこそガルザンティ社の宗教小事典を見るだけでも、38もの宗教が指摘されています。そのそれぞれにおいて啓示という現象は認められなくてはならず、このような啓示の洪水を前に、神様、いったいどれが本当の信用に足る啓示なのでしょう、・・・ある啓示に対してこれがより優れているという保証がいったいどこにあるのでしょう、と尋ねたくなるほどなのです。

 わたしは、こういう疑問を抱きつつ、それぞれに互いに距離を保った諸文明に向けての旅を重ね、それらにじかに触れる経験を通じ、はっきりと次のように思うようになりました。

 つまり、ある特定の場所、特定の時点で、特定の人物に開示される〈局在する啓示Revelazione Puntuale)ではなく、〈常在する啓示Revelazione Perrenne〉というものがあるのだと。それは自然のなかでも、日常の人間世界のなかでも、聴こうとするものならいつでも、どこでも、神秘的な語りかけとして受け取られるものであり、じつはそういう宗教的場に、われわれはいる。なにも預言者から聴かなくとも、聴く、見る、読むだけでよい。すべては〈啓示〉として、そこに、いつも、示されているのだ、と。

 もちろんこういう考えに、あなたは、確かに美しいもの、崇高なもの、朝日に輝く樹上の雪、月光のもと岩に砕ける波頭、林の梢を吹き渡る風に触れるとき、われわれはある神々しさを感得するにしても、醜いもの、悪しきもの、恐るべきものに触れても、お前はこの〈常在する啓示〉を感得するのかと尋ねるでしょう。答えはもちろん「はい」です。

 ある意味で悪は、善や美よりもいっそう啓示としての教えを含み、はるかに神秘的なのです。神は無垢の子供の死や苦悩をどうして許容するのか。こういう疑問に対しては、神秘性が増すにつれ、苦しみはいや増し、恐れおののくというべきでしょう。

 たしかにこういう視点から見ても、イエスは、モーゼやムハンマド、仏陀や老子と同様偉大なる人物でありつづけます。しかし(巧妙かつ天才的なパオロの創作でしょうが)イエスをわたしはどうしても「神の子」とはみなせないのです。〈常在する啓示〉の中にこそ、わたしは平和と安心とを見出してきました。多くの理由から、わたしは〈局在する啓示〉よりも〈常在する啓示〉のほうがはるかに優れていると思えることをいま告白します。

 そう〈常在する啓示〉は、それこそ最初にこの世に到来した人類が不安と感謝、希望と不思議の念をもって天を見上げたそのときから、いつもそこに存在していたのです。もし〈局在する啓示〉の立場に立つなら、啓示は人類史のなかでもきわめて遅れて立ち現われたことになる。〈常在する啓示〉の立場に立って初めて、啓示宗教が現れる以前の人類、古代の、異教の、そして未開の人々にも啓示はあったことになり、不自然さは解消します。〈常在する啓示〉という観念のもとで、ネアンデルダール人も遠い過去の人々も同様に、われらの親しき同胞、親しき精神の友となるのです。

 この〈常在する啓示)のもとでは、ある啓示を信ずるがゆえに他の啓示の信者を物理的に抹殺する、といったファンダメンタリスト的崩壊現象は回避されるはずです。あの恐ろしい出来事は過去においていくども起こっており、十字軍を、アメリカ大陸征服時のあの悲劇を、ヨーロッパをはじめ各大陸でくりひろげられた宗教戦争を想起するだけで十分でしょう。・・・そう、歴史とではなく、自然と一体化する〈常在する啓示〉こそが、深く実感のこもった人類同士の精神的一体へとわれわれを導くのです。

 〈常在する啓示〉という考えの下でこそ、宗教と科学、人間と自然とのあいだの対立は克服されるはずです。科学はその啓示を探求するものとなり、隠された神との協力のもとで、宗教的営為と一体化していくでしょう。〈常在する啓示〉こそが、遠き孤島で自足しつつ謙虚に住む人から、高度なる文明中心で最高の知性の高みに達した人にいたるまで、すべての生きとし生ける人類のすべてが、ひとつになることを保証してくれるのです。

 もういちど最後に、伝統的なしきたりに従った相応しい告別の場を用意して、あなた方をお招きしなかったことの許しを乞うとともに、なぜそうしなかったかその理由をご理解いただけたことを期待しつつ、お別れの言葉に代えます。 フォスコ」


うーん、深い、広い考察、そして営為である、と感動している。現代の「宗教戦争」は、〈常在する啓示〉の立場から、きっぱりとやめるべきである。

追悼 中村 武君

2010-11-19 | 友人、付き合い
今朝、中・高・大、大学院と机を並べた仲の中村 武君が亡くなったとの知らせを受けた。

彼は、金沢市の仙人町(現・清川町)で1941年に生まれ育った。犀川の岸辺(左岸)である。対岸の市立菊川小学校を卒業し、同じく市立野田中学校に進み、そこで私と同じクラスになった。1年次である。前半と後半で「クラス代表」を中村君と私でやり分けたと思う。担任は美術の越馬(後に笠間姓)先生だった。

野田中は大人数の中学で、3年の時、中村君は13組(クラス代表が中村君、副代表が奥さんだったと思う)、私は9組だった。

高校は、二人とも推薦で金沢大学附属高校に進学した。野田中からは確か6人が進んだと思う。大学、大学院も同じ京都大学工学部建築学科だった。別に示しあわせて進学したわけではないが、そうなった。ただ専門が中村君は構造系、私は計画系で分かれた。

大学院を出てから、中村君は京大防災研の助手を長く勤め、京都工芸繊維大学に転じ、教授を長く勤め、業績により日本建築学会賞を得ている。私の勤めていた奈良女子大学で「建築一般構造」の講義(非常勤)も友人(私)のたっての願いで長くしていただいた。

彼は私に比べると体も頑健であったと思うが、中村君の定年退職(63歳)の記念講演、パーティに行ったときに車椅子だったのでびっくりした。昨年、東京の学士会館で建築学科の同期会をした折は、奥さんが車椅子を押して付き添っておられた。久し振りにあれこれ喋ったのが最後となった。

ご冥福をお祈りする。

なお、通夜は今晩(19日)午後7時(19時)より、葬儀は明日(20日)午前10時から公益社 南ブライトホールにて、JR京都駅の南、徒歩5分。香典等は家族の方が辞退しておられる。謹んでお知らせする。
場所の地図は下記:http://www.koekisha-kyoto.com/blight_hall/minami.html

外出、歩き、旅行、転地滞在の楽しみと意義

2010-11-17 | 旅はたびたび
人間は言うまでもなく動物で「動くもの」である。植物の樹木のように一ヶ所に根を張って動かないというのは動物として不健全である。不健康である。

犬の散歩ではないが、人間も1日に1回は外出した方が良い。考えてみると、日本人は、アフリカを出て延々と歩いて日本列島にたどりついて日本人となったのだし、農耕時代以前の採取・狩猟時代では、毎日出歩いて命の糧の食料を探し、採っていたのだ。

古代ギリシャでは、アリストテレスは「逍遥学派」を立ち上げ、逍遥し(歩き)ながら議論し、哲学していたのだ。

18世紀頃のイギリス上流階級の子弟教育の仕上げは、フランス、イタリアへ長期間出かけて実地勉強をする「大旅行(グランドツアー)」だったし、ダ・ウイーンは大航海に出かけて調査、観察し、それらをもとに『種の起源』を書いた。

日本でも、これは純粋な「楽しみ」だったかどうか分からないが、明治初期に岩倉具視を長とし集団で「米欧」を回覧し、日本の進むべき道を決めたのだ。哲学者・和辻哲郎も日欧を航海し『風土』を書いた。中央アジアへ出かけた梅棹忠夫は『文明の生態史観』を書いたのだ。

これらの散歩、旅行、転地は、体にいいだけでなく、頭脳や心にも心地よく作用すると言えよう。一つ一つの散歩や地域歩き、遠出、旅行(国内、海外)をしっかりと捉えて「良き情報」も獲得していきたいと思う。

上海で超高層マンション火事、40名以上焼死か

2010-11-16 | 地域居住学
今朝のテレビで、上海の28階建て超高層マンションでの火事を放映、40数人が亡くなったと報じた。外壁工事から火事が起こったようだ。原因はともあれ、超高層マンション途中階で火事が起これば、それより上は火に包まれ、それより下は上からの水(消火水)に襲われる。

とにかく、超高層マンションは、安全上も極めて問題ということが、また明らかになった例であろう。他に大地震での危険なども指摘されている。

私もその他の面を総合的に考えて、「超高層居住はおかしい」と論じたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/58eff9c143f6a537d183ec2bb56e6c1c

「超高層」でブログ検索すると次のように多く出てくる。http://blog.goo.ne.jp/in0626/s/%C4%B6%B9%E2%C1%D8

「超高層は怖そう!だから壊そう!」という駄洒落もある。やはり、超高層居住はやめたほうが良いのではないか。中層、低層で好ましいのを増やしていこう!!

湯川利和先生を偲ぶ会に参加、スピーチ

2010-11-15 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、ランチタイム時に奈良の春日野荘で行われた湯川利和先生(奈良女子大学、私の7年先輩、存命なら76歳)の「13回忌」に際しての「偲ぶ会」に参加し、求めに応じてスピーチをした。

出かける前に、湯川利和さんが現代にどの程度影響を与えているかをみるため、google検索をしてみた。2400ほどの項目とヒットしたが、そのトップは次の『マイカー亡国論』に関するものだった。http://urban-diary.blog.so-net.ne.jp/2009-02-11

で、これをネタにスピーチすることに決めた。

「偲ぶ会」は12時頃から2階の畝傍の間で始まった。30人ほどの参加、奈良女子大の湯川ゼミ出身者20名、湯川さんの大学学生時代(京大・西山卯三研究室)の同輩、後輩、その他友人が10名ほどだった。

湯川ゼミ卒業生の田中智子さん(兵庫県立大学)が司会、奈良女子大で湯川さんの後継者・瀬渡章子さんから「毎年この時期になると思いだす」との思い出と挨拶の後、湯川ゼミ創設初期に教務補佐勤め、都合で参加できなかった新田米子さんからのメッセージが読む上げられた。

湯川さんと京大で同期の住田昌二さん(大阪市大名誉教授)が乾杯(というか献杯)のスピーチ、「若くして(63歳で)亡くなったのは残念、強い煙草、強い酒、肉食グルメ等が食道にダメージを与えたのではないか・・・、もう少し生きて学問体系を大成して欲しかった。」と述べられ、最後にNHKラジオ「深夜便」で聞かれた「般若心経」(現代語訳、誰訳かな?)を唱えられたのにはビックリした。感銘も受けた。住田さんからこういうの聞くのは初めてだ。

ビール、日本酒を飲みつつコースランチを食べ、歓談した。

その後、スピーチに移り、私からスタートした。(以下、思い出し増補修正版)

「私は湯川先生の7年後輩になります。奈良女子大では1年早く赴任し、湯川先生と23年間同僚として働いた立場と、1989年に設立された新建築家技術者集団・奈良支部の初代代表幹事の湯川さんを引き継いで2代目を務めている立場から一言申し上げます。

良く虎は死して皮を残し人は死して名を残す、と言われます。まあ名を残すというのは何ですが、思想や理論がどの程度後世に残り有効に働いているかは重要と思います。そこで今朝、出がけに湯川さんが現代にどの程度影響を与えているか、グーグルで検索してみました。

2400ほどのうちトップに出てくるのはこれです。http://urban-diary.blog.so-net.ne.jp/2009-02-11
2番目に瀬渡章子さんが書かれたものが出てきます。

これをみると湯川さんが34歳の1968年に書かれた『マイカー亡国論』(三一書房刊)がいまだに新鮮な知的衝撃を比較的若い人にも与えていることが分かります。先だっての新建築家技術者集団のシンポジウムでも西山先生の諸著作と並んで湯川さんの『マイカー亡国論』が引かれていました。湯川さんが亡くなって13年経っていますが、いまだに思想、理論が「生きている」ことになります。

『マイカー亡国論』が出た時、私は大学院を出て豊田高専助手をしていて週に一日、湯川さんと大学院同期の名古屋工大・服部千之さん(現・故人)のゼミに出ていて、服部さんから「読んでみたら・・・」と勧められたものです。読み終わったら世の中の風景が違ってみえた記憶があります。

私が院生の時、博士課程に今日もお見えの広原盛明さんがおられ修士の同期に延藤安弘君、梶浦恒男君がいたのですが、私を含めこれらの方達や後輩でも未だに自動車もライセンスも持っていないのは、この本の影響だったと思っています。

折しも今年は平城京遷都1300年、湯川さんの亡くなられてからの13年はこの百分の一ですよね。1300年前の日本が現在の日本に影響を与えているように、湯川さんは今後130年、1300年と影響を与えることでしょう。私は、こういうのを「歴史とのつながり」と言っています。

是非、今日お集まりの特に若い人に言いたいのですが、まあ最近コンパクトシティ、歩いて暮せるまちづくりなどと言われている方向は、湯川さんの主張していたマイカー交通システムを克服する方向です。是非受け継いでいってほしい、ということを訴えて私の話を終わります。」

私の後、片寄俊秀さん(湯川さん京大後輩、長崎総合科学大同僚)、三村浩史さん(湯川さん京大同期、京大名誉教授)、川本雅樹さん(新建築家技術者集団奈良支部)がスピーチをされた。三村さんから頂いた、西山先生、絹谷先生の写っている写真、湯川さん同期の三村さん、住田さん、服部さんの他に井上良蔵さんも写っている写真、西山先生が描かれた「湯川君」のスケッチのコピーは歴史的なものだ。

卒業生スピーチは、1977年卒の金沢美智子さん(湯川ゼミ1回生)、1990年卒の浅尾真奈美さんそして湯川ゼミ最後の卒業生1998年卒の三好祥子さんだった。皆、湯川さんの教えを受け社会で立派に活躍している。

私は、夕方に別用があって、奥さんの湯川聡子さんに挨拶して会場をあとにした。もう一度『マイカー亡国論』を現在の文脈の中で読んでみようと思った。今度は、どういう風景が感じられるだろうか。

少々と自然

2010-11-13 | 思いつきから仮説へ
今日の『朝日』のb2に磯田道史さん(歴史学者・茨城大准教授)が江戸時代の京都の医学者・江村専斎(1565~1664、100歳まで生きる)を紹介している。後水尾上皇が御所に専斎を呼んで、何故そんなに長生きできるのか、ときくと「食べるのも少々、考えるのも少々、養生も少々するだけです」(意訳)と答え上皇は大きくうなずいた云々という記事があった。

「食を喫する些(いささか)」は、即座にそう思うが、他の「思慮も些、養生も些のみ」は一寸留保し、考えてみようと思う。まあ最近、貝原益軒の『養生訓』(松田道雄訳)を読んでいるからかもしれないが、あれを全部きちんとやれ、というのは些か無理だし、まあ原理は学んで、後は「適当に」というのがいいかな、と思っているが・・・。

食に限らず、物、物欲は少々で構わない。ただ精神を涵養する本などは少々と言わず、ある程度必要では・・・、と思う。

又、今朝、奈良に住む映画監督の河瀬直美さんが最近制作の映画についてラジオで語っていた。自然分娩の映画のようだ。一度見てみたい。ご自身も6年前に家で自然分娩で子どもを産んだとのことだ。私は、男性のため、そういうことは経験できなかったし、妻も病院で出産した。まあ、こういうの、やはり自然がいいのかな。

自然農や自然河川など「自然」がつく行為や形態が元々「自然」に違いない。自然主義復活か、と思われる今日この頃です。

細かい分析的課題から「広く、深い」総合的課題へ

2010-11-12 | 思いつきから仮説へ
昨日のブログで書いたように、職場人間から地域人間に変わると、職場で担っていた細かい分業的専門的課題への挑戦から、地域で幸福に楽しく生きていくための総合的課題に関心が移るのも自然である。

それを、細かい分析的課題から「広く、深い」総合的課題へ、と言ってみた。

6年ほど前に「国立大学」を定年退職してから、何回か国政選挙、地方選挙があったが、興味深く、全部で色々考え研究し全部で投票した。

つまり、今までは「政治的中立」とか言って良く考えてみると自由に「何何党が今のところ相対的に(総体的に)いいのでは・・・」などと言えなかったが、堂々と言えるようになった。政治や外交は総合的問題に継続的に取り組むもので、自分がやっている気分で考えると面白いものなのである。

まあ、今までの分析、考察から、自民党も最近の民主党もはっきり言って「駄目」と思う。その他の党から綱領や政策を慎重に検討して決めるのが良いと思っている。

他の総合的課題としては、政治に続いて経済、教育、宗教、芸術、哲学、科学、技術といったもの、続いて身近な家族(家事)、地域、地方自治の課題がある。更に歴史、地理、健康・医療の課題もある。

これらを自由に学習し、議論し、研究し、私見を述べていきたい(生きたい)と思っているのである。

昨日のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/b15805f9d5eb914ce03f2a345bc0e7de

人生「総合」のため「市民雑学」(あらたな教養)に向かう傾向

2010-11-11 | 思いつきから仮説へ
ひょんなことで、3年余前から、「けいはんな市民雑学大学」を11名の運営委員でやっているが、「市民雑学とは何か?」と時々考えている。

とにかく、前から言っているように、定年退職すると、大局的には、いわば「職場人間」から「地域人間」に転換せざるをえないのである。

職場人間の時は、学校を出て就職し、あれこれ40年ほど(転職も含め)仕事をして来たのだが、それらは社会での分業の細かい一部を受け持つもので、それらを「専門」としてきたのだ。

ところが、地域人間になると、地域人間として「地域デビュー」して活躍したら良いのだが、特に男性は、頭で分かっていても中々地域に溶け込めない場合が多いのだ。地域のように千差万別の人々が生活しているところでは、見栄やプライドを捨てて、先ず、ある程度溶け込むことが必要だ。

それで、考えてみると、定年退職後の主に地域でやることは、前に現役の時にやっていた、社会全体からみると細かい分業仕事と言うより、生活全般にかかわる「総合的」仕事になるのではなかろうか。

それらは、
(1)生活(家事、楽しみ含む)運営や健康維持のこと
(2)家族生活、地域生活、国民生活(国家)とのつながりのこと
(3)自然・環境(動植物含む)とのつながりのこと
(4)旅行(散歩含む)楽しみのことなどーである。

それらを一人で学んで適応することも可能だが、上記を「市民雑学」と考えると、重点の置きどころは個々に違うが、総合的に地域人間になるため皆で学習することもありうる。

それが「市民雑学」と考えたらどうだろう。頭や心、体の使い方の偏りを真っ直ぐに正す学問である。そこに「市民立」で「市民雑学大学」を立ち上げる意味がある。

つまり、若いころに「教養」から「専門」に進んだのを、高齢に進むと逆に社会でやってきた「専門」生活を地域での「総合」生活にソフトランディングさせるための新たな「教養」を「市民雑学」と考えたらよいのではないか。

拘置所にいると健康になる?!

2010-11-10 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
『朝日』夕刊で再審無罪元死刑囚の免田 栄さん(85)が「いま健康なのは拘置所にいたおかげ」と言っている。記事を分かりやすく整理・要約する。

1日のサイクル:
4時   起床、6時まで点訳用鉄筆で点訳を打つ。漫画本、子どもの本
6時10分 起床時間
7時頃  朝食
8時半頃 当日、運動できるか否かが分かる(刑の執行があると出来ない)
刑の執行がないと、運動場まで2列縦隊で15分ほど歩いて行く。
1時間から1時間半ほど野球などする。

帰ったら風呂場に行って体を洗う。免田さんは寒かろうが暑かろうが水をかぶる。
10時か10時半頃に日課が終わる。

昼食前にキリスト教か仏教の教誨師が来て話をする。出たい、出たくないは個人の自由、免田さんは両方に出たようだ。

午後は、魚取りや畑の手入れをする。

5時半か6時頃 夕食
8時から9時  独居房のスピーカーから演歌が流れていたので免田さんは歌っていて自然と覚えた。
9時   消灯 以後、本を読みたい人は机でスタンドの灯りで読む。


食事について・・・上げ膳、据え膳。麦と米半々。免田さんの評価「食事は最高ですもん、丸飲みしたっちゃ、胃が消化しますけん。あの食事をさせよったら、病気しませんよ。拘置所が一番よか、健康管理には。」

生活空間について・・・2畳半、トイレと洗面台と机と。「わたしたちは布団なんか上げませんからね。」日課にしたがい扉は開閉される。独居房は二つで一つの灯りが中間の壁の上に付いている。夜、演歌が流れている以外の時は隣りの独居房の人と話ができる。

最後に免田さんは言う。「わたしは「あそこにおったから、今日がある」と思って、感謝しておるんです。」と語っている。(聞き手・田中啓介)

きちんとした生活リズム、健康な食事メニューが良かったのだろう。(かと言って意図的に犯罪を犯して入所するのは、問題である!!)

その食事メニュー(朝食、昼食、夕食)は、もう少し詳しく知りたいが、「健康食」なのであろう。

歴史はくり返すー養生の考え方ー

2010-11-09 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
先日のブログに江戸時代の儒者・貝原益軒の『養生訓』の話を書いた。

http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/611d7d313c4e91ea5caf7c673810ad18


今日は、それに関連する記事(地域snsに掲載)を以下に引用しておきたい。

久しぶりに内藤湖南著『東洋文化史』(中公クラシックス)を読んだ。
「近代支那の文化生活」という講演記録で、昭和3年7月東亜同文会での講演内容である。

まあ内藤湖南が初めて言い出して、以後ほぼ京大東洋史系の時代区分となっている「宋代(10世紀)以降を「近世」とする」見方を政治、文化面から論じているのだが、何だか最近の様子にもつながる気がしたので、ほんの一部「養生の考え方」について引用メモしておきたい。

「・・・唐までの養生法は、何でも外部から薬でもって攻めつける養生法で、天子や貴族が長生きしたいという、長生をしたいということは老人にいたるまで女でも楽しみたいということでありますが、そういうことをみな薬をもってやろうとした。それで非常に刺激の強い鉱物性の薬などを飲んで、それにあてられて死んだ天子などがよくあるのであります。

宋以後はそういうことをやめまして、そうして内部の養生をしていこうという傾きになりました。それで道教のほうでは養生のための薬を丹(私注:根元丹とか・・・)と申しますが、丹は長生不死の薬であります。宋以前は外丹の法でありましたが、宋以後は内丹の法というものになった。

それは独り按摩をするとか、体操みたいなことをして養生をして、自分の身体の力で薬の力をからずにやることを考えるようになった。

それですから古い養生の書などに対する解釈が変わってきました。昔の薬のことを書いた本でも、元来が外丹の意味であったものを内丹の意味で解釈するようになりました。宋の朱子が『参同契考異』という本を書いておりますが、それは外丹を内丹で解釈した一つの著しい例であります。

医者の治療法でも変わりまして、従来は対症療法で、病気の在るところを薬で攻めて治すということでありましたが、宋以来の治療は温補と申しまして、病気が起こったときは、一定の期間体力を補充しておくということを考えました。

そうすると自然に体内で病気に反対する抵抗力が増してきますから、自然と病気が治っていく、そういうことを医者の方で考えるようになりました。(こういうことがすべて支那の民族生活があまり長く続いたために、反動的に古代生活に還ろうとする傾きができたのであります。)・・・」


これって、薬漬けの対症療法から、休んで体力を温存して体を温めて自然治癒力を高める治療法への転換が、既に歴史のなかにあったことを示している。 .