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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

先生は案外「コンサバティヴ(保守的)」なのか

2010-04-30 | 教育論・研究論
今日、昔、奈良女子大学附属中等教育学校の副校長をしておられた中道貞子(なかみち・ていこ)先生に久し振りにお会いして色々喋った。

先生が、附属中等教育学校の副校長をされていた頃、私が生活環境学部長で、アフガニスタンの女子学生を五女子大学(順不同で奈良女、お茶女、日本女、東京女、津田塾)で受け入れるというプロジェクトで協力し合った仲である。

で、今日は別用で会ったのだが、先生はもう退職後の生活に入っておられるので、「毎日どういう生活ですか」と聞いてみた。色々と忙しそうだ。その中に、新しい指導要領に基づく生物学の教科書か副読本を書いて普及するお仕事があるようだ。

DNAのことなど新しい生物学研究の成果も色々入るようだ。そういえば、私の高校時代(1957年~1960年)、既に四塩基の組み合わせによる「二重螺旋構造」は発見されていたのだが、「教育へのタイム・ラグ(時間的遅れ)」で、生物学ではメンデルの法則どまりだった。

中道先生は、紙を切り抜き細工して伸ばしたり折りたたんだり出来るお手製の「二重螺旋模型」を楽しそうに見せてくれた。「でも、こういう新しい教育には、先生方は案外「コンサバティヴ(保守的)」なのよ」、とも言われた。絶えず、教育内容をフレッシュにするのは何時も難しいのであろう。中道先生は、チャレンジ精神旺盛、来月には半月ほど、またアフガンに出かけられるようだ。「土産話」をまた聞きたい、と思った。

久し振りの辞書の買い物

2010-04-27 | 言語・字・言語遊戯
最近、井上ひさしの『作文教室』(新潮文庫)を読んだ。次に『自家製 文章読本』を読むつもりだ。さすが該博な井上さん、大変「ため」になった。

で、急に井上さん推奨の辞書を買う気になった。少し高いが、他の高価なものは殆ど買わないので、これ位はいいだろうと思う。それは両方とも編者の一人に大野 晋さんが入っている。『角川必携 国語辞典』と『岩波 古語辞典』である。両方で6千円ほどだが、私の小遣いからは「高価」となる。(まあ『広辞苑』や白川 静さんの「三部作」などはまた別)

『角川必携 国語辞典』の特徴の一つは、良く似た言葉の「つかいわけ」の囲み記事(説明)があることだ。井上さんは、二つ例をあげている。

「うとうと・うつらうつら」でこの辞書によると「どちらも半分ねむったような、覚めたような状態をいうが、「うとうと」はねむりのほうに重点があり、浅く短くてもここちよい。「いつのまにか日だまりでうとうとしていた」。「うつらうつら」は、半分目覚めているほうに重点があり、発熱や心配などのためによくねむれないようす。「風邪薬のせいでうつらうつらしている」。

「文明・文化」・・・「「文明」は、技術についていう。したがって新しい文明は世界じゅうに輸出・輸入されて移転する。精神の文明を宗教という。「文化」は、自然条件によって支配されているそれぞれの土地が文明を受けいれて自分たちの自然条件のもとでつくりだし、発達させる生活。これは輸出できない。」

これらだけ、拾い読みするのも楽しいだろう。

『岩波 古語辞典 増補版』も充実している。「古語辞典」は高校で買って以来半世紀なので、新鮮な感じ、再度『徒然草』『枕草子』『方丈記』などから読み始めてみたい。


ところで井上ひさしさんは、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫)の最後に「・・・わたしも書く時間が残り少なくなってきました。あと十年も書ければと考えたり、できたら、十三年、あとは十四年は、と考えたりしますが、十五年は持たないと考えています。・・・」(270頁)と述べている。この発言をした岩手県一関市での「作文教室」は、十四年前の平成八年に行われている。

正に、その「予測」発言のあった十四年後の今年、享年七十五歳で井上さんは亡くなられたのだ。確かに十五年は持たなかった。うーん、お見事!

視線制御の三段階ー体、顔、視線ー

2010-04-24 | 思いつきから仮説へ
昨日、歩道を歩いていて、ふと背後に「殺気」というか、何か「気」を感じた。で、とっさに振り向いたのだが、特に何もなかった。

この「振り向き」行動を、再現、分析してみると、「体をねじって、顔は後ろの方を向き、目は真後ろを見ている」ということになる。

つまり、体、顔、目(眼球)の三つが同時に「適当に」動いて、「真後ろ」に視線が向いたのだ。人間は、こういう場合のみならず、絶えず、この三つの器官を制御して、見たいものに視線を及ぼしているのだ。

これを、固定している建物、住宅に「応用」すると、どうなるか。

例えば、家から見たい絶景があるとする。まあ、仮に富士山が「見得る」とする。当然そちらを見たい。だが、普通に家を建てると、後ろの家にふさがれて見えない、横手に僅かに見得る視角があるとする。さて、どうするか。

先ず、少し建物本体を可能な限り「ねじって」、窓から身を乗り出せば富士山が見えるようにする。それでも部屋にいて、窓の真正面に冨士山を見たいとすれば、次に部屋を「ねじって」、最後に窓自体を「ねじって」調整するのである。

つまり、建物本体が「体」、部屋が「顔」そして窓が「眼球」である。まあ「ルービック・キューブ」の三段が「ねじれた」状態を想像しても良い。

こういう家、誰か設計を依頼しないかな。

仕分け第二段に注目

2010-04-23 | 時論、雑感
今日から、独立行政法人、公益法人の「仕分け」が行われるようだ。各省庁の外郭団体、天下り先と思われている所の組織構成、目的、予算効果、天下り状況、給料など検討されるのだろう。

それらの法人に「研究所」が結構ある。私の知っているのに、昔の建設省(現・国交省)関連で「建築研究所」がある。過去、有為な人材を育てた所と言ってよい。簡単に「潰されたり」、極端に「縮小化」されたりするのは、最近の様子は知らないが、問題に違いない。

他の所がどう扱われるのか、注視していきたい。

志位委員長、ルース大使と会談

2010-04-22 | 時論、雑感
『朝日新聞』『しんぶん 赤旗』などによると、志位和夫委員長が、委員長としては初めて駐日米大使のルース氏と会談したようだ。かって志位氏がオバマ大統領のいずれ核兵器を廃絶したいという「核兵器廃絶宣言」(チェコ・プラハ)に対して賛意の手紙を出して返事を貰ったという経緯がある。

新聞記事によると、ルース大使もその手紙を読んだらしい。それに関する国際的会議(核不拡散条約(NPT)再検討会議)がアメリカ・ニューヨークで来月3日からあるので、志位氏ら共産党の代表団が30日からアメリカを訪問するようだ。

ワシントンにも訪れるようだが、そこで誰と会談するのか「未定」のようだ。駐日米大使と日本の共産党の委員長が正式に会って会談するのも歴史的に初めてのことであり、もしオバマ大統領との会談となれば、これも初めてで歴史的なことに違いない。

沖縄の普天間基地問題では、共産党は他の政党とは違って、沖縄県民の多数がそう思い、本土の国民の多くも「本来それが一番」と思っている無条件撤去(国内移設なし)を主張している。昨日も、ルース大使に志位委員長は、率直にそのことを語りかけたようだ。

当然、現在のところ意見は合わないわけだが、こういう議論が友好的に行われ許容するところは、アメリカの民主主義の懐の深さだと思う。『朝日新聞』は、「鳩山首相も共産党に見習ってオバマ大統領に、もう少し率直に要望を述べ議論したらどうか」といった趣旨を述べていた。確かに何も言わずに「Trust Me」と言ってもどうにもなるまい。

大遣唐使展に行く(2010年4月20日)

2010-04-21 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良国立博物館の「大遣唐使展」に行った。この遣唐使は、それ以前の遣隋使の伝統を受け継いで主に奈良時代に唐の国に派遣された「使節団」である。これは、平安時代に入っても継続し、最後は菅原道真が「中止」を進言して終わった。

まあ、律令国家を立ち上げた日本が、当時の「先進国」「中華」の唐に対して大使節団を派遣して政治制度、都のあり方、仏教をはじめ文化の様々などあらゆることを学んだのである。まあ1世紀有余にわたった正に「世紀の大事業」だった。日本からは5千人とも6千人ともいえる人々が唐に赴いたのだ。

これとは、規模や時期の点で問題にならないが、「遣唐使」というと、明治になって新政府が欧米に1年10ヶ月にわたり派遣した50人ほどの「岩倉使節団」(岩倉具視特命全権大使)とその記録(『米欧回覧実記』)が思い浮かぶ。

これらは、日本人が昔も最近も「先進国」にキャッチ・アップ(追いつこうと)するという姿勢の歴史的証拠である。

で、この「大遣唐使展」をざっと見てみて、「岩倉使節団」の報告書(岩波の『米欧回覧実記』全5巻による)に類する「報告書」があったのかなかったのか、はっきりしないことが気になる。

実際には、唐の制度の知識とか、都の作り方の知識とか、仏教の仏典だとかは、入ってきて日本の制度に取り入れられたことは確かだが、では当時の「長安の都市計画」の図面があるのか、と言えば全体的なものは見当たらないのである。

まあ、時代が違うが『米欧回覧実記』のような記録、報告書は残す、という意識や習慣が未だなかったのだ、と言わざるをえないのだろうか。

昨日、別に平城宮跡で、遣唐使の乗った船の復元を見たが、これもしっかりした資料が残されている訳ではなく、600人ほどの「派遣団」が四隻の船で行ったことは記録にあるので、一隻なら150人ほどになる。50人が船を動かしたり操作し、後の100人が夜寝ていたとすると、100人が寝られる空間を割り出して大体の船の大きさを決める、と言った方法での復元と説明されていた。これだと、まあワンノブゼムの「復元」といわざるを得ない。

まあ、しかし国際交流史の大きな一こまが「細かく」注目されたのは良いことだろう。

はて年金の源資は?

2010-04-20 | 時論、雑感
私は現在二ヶ月ごとに年金を受け取り、それで生活をしている。この年金の原資は何なのか、一寸考えてみた。

私は、働き出してから43年間にわたり共済年金の掛け金をかけてきた。現在の年金制度は、次に来る世代が、一世代、二世代先輩の年金を支えている構造と言う。子が親を養う社会的形である。もちろん、会社や役所も拠出している。「親孝行型」「終身雇用型」である。だから私の掛け金は先輩達のためだったのかな。今後は、こういうのだと高齢者は増えるし支える若者は少なくなるので大変だ。別に、自分で将来の年金のためにかける「自力更生型」もあるだろう。今後は、その方向かな。

で、これって労働価値説からは、どう説明するのだろうか。労働価値説では、「価値」は労働時間によって多寡が決まり、労働者に支払われる賃金は、労働力の再生産のための「最低限」になる傾向にある。労働力の再生産費用とは、毎日の衣食住の費用とともに次世代の養育費である。それらを超える分が「剰余価値」で資本家の取り分だ。

まあ、こういう基本を考えたマルクスの時代では、定年後に数十年にわたって「働かずに」食い扶持を得る年金生活者は、殆どいなかったので、年金の意味や位置づけ、その原資はどうなるのか、はっきりしなかったのではないか。

今後、ゆっくり考えていきたいが・・・。長生きの予測と、対応する年金の予測と、それらを支える原資の出どころ、位置づけをはっきりさせる要がある。

寺の建築、仏像そして花

2010-04-17 | 住まい・建築と庭
最近、妻が高校以来の友人達と5人で談山神社から明日香村を経由して今井町までタクシーで回ったようだ。それで、5人は、それぞれ関心が違っていて、一番多い関心が「花」、次が「仏像」、そして「建築」は自分以外は関心ほとんどなし、とのことだった。ただし、建築を含めた風景(中景や遠景か)には皆関心を示したようだ。

これを聞いて、色んなことを考えさせられた。

寺や神社には、本来は宗教的関心から行くべきものではないのか。ところが、誤解を恐れずに言うと、和辻哲郎の『古寺巡礼』から、仏像志向になったのではないか。まあ、寺めぐりが美術紀行のようになってきたのである。

そして、お寺などの「営業努力」から「花めぐり」にもなってきたのではないか。とにかく春夏秋冬色々な花を売り物にしている。

これを考えていて「ハッ」と気づいたことがある。

花は、一時期に一斉に咲かない。四季にうまく分散している。これは蜜を吸う虫や鳥のことも考えているのである。咲く花が四季に分散しているから、蜜を吸う虫や鳥は1年中飢えないのだ。それは、自分のことを考えていることでもある。とにかく花粉を受粉しなければならないからである。

この論理は、人間にも適用されているのだな、と思った。四季折々あちこちに違う花を咲かせる神社仏閣があるからこそ、人間はそれに惹かれて四季折々あちこちを訪問するのである。

これを社会全般に広げると、年中行事の全国分散、地域分散の論理になるな、と思った。

池田有隣先生の思い出

2010-04-17 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
最近、池田有隣(いけだ・ゆうりん)先生より、公職を退き「在宅中心の生活に入ります」との挨拶葉書をいただいた。

葉書によると、大阪市立大学(工学部建築学科)に5年9ヶ月、京都工芸繊維大学に33年3ヶ月、宝塚造形芸術大学に14年、計53年勤められた。77歳の喜寿で「引退」である。

先輩に、ではあるが「本当におめでとう」と言いたい。

池田さんは、大学の9年先輩である。お父上は池田総一郎先生と言って、京大教養部の図学の教授をしておられ、私も習った。黒板に○を描く場合でもフリーハンドで見事に描かれた。服装も髪型も「イギリス紳士」の風であった。京阪電車の車両のデザインをされたと伺った。断面の下、扉の下方がふっくらとカーブしているあれである。

息子さんの有隣先生も、親譲りの紳士であった。名前は、音で「ゆうりん」と読むのが本当、と伺った。京大建築の計画系では珍しく「病院建築の研究」で学位を得られた。当時、公共建築の計画学は、東大建築(吉武泰水研究室)の「おはこ」だったからである。

一番長く勤められた京都工芸繊維大学の名誉教授でもあられるが、現在の京都府精華町の庁舎建築の計画の審議会長もされた。私は一住民として、色々と意見を提出した記憶がある。

今のように中層にし、図書館を併設して住民に親しみやすくしたのには、有隣さんの「思い」も入っているのでは、と推量している。

今後とも、「地域人間」として末永く付き合って下さいね。

バンドン会議55周年

2010-04-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
バンドン会議55周年といっても「はー?」と思う世代が多くなったのではないか。55周年というから1955年のことだ。昭和で言うと昭和30年である。

私は、中学2年生(金沢市立野田中学)であった。新聞ニュースでかすかに記憶がある。バンドンとはインドネシアの都市の名前で、今朝、今年はバンドン会議55周年に当たる、とラジオで寺島実郎さんが言っていた。(旧宗国のオランダの人たちに「インドネシアのパリ」と呼ばれていた高原都市、一度行ってみたいものだ)

当時は、終戦後10年経っていて、日本はこの辺りから後で言われる「高度経済成長」に入っていくのであり、次の年の『経済白書』に亡くなられた都留重人さんは「もはや戦後ではない」と書かれたのだ。

世界をみると、1949年に中華人民共和国が誕生し、1950年に朝鮮戦争が起こり、1951年に日本はサンフランシスコ講和会議を経て「日米安保条約」を結び、アメリカの「風下」で現在まで来ている。

そういう背景のもとに、インドネシアのスカルノ大統領、インドのネルー首相(当時はネール首相と言っていた)、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領など歴史上のビッグネームがバンドンで(アメリカ、ソ連を睨んで)会議(アジア・アフリカ会議)を開いたのだ。

で、日本にも招待状が来たが、当時は、何と鳩山(一郎)内閣、外相は重光 葵氏、この二人はアメリカに「遠慮」して出席せず、替わりに経済関係の閣僚だった高崎達之介さんが出席。この折、高崎ー周恩来の「秘密会議」が行われ、後の中国との国交なしのLT(Tは高崎)貿易につながり、やがては日中国交回復の伏線になったのだ。

寺島さんは、現在の鳩山政権も「東アジア共同体」と言っているが、今や「ASEAN」に注目という。バンドン会議55周年記念日は明後日の4月18日である。

共通の壁と上下パイプの間(隙間)

2010-04-14 | 住まい・建築と庭
私の第二住宅(書庫)は、コーポラティブ住宅の「つなね」にある。今年度から週に3回位は来て、段ボールの整理や管理組合の仕事(出来ればNPOなど他の仕事も)などこなしていきたい。

今日も午後にここにきて、私の家はまあ1階なので玄関前に落ち葉があるのを見て、掃除をした。この空間は共通の空間で、階段が上に伸びている、上水、下水、電気、ガスの管も上に伸びている。これらの管は、修理や取替えのことも考えて壁に埋め込まず、壁の上に「浮かして」設置している。電気やガスのメーターもこの共通空間にある。

で、落ち葉の掃除をしてみて分かったのは、上に述べた諸種の管と壁との隙間に落ち葉が舞い込んでいるのだが、その隙間のうち幾つかは、箒も通らない狭い隙間で完全に掃除は出来なかった。10年目にして良く来るようになって、何度も掃除して初めて明確に認識した。

今日の結論:集合住宅での共同空間での管と壁との隙間は、箒が通り、かつ小さな子供たちが首を突っ込んだり通り抜けようとして事故にならない程度とすべし、ということだ。

井上ひさし本を読み出す

2010-04-14 | 生活描写と読書・観劇等の文化
井上ひさしさんが亡くなられて急に「井上ひさし本」が無性に読みたくなって、家にあるもの数冊に5冊ほど新たな文庫本を加えて、ボチボチ読み出した。

いやー、言葉とりわけ日本語を大事にする人らしく、文章が分かりやすく胸にストンと落ちる言葉が大半だ。自ら遅筆堂とも号されていたように、推敲に推敲を重ねた文章だ。

ニ三日前にラジオで、生前、井上さんと「鎌倉九条の会」活動をしていた評論家の内橋克人さんが心に残る井上さんの言葉として「むつかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」というのを紹介しておられた。

これは、私にも心に食い込む言葉である。長年、多様な文章、即ち小説、戯曲(主にテーマのある喜劇)、エッセイ、紀行文、評論などをそれぞれに相応しい文体で書き出された人にして初めて言える言葉ではなかろうか。

じっくり味わって、時々大笑いをしながら読んでいきたい。

新建・奈良支部見学会懇親会挨拶から等

2010-04-12 | 思いつきから仮説へ
日曜日に新建築家技術者集団・奈良支部主催の「上ツ道(上街道)フィールドワーク~天理から三輪まで~」に参加した。夕方、三輪(桜井市)の「居酒屋」で懇親会があったが、その時の私の挨拶:

「私は、名前だけ奈良支部の代表幹事になっている西村一朗です。ただ、こういう見学会や懇親会には出来るだけ出るようにしています。5年前まで奈良女子大学に31年間勤めていました。私と奈良(県)との関係を言いますと、先ず、学生(院生)時代に十津川村・平谷から和歌山に抜ける上湯川林道沿いの住民調査ー林道開通と生活変化ーをしました。(1964年~1965年頃です。この結果は日本建築学会に私が三村浩史先生等と共に最初に報告したものです。)次に奈良女子大に勤めてから今井町の保全に関する環境庁の調査に参加しました。町家敷地裏を流れる水路の存在と意味を調べました。(奈良女の扇田研究室と東大の大谷研究室との共同)更に奈良市のならまちに関する学生・院生調査をプロモートしてきました。(現在ならまちにある「奈良女子大セミナーハウス」は最初に私が提案したものです。)

ところで、今日のフィールドワークに関してですが、箸墓古墳は、上ツ道に接して存在していますが、上ツ道を直線に真っ直ぐにつけると古墳の「後円部」を一部カットしなければならないのに円弧に沿って一部カーブしています。これは、この墳墓の重要性が当時認識されていたとのことですが、先ほど京都支部の久永(雅敏)さんがふれられた京都の山城町(現・木津川市)の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳は、明治28年に旧国鉄によって方墳部の真ん中を通されてしまった。(まあ、地表をいじるときは慎重に、でしょうね。)

今日は古墳群と江戸時代の陣屋等の遺跡中心でしたが、考えてみると、それらの時代は大和に王権や地方権力がはっきりあったので残ったのではないか。平安、鎌倉、室町時代の遺跡はいまひとつはっきりしないのでは・・・。今後の課題ではないか。関連で街道沿いの町家、町並みも重要ではないか。それも異時代の共存が重要と思うが、これも今後の課題であろう。大いに論じ、考えていきましょう」(言いたかったことも増補しました。)

井上ひさしさん逝去75歳

2010-04-11 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
井上ひさしさんが肺ガンで亡くなられた、享年75歳。うーん残念だ、未だ「若く」、更に日本文化に厚みを加える活動をして欲しかった。

その活動は、小説(直木賞作家、『吉里吉里人』など)、劇作(「ひょっこりひょうたん島」など)、エッセイ(日本語のことなど)、紀行(ボローニャ紀行など)、平和活動(「九条の会」活動など)等々と多彩だった。

喋り、語りも聞きたくなるものだった。残された作品を時間の限り味わっていきたい。買い置きしてある大著『吉里吉里人』も読みたいし、日本語関係のエッセイも味わいたい。ボローニャに行く時には『ボローニャ紀行』を下敷きの一つにしたい、と思っている。

異時代建築による共存的町並みも考える

2010-04-11 | 地域居住学
昨日、天理から南下して「上ツ道」沿いに桜井の三輪まで歩いた。新建築家・技術者集団の主催(実質、奈良支部が準備)だった。25人を越す参加、解説は奈良県歴史教育者協議会の高橋源一郎さん、準備された資料も現場解説も「値打ちもの」だった。

主に古代の古墳を多く見たのと、江戸時代の遺跡、陣屋などを見た。

ルートは、近鉄・天理駅前に集合、天理市内の丹波市(天理の元、市場町)、三味田(芭蕉の句碑:草臥(くたび)れて 宿着く頃の 藤の花(『笈の文』より)、中山みき(天理教教祖)の生誕の家、大和神社、柳本(柳本藩陣屋跡、黒塚古墳と展示館)、巻向(巻向遺跡、巻向石塚古墳)、箸墓古墳、芝(芝村藩陣屋)、桜井市埋蔵文化センターなどであった。 ざっと12,3kmは歩いたのではないか。

これらの途中に、住宅が街道沿いに並んでいたが、総じて古いなあ(江戸時代まで遡るか)と思われるものも多々あったが、きちんと残っているものは、そんなに多くなく、全く郊外の新興住宅地にあってもおかしくないものが多々見られた。

だけど、それらを眺めながら、前から思っている「異時代建築による共存的町並み」形成というアイデアを考えていた。

まあ、奈良県で言うと、(橿原市)今井町ではなく(奈良市)ならまちで見られるような町並みである。実例によって一つずつ積み上げていきたい。(どういう条件の時に可能か、規制や援助の方法、・・・)