西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

金沢・桜畠に住んでいた人からの電話と手紙

2010-09-30 | 金沢の思い出
私は、最近、人生をほぼ4分して最初の18年を早くまとめたいと思っているのだが、そのことで昔の町の様子の情報提供を、石川県人のための雑誌『加能人』9月号に書いてお願いした。

http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/b353a916969e332e58920a44c6c47f33

すると、すぐに電話がかかってきた。隣の小路に住んでいた方で(今もお兄さんが住んでいるようだ)今は枚方市の香里団地に住む私より三歳上の方よりの電話で、色々と当時の町の様子を確認しあった。

で、今日は名古屋から手紙が来た。昭和11年ころに同じ町内に住んでいた人で90歳ほど、私の祖母や母の和服姿も記憶していると言う。また当時、同じ町内20軒ほどの名前、位置、職業などを描いた図面も入っていた。

私が生れ(昭和16年、1941年)、もの心つくころには、その人は、もう金沢を離れていたようだ。だから、その図面を見て、私の昔の家の位置はあっているが、20軒ほどのうち7軒ほどしか私の頃には同じ家はなく、他は移動している。ただ、職業を見ると、昭和10年代の町の雰囲気が想像できる。

すぐに名古屋に電話をかけて、情報提供に感謝しつつ小1時間、当時の町内の様子を聞いた。記憶が細かく、情報がリアルでとても90歳とは思えない。私の母の名前も正確に覚えておられた。当時、同じ町内にいて、未だ金沢にいるのは1人だということで、その人の住所も聞いた。今度、金沢に調査取材旅行する時には、是非連絡したいと思っている。

1941年(昭和16年)から1960年(昭和35年)までの金沢の様子をご存じの方、特に寺町台、更には桜畠あたりに住んででおられた人の情報に期待する。

疋田洋子編著『ずっと、この家で暮らす。』の紹介・寸評

2010-09-30 | 生活描写と読書・観劇等の文化
もう半年以上前にかっての同僚・疋田洋子さん(奈良女子大学名誉教授)から編著の『ずっと、この家で暮らす。』を頂いた。その時以来、ブログで紹介したいと思いつつ今日になった。で、このブログ記事の一つ前で「ニューヨークの南京虫騒動」を書いて、はっとこの本を思い出した。

というのは、この本は住宅の管理の重要性を様々な面から明らかにしており、南京虫対応でも「地域ぐるみ」も必要だが個々の住宅での管理対応も重要であるからである。

この本は、疋田洋子さんをヘッドに奈良女子大学住居学科(大学院修了含む)卒の6人の共著である。

最初に、総論として疋田さんの「管理は生きかたである」がある。
1章 スクラップ・アンド・ビルドからの卒業(疋田洋子)
2章 学びたい美しい住み方(冨士田亮子)
3章 家族や地域がはぐくむ住まい(町田玲子)
4章 人と住まいの健康と室内空気(東 実千代)
5章 高齢者も安心な生活(北口照美)
6章 意識したい住まいの管理(藤平眞紀子)
最後に、あとがきとして町田さんの「世代をこえてつむぐ」がおかれている。

これらは重要な各論を連ねながら全体として住居管理の大切さを身近な生活を振りかえる中で述べている。

二つだけ注文と言うか、言って欲しかったのは、一つには、「住居管理とは何か?」の定義と言うか全体像である。全体を読めば分かるといえばそうなのだが、あえてまとめて言って欲しかった、と思う。もう一つは、管理の面から考えられる住居のあり方である。これも具体的に色々な場面で述べられているのであるが、これもあえてまとめて言って欲しかった。

私は、16年前に「終の棲家」として現住宅を設計し住むにいたったが、昨年、白蟻騒動になって大変だった。

それでも「補修・改善」して「ずっと、この家で暮らしたい」と思っている。その補修・改善では、(1)何処でも見ることが出来る、つまり「視覚管理」が出来るようにしたい。(2)何処にでもアプローチし「触覚管理」も出来るだけ可能にするよう試みた。
そして(3)日常的・定期的清掃等で清潔性を保とうとしている。太陽光にもさらせるものはさらすようにしている。(紫外線等で問題もあるかもしれない・・・)
これらは、一つの住居管理の試みである。

色々な住まいに住んでおられる皆さんに色々な意味で一読を勧めたい。

ニューヨークと南京虫

2010-09-29 | 色々な仮説や疑問
昨夜、ラジオを聞いていたらニューヨークからの便りとして、南京虫が大発生していると言っていた。これは、ニューヨークに限らず、アメリカの大都市で多かれ少なかれ見られる最近の現象と言う。アメリカに行かれる人は要注意とのことだ。(グーグルで「南京虫 ニューヨーク」で検索すると色々の情報がある!)

まあ、人が集積すると思わぬ問題が起こってくるものだ。(南京虫は人の集積が好きに違いない!)(日本も、特に大都市注意かもしれない。)
『沈まぬ太陽』の実主人公・小倉寛太郎さん(長年、人間低密度のアフリカで動物の世界を観察)の説:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/4f5768ee2f2b01004ae6a944c1bda450

最近、自分も朝起きると、体に赤い膨らみがいくつか出来ていることがある。これは一体何なのだ、と思っている。まさか南京虫ではあるまい・・・。

ゾゾーとする。ああ嫌だなあ、さあ「入浴、入浴!」

尖閣諸島問題と外交、国際法、国際世論(国連)活動

2010-09-28 | 時論、雑感
尖閣諸島は、歴史的、国際法的に日本の領土であるのは明白である。その一つの「証拠」に戦後、沖縄を占領したアメリカは尖閣列島も支配し、最近も尖閣諸島保全は日米安保条約の義務、と言っている。

ところが中国漁民が、尖閣諸島近辺で漁をし、パトロール中の日本の海上保安庁の船の制止にもかかわらず、ぶつかってきたので船長を「逮捕」したのである。中国は、尖閣諸島は中国領であり「逮捕は不当」として船長の無条件釈放を要求していた。

それに対して色々経緯はあったものの那覇地方検察庁の判断で、船長は釈放され、中国の飛行機で帰国したが、中国は日本に対して「謝罪と賠償」を要求した。日本は、それに対して外務省そして今日は菅総理自ら「尖閣諸島は歴史的、国際法的に日本の領土である」として中国の要求を拒否した。別に仙石官房長官は、海上保安庁船舶に対する損害賠償を中国に要求した。

この経緯を見るに、中国に理がないのは明らかである。で、昔(戦前)だったらひょっとして戦争になる案件だ。しかし、現在は無理で、軍事の代わりに外交、国際法そして国際世論(国連)で解決していかねばならない。

日本は、理があるのだから堂々と世界に向かって日本の意見、政策を主張すべきである。

また領土問題で中国と「トラぶって」いるASEANとも提携し中国の非を明らかにすべきだろう。

米国にも「釘」をさしておくべきだ。日本では、菅総理が既に発言している。中国では温 家宝首相が、米国に行って、日本を「糾弾」する発言をしたので、残る中国側「カード」は胡 錦とう主席のみである。今後、彼が何と言うか注目である。

柿が赤くなると医者が青くなる

2010-09-27 | 言語・字・言語遊戯
今朝、テレビで柿のパワーを放送していた。柿の大産地の奈良五条の「柿博士」が、単位重量当たりビタミンcではミカンの倍以上、ポリフェノールでは葡萄の5倍以上含んでいるし、他のビタミンAやEも多く含み、食物繊維でもすぐれものと言う。さっそく、この前、鹿背山でもいできた柿を一つ食べた。皮をむくのが面倒なのが余り食べられない一つの理由かな。

「博士」の説明では、原産地が揚子江辺りで紫外線も強く、種を紫外線から護るため、その「抵抗物質」が種の周りの果肉に出来たのでは、とのことだ。ふーん、食物の栄養分の有りようにも理由があるのだな、と興味深かった。

だから、と司会者が「柿が赤くなると医者が青くなる」という言葉がある、と言っていた。一寸違うのでは、と思ったのですぐ『広辞苑』を調べた。

「柿が赤くなる秋は天候がよいので病気になる人が少なく、医者は商売にならず青ざめる。秋の快適な気候をいう。」とあった。まあ、「柿は栄養満点で、赤く熟れたそれを食べていたら病気になりにくい」という意味も付け加えていいのかな。どうでしょうか。

「泉津(木津)から平城京への道」の講演と歴史探訪ウオーク

2010-09-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日から11月まで3回にわたって行われる「木津の文化財と緑を守る会」主催の、平城遷都1300年祭指定事業としての『歴史探訪「泉津から平城京への道」』に参加した。

平城遷都1300年祭は奈良県内(主として奈良市)で行われているが、唯一、京都府下で行われている事業である。

木津は、「木の津(港)」という意味の地名であり、古代には「泉津」即ち「泉川(木津川の古代名)の津(港)」と言われていたのだ。木津川(泉川)は、全国から藤原京や平城京に大きな木材や種々の物資を運ぶ幹線だったのだ。

ところで今日の講演は、渡辺晃宏さん(奈良文化財研究所史料研究室長)の「平城遷都と泉津―平城宮・京木簡にみる―」だった。渡辺さんは、最近の木簡の凄い発掘と集積により古代史で分からなったことも分かるようになり、通説で言われていたことも別の解釈も可能になりつつあることを前提として、『続日本紀』等の文献とも付き合わせて仮説としての新説も色々言われて面白かった。

渡辺さんは、今日の主催団体である「木津の文化財と緑を守る会」会長の岩井照芳さんの説(藤原京から平城京への三つの道ー上ツ道、中ツ道、下ツ道といわれているーは、更に木津川(泉川)にぶつかる木津(泉津)まで北進させるべきで、字も上津道、中津道、下津道と書くのが正しい)を紹介、「そうではないかな」と述べられた。

「上ツ道、中ツ道、下ツ道」という言い方を提出し、普及したのは亡くなられた岸 俊夫さん(京大教授)であったが、地元の岩井照芳さんは、その言い方に真っ向から反対し、またそれらの道は藤原京から平城京までではなく、更に木津川河畔まで延ばすべきだと主張している。

古代における木津川(泉川)の物流での極めて重要な位置づけからの「論」だ。

アカデミイ(古代史)のいわば代表的論者や論に地元の「郷土史家」が挑んでいる訳で、まあ「住民参加の古代史研究」の段階に来たのかもしれない、と思った。

確かに藤原京時代から、物流上、木津川(泉川)が重要だったことは『万葉集』にもうたわれている。平城遷都は、その木津川(泉川)により近づくためのものだった面もあるだろう。

で、泉津は、上津、中津、下津を統合したもので東西ほぼ2.6kmもあったと岩井さんは言う。

午後に3時間半にわたり木津川市の史跡ウオーキングをしたが、中心は「泉津」だった。現地に立ってみると、壮大な港だったのだな、と想像がふくらんだ。

色々と感慨を抱いた一日だったが、ゆっくり反芻していきたい。


芸術は全ての空間でーピラミッドの前のコンサートに思うー

2010-09-24 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
今度、ポーランド政府が後押ししてエジプトのギザのピラミッドの前でショパン生誕200周年のピアノコンサートが開かれるようだ。

昔、オランダに行った時(1983年)、アムステルダムの運河の上に筏を組んで、そこでピアノを置いて周りの岸辺を「鑑賞空間」としてコンサートをしているのを目撃し、鑑賞したことがある。(ピアニストは、カリン・レヒナーとセルジオ・テンポだった) 日本の例では、東大寺大仏殿の前でさだまさしがコンサートを開いたこともある。

こういう風に、音響効果など音楽的環境としてどうなのか分からないが、色々な所で「音楽会」が開かれるのは、まあ「芸術と空間のコラボレーション」とも言え、面白い、と思う。

音楽に限らず美術でもそうであろう。障壁画や天井画などは昔からあるが、私はコンクリートブロック塀が無粋なので「塀画を描いたらどうか」と提案したこともある。

今後、「芸術は全ての空間で」と色々の試みが続々出てくるのを期待したい。


大学院に進んだ一つの理由

2010-09-23 | 京都の思い出(学生時代)
1964年(昭和39年)に大学(学部)を卒業した後、大学院(修士課程)に進もうと考えた一つの理由は、指導教授など大学教官が講義や著書(論文)等で言っておられることを、素直に実践できるのは、正にその指導教授のような立場になることだ、と思われたことだ。

逆から言うと、卒業して会社に就職しようと、官庁に就職しようと、そこでは、大学で学習し、研究したこと(卒論研究)は、そのままストレートに役に立てることは出来ない、と思われたことでもある。

高校時代は、大学を言わば専門学校のように捉えていたと言える。だから、大学に入って教養科目の学習が2年間もあることに最初いらだちを感じたが、徐々にそういう学習こそ大学でやることなのだ、と納得していった。まあたまたま「旧帝大」に進学したから出来たかもしれない。「教養部」は、旧制高校だったのである。

大学に入った時、大学での学習・研究の目的は「真理の追求」と言われた。社会で必要な知識は、大学での学習・研究を基に自分で勉強すればよい、とのことだった。

他にも理由はあるが、とりあえず、大学学部から大学院に進んだ大きな理由は簡単にいうと以上のようなことだった。

中国の文化大革命とは・・・。歴史の反芻・・・。

2010-09-23 | 京都の思い出(助手時代)
1966年から1976年まで10年間にわたって中国で展開されたのが、毛沢東が発動した「文化大革命」であり、今では中国でも「失われた10年」と言われている。

その時期は、私は大学院(修士課程)を修了して豊田に就職し、4年後の1970年に京都に戻り、更に4年後の1974年に奈良に転勤となった。20歳代から30歳代中ごろまでの時期であった。

当時、当初、この動きを「肯定的に」捉えていた。そのうち「文化」を担う知識人が批判され、次に子どものような紅衛兵に「実権派」とレッテルを貼られた「幹部」が引きまわされて無理に「自己批判」されるのをニュースで知って、変だなと思いはじめた記憶がある。

1990年代に中国の大学を訪れた時、30歳代、40歳代の大学教師が極めて少なく、いても外国帰りで、正に「失われた10年」の後遺症だ、と思った。(昔、紛争で東大が1年入試をしなかったために研究、後継者育てが大きく遅れた、と聞いたことがある・・・。)

ここに至るまでの中国の近代史を19世紀から再検討する必要を感じている。当然、日本との絡みも再検討となるだろう。そして現代、中国は、本当に「社会主義国」であるのか、と問われるだろう。

井上ひさし著『一週間』(新潮社)を読む

2010-09-22 | 生活描写と読書・観劇等の文化
井上ひさしさんの最後の長編小説『一週間』(新潮社)を一週間もかけずに2日で読んだ。まあ、精読ではなく「筋読み」ではあるが・・・。そのうちじっくり一週間かけて読んでみたい。

物語は、戦後のシベリア抑留の旧関東軍の「一兵卒」(その経歴―山形中学出身、東京外語、京都帝大経済学部(河上 肇に傾倒)出身―から、戦前の日本における「ボルシェビキ」運動を体験、スパイMの手引きで逮捕、転向、満洲へ)が、ソ連の極東赤軍(及びソ連そのもの)を向こうに回して、たまたま手に入った「レーニンの手紙」をネタに奮闘する話である。その「始まりから(一応の)終わり」までの1週間を描いている。

当時のソ連や旧関東軍(将校団)の理不尽―国際法無視、無知―を分かりやすく具体的に描いているし、現在も問題になっているチェチェン(民族独立)のことも「レーニンの手紙」に絡めて描いている。当時のソ連の極東赤軍、日本の旧関東軍の様子も分かって面白い。極東赤軍の女性陣、旧関東軍の将校団と兵士達の違いも分かる。

この小説が描き問題にしているのは決して過去の問題ではないのだ。自衛隊では国際法をきちんと教えているのだろうか。過去、東北弁で書いた長編『吉里吉里人』で「地方独立」を描いた井上さんの精神は最後まで底流に流れていたのだな、と思った。

もし、私が父母(父は旧関東軍主計将校)に付いて行ったら、一歩「間違える」と父も抑留の運命となり、今の私はなかったかもしれない。この本の情報から推測すると、戦後、遅くも1946年(昭和21年)末までに父母と妹は満洲から帰還していると確信した。(当時、私は金沢にいたが4,5歳で正確な「帰還日」不明)

1週間(2日でも良い)お暇な方には一読をお勧めする。

地域のブランド力ー藻谷浩介著『デフレの正体』をヒントにー

2010-09-20 | 地域居住学
藻谷浩介著『デフレの正体』(角川oneテーマ21)をざっと読んだ。近代経済学者にしては、結論として、科学的社会主義者と同じような提言をしている。しかし、目の付けどころが少し違うかな、と思った。

副題に―経済は「人口の波」で動く とあり、ある意味で「唯人口論」である。

ある国の人口は、歴史的な色々な事情に左右されて―日本の場合は、戦後の「復員」による「団塊の世代」のような人口増加、中国の場合は、人口爆発を抑える「一人っ子政策」の長期的実施など―人口の増加や減少が長期的に予測可能に推移する。それが経済の推移を左右するのだ。

ところが、そういう重要なことを政策担当者(政治家含む)や経済(政策)専門家が「節穴」なのか見過ごしている、と藻谷さんは言う。

その中で、生産年齢人口(15歳~64歳)が重要で、1995年に最高の8716万人に達し、以後減りだして、2005年が8442万人、予測では5年後の2015年には、7681万人、15年後の2025年には7096万人、40年後の2050年には4930万人と劇的に減ってくる。

替って高齢者(75歳以上)が増えてくる。1995年には717万人、2005年には1164万人、予測では2015年には1645万人、2025年には2167万人、2050年には2373万人となる。

藻谷さんは「少子高齢化」という言葉使いはまずい、間違いとも言えると言う。何故なら、高齢化も子どもを増やせば解消するかの誤解を生むからだ。子どもを増やすのは悪いことではないが、それで今後の「怒涛のような」高齢化は、フォロウ出来ないと論じている。

そして、藻谷さんもある左翼政党も、国内の内需を増やさないと(つまり、特に家族を構成し、子育てをし、家のローンも組む生産年齢人口層の懐を温めないと)、景気も回復せず国民総所得も増えないと言うし、アメリカも日本の国内消費を増やしてくれ、そうすればアメリカの輸出も増えて助かる、と言っている。

それなのに、政府は(自民党の場合も民主党の場合も)、藻谷さんのような少数の経済専門家や反対少数政党が言うことを軽視ないし無視して、掛け声だけ「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と叫んでいるのだ。そうなら、もっと大企業を「指導」して、団塊の世代以下が定年退職したら若手や、学校新卒者等を定年退職者の給料の半分でもいいから正規で雇用させたら良いのに。

大企業自体も、新たに雇用せず、リストラばかりすれば、当面、「業績」が上がった形になるが、より長期的には、内需が減って自分自身の首を絞めていることになるんだよ、と藻谷さんは言っている。これは多分その通りだろう。大企業や政府の対応を厳しく見守りたい。(聞くところでは、前経団連会長を出していたキャノンが「悔い改めたかどうか」知らないが、工場の海外移転はやめて国内に踏みとどまって雇用状況も改善しているようだ。)

この著書は別のところで、産油国や人口少数国以外のG20で日本が貿易赤字のところは何処かの問題を読者に出している。私は安売りの中国かな、と思ったが、あにはからんや中国や英米は日本が黒字、ロシヤやドイツも日本が黒字。じゃあ、どこかと言うとフランス、イタリア、(別にスイス)の三国と言う。

理由は、高級品などのブランド力のあるところ、という。それらは決してハイテク製品ではなく、「美しい、心地よい、楽しい、持っていて誇れる」商品であるという。

で、中国は日本の美味しく安全だが「高い」米(コシヒカリなど)、肌に優しく質も良い日本の化粧品などを大量に輸入しているようだ。将来、中国の国民所得が更に上がる場合、ブランド品の輸入先をフランスやイタリアに取られないためには日本は更に油断せず不断にブランド力を上げるべし、と藻谷さんは言う。

最後に、結局は、「多様な個性のコンパクトシティたちと美しい田園が織りなす日本」というのが藻谷さんの理想であり目標となっている。これは、地域の種々のブランド力も上げろということでもあり、私は百パーセント賛成である。

物やサービス、お金、金融や財政のことを専門的に言う経済学専門家も、それらの総合として地域のありかたを言うんだな、と「親しみ」を感じた。一読をお勧めしたい。

人生四分論再考

2010-09-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
前に人生四分論の自分史構想を前に書いたことがある。

以前の関連ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/5fa7d077ea6e4561503e30fa51bdd0c8

最近、多少手直し、標題付けをしてみた。

Ⅰ 失われた風景と暮らし―わが青春の金沢1941-1960―
Ⅱ 学習、研究、教育そして現地へ―京都、豊田(名古屋)、奈良、ロンドンなど1960-1986―
Ⅲ 家政学、生活環境学そしてつながりへ―奈良より1986-2007―
Ⅳ 健康、市民雑学、地域そして生活―けいはんなより2007-  ―

大きな流れは前と同じ、標題を付けてみたのと時期割りに多少の違いがある。

グラーツのこと(再説)

2010-09-18 | 地域居住学
前にオーストリーのグラーツ(GRAZ)のことを紹介した。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/91e763312e21b31006aa1d39ca01dab1

で、今日同じ番組の再放送があって又みた。建築家のシスコヴィッツさんの案内で世界遺産のグラーツ歴史地区を見て回る番組だが、グラーツの「クンストハウス」(現代美術館)が現代的建築で建てられたが、その高さやヴォリュームが周りの建築とバランスしている、屋根に窓がついている(デザインは全然違うが)のも周りと同じなどによって「違和感」が少なくなっている。

それよりも何よりも、歴史地区で古い建物を壊して(一部または全部、壊す場合も多くの違う専門家ー歴史家、建築家、法律家などーが議論して決める)新しい建物を造る場合、周りの古い建築の真似は駄目で、最新鋭の考えで造ってかつ溶け込むように造る、という高度の政策を採っているのも頷ける。

同時に古い本物は残そうとしているのも良い。王宮は全体として昔のものからすっかり変わったがオリジナルのゴシックの階段だけはガンとして残している。案内の建築家シスコヴィッツさんも「グラーツで一カ所だけ案内せよ」と言われたらこのゴシック階段に連れてくる、と言っていた。一度グラーツに行ってみたい。次回ウイーンに行ったついでかな。昔のハップスブルグ家の東の守り(要塞)都市である。

Er irrt solange er lebt!(うろおぼえ)

2010-09-18 | 言語・字・言語遊戯
今朝、朝ドラ「ゲゲゲの女房」をみていて、シゲルさんが、娘のアイコさんが小学校教諭になって「子どもや親たちのイジメ」に会って悩んでいるのに対して、若いころ読んだ「ゲーテの言葉」を2枚の紙に書いて「貼っとけ」と渡していた。

その一枚に「人間は生きている限り悩むものだ」というのがあった。咄嗟に学生時代(50年近く前)に覚えた「Er irrt solange er lebt!」という同意のドイツ語が頭に浮かんだ。果たして正確かどうかわからない。しかし、若いころに繰り返し覚えたことは、出てくるものだな、と思った。

(間違っていたら直してくださいね。以後、正確に覚えますから)

住居学談義

2010-09-17 | 地域居住学
「ご専門は?」「今は特に(まあ、市民雑学と言ってもよいが)・・・、学生時代は建築学で、勤めてからは長年、住居学でしたが・・・」「住居学って何をするんですか?」「まあ、住居のあり方の研究っていうか、早い話、住居の計画や設計、まあ合理的に間取りをどう決めるなどのことですかね・・・」などと応対したりしてきたが、そのことに関連し、昨夜、寝ながら天井を見ながら考えた。

実際に住居学は更に色々分かれていて、このブログの名にもついているように「地域居住学」というのもある。細かく対象を決めて、それを細かく分析していく場合、○○科学と「科学」を付ける場合があるが、住居学は住居学であって、住居科学ではない。

やはり住居をトータルとして追求し考えるのが住居学ではないのかな、と当り前のようなことを考えてみた。そうすると、そういうことは多かれ少なかれ住居に住んでいる人なら誰でも考えていることではないか、じゃーアマとプロは、何処が違うのかな。

誰もが立ってる地盤は同じだから、どこででも考えられるし誰とでも議論が出来るが、そうだからこそ「切り口」とか、「目標」とかの明確性が大切になるなー・・・。いつの間にか眠りに落ちていた。