過去、この世を去るに際して、形式的葬儀はせず、知り合いに向けて「最後の言葉」を残した先達として、先輩の吉野正治(よしのしょうじ)さんがいる。私は過去のブログで紹介した。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/29825f69a6440424473c41fe71bd5535
今回、雑誌『図書』11月号(岩波書店)の谷 泰さん(社会人類学)表記小文によると、「イタリアにおける日本学研究の草分け、民族学者、登山家、すぐれた著述者かつ写真家として」日本でもしられていたフォスコ・マライーニが2004年6月8日に92歳で人生を閉じるに際して「自己信条の一貫性をつらぬくべく、教会の葬儀ではなく、世俗の告別式を望み、なぜ自分がそう望むかの理由を明記した弁明の文を、告別式への参会者にむけて予め書き残していた。」以下がそれである。
「親しき友人諸氏へ
このたび、宗教色抜きの葬儀の常として、いかにも味気ない葬儀場に集まっていただくことになったことを心苦しく思います。もちろんわたしの愛するフィレンツェの、崇高で歴史の香りあふれる教会、讃美歌、散香の香り、音楽、そして花にみちた場に、皆さんをお招きできたのなら、言うまでもなくすばらしいだろうと重々承知のこと。ただそれを拒んだのは、次のような自己の信条を最小限貫きたいという思いでありました。
あなた方は尋ねることでしょう。いまお前はどこにいるんだ、いったいどういう信念のもとで、だれも避けることのできない不思議な旅に向けて地球を去ろうとしているんだと。
それに対して、わたしの人生でのある決定的な出来事から話し始めたい。
1965年から66年にかけてのこと、わたしはニューヨークの出版社ハルクート社の依頼を受け、かの三大宗教の中心である都市エルサレムについて一書(引用者注:Jerusalem:Rock of Ages,1969)を執筆することになりました。
・・・こうしてエルサレムに数カ月滞在することになっただけでなく、この滞在を機に、聖書(旧約と新約)とコーランを丹念に読むことにもなったのです。・・・
ともあれこの経験以後のことです。わたしは神の〈啓示revelation〉という問題を真剣に考え、・・・真の意味で偏見から自由な精神の持ち主から見て、この「啓示」というものは、なにもエルサレムにおいて発せられたかの有名な三つの啓示に限られるものではないと思い始めたのです。
それこそ視野を広げて、啓示はゾロアスターの思想にも、ヒンドウーのリシの考えにもある。いや仏教をどうして無視できるでしょう。サッダルマ・プンダリーカもまた啓示のひとつではないか。・・・それこそガルザンティ社の宗教小事典を見るだけでも、38もの宗教が指摘されています。そのそれぞれにおいて啓示という現象は認められなくてはならず、このような啓示の洪水を前に、神様、いったいどれが本当の信用に足る啓示なのでしょう、・・・ある啓示に対してこれがより優れているという保証がいったいどこにあるのでしょう、と尋ねたくなるほどなのです。
わたしは、こういう疑問を抱きつつ、それぞれに互いに距離を保った諸文明に向けての旅を重ね、それらにじかに触れる経験を通じ、はっきりと次のように思うようになりました。
つまり、ある特定の場所、特定の時点で、特定の人物に開示される〈局在する啓示Revelazione Puntuale)ではなく、〈常在する啓示Revelazione Perrenne〉というものがあるのだと。それは自然のなかでも、日常の人間世界のなかでも、聴こうとするものならいつでも、どこでも、神秘的な語りかけとして受け取られるものであり、じつはそういう宗教的場に、われわれはいる。なにも預言者から聴かなくとも、聴く、見る、読むだけでよい。すべては〈啓示〉として、そこに、いつも、示されているのだ、と。
もちろんこういう考えに、あなたは、確かに美しいもの、崇高なもの、朝日に輝く樹上の雪、月光のもと岩に砕ける波頭、林の梢を吹き渡る風に触れるとき、われわれはある神々しさを感得するにしても、醜いもの、悪しきもの、恐るべきものに触れても、お前はこの〈常在する啓示〉を感得するのかと尋ねるでしょう。答えはもちろん「はい」です。
ある意味で悪は、善や美よりもいっそう啓示としての教えを含み、はるかに神秘的なのです。神は無垢の子供の死や苦悩をどうして許容するのか。こういう疑問に対しては、神秘性が増すにつれ、苦しみはいや増し、恐れおののくというべきでしょう。
たしかにこういう視点から見ても、イエスは、モーゼやムハンマド、仏陀や老子と同様偉大なる人物でありつづけます。しかし(巧妙かつ天才的なパオロの創作でしょうが)イエスをわたしはどうしても「神の子」とはみなせないのです。〈常在する啓示〉の中にこそ、わたしは平和と安心とを見出してきました。多くの理由から、わたしは〈局在する啓示〉よりも〈常在する啓示〉のほうがはるかに優れていると思えることをいま告白します。
そう〈常在する啓示〉は、それこそ最初にこの世に到来した人類が不安と感謝、希望と不思議の念をもって天を見上げたそのときから、いつもそこに存在していたのです。もし〈局在する啓示〉の立場に立つなら、啓示は人類史のなかでもきわめて遅れて立ち現われたことになる。〈常在する啓示〉の立場に立って初めて、啓示宗教が現れる以前の人類、古代の、異教の、そして未開の人々にも啓示はあったことになり、不自然さは解消します。〈常在する啓示〉という観念のもとで、ネアンデルダール人も遠い過去の人々も同様に、われらの親しき同胞、親しき精神の友となるのです。
この〈常在する啓示)のもとでは、ある啓示を信ずるがゆえに他の啓示の信者を物理的に抹殺する、といったファンダメンタリスト的崩壊現象は回避されるはずです。あの恐ろしい出来事は過去においていくども起こっており、十字軍を、アメリカ大陸征服時のあの悲劇を、ヨーロッパをはじめ各大陸でくりひろげられた宗教戦争を想起するだけで十分でしょう。・・・そう、歴史とではなく、自然と一体化する〈常在する啓示〉こそが、深く実感のこもった人類同士の精神的一体へとわれわれを導くのです。
〈常在する啓示〉という考えの下でこそ、宗教と科学、人間と自然とのあいだの対立は克服されるはずです。科学はその啓示を探求するものとなり、隠された神との協力のもとで、宗教的営為と一体化していくでしょう。〈常在する啓示〉こそが、遠き孤島で自足しつつ謙虚に住む人から、高度なる文明中心で最高の知性の高みに達した人にいたるまで、すべての生きとし生ける人類のすべてが、ひとつになることを保証してくれるのです。
もういちど最後に、伝統的なしきたりに従った相応しい告別の場を用意して、あなた方をお招きしなかったことの許しを乞うとともに、なぜそうしなかったかその理由をご理解いただけたことを期待しつつ、お別れの言葉に代えます。 フォスコ」
うーん、深い、広い考察、そして営為である、と感動している。現代の「宗教戦争」は、〈常在する啓示〉の立場から、きっぱりとやめるべきである。