西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

椎名 誠「素晴らしいぐにゃぐにゃ風景」(岩波新書『活字の海に寝転んで』2003年7月刊より)

2013-06-16 | 思いつきから仮説へ
「四角四面」の人工環境と「ぐにゃぐにゃ」の自然環境といった対比について作家・椎名誠は「素晴らしいぐにゃぐにゃ風景」と言っている。(岩波新書『活字の海に寝転んで』2003年7月刊より)以下引用。

「自然のものというのは形が不定形である。別の言葉で言えば柔らかく、危うく、そしてぐにゃぐにゃしている。けれど自然界の造形というものは、たとえば毎日嫌になるほど見ていた海の波や、空いく雲や、風にふるえる草の葉など、それらが不定形である分とても目に柔らかい図形であった。きっちりした直線、直角、四角、真円、正三角形、といったものはまったく存在しない。言い方を変えれば、自然のぐにゃぐにゃしたこれらの風景はとても目に優しい。(中略)

その逆が都会に住んでいるぼくの日常生活で見ている毎日の風景なのである。都市の文化生活というものは、たとえば今ぼくのまわり三、四メートルの空間を見まわしただけでも部屋、窓、机、額、本棚、階段、ドア、酒の瓶、鉢、テレビ、エアコン、パソコン、ペン、ノート、時計、ポット、電話機、灰皿・・・。その殆どが直線と直角と四角と三角と真円の組み合わせである。」(『同上書』147頁)

私は、これを拙著『生活環境のあり方について―一住環境学徒の視点から―』(「家政学研究」2004年3月号)に引用している。

実は、ぐにゃぐにゃの自然形のものをまとめるのが「四角」であろう。弁当の多様な多彩なおかずをまとめるのが四角い弁当箱、多彩な皿に載る料理をまとめるのが四角いお膳等々。

一方、四角四面を崩すのが「ぐにゃぐにゃ」形と言えよう。

まあ、それは違った形の組み合わせのあり方だが、同時に自然物と人工物の組み合わせ方でもある。形と材質(テクスチャー)は密接な関係を持っている。

植物(特に樹木)の観察、考察

2013-06-01 | 思いつきから仮説へ
最近、facebookで「グリーン(主に樹木をイメージ)のエピソード」というシリーズを書いている。
で、一般に植物は、動物が動き回るのに対して、特に樹木は、どっしりとして「動かない」感じでとらえられているが…。勿論、土の下の根の位置は、根が成長する(動いている)し、地上の枝葉も成長して(動いて)いる。とは言え、日々の単位では、ほぼ「動かない」ととらえられる。

しかし、良く観察すれば、土より上の部分、枝や葉の部分は、日々、風によって揺らいでいる。逆にその「揺らぎ」によって、風や空気を感じることができる。「千の風」も枝葉の揺らぎで感じるのではないか。だとすると、そういう揺らぎは、「枝葉末節」ではないのではないか、と思う。

硬い頭と柔軟な頭ー既存の体系と新たな刺激ー

2012-05-13 | 思いつきから仮説へ
4月の「けいはんな市民大学」は、テーマが「脳と記憶の不思議」だった。70人もの参加で大盛況だった。

で、今日、その「大学」の運営委員会があり、それが一寸話題となった。

また、私が講演すべきだったが妻の病気のためできなかった3月のテーマについて少し喋ってみた。

誰でも、まあ50歳を越える段階では、脳に一定の個人的な知的体系が出来上がっており、外から新しい情報が刺激として入ってきても、その対応には、硬軟両様がある、と。

「硬い」場合:自己の体系を少しも崩さず、そとからの情報、知識は頑として受け付けない。

「柔軟な場合」:自己の当該部分に新しい情報、知識を導入して自己体系を充実発展させる。

それらの中間に、興味深い情報、知識であるが、もう一つ確信が持てず留保する場合がある。この場合は、将来さらに新しい情報、知識を参照することになる。

この外からやってくる新しい情報、知識を得る一つの場が「市民雑学大学」である。


「外見」が引き寄せる諸事態

2012-03-10 | 思いつきから仮説へ
「外見」が引き寄せる諸事態、などといっても抽象的でよく分からない。

で、今日の朝ドラ「カーネーション」を見た人はピンとくるかもしれない。

東京に住む主人公の長女の子(女の子、高校生、孫)が母親と喧嘩してお祖母ちゃんのいる岸和田に来ているが、ファッションデザイナーの子、孫にもかかわらず毎日ジャージを着て家の内外を闊歩している。それで岸和田の「暴走族」と喧嘩となり、お祖母ちゃんの店のショウウインドウのガラスが破壊される。

そこで祖母の糸子が、その孫に諭す。「ファッションも馬鹿にしてはいけない。ジャージばかり着ていることが(類が類を呼び)こういう事態を引き起こしたんだよ、分かるかい・・・」

次の日から孫娘はジャージをやめる。

こういう風にファッションだけでなく髪の様子も顔の様子も、全体として言えば「外見の様子が、人を引き寄せたり、反発させたりする」のだ。

まあ、お洒落心が大切だ、ということだ。

家事堪能師を増やそう

2012-03-05 | 思いつきから仮説へ
家事に「専門的に」取り組むことには、色々な意味がある。

1)家族全体で取り組めば、全員まあ「同じことをやっている」ので、互いの意思疎通がスムースになる。

2)家事の時間的、空間的展開に習熟することは、色々な仕事(例えば大工、左官など)の段取りに習熟することに通じている。

3)まあ大半は家事能力なのだが、私が基礎的生活力として言っているのは「炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所づきあい」(七つ八つ)である。

4)これらは、老弱男女誰にでも必要だが、特に定年後の男性、配偶者喪失後の単身男性に必要ではなかろうか。

●で、「家事堪能師」(男女とも、私の造語)といった資格を認定する制度、講座も考えていこうよ。

大震災に対し復旧とソフトを中心に

2012-01-20 | 思いつきから仮説へ
東日本大震災に対して復興という言葉、コンセプトが前面に出て、復旧は「旧に復してもまた同じような大地震が起これば同じことの繰り返しになるのでは・・・」ということで、余り「人気」がない。

海岸べりの居住地より高台の居住地がより安全、ということで仙台など平地が広く大津波にこっぴどくやられた所では、高台を整備する構想が強い。

しかし、それは復旧に比べて莫大な費用を食うことになる。

私は、「復旧を中心に」と言っているのであって、全くの旧に復すれば良い、と言っているのではない。まあ、復旧は分かりやすいし、復興より「安上がり」だ。

まあ、余りに「危険な」所は、少し引いてもいいし、一部高台に移ることもありうる。

ただ、全般的にフィジカル(空間的)に復旧するとしても、ソフトな生活のあり方は大いに変わると思うし、変わらざるをえない。

今までは、大抵の所では大津波に対する心構えが出来ていなかったが、今後はそんなことは皆無になろう。今までは「のんびり」していたとしても、今後は大地震即大津波としてたちまちに避難して大抵は助かるのではないか。

復旧住宅でも、家の多くの窓から海が見えるように「変わる」に違いない。

大地震となれば、すぐ海を見て(夜ならサーチライトで照らして見て)、即高台に避難となるにちがいない。先の大震災の記録は、何度も上映され地域の皆の「生きた記憶」として子孫に受け伝えられるに違いない。

スティーブ・ジョブス後の夢のコンピューターとは?

2011-12-31 | 思いつきから仮説へ
コンピューターのあり方に「革命」を起こしたスティーブ・ジョブスが今年56歳で亡くなった。

彼は、使いやすいアイコン方式を発明し、i-phon、i-padまで到達、庶民が聞きたい音楽や読みたい書籍にも簡単に近づけるようにした。

では、今後の「夢」は何だろうか。

私は、ジョブ自身が56歳で亡くならざるをえなかった”癌”など生活習慣病を予知し対策群を提案できる「システム」ではないかと思う。

人間が住んで生活している住環境、その変化、そこでの人間関係、食べている食い物、着ている被服、身体状態や心理状態、それら全ての状態を感知し、それらの履歴を記録し、時々刻々分析し、何か「怪しい兆候」を発見したら知らせ、とるべき対策のオルタナティブ(諸策)を提示する、こういうものである。

これがあれば、ジョブ自身が50歳代で癌になり亡くならなくても良かったにちがいない。

でも、こんなこと出来れるのであれば、医療制度は「あがったり」になるよね。

大水害(日本)、ハリケーン、山火事、竜巻(アメリカ)等への対応

2011-09-06 | 思いつきから仮説へ
今年は、3月に東日本大震災が起こり同時に東電福島第一原発が大事故を起こして現在に至っている。「対岸」のアメリカでは、ハリケーンが今度は東海岸を襲い、ニューヨークも含めて大変な事態になっている。更に山火事が起こって人家も飲み込んでいる。また、アメリカではたびたび竜巻が人家も吹き上げている。

まあ、原発事故を除いて最近、自然の異常が人間にも大被害をもたらしている。こういう自然の異常が人類を襲うときには、過去においては、それらの危険が起こりうる場所を避けて移り住むのが当然だった。今後も、そういう流れが中心にあるべきだろうと思う。

しかし、昔は人類は地球上ではまだまだ過疎であって、色んな所に移動できたが、最近では過密になってしまい、移動しようにも移動しにくいというのも実態だろう。

全世界的に、ないし全国的に戦略的移動(移住)政策を確立していくべきだろう。

少ない資源の多重絡み繋がり活用

2011-08-31 | 思いつきから仮説へ
昨日、高槻市で「ブランド化」イベントの話を、まあ「市民代表」「有識者(私もその一人)」、「市の担当課」、「市の関連課(商工観光、文化財)」の人達としていて、色々なことを思ったが、一つだけメモしておく。

昨日のブログで、様々なイベント・アイデアの中から今回は、大きく二つに絞って展開しよう、となったことを書いた。○今城塚古墳(伝継体天皇陵)の活用 ○市中央を北から南に流れ下り淀川に注ぐ芥川の活用(高槻環境芥川賞の創設)である。

で、これらを短期的、花火的に利用したイベントをやって「終わり」にするのではなく、市の多重な行政課題の解決と絡みつけて長期的、発展的に進めていくことが大事だし、必要と思った。

一昔も二昔も前の右肩上がりの経済、財政状況でも、縦割り二重行政は拙かったが、掛け声だけで中々縦割り二重行政は改まらなかった。道というと、国交省も農水省も乗りだしてくるし、ダムもそうである。

もう税金もおいそれとは増えないし、予算は大事に効率よく使わないといけない。

そうなら、まあ行政的にみると多重絡み繋がり活用、となるが、地域住民にとっては「生活的に有効使用」ならオーケーなのだ。住民的総合視点が今こそ必要である。

「窓の美」の発見-2

2011-07-16 | 思いつきから仮説へ
昨日に続き、テレビで見た『美の壺ー「窓の美」』からの私の「発見」を伝えてみたい。昨日は、番組では、「窓の美」を三つに分けて説明した、と紹介した。即ち、
(1)窓が建物の個性をあらわす
(2)窓が風景を生けどる
(3)窓が演出する光を味わう。

で、今日は(1)で例として紹介された四つの洋風建築の窓の形について、同じような傾向がみられる三つを取りあげて、私が思った「仮説」を提示しておきたい。

その三つとは、
①三菱一号館:1897年(明治27)、一旦壊されたが2009年に復元。ジョサイア・コンドル設計、レンガ造り3階建て、東京・丸の内・・・ジョサイア・コンドルはイギリス人、明治のお抱え外国人として、東京帝大・造家学科教授。辰野金吾らを教育。

仮説:背面、側面の窓は、平凡なものだが、正面(ファサード)の窓は、1,2,3階とリズムがある。それは、窓の「上部」のデザインに現れている。1,2階窓は上部をアーチとし、1階より2階が、そのカーブ度合いがゆるい。そして3階窓上部には、要石(かなめいし)を入れて楣形(まぐさがた)にしている。 つまり、「見上げ」の視線の動きは、1,2階と動きをもって上に「スルー」し、3階「楣部」で「ストップ」し、軒下でおさまるのである。

②東京芸大赤レンガ一号館(元国立図書館書庫):明治建築、窓に鉄扉付、2階建て。東京・上野。

仮説:これについても、三菱一号館と同じく、1階と2階の窓上部のアーチ部のカーブは、1階より2階の方がゆるい。(同じ視線の動きを期待)

③鳩山一郎邸:大正建築、1924年(大正13年)。岡田信一郎設計(岡田は鳩山一郎の友人)
2階建て、1階はパーティ空間、2階は家族空間、庭は広く、ガーデンパーティ可能。

仮説:1階上部はアーチ窓、2階は角窓、これも庭から見た場合、①や②と同じ効果を狙ったと言えよう。

今後、こういう目を持って洋風建築を見ていきたい。




美の壺→「窓の美」より学ぶ

2011-07-15 | 思いつきから仮説へ
テレビ(ビデオ)で「美の壺ー窓の美」(File215)を見た。途中、何度か一時停止にして画面を固定して分析、解釈を行った。演ずる俳優は草刈正夫だったが大分「老けて」きた感じ、もちろん、まだまだ「二枚目」だが・・・。

番組では、「窓の美」を三つに分けて説明した。
(1)窓が建物の個性をあらわす
(2)窓が風景を生けどる
(3)窓が演出する光を味わう。

それぞれの項目で例を出して説明していたが、それぞれで「説明」を越えて感じることがあった。ここでは、その一つを述べておく。 (2)窓が風景を生けどる。この「生けどる」という言葉の使い方は、今まで聞いたことがない。『広辞苑』を調べても未だ載っていない。で、実際、和風の窓を京都や奈良の寺院等の例で出している。最初に、詩仙堂の庭を見る視点を写真家が説明、庭の「さつき」に焦点をあてて眺めたり写真を写すためには、縁側に近づくと、背景の木立や大空が視野に入って手前の「さつき」が浮き上がらない。そのため、少し下がって部屋の端から眺めたり写真を写すと、木立や大空は「カット」されて「さつき」に焦点が当たるという訳だ。

まあ、和風の場合は、窓は間戸であり、外の風景を切り取る額縁である。それは、その通りだが、先の写真家のように、部屋の隅からの視点が唯一ではないのは当然だ。木立をより見たい人もいるだろうし、大空をみたい人もいるのだ。視点の位置だけでなく高さも様々である。立って見る、座って見る、寝て見る等だ。

状況も色々で、例えば、この和室で死に目を迎えた人は、恐らく縁側に近い畳の上の布団に寝ている視点から大空、木立、「さつき」など全てが見えなくてはならないだろう。何故なら、そこから「大空」に「帰って行く」のであるから・・・。

法然 専修念仏 享年80歳

2011-05-04 | 思いつきから仮説へ
今年は法然上人800回忌の年だ。京都国立博物館で5月8日まで特別展覧会 法然 生涯と美術 が開かれている。今日、思い立って行ってきた。

平安時代末期に生れ、天台宗で修行の上、鎌倉時代に入り、専修念仏(南無阿弥陀仏)の浄土宗の開祖となった。現在、知恩院が総本山、百萬遍にある智恩寺が大本山である。

後に百萬遍の勅号を後醍醐天皇より与えられたいわれは、弟子の善阿が一週間に百萬遍の念仏を唱えて疫病を除いたことによる。

念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できるという教えは画期的であり、旧宗派の訴えで朝廷より弾圧され法然自身も75歳を越えてから四国に流された。

しかし、恩赦で京都に戻ったが、80歳で亡くなった。当時としては超長命である。四国に流されなかったら、もっと長生きしたかもしれない。

40歳頃から40年以上にわたり、念仏を唱え続けたのが法然長生きの一つの理由ではないか、と思う。元気な意味ある声が、体と心への別の「栄養」ではなかったか。

まあ、一般的に言えば「音読の勧め」である。

自然を人為的に制御するのは不可能ー自然を素直に利用ー

2011-03-16 | 思いつきから仮説へ
今回の東北関東大震災での大津波被害や福島の原発事故は、結局、自然的過程を何時でも人為的に無理に押えこみ制御するのは不可能だということを示した。歴史的に長い目で考えると、人間が何をしても津波や原発が絶対安全ということは、絶対ないということだ。

昔は、特に旧ソ連などで「自然改造」ということも言われ一部実行されようとしたが、結局それは「神をも恐れぬ」ことで、不可能ということで断念された。今回の事態は、我が日本民族にも、そのことを明確に示したと思う。

自然を自然に使う工夫こそ必要だ。自然エネルギーの活用がそれだ。太陽光、風力、水力、潮流力、地熱などをそのまま素直に利用する分には、自然から「報復」されることはない。

問題は、薄く変動性が高いエネルギーを、どのように能率よく蓄積し、濃くし、出力を平準化するかにこそ科学、技術の力を長期的展望を持って戦略的に使うべきである。

ここで、原発を戦略的に止めて、新たな道筋に戦略的に進むべきである。そうすれば30年後に世界のトップに出て真の「先進国」になるだろう。

人間の移動と定着ー私の場合からも、歴史的にも考えるー

2011-01-15 | 思いつきから仮説へ
私の場合、生れてから高校卒業までの18年間、金沢市の寺町台に「定着」して住んだ。次に大学進学の事情で京都、と言っても教養部があった宇治に移住、2回生から大学院修士課程まで5年間は京都市内(1度移住)、就職して豊田市に4年、京都に転勤になって京都市内(2度移住)、次に奈良に転勤になったが、しばらくは京都市内に居住、1994年の秋以来、現在地(精華町)に住み、別に奈良市に書庫住宅を持っている。

これを見ると、高校までは極めて狭い地域で「定着」していたが、大学受験ということから別の土地に移住することになった。友人では、もちろん金沢大学に進学し、住まいもそのままの人もいたが、後は東京が一番多く移住した地であり、続いて関西も結構いた。後は北海道から神戸(これは関西だが)まで秋田、仙台、横浜、信州、名古屋、富山、京都、大阪などに散らばった。

大学(あるいは大学院)を卒業(修了)して就職すると、その就職先の事情に左右されて勤務地が決まってきて、また移動(移住)することになる。その後、その職場にいるにせよ、転職するにせよ、色々と移動する。私の場合は、色々な事情で生れて18年間、金沢にいたが、戦争中に父母について満洲(現・中国東北部)に行ったり、戦後も父について東京に行ったかもしれないのである。

事実、私の友人に「君の郷里は?」と聞いた時、「生れたのは○○だが、父が転勤族だったので、××にもいたし、△△にも行った。今は□□に父母がいるが・・・」等と答える場合も多い。

こういう訳で、現代では、生れてこのかた、親の職場移動、自分の進学、就職事情で色々と移動したうえ、リタイアした場合、まあ一般的にようやく「終の棲家」が確定する場合が多い。

これが江戸時代以前の歴史的時代になると、まあ農民の場合は、一定の地域に定着しているかもしれないが、武士になると、大名の戦いによる移動(例えば織田信長の岐阜から安土への移動など)や移封(例えば徳川家康の江戸移封など)によって、移動する。職人や商人も大名について移動する。(例えば、金沢に尾張町という町があるが、これは元々は前田利家が尾張から連れてきた商人を住まわせた町であり、近江町は元々、近江の商人が移り住んだ町である。)

更にずっと昔にさかのぼると、日本列島に大陸から様々のルートで移住してきた。その元を尋ねると6,7万年にアフリカから出た人類に行きつくのである。これらの移動の全ての理由の根本には、「飯が食えるかどうか」ということが横たわっているのだ。

採取時代までは、食えるものをみつけて移動したし(ゴミが堆積し不衛生になっても移動!)、農耕時代にはようやく「定着」したが、国家が出来るにつれて、「定着」とともに「移動」もはげしくなり、経済が国際化(グローバル化)するに連れて地球全体に人類は拡散、混合しつつあるのである。

何時頃に「国境」がなくなるのであろうか。それまで地球はもつであろうか。


全体から部分を見る、部分から全体を見る

2010-12-22 | 思いつきから仮説へ
最近、東洋史関係の内藤湖南とか宮崎市定さんの本(中公クラシックス)を少し読んでいる。

内藤湖南は、邪馬台国論争に火をつけた人だし、宮崎市定さんは弟子筋にあたるが、「客観史学」を唱え、真の有機的世界史を構想し、その視点から日本の歴史ー古代史、中世史、近世史、最近世史ーに一石を投じておられる。

内藤さんも宮崎さんも京大文学部の東洋史の教授だった。内藤さんは戦前、退官した後、「けいはんな地域」の「恭仁京域」の自邸「恭仁山荘」に住んで文筆活動をした。宮崎さんは、私が入学した頃(1960年)、教養部長だった。「世界史」を講じておられたが、高校時代習った「世界史」が今一つ面白くなかったので取らなかった。残念なことをした。

その分、少し「腰」を入れて勉強していきたい。お二人とも正にHi-story(心高ぶる物語)として歴史を叙述しておられる。全体(世界史、東洋史)から部分(日本史)を見ておられ、「井の中の蛙」にならなくてすむ語り口である。

最近(と言っても16年ほど前に、だが)「けいはんな地域」に住みだしたので、その歴史を把握したいと思っているが、当然、より広い地域に位置付けて把握すべきなのは論をまたないだろう。

自分も、昨日、住宅現象全体に位置付けて「自分のやってきた領域」(部分)を見直したいみたいなことを書いたが正にそうだと思う。体の部分的不都合(病気)も、その部分だけで考えるのではなく全身(精神も含めて)の「ホメオスタシス」として健康を考えることにも通じている。

しかし、同時に部分から全体を見直してみることも大切と思う。「特殊」を通じて「普遍」に至る道であろう。どう具体化したらいいのだろう。それが問題だ。