西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

PD:関西の文脈と建築・まちづくり(1)各人発表

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さんの講演の後、PD(パネルディスカッション)があった。司会は橋爪伸也さん(市大助教授、後輩、都市文化論)、出演は藤森さん、木津川 計さん(立命館大学教授)、六波羅雅一(建築家・からほり倶楽部)、二見恵美子(景観デザイナー、京都光華大学客員教授)である。
先ず各人の話:橋爪さん・・関西は新しい言葉、上方、近畿という方が古い。石田潤一郎さんの関西近代建築史を参照、スクラップ・アンド・ビルドではなく・・と言う。木津川さん・・関西と言っても三都市皆違う、京都は、はんなりした「はひふへほ」で「見回す都市」「なりふりかまう都市」、神戸は、洋風ハイカラで「パピプペポ」で「見下ろす都市」、「ファッショナブル・タウン」、大阪は、濁点の「バビブベボ」で「見上げる都市」「なりふりかまわぬ都市」だ、とうまいことを言う。特に大阪は、なりふりかまわずつきすすみ景観破壊、公害都市になってきたが、抑止力が市民にあって、万博の後だったが1971年の黒田府政(黒田了一さん)、2期続く。星空がよみがえった。1978年に宮本憲一さんの環境会議等。
六波羅さん・・三つのキーワードで「からほり整備」をやっている、町並み保全、活性化、新旧共存である。直木三十五の記念館をまったくの民間で立ち上げている。二見さん・・船場ビルのリニュウアル等、屋上庭園等。

藤森照信さん講演(10)私の感想

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
以下、9編にわたる藤森照信さん講演から感じたことは、(1)彼は信州・山国の出身であり、海に憧れを持っているのではないか、ということ。(2)建築設計、都市計画でも海を意識するのは良いことだ、と思うと同時に他の山や川、盆地、平野も同時に意識すべきではないか、ということ。(3)その中でも海と山が二軸であろう。人間死ぬと海に帰るという所と山に登るという所がある。海彦、山彦など。しかし、仮説を大胆に口にすることで次のステップがあるのだろうと感じた。

藤森照信さん講演(9)東京・佃島の長屋と大阪・佃の長屋

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さんは、またまた一転して東京・佃島の長屋は大阪が原点ではないか、という仮説を提起している。徳川家康は、大阪・佃から住民を引っ張って江戸の佃島を造ったのでは・・、と言う。これは現在の藤森さんの一つの問題意識である。

藤森照信さん講演(8)内陸首都の構成理論=風水論

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
古代の内陸首都の藤原京、平城京、平安京などは、中国の風水説で出来ている。中国の古代首都は、内陸にあり海と全く関係なかったので、海が立地や都市構成論に出る幕がなかった。従って、日本の古代首都でも海が出てこなかったのだ。(難波京、福原の都などはどうなのか?)風水論は、水が入っているが、実際は水を嫌っていたと言う。
(そこで上田篤さんは、海からの視点、ということを言っている)
藤森照信さんは、少し上田篤説に傾いている、内陸の信州生まれで小学校5年生まで海を見たことがなかった自分として「残念だが・・」と言っている。

藤森照信さん講演(7)一転、漁村=都市起源論

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さん講演は一転、漁村=都市起源論について、と展開、それは上田篤さんの論を紹介、引用、話は『日本書紀』の神武東征に遡る、瀬戸内海を通じて難波に上陸しようとした神武一行は海の民(漁民)に行く手を阻まれ迂回して熊野の辺りから上陸、山の民に導かれて大和に入り都を定めた。
ところで、行く手を阻んだ海の民が住んでいた漁村は(1)密集している、(2)自給自足出来ず交易によって生き延びている、という特徴を持つ。これらは正に都市の特徴ではないか、というのである。
(これだけ聞いた難点:形態的、生活的特長の相似はあるが、その漁村が成長して都市になったかどうか、都市では密集もあるが、そうでないメリハリもあり、漁業以外の様々な交易がある。沿岸の都市は考えられないこともないが、内陸の都市はどうなのか、という疑問も残る。)

藤森照信さん講演(6)丹下健三の軸線論

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さんは、丹下健三さんの設計には明確な軸線論が背景にあると言う。西洋では、軸線の突き当たりに明確な目立つ空間を置くが、丹下さんは戦前から日本的な軸線論を唱えていた。その基は法隆寺の塔と金堂であり、軸線の左右に違った性格の建物があり、軸線の向こうに(昔は講堂はなかった)一寸した建物を置くというものである。広島のピースセンターの建物群でははっきりしているし(軸線の向こうのアーチは予算不足で出来なかったと言う、そこに谷口吉生さんがオマージュになる施設を造っているようだ)、東京オリンピック施設群でも、そのことが感じられると言う。
(これを聞きつつ、形態論だけでなく配置論も大切と考えた)

藤森照信さん講演(5)幕間・・レイモンドの打ち放しコンクリート論

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さんは、レイモンドは丹下さんより10年も早く打ち放しコンクリートをやっているという。その際、レイモンドは、コンクリートの意味として「大地から生じた人工の岩である」と言っている、ようだ。
私は、学生時代(1960年代)、打ち放しコンクリートは化粧なしの素顔美人、素材美である、と増田教授に聞いたことがある。

藤森照信さん講演(4)丹下健三、安藤忠雄と瀬戸内海

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
一方、安藤忠雄は、住吉生まれ、大阪湾を意識、瀬戸内海の直島の美術館は、打ち放しではなく丹下さんの淡路島の戦没学生祈念施設のように石貼りである。考えてみると、これらの元は二人の師とも言うべきル・コルビュジェの作品にある。(上野の西洋美術館もそうだと、私は思う)ル・コルビュジェの地中海と打ち放しコンクリート、石貼りは、丹下健三、安藤忠雄の瀬戸内海と打ち放しコンクリート、石貼りに「受け継がれている」のではないか、と藤森照信さんは言う。
(私の8月27日ブログ、窓からの眺望(2)ル・コルビュジェと地中海、参照)

藤森照信さん講演(3)丹下健三さんと海が見えること

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
丹下さんが戦後設計した広島平和記念館、今治市役所、倉敷市役所、東京オリンピック施設等全て海を意識していると言う。丹下さんは、「ここから海が見えますよ」と言われると喜んで、その建物から海が見えるように設計したようだ。今治市役所でも、現地で担当したのは磯崎 新さんだったが「無理やり」海が見える空間を造ったという。(磯崎さん自身は殆ど海を意識していない、と藤森照信さんは言うが、私は水俣で意識した、と思う)ついでに吉阪隆正さんは「海が嫌い」と言っているが、それは山男のせいであろう、と言う。
東京計画1960でも海の東京湾に伸びる計画だ。

藤森照信さん講演(2)丹下健三の未発表作品

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
藤森照信さんはアメリカの建築家に言われて丹下健三未発表作品を淡路島に見に行った、と言う。(とスライド提示)これは1966年の作でオリンピック作品以後のもの、淡路島の南端にある「戦没学生祈念施設」で、「祈念館」と「塔」とそれらを繋ぐ「通路」で出来ており通路は正に塹壕のようになっている。祈念館はコンクリートに石貼り、内部はコンクリート、「トーチカ」の「窓」(円形の一部)のような所から光が入ってくる。「塔」は鋭角の円錐の一部の感じだ。「祈念館」「通路」「塔」は一直線になっており、その先が瀬戸内海である。
これを発表しなかった理由を丹下先生に藤森さんが聞いたところ、オープニングの時に海上自衛隊艦船が祝砲を打って、この先の海峡を航行すると聞いて、行くのをやめ発表もやめたとのこと、同級生を多く戦場でなくし、広島の平和記念館も造っている気持ちも強かったと思う、ということだ。

藤森照信さん講演(1)丹下健三の生まれ、経歴

2005-08-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
日本建築学会大会記念講演が大阪市中央公会堂で行なわれた。演者は藤森照信さんで、演題は「関西の奥にひそむものー堺生まれの丹下健三と住吉の安藤忠雄ー」というものだ。大阪での講演なので一寸「ヨイショ」の面もあろう。幾つかに別けて要約したい。先ず、丹下健三さんは、今治の人というイメージがあるが、そこにいたるまでに1913年に堺市で生まれたようだ。お父さんが住友銀行堺支店に勤めていたので、その社宅で生まれた。以後、父親の転勤につれて大阪の住吉、中国の武漢、上海に移った。そこで今治でタオル製造業だった父親の兄が亡くなり、父親がその跡を継ぐことになり今治に帰った、そこで丹下健三は中学校を出て広島の旧制高校に進学、以後、東大に行って、以後東京ということだ。
この堺、住吉は大阪湾・瀬戸内海に面しており、今治、広島もそうである。上海、武漢も海に関係がある。この子供時代の「海体験」が以後の建築作品に反映しているのではないか、という解釈仮説を先ず提示した。

生活の保全(絹谷先生の意見について)

2005-08-31 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
絹谷先生のことをブログに書こうと、論文集を読み返して二つのことに気付いた。今日は絹谷論文そのものについて、少し書く。前に絹谷先生の「循環開発形式」をブログに書いた。(8月28日)あの論文を読んでいて「生活の保全」ということを言われている。空間の保全、保存は誰もが言っているが、生活は変わるものという意識の人が大半ではないか。生活が変わるのに空間は保全したい、そこで何とか・・という文脈なのである。しかし、絹谷先生は、生活でも保全すべきものが沢山あり、無理に変えることはない、という論旨だった。
もし、堂々と生活が保全されるなら、「自動的に」とは言わないが空間の保全は極めて簡単となろう。一度、考えてみたい。

扇田 信先生の思い出(14)ライフ・スタイル

2005-08-31 | 奈良の思い出(助教授時代)
扇田先生は、京都の左京区北白川に住んでおられた。京大までなら歩いて10分以内だが奈良までの通勤には2時間位かかると言われていた。朝に講義のない日は、大体11時過ぎに廊下に扇田先生の靴音がした。12時になると一緒に共同研究室で冗談を言ったり外国旅行の話をして弁当を食べることもあった。午後にゼミは、「真剣勝負」ではあるが、ブレークには例の調子の軽口で皆を楽しませておられた。17時を過ぎると、17時17分発の京都行き近鉄急行があったので大抵一緒に帰ったのである。私は、左京区松ヶ崎、途中で引っ越して伏見区向島ニュータウンに住んでいたので帰る方向が一緒だったのである。
扇田先生は、いわば悠々たるライフ・スタイル、研究・教育の合間は絵を描いておられ「チャーチル会」にも入っておられた。50歳を過ぎてから運転の免許も取り、安曇野の別荘にも、かなりの頻度で往復しておられた。
ああいう悠々たるライフ・スタイルは何時取れるのだろう、と考える今日この頃である。

ギリシャのアゴラ (地域居住学の質問と答え)

2005-08-31 | 地域居住学
質問(Sさん):ヨーロッパの共用空間についての質問です。日本とは違い、ヨーロッパではギリシャ都市国家の時代から、民衆のための共用空間として、広場が存在していたと学びました。その一方、貴族達の社交(=仕事)の場としての役割も、広場は担っていたと教わったのですが、彼らと民衆の使用する広場は、同一のものであったのでしょうか?また広場の定義は「民衆のための都市の中心」ですが、それに身分制があった場合、どこまでを広場と呼び慣わすのでしょうか。特権階級である貴族と大衆のための広場という組合せに違和感を感じ、質問しました。

一応の答え:ギリシャのアテネなどでは、いわゆる市民(貴族含む)と奴隷は別れていたようです。詳しく知りたいなら、『生活の世界歴史3 ポリスの市民生活』(太田秀通著、河出書房新社)を見てください。図書館にあると思います。
その中にアゴラの様子の一端が書かれているので引用する。「アゴラは田舎にはなかった。アゴラといえば町であり、町はアゴラに象徴され、町らしさはアゴラの中に脈うっていたわけである。アゴラに買い出しに来るのは、一家の主婦ではなかった。買い出しはもっぱら亭主の役目であり、市民が女奴隷をつれて来ては、必要なものを買ってその召使女に持たせ、亭主自身は友人とおしゃべりしたり、体育場で訓練したり、裁判所に行ったり、床屋でとぐろをまいたりして日中をのんびり過ごしてから、日没ころようやく夕食のため帰宅する。それが、生業だけで精一杯でない、閑暇のある市民の生き甲斐であった。」(37頁)
これでも分かるように、アゴラは主体的には市民に使われていたが、奴隷も連れられてくることはあったということである。
現在は、都市空間で、利用の身分差は一般にはない。ただ少し以前にアメリカでは白人と黒人の利用差別があったし、イギリスでも前はパブ空間利用にも差別があったし女性は入れなかったのである。イスラム世界のことは、分からないが恐らく男女の差別は大分残っているのではないか。だから「都市空間の差別的利用と撤廃の歴史」という史的テーマは考えられると思う。取り組んだらどうでしょうか。

金沢市電の思い出(6)香林坊の「トーチカ」

2005-08-31 | 金沢の思い出
金沢の「へそ」はある意味で香林坊(こうりんぼう)であろう。市電が走っている頃(少なくとも1960年頃まで)、この三叉路の真ん中に円筒形の「トーチカ」のようなものが地中に埋まっている感じで、中にに人が入って、それこそ水平の細い隙間(トーチカの銃口のよう)から三方を覗いて、信号や線路の切り替えをしていた。
又、この上にお巡りさんが乗って、手を使って行きかう電車をさばいていることもあった。