西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

歩道の模様と歩き方、歩道の維持管理

2007-11-29 | 地域居住学
毎日、毎日、歩道を歩いているのだが、最近気づいたことがある。歩道面がタイルとか煉瓦とかのピース(部品)で出来ている場合、それらの組み合わせで色々な模様が出来る。
そこで、歩く時にそれらの模様を無意識的に感じて歩いている自分に気づくことがあるのだ。ある模様を選んでいる、ある模様の真ん中を歩いている、区切りがある場合、必ずその区切りを踏んでいる等々である。今日も「本宅」から「別宅(書庫)」に歩いたが、以上のことを意識した。多くの老若男女に歩道の模様面との関係で歩き方を聞いてみて、その模様をデザインするというフィードバックがあっても良いかもしれない。
で、近鉄・高の原駅前の「橋」を向こうに渡った所辺りに奈良市の「歩道維持作業車」が止まっていて、作業員が歩道面のブロックを一つ掘り起こしてコンクリートで固定する作業をしていた。聞いてみると、市民から奈良市に電話があって、来ている、と言う。近くのブロックを踏んでみるとぐらぐらしていて端が「飛び上がって」高齢者などがけつまずいて転ぶ恐れもある。事実、今日も「イオン」のエスカレーターをゆっくり降りるとき「広場」を見下ろすと、真ん中辺りで一人の高齢者(男性)が転んで二人が抱き起こしているのを目撃した。あれだけ「広い広場」だと「つぎはぎ」が結構あるのも分かる。
歩道は、すべからく「広く(介護者がつける、行き来できる)、水平に(アップダウンがない、少ない)、滑らかに(足の運びが滑らかに、けつまずかない)、所々に変化をつけて(樹木、ベンチ、カーブ、歩行面の模様の変化等)」であるべきだろう。
過去の歩道関連のブログより:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/317834f80b4009794be8f85efa1fffb9

「喪中につき」の挨拶状から「あの世」を想う

2007-11-28 | 時論、雑感
11月も押し詰まってくると「喪中につき」の挨拶状が毎日のように配達される。今日も帰宅すると五通もあった。見ると、良く知っている人が亡くなった場合もあるし、その親の場合もある。親等の上の世代の人の場合、享年90歳代も少なくない。「長生き」になってきたものだな、と思う。最近は「誰が、何時、何歳で、どういう原因で亡くなったのか」が記される場合が多い。昔は「喪中につき年末年始の挨拶を遠慮させていただきます」と書いてはあるが、誰が亡くなったのかさっぱり分からない場合も多かったので、最近は親切だな、と思う。こういう話を妻としていたら彼女は「あの世の方に良く知っている人が多くなり、向こうの方が賑やかではないか・・・」と言った。うーん、そうだな、と思わざるを得なかった。祖父母、両親も向こうにいるし、小中高の恩師の多くも向こう側だ。小学校時代の宮林明次先生、藤田清正校長、金大付属高時代の中原吉晴先生等、京大時代の西山夘三先生、絹谷祐規先生、豊田高専の山本和夫先生、橋本敬治郎先生、須賀太郎校長、名工大の服部千之先生、名古屋・豊田時代の早川文夫先生、長峰晴夫先生、後に福井大学に行かれた玉置伸吾先生、奈良女子大関連の扇田 信先生、湯川利和先生、花岡利昌先生、北村 君先生等々本当に向こうが賑やかだな、と思う。と、すると向こうに行くのもいいかな、と思ってしまう。しかし、そこで彼らをどうして探すのかも問題だし、諸先生、諸先輩から「何やっていたんだ」と又もや言われるのも一寸嫌だな、もう一寸こっちに留まっていようかな、と思う今日この頃ですね。

義歯はギシギシ

2007-11-27 | 生活描写と読書・観劇等の文化
健康の問題で、今、最も気になっているのは、義歯が本当にフィットしていないことだ。まあ「ギシギシ」言っている訳だ。上が殆ど義歯なのである。これが気になりだすと、食事の時は勿論、そうでない時も気になる。だから、外している時の方が多い。だと、急に人が来たり、話をしないといけない時は大いに困る。
今日も行く予定の今度の歯医者さんは何とかしてくれるのでは、と期待している。こういう年代となると、義歯以外でも、昔は気にならなかったことも急に気なって落ち着かないものである。
「落ちが付かない」と、落ち着かない、何て言っちゃって・・・。

過去の義歯ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/c62469c07f3a22efedb3ffd4bc044e20

19世紀の偉人三人

2007-11-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
かってイギリスのBBCが選定した「19世紀生れの偉人」三人は、カール・マルクス、アインシュタイン、ダ・ウイーンである。誰もが知っている社会(人間界)、物質界、生物界における基本法則を大発見した人だ。
史的唯物論、相対性原理そして進化論である。
今は21世紀、19世紀からは「隔世紀遺伝」が起こりうるかもしれない。

(写真は、物質界と社会の中間の生物界の大御所ダ・ウイーン?)

三、五、七

2007-11-26 | 文化論、科学・技術論
三・・三上の思考-馬上、厠上(しじょう)、枕上(ちんじょう)と言う。これらの三つの上では良い考えが浮かぶと言う。馬上というのは、馬の上からで、高い視点から見る、ゆっくり動きながら見るというように普通の視点と違っているので新しいアイデアを思いつくかもしれない。厠上(しじょう)というのは、トイレの上であり、そこで「うんうん」考えるといい考えが浮かぶかもしれない。最後に枕上(ちんじょう)というのは、枕の上、即ち寝た時の思い付きが素晴らしいということだ。湯川秀樹先生は、枕元にメモ用紙を置き、寝ながら思いついたら起き上がってメモしたようだ。

五・・五大陸(アフリカ、ユーラシア、アメリカ、南極、オーストラリア)、五穀(米・麦・粟(あわ)・豆・黍(きび))、五臓(肝・心・脾・肺・腎)、富士五湖(河口湖・山中湖・西湖・精進湖・本栖湖)

七・・七福神(大黒天 · 恵比寿神 · 毘沙門天 · 弁財天 · 福禄寿 · 寿老人 · 布袋和尚)、七つ道具ーサッカー審判の七つ道具(時計・笛・コイン・ペン・イエローカード・レッドカード・ルールブック)と言う。

恭仁宮(くにきゅう)跡周辺散歩-1

2007-11-26 | 訪問場所・調査地
先日の日曜日、小春日和で気温も上がって温かだった。地域SNSの友人3人と我々夫婦の5人で、木津川市の旧・加茂町にある恭仁宮(くにきゅう)跡とその周辺に散歩に出かけた。恭仁宮跡は、聖武天皇が740年から4年間営んだ恭仁京の中心であった所だ。最近、その大極殿の回廊跡の発掘調査が行なわれ、柱間隔等の検討から平城宮の移築があったのではないか、とのことだ。とすると、聖武天皇は一時的に平城京からここに移住するのではなく、はっきり遷都の意志があったと、思われる。これは何故か、又何故4年間で、又、結局、平城京に戻るのか、色々言われていて興味深いが今後の議論に委ねる。しかし、遷都に先立つ735年に光明皇后の夢の枕元に海住山寺のある所に寺を建立するようにとのお告げがあり、実際に寺を造った。又、光明皇后は豪族(藤原氏)からの初の皇后で、施薬院などもつくっていて現代の福祉の原点でもある感じで実力者、それに都を造ろうとした場所は、光明皇后の兄・橘諸兄の領地でもあり、言わば藤原家が都を「誘致」した格好になっている等は面白いポイントと思う。光明皇后「貴方!彼の地は私の発願のお寺もあり、兄の橘諸兄の領地でもありますよ。是非、あそこに恭仁京を造りましょうよ」と聖武天皇に言ったかどうか分らないが、そういうシーンも思い浮かべられる。この紀元740年前からの4、5年間は小説になると思うが恐らく誰かが既に取り組んでいるに違いない。(続く)
(写真は、恭仁宮・大極殿回廊発掘現場ーasahi.comによるー)

温かい湯舟と母の子宮

2007-11-25 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
今日、旧・加茂町(現・木津川市)の恭仁宮(くにきゅう)跡地周辺に散策に出かけ10km以上歩いた。66歳の身には一寸しんどかった。しかし、何だか懐かしい風景だった。
帰宅して寝る前に風呂に入り、湯舟で十分温まった。そこでの一首。

温かき 湯舟で手足を 伸ばしおり 母の子宮に 帰る気のする  市路

大学の高校化

2007-11-24 | 教育論・研究論
今夕、NHKラジオで大学問題をやっていて興味深いものだった。大学進学率が5割を越えて「全入時代」となると、まあ高校での成績が5段階評価で平均3を下回り2台の子も大学へ進学してくる。特に私学で入学定員を割っている40%以上の大学では、そのようになっている。そういう学生にとって従来の大学の講義レベルは難しすぎることになる。もし、大学において理解させようとすると、大学の「補習」として高校レベル、場合によっては中学レベルの講義をせざるをえなくなる。まあ「大学の高校化」とでも言えよう。そういう高校レベルの知識の獲得は本来は高校でやるべきだ、と言っても(それが正論としても)既に大学に入学させたのだったら、大学で獲得させざるをえないだろう。まあ大学が実質高校になっても、授業料を払って、そうなるなら(経営が成り立つなら)、そしてその結果、学生達が「理解できた、勉強・学問も面白いじゃないか」となるなら、それでもよいじゃあないか、と考えるのも一理である。私学では金沢工大がそのような教育をやっている。判断基準は、子供達が、学生が実際に「知的喜び」を少しでも獲得することであるに違いない。

「アンネの木」マロニエは残った

2007-11-23 | 住まい・建築と庭
今日の『毎日新聞』によると、アムステルダムの『アンネの日記』のアンネ・フランクの家の窓から見えていて、アンネが生前、毎日屋根裏部屋から眺めていたマロニエが、立ち枯れ状態で切り倒される危険があると、裁判所の判事が視察し、撤去許可を保留した、と言う。ホッとする。土地所有者が「切り倒し撤去」を市当局に要請したが、「かけがえのない木を切り倒すな」の運動が起きているようだ。

こういう風に窓から見える「由緒ある」風景の意味やその保存が問題になってきているのだ。前にもブログに書いたが、パルテノン神殿横のオリーブの木も保存に値する。こういう窓と樹木に関する大事なエピソードは集めておく必要があるだろう。

パルテノンのブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/4c71f02e364c404d91b29c48a8ce5460

写真は、アンネの木(左)

反骨の女性科学者・猿橋勝子さん

2007-11-22 | 時論、雑感
今夕、NHKTV「クローズアップ現代」で反骨の女性科学者・猿橋勝子さんが亡くなったことをやっていた、享年87歳、私より21歳上である。ウィキペディア百科事典によると「東京府立第六高女を経て、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)を卒業。気象庁気象研究所で三宅泰雄の指導を受けた。1954年の(アメリカの水爆実験による)ビキニ事件におけるいわゆる「死の灰」による大気・海洋汚染の研究以後、三宅と大気及び海洋の放射能汚染の調査研究を行い評価された。1958年に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとりである。
1980年、日本学術会議会員に女性科学者として初めて選ばれる。1981年、エイボン女性大賞を受賞。1993年、三宅賞(日本地球科学協会)を受賞した。」とある。
「「女性科学者に明るい未来をの会」を設立し、1981年から自然科学の分野で顕著な研究業績をあげた女性科学者に贈られている「猿橋賞」を設けた。」ともある。今まで27人が受賞した。彼女等は女性科学者のパイオニアである。

昭和56年女性研究者は全体の6%、現在は倍の12%であると言う。しかし、とにかく「猿橋賞」が女性研究者を鼓舞しているのは間違いないと思う。




鳥取への旅、そのルート

2007-11-22 | 訪問場所・調査地
日曜日から火曜日まで出張で鳥取市に行っていた。鳥取には過去何回か訪れたことがある。1968年3月の新婚旅行は中国地方一周の旅だったが、鳥取砂丘にも行った。次に奈良女大・助教授の頃に鳥取大学の秋の学園祭に講演で行った。11月の松葉ガニ解禁の直前だった。その後、西山夘三先生(京大名誉教授、故人)、扇田 信先生(奈良女子大学教授、故人)、連仏 亨さん(京都建築事務所社長、当時)夫妻と共に西山研で過去、鳥取農村調査をした現地に数十年後に訪れた。また奈良女大学院生の結婚式(同志社大から奈良女・大学院の私の研究室に来たのだが、バイトで奈良国立文化財研究所に行ったため、その後「年輪年代法」を確立した光谷拓実さんと結婚することになり、その結婚式)、更に奈良女の卒業生の結婚式等でも行った。
で、今回、「野暮用」で行ったのだが、そのルートは京都からJR山陰線ではなくJR東海道線、山陽線、智頭急行線(これはJRではなく私鉄)、因美線経由だった。「特急スーパーはくと」である。智頭急行線、因美線では色々な名所旧跡があるようで、列車のディスプレイに表示されていた。宮本武蔵の生誕地もあるようだ。宮本武蔵駅というのもある。郡家という駅があったが、「こうげ」と読むようで、高槻市にある「ぐんげ」と読み方が違うのも分った。次回はゆっくりとその辺りを訪れたいものだ。

六車 熙(むぐるま・ひろし)先生の思い出

2007-11-20 | 京都の思い出(学生時代)
京大名誉教授・六車 熙(むぐるま・ひろし)先生が17日に心不全で亡くなられた。享年77歳。『朝日新聞』訃報欄で知った。私は、京大建築学科の学生だったとき、構造学の何かをならった。1963年(昭和38年)前後である。私と11歳違いだから、当時、私が21歳位、六車先生は32歳で、既に教授ではなかったか。恐らく京大建築学科では最年少で教授になられた先生ではなかろうか。京大建築(構造)で、きっての秀才と言われていた。京大を昭和28年(1953年)旧制の最後のご卒業、同じく構造学の金多 潔先生、若くしてなくなられた私の直近恩師の計画学の絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生と同期だったと思う。当時の印象では、六車先生は、プレストレスト・コンクリートで「走って」おられたのではないか。研究室は、坂研(ばんけん、元々は坂 静雄先生ー当時、名誉教授ーの研究室)で、それこそ鉄筋コンクリートの別棟だった。六車先生は、恰幅が良く、親分的風貌だった。しかし、後に見ていると、そんなに建築学会でのし上ったという印象はない。我々は六車先生から鉄板の上でコンクリート練りを実地に教わった最後の世代ではなかろうか。ご冥福をお祈りしたい。

金多 潔先生ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ae839793479641bc1eb8681b3ccddd7e
絹谷祐規先生ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/da03938e74ff71218997456b5098c1d9

世界遺産・ギリシャ・アテネのアクロポリス

2007-11-18 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
夕べNHKTVで「世界遺産・ギリシャ・アテネのアクロポリス」をやっていたので見た。そのアクロポリスの中心はパルテノン神殿だ、紀元前5世紀の建築、日本では縄文時代である。ギリシャでは大理石の壮麗な神殿が造られていた時代、日本では竪穴住宅の時代だったのだ。日本は、アメリカやイギリスより古い国柄とは言え、ギリシャや東洋では中国より遥かに新しいのである。
 パルテノン神殿の横にはオリーブの木が立っているが、それは元々は女神アテナが槍を地面に突き刺したら、そこにオリーブが生えたとのことだ。まあ、大理石、白亜の人工的建築・パルテノン神殿に寄り添うように自然の樹木・オリーブが生まれたことは重要だ。石と植物、人工と自然の対比と統一が重要ということを示しているのだ。普通、見えてはいないが・・・。
 一度、早く、是非アテネ、アクロポリス、パルテンノン神殿に行って見たい。ル・コルビュジェも安藤忠雄もパルテノン神殿に「ころり」だったようだが、本当かな、という気持ちでも見てみたいと思っている。
(写真は、パルテノン神殿)

平城宮の「庭」と「苑」

2007-11-17 | 住まい・建築と庭
本日、午後に奈良に出かけた。奈良女子大の公開講座を聞きに行くためだ。奈良女のメイル・マガジンで知った。「奈良の庭から京都の庭へ」というテーマで、今日、明日とある。明日は行けないので今日のみの参加。

生活環境学部住環境学科の主催、宮城俊作教授(宇治平等院の住職の子息)が企画担当で、今日は、内田和伸さん(奈良文化財研究所)の「奈良時代の庭園文化」、仲 隆裕さん(京都造形芸大)の「平安時代の庭園文化」だった。明日も、午後から宮城さんと長坂 大さん(奈良女子大准教授)の中世から現代の京都の庭の話が計画や設計に関連してある。

私は前から住宅、建築を造るなら庭とセットで考えて造るべし、との考えを持っているので、勉強に出かけたのだ。

ここでは先ず、内田和伸さんの話から「平城宮の「庭」と「苑」」についての感想:「本来、庭とは建物前の平らな広場のこと、園は垣で囲んだ畑や別荘のことで、苑は花や木を植えたり、獣を飼育するところ。」と言う。で、平城宮の「庭」は大極殿院の前に広がる広場である。南北に長く東西に短い。大極殿院の北側1/3が一段高くなっているが、その「せん積擁壁」のラインの形が特異であって、それは何故か、を内田さんが研究された結果、それは大極殿・高御座を中心にした三つの同心円(それは、キトラ古墳天文図の内規、赤道、外規にあたる)と後殿の前面中心を中心にした円(同心円から見ると偏心円、天文図では黄道にあたる)から割り出される、と言う。そのことは、天皇が天の意を受けて支配することを象徴している。建物や敷地の形は角角しているが、そこには見えない円の作用があるということ、まあ古代中国の「天円地方説(天は円く、地は方形)」によっているともいえよう。この説は初めて聞いたが、実測と作図で厳密に一致したようだ。内田仮説は正しいのではないか。

 もう一つ、平城宮の北側に「松林苑(しょうりんえん)」という陰陽説によると平城宮を陽とすると陰に当たる空間があるが、その存在は知られていたが、詳細は研究が不十分だったし、その意味(現代に及ぼす意味も含め)についても理解が行き届いていなかったのではないか、と講演を聞いていて思った。平城宮の広さに匹敵する位のようだが範囲や形がはっきりしない、内容も発掘が平城宮ほど熱心にやられていなくて松林宮はあったようだが、不明な部分が多いと言えよう。この苑は天皇の私的な苑である。平城宮では公式な儀式が行なわれたが、松林苑では宴会が行なわれたのだ。「歌姫」という地名も残っているので雅楽寮もあったと言う。「衛門」というからには軍隊も駐屯していたのでは、とのことだ。
 この空間を現代に引き寄せて考えると、人工的な都市空間に対する、周りの癒しの自然的空間になるだろう。古代の苑の内容が明らかにされると同時に、現代の自然的空間整備もしっかりやっていくべきに違いない、と思った。
(写真は、松林苑の一部)

Silent Baby(泣かない赤ちゃん)と紙おむつ

2007-11-16 | 生活描写と読書・観劇等の文化
泣いてこそ赤ちゃんだろう。お腹が空いた、おしっこをした、どこかが痛い等で「ぎゃあぎゃあ」泣くのが赤ちゃんだ。しかし、最近、泣かない赤ちゃんが増えているようだ。Silent Babyと言う。その原因の一つに紙おむつがある。最近の紙おむつは極めて「精巧に」出来ており、おしっこやうんちを綺麗に吸い取ってしまい、以前の布おむつのように赤ちゃんに「冷たい、気持ち悪い」思いをさせない。だから、赤ちゃんは「泣かず」におとなしくしているので紙おむつが大いに普及している訳だ。
しかし、良く考えると紙おむつの大量使用は「使い捨て」であり、森林資源の浪費にもつながっている。それに対して布おむつは洗って使えば何度でも使えるのだ。もう一度、布おむつルネッサンスは来ないだろうか。
(写真は、綿の布おむつ)