西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

父・瓜生留雄の思い出

2005-11-10 | 金沢の思い出
父・瓜生留雄(うりゅう・とめお)は、12年前、84歳で東京で亡くなった。父は母と戦後、昭和30年(1955年)頃に事情で別れた。その後、父は東京で再婚し、私には金沢の妹とは別に二人の弟が東京にいる。年賀状や暑中見舞いの付き合いだ。
私は、幼稚園に入る昭和21年(1946年)に瓜生姓から西村姓になっている。父についての思い出は、戦後の10年間のものだ、戦前は、職業軍人として(元々は京都帝大法学部の出身だが、出てから陸軍経理学校に行った。)母と満州に行き、昭和18年(1943年)に満州で妹が生まれた。私は「万一」のことをを考えて一人娘だった母の実家(西村)に預けられたのだ。だから、私は満州に行かず、ずっと金沢なのである。戦後、父は復員してから、少し金沢にいたが、母を含め一家で東京に行こうとなった。父が叔父のつてで鹿島建設に就職することになったからだ。叔父(瓜生復男)は東京帝大法学部出の外交官(後に初代アルジェリア大使)であり、先輩の外交官出身の社長・鹿島守之助さんを知っていたからである。ところが、母が西村の一人娘であったので祖母が東京行きに強硬に反対、父は東京に単身赴任、夏や冬に帰って来ていて、その時に「ターザン映画」に連れて行って貰った楽しい思い出がある。しかし、父の東京生活が「不便」となり昭和30年頃に協議離婚となった。私と妹は母や西村の祖父母と暮らすことになった。
瓜生家は、元々前田藩の支藩である大聖寺藩の藩士の出である。遠い親戚には、日露戦争で活躍の瓜生外吉がいる。後に海軍大将、男爵となった。祖父は教育者で瓜生余所吉だ。伯父に宮内庁次長の瓜生順良さんがいる。私の別の伯父で山崎家に養子にいった人がいて、その孫が、現在、神戸大学にいる山崎寿一君である。山崎君のお父さんと私が従兄弟なのだ。私が東京に行かず京都の大学に行ったのも、以上の事情が一部働いている。しかし、親父が鹿島建設にいたことが建築学科に行った一つの要因だろう。パトリック・ゲデスの『進化する都市』を鹿島出版から出すときに親父の世話になった。今頃は、親父とお袋は、一家仲良く暮らしていた戦前から昭和20年代を懐かしがっているかもしれない。とにかく、戦争は、家族を生木を裂くように別れ別れにするものだ。戦争は、絶対してはいけない!!(写真は「楽しい家族」のイメージ、インターネットより引用)

高齢者のいる風景

2005-11-10 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日は午前には、非常勤で奈良に行き、午後は「つなね」で整理、勉強、ブログ・日記書きである。道すがら多くの高齢者に会った。近鉄電車には多くの元気な高齢者夫婦が乗っていた。もうすぐ終わる「正倉院展」等に行くのであろう。奈良の小西通りの入り口では救急隊が老婦人をタンカで持ち上げていた。見ているUFJ銀行の人に聞いたら、その老婦人は通りで転倒して動けなくなったので救急車を呼んだとのことだ。「つなね」に行く平城・相楽ニュータウンでは、訪問看護の車(看護士さん)を付添いの家人と共に見送る高齢者に出会った。右を見ても左を見ても高齢社会到来だな、と実感した。

卓袱台(ちゃぶだい)

2005-11-10 | 金沢の思い出
子供の頃、4畳半の茶の間には、座るものとして「卓袱台」と「長火鉢」(何故か「大和風呂」と呼ばれていた)があった。食事の時などには「大和風呂」に向いては「当主」の西村の祖父と向いに祖母が座った。後の家族は、「卓袱台」に向いて座った。卓袱台は4本足である。席順は、跡継ぎの私が西村の祖父の隣り、続いて妹、そして母だった。母が祖母の隣りとなる。父(瓜生留雄)が滞在の時は、私と妹の間に父が座っていた。
私は、ある時まで「ちゃぶだい」とは「茶ぶ台」のように思っていた。茶の間につき物であるからだ。しかし、その後、正確には卓袱台であり、「ちゃぶ」は、長崎料理の「しっぽく」(卓袱)と同じ字を書くということも知った。「卓袱台に一杯載せる料理」であるからかもしれない。インターネットから「卓袱台に載った卓袱料理」を引用した。私の家の卓袱台にも赤い色がついていたと思う。

地域居住学Ⅱ講義要約3ー居住地再開発、再整備続き

2005-11-10 | 地域居住学
奈良女子大学で、ほぼ一ヶ月ぶりの講義、私の出張による休講、学園祭の休み、祝日に当たる等で出来なかったのだ。今日は大阪豊中市の庄内南地域の再開発の続きである。その前に、フランスの暴動に関して「移民たちの居住地のありかた」の話を時論としてした。ニュースに接する時は、自分の専門、今勉強していることに引き寄せて考えてみるべきことを訴えておいた。今日の『毎日』に載っていたOECDの02年統計による各国の外国人人口割合は、ドイツ8.9、フランス5.6、イギリス4.5、オランダ4.3、イタリア2.6そして日本1.5%である。他国の事情は、日本の将来に関係あるとして考えるべきことも述べた。M君のコメントによるフランスの移民居住地についても一寸ふれておいた。さて、本題に入り五つの柱を話した。最後の住宅地整備に関する種地を次々に活用する「ころがし方式」がユニークな考え、と強調した。それにしても、それから20年が経っている。「20年後の訪問」が必要と述べつつ、我々の分野では、継続的に「○○年後の調査、訪問」が重要なことを指摘しておいた。(写真は、阪急庄内駅近くの商店街、一度行ってみよう。同じ豊中の千里ニュータウンとの対比・・)

五球スーパー(ラジオ)

2005-11-10 | 金沢の思い出
五球スーパーと言っても、今の若い人は直ぐには分からないだろう。我々の世代では、昭和20年代頃(1945年~1955年頃)の「懐かしのラジオ」である。
私の子ども時代を過ごした金沢市櫻畠三番丁の家にも「茶の間」(4畳半)の大きな金庫の上に大事に置かれていた。実は、五球スーパーの前の奴も知っているが、それは何と呼ぶのか知らない。「五球スーパー」でインターネット検索すると出てくる出てくる、やはり懐かしいと思っている60歳台以上の人も多いのだろう。その中の写真を一枚拝借した。私の家にあったそのものではないが、良く似たイメージだ。五球というのは、真空管が五本使っていたからで、前の奴より格段に音質が良くなった。周波数の同調が上手くいっているかどうかを、緑色のランプの線の状況で判別していた。金沢の家のことを書いていく最初に、何故、五球スーパーを思い出したかと言うと、家の中心が4畳半の茶の間で、その又「中心」が五球スーパーであったからだ。「新諸国物語」など、かじりついて聞いていた。

ロシアでレーニンが人気第一位

2005-11-10 | 時論、雑感
昨日の『朝日』を見ていたら、ロシアのインターファックス通信が、ロシアでの世論調査の結果として、レーニンが「最も肯定的な現代史上の人物」に選ばれたと、7日の旧ロシア革命記念日に発表したようだ。「へ~」と思った。我々の学生時代は、マルクスとかレーニンとかを「かじる」のは、教養のうちだった。どれだけ深く勉強したかどうかはおいて「偉い人物がいるもんだ」と思っていた。まあ、しかし日本では、昔、レーニンを「冷忍」と書いて、揶揄するむきもあったが・・。かってイギリスのBBCが21世紀に入るに当たって「この千年紀で最も影響を与えた人物」調査で、イギリス人は「マルクス、アインシュタイン、ニュートン、ダ・ウイーン」を上位4人に上げたと発表したことがある。まあ、イギリス人二人、ドイツ人二人で、西洋人は「そう考えるのか」と思ったこともある。「ソ連」が崩壊したのは、レーニンの思想のせいではなく、むしろ、その後のスターリンらの歪曲によっているのであろう。その調査では、スターリンを否定的に評価したロシア人が、肯定を上回っている。当然であろう。歴史は「ジグザグだな」と思う。