goo blog サービス終了のお知らせ 

西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

大久保昌一先生の思い出

2014-08-29 | 友人、付き合い
新聞の訃報欄によると8月21日に大久保昌一さんが心不全で亡くなられたと言う。享年88歳であった。

大久保さんは僕等の都市計画分野の大先輩です。僕より15歳年上だった。阪大の構築工学科(土木と建築が一緒だったのでこういう学科名であった)の御出身で、日本住宅公団を経て阪大工学部助教授、法学部教授(この経歴ユニーク)で法学部長もされました。

学研都市推進では、奥田 東(元京大総長)さんの下で空間計画のまとめ役でした。都市計画では、イギリス流がベースにありましたね。翻訳も沢山ある位、「英語、横文字」得意で、それらを使って説明、「アメニティ」や「コンパクトシティ」も早くから言っておられました。「市民雑学大学」風を「コミュバーシテイ」と言っていたのではないか・・・

僕より14年齢上、京大では僕が修士一回生の時、37歳でなくなられた絹谷祐規助教授(オランダで客死)と大久保さんはほぼ同期、東大では長峰晴夫さん(住宅公団等を経て名大教授、故人)と同じ年恰好だった。

大久保さんは、酒が好きで又強かったと思います。大酒飲んでも発散するのも上手く88歳まで長生きしましたね。「目をパチパチさせ」少しベランメー調になると、要注意でした。
関連して、扇田 信先生(当時、奈良女子大教授、僕は京大助手の頃)から伺った大久保さんのエピソード(後日、僕が奈良に赴任後に聞いた)を書いてみます。扇田先生が、奈良市の高畑近辺(奈良教育大近辺)の国家公務員宿舎に住んでおられた折り、隣に大久保昌一さんの兄さん家族が住んでいたらしいのですが、暑い夏のある日、庭を眺めていると、何と大久保昌一さんが扇田家の庭に入り込み、縁側から上がって台所の方に回って何と冷蔵庫からビールを一本取り出して飲もうとするじありませんか。すぐ扇田先生が「大久保さん大久保さん、兄さんの家は隣ですよ」と声を掛けて、大笑いになったということです。いやー、大久保さんらしいエピソードですね。(この件で僕の記憶違いの恐れもあります。もし関連したことについてご存知の方はお知らせください。)

今ごろ、天国で、扇田先生、絹谷さんや長峰さんと盃を酌み交わして「クシャミをしつつ」下界の諸「現状」を嘆いていることでしょうね。 ご冥福を祈ります。

追悼 中村 武君

2010-11-19 | 友人、付き合い
今朝、中・高・大、大学院と机を並べた仲の中村 武君が亡くなったとの知らせを受けた。

彼は、金沢市の仙人町(現・清川町)で1941年に生まれ育った。犀川の岸辺(左岸)である。対岸の市立菊川小学校を卒業し、同じく市立野田中学校に進み、そこで私と同じクラスになった。1年次である。前半と後半で「クラス代表」を中村君と私でやり分けたと思う。担任は美術の越馬(後に笠間姓)先生だった。

野田中は大人数の中学で、3年の時、中村君は13組(クラス代表が中村君、副代表が奥さんだったと思う)、私は9組だった。

高校は、二人とも推薦で金沢大学附属高校に進学した。野田中からは確か6人が進んだと思う。大学、大学院も同じ京都大学工学部建築学科だった。別に示しあわせて進学したわけではないが、そうなった。ただ専門が中村君は構造系、私は計画系で分かれた。

大学院を出てから、中村君は京大防災研の助手を長く勤め、京都工芸繊維大学に転じ、教授を長く勤め、業績により日本建築学会賞を得ている。私の勤めていた奈良女子大学で「建築一般構造」の講義(非常勤)も友人(私)のたっての願いで長くしていただいた。

彼は私に比べると体も頑健であったと思うが、中村君の定年退職(63歳)の記念講演、パーティに行ったときに車椅子だったのでびっくりした。昨年、東京の学士会館で建築学科の同期会をした折は、奥さんが車椅子を押して付き添っておられた。久し振りにあれこれ喋ったのが最後となった。

ご冥福をお祈りする。

なお、通夜は今晩(19日)午後7時(19時)より、葬儀は明日(20日)午前10時から公益社 南ブライトホールにて、JR京都駅の南、徒歩5分。香典等は家族の方が辞退しておられる。謹んでお知らせする。
場所の地図は下記:http://www.koekisha-kyoto.com/blight_hall/minami.html

仁田昌邦さんからの便り

2009-01-20 | 友人、付き合い
イギリスのハムステッド田園郊外のことを、私がこのブログに書いたことから知り合いになった仁田昌邦さんから最近「便り」が届いた。

仁田さんに関する私の過去ブログ例:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/6b247c7afa428083b1c0a394c88622be

中に「旧東海道五十三次」を去年の8月10日から12月16日にかけて18日間使って「江戸・日本橋から京都・三条大橋」まで歩いた時(宮宿から桑名宿の「七里の渡」を除く)に、撮られた街道に面する民家の写真96枚のコピーと各感想が入っていた。

また、早稲田大学のやっている「高齢者向きセミナー」に参加、戸沼幸市名誉教授の「新宿学ー都市と文化ー」を10回にわたり熱心に聴講された様子も書かれていた。

元気だな、と思う。定年退職後の一つの「生活のありかた」だ。この四月以降、少し時間が出来たら、何処か一緒に「町歩き」をするのもいいなあーと思っている。

延藤安弘さんから『ユイタとアガイのわったあ家(や)~』来る

2008-08-10 | 友人、付き合い
2日ほど前、大学院時代同期の延藤安弘さん(愛知産業大大学院教授・NPO法人まちの縁側育くみ隊)から絵本、『ユイタとアガイのわったあ家(や)~』(金城明美著)が送られてきた。関連の延藤さんブログ「安弘思遊記」:http://enside.exblog.jp/
http://enside.exblog.jp/9386479/


沖縄のシーサーのアガイ君から東京のユイタ君に「家」が贈られた話だ。赤がわらと竹、続いてチャーギという沖縄の木が送られてくる。最後に小さな箱が送られてくる。それは自然の守り神の「アオダイショウ(蛇)」だった。

これらでユイタ君が家を組み立て、アガイ君が訪ねてくる。「沖縄の家と一寸違うが「ステキだ」と二人は「守り神」に守られ、ぐっすりねむりましたとさ」という話だ。作者の金城さんは沖縄の小学校の先生。「家やまちの絵本コンクール」最優秀賞をとった絵本、中々味があると思った。

私は、家やまちの絵本を収集している延藤さんに「『三匹の子豚』のような話だと、藁葺きや木造住宅は「駄目」でレンガ住宅が「良い」みたいなイメージを日本の子供に与えないか。日本では、日本の木造住宅もいいもんだ、みたいな絵本が必要では・・・」と手紙を書いたのに応えて送ってくれたのが上記の絵本、日本の地方色豊かな住宅の物語である。

私は、この住宅は、生き物が「棲み合う住宅」ではないか、と延藤さんに礼状を書いた。

退職される仁田昌邦さんに贈る言葉

2008-07-24 | 友人、付き合い
最近、このブログを通じて友人となった仁田昌邦(にった・まさくに)さんからメールが来て、6月の日本板硝子の株主総会で役員(副社長)の職を解かれ、来年の6月まで顧問で残るが、その後は完全退職と言う。

今までの関連ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/37e28d0fad250681d289a3f8ce94b986
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/adb9af0d742cee7ab0dc219eceab05a3
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/97575d10ad6113f520f97586deee9084


仁田さん、一寸完全退職には間がありますが、重職ご苦労さんでした。何はともあれ64歳まで健康に恵まれ働くことが出来たことはおめでたい、と思います。毎日、社長や部下とのやりとりで、考えをまとめ、論理的に喋ることがお仕事だったのに、これからそういうことが出来なくなることが一番つらいかもしれません。前にお聞きしましたが、少し前に奥様を亡くされ、家でも気軽に何でも喋る相手がいないのが更につらいかもしれませんね。

しかし、息子さん家族も関東のお近くにおられるので心強いと思います。最近、私は「地域」で「喋る相手」として「地域SNS」という仕組みを活用し、有志で「けいはんな市民雑学大学」を立ち上げました。仁田さんは、町歩きがご趣味なので、東京で、関東で是非そういう仲間を見つけて元気に町歩きをなさってください。それと、運動は「町歩き」として、栄養と休養の健康三大要素に偏りが出ませんよう自立して生活して下さい。私も最近「健康調理教室」に週一で参加して「自立力」をつけようとしています。朝食は二人分、私が作ることになっています。まだ夕食まで及んでいませんが・・・。

私もあと少しで「給料取り」は完全Retireの予定です。そうなったら、イギリスでも日本でも一緒に「町歩き」しませんか。イギリスなら最初のニュータウンとも言うべきレッチワースと一番新しい詩人と経済学者の名前がついている「ミルトン・ケインズ」にでも行きますか。えらい違いですよ。日本なら、千里ニュータウンや高蔵寺ニュータウンに行きますか。ここに日本のニュータウンの発展がみれますが、千里は「無茶苦茶」になろうとしています。

もう一つ、仁田さんと喋れる楽しみは、仁田さんの会社が窓ガラスを生産、販売してきたことで、日本の窓、イギリスの窓みたいなテーマでワイワイ言えることです。

こういうネットの時代ですから、それまで時々メールやコメントで交流しましょう。ではお元気で!

ブログ付き合いからリアル付き合いへー仁田昌邦さんー

2008-04-11 | 友人、付き合い
今日、ブログ付き合いからリアル付き合いへ「発展」した「新友」ともいうべき人と京都で会った。その人は、仁田昌邦(にったまさくに)さんだ。私より三歳若い(1944年生れ)、現在、日本板硝子(住友系)副社長である。西宮で高校まで育つ。その後、東大経済学部卒である。

仁田さんから、私のブログを見て、連絡のあったのは昨年だ。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/97575d10ad6113f520f97586deee9084
仁田さんの会社がイギリスのガラス会社を買い取ったので、しばしばイギリス出張となったが、仕事だけでは「面白くない」と考えられ、田園都市や田園郊外を歩いてみたいとして、ハムステッド田園郊外に狙いをつけてインターネットで検索して私のブログ記事を見つけられ連絡してこられたのだ。その後、昨年12月にハムステッド田園郊外に行かれた写真CDを頂いた。又、今回、ポート・サンライトやチェスターに出かけられた写真もCDで送ってもらった。

息子さんは、建築学専攻のようで、私の著書『キラッと輝くいい住まい』(彰国社刊)を巡って話しをされたようだ。私は、今日、サイン入りで差し上げた。

今日は、町歩きの話(高蔵寺ニュータウンにも行きたいというお話、専門外では結構「おたく」ぽいなと思った。千里や多摩のニュータウンには既に行っておられる)、イギリスの話色々(イギリスの文系専門職の話、経営者の年収の話、関連で階級制度の話、ホテルの話など)、仁田さんが滞在されたり行かれたマレーシア、パキスタン、ベトナム等の話、仁田さんの会社製品のガラスや住宅の窓の話、東大のゼミの先生の話等色々と話をして有意義だった。東京の田園調布の近くの自由が丘のマンションに住んでおられるようだが、お聞きすると3階に住んでおられる、そのマンションは11階まであるが上の方に住もうとは思わない、ということで私と意見が合った。

仁田さんは、もうすぐ「引退」のようであるが、私も「引退」したら、どこか一緒に町歩きしたいものだと思った。先ず国内なら奈良町か今井町かな。「けいはんな学研都市」も案内したい。イギリスならレッチワース(第一田園都市)かな。

京大キャンパス一新だなあ

2008-04-06 | 友人、付き合い
今日、久しぶりに京大キャンパスに出かけた。私のこのブログのコメンテーターの一人である角田風士さん、地域SNSでも知り合いの宇宙人Copernicus さんとリアルに会うことになったのだが、たまたま三人とも京大出身だったので、京大会館で昼飯を食べることになったのである。(角田風士さんは法学部1975年頃に入学、宇宙人Copernicusさんは理学部1972年入学、私は工学部1960年入学)


最初は、最近人気の時計台のレストラン「La Tour」に行く予定だったが予約が遅れて駄目、結局、京大会館地下のレストラン「近衛(このえ)」になったのだ。

私は近鉄で丹波橋まで行って京阪に乗り換え、丸太町で下車、川端通りを北上、鴨川縁の桜並木は満開だ。京大会館に入ると玄関横の壁にかっての平沢 興総長の書いた額があった。「學而不思則罔、思而不學則殆」論語である。京大会館での昼食の後、京大時計台のレストランでビール位飲もうとなってブラブラ東一条まで歩いた。途中、和風建築の「女性研究者支援センター」があったが初めて見た。医学部の同窓会館である芝蘭会館が拡張されていた。これを見るのも初めてだ。

東一条に出て京大方面を見ると高層の建物が「総合博物館」の南に見える。これが、後で分かったが京大本部である。京大正門から入って左手の生協経営のオシャレなレストランに行こうとしたが午後15時で閉店。

時計台前で3人で記念写真を写すことにし、屯している学生にシャッター押しを頼んだ。彼は農学部生、体ががっしりしていると思ったら京大アメフト部(Gangstar)と言う。今日は、来年京大を受けアメフト部に入りたいという受験生との集いのようだ。受験生の勉強を見てやり、合格させる役割があると言う。受験生で体ががっしりしていて京大に入ったらアメフト部に入っても良い人は、この手を使うのも良いのでは、と思った。

三人で時計台の中の「京大サロン」(イギリス大学のパブに当たる)に行き、ビールなどを飲んだ。Blue Nile、White Nileという二つの銘柄があるが、これらは京大植物遺伝学の伝統と早大のエジプト考古学(吉村作治教授関係)、それに伏見の黄桜酒造が協力して出来たビールのようだ。いわば世界最古のビールの復元のようだ。Blue Nileの方が「こく」があった。東京の早稲田に行ってもあるのかな。

この「京大サロン」には、卒業生の色紙が多数あった。例えば、梅原 猛さんは「真理は手近に隠れている」(ニーチェの「足元を掘れ、そこに泉が湧く」に似ている)、上田正昭さんは「先憂後楽」、ごみ問題の高月 紘さんは「めざせ環境(京)大!」と書いている。

吉田分校にも行って見たが、運動場と向こうのボックス以外、すっかり変わってしまった、と思った。

とにかく京大も空間も大きく変わったものだな、やはり「法人化」の作用かな、と三人で話した。

しかし「京大キャンパス」は、京都の観光スポットの一つになったようだ。京大関係者だけでなく、広く訪問しても、グルメ要求にも応えられ、知的雰囲気をも味わえると「同窓馬鹿」で思った。

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6&sll=34.733568,135.787514&sspn=0.012344,0.02017&ie=UTF8&ll=35.024444,135.776339&spn=0.00615,0.010085&z=16