西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

犀川の近くの金沢市立十一屋町小学校

2005-11-17 | 金沢の思い出
今日の『日経』文化欄で笹倉信行さんが「川の記憶 流転する都市」を書いていて興味深い。そこに「・・川跡をたどると、なぜか近くに神社と小学校が多いことにも気が付いた。・・」との叙述が目に留まった。そうだ、金沢の十一屋町小学校も犀川を見下ろす所にあったな、と思い出した。犀川側の崖には竹が生い茂り、十一屋町小学校のシンボルは「若竹」だった。その竹やぶを通じて犀川の瀬音が聞こえていたのである。当時(昭和23年1948年から昭和29年1954年まで)の校長は、大体は藤田清正先生だった。1,2年は酒井貞子先生、3,4年は吉村不二子先生、5,6年は宮林明次先生だった。吉村先生、宮林先生については既にブログで思い出を書いた。(最近は金沢市立十一屋小学校だが、私の在校時は「町」が入っていた、と思う)(地図は、金沢市立十一屋小学校の位置図、右上方に犀川)

「会社人間」から「地域の人」

2005-11-17 | 時論、雑感
今日の『毎日』の「くらし豊かに」欄で、「会社人間」から「地域の人」、とて千葉県我孫子市の取り組みを紹介している。昭和22年(1947年生まれ)が会社で60歳定年となる2年後に向け、より大事になる課題だ。私は既に50歳の頃(14年前頃)に「会社人間から居住地人間へ!」と京大建築会の会報に書いたことがある。定年になって突然に居住地に戻ってきても、そこでの行動様式に無知ならば、軟着陸どころか激突して、それこそ玉砕だ。だから定年10年ほど前から「会社上空」から「居住地地上」に徐々に高度を下げ、軟着陸をはかる必要があろう。とにかく、高齢者の地域活動支援は、自らにとっても大事なのだ。

六本木ヒルズ

2005-11-17 | 時論、雑感
今日の『朝日』では、社会面プリズムに六本木ヒルズが、「勝ち組の塔」に引力、として書かれている。これは今や東京いや日本の代表的超高層ビルである。入り口の回転ドアに挟まれた事故でもニュースになったが、今日の記事では、「楽天が18階、村上ファンドが20階、ライブドアが38階に入居しており、いわば「勝ち組」の象徴的オフィスビルとなっている」旨のことが書かれている。最上階まで54階のようだ。屋上まで238mあるようだ。日本でニューヨークのWTC911ビルのように標的になるとしたら第一にこのビルが上がるだろう。他に超巨大の地震が東京を襲った時どうなるか予想できない。建築分野の先輩・池田武邦さん(元・日本設計社長、東大・建築学科卒)は、超高層ビルの設計に携わり、自らも超高層で仕事をされていたが、冬のある日、雲の上の日の照る高層で仕事をしていて帰りにエレベータで下りて玄関に出てきたら外が吹雪だったので愕然とした、と述懐しておられた。それほど超高層は地表状況から隔絶しているのだ。それ以後、池田さんは超高層ビルを批判し、低層の、しかも農村空間を愛しておられる。(一時、ハウステンボスの社長もやっていた)私は、つらつら考えるに六本木ヒルズは、長い歴史からは一時のうたかたに過ぎないのではないか、と思う。言わば「バブルの塔」である。人間は鳥ではなく地面に引き寄せられる二本足の動物であることを忘れてはならない。
超高層 下り立ち吹雪に 驚きぬ   市路
(写真は六本木ヒルズの「夜s(ヨルズ)」)

私のブログのこと

2005-11-17 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、奈良の町中でかっての奈良女子大学の同僚S.先生に会った。そして言われた。「西村さんのブログ見ていますよ、話題が多様で、短文でもちゃんと分るように書かれているので感心した」と。ほめて頂いたととって、「有難う」と言っておいた。これは、恐らく1987年から今日まで1日も欠かさず日記を書いてきた癖がブログに並行移動したのであろう、と自分では考えている。お蔭で最近は本体の日記は「やせ細って」それこそ「摘要」になっている。プライバシーにわたる微妙な話や、憤懣やるかたなき怒り等は日記に書かざるをえないが、それでも日記は全体としてメモ化している。ブログに書くということは、短文でも一応、起承転結、序破急を付けて書くので「短文評論」の練習でもあるだろう。一寸振り返ると、約5ヶ月で800以上のコンテンツ、1日に平均5,6コンテンツ作成していることになる。最近は1日平均4,50人の方に見ていただいている。一寸コメントが少ないのが残念だが・・。何時まで続くか分らないが、学生に言っている通り「継続は力」「ちりも積もれば山と成る」であろう。(写真は奈良女子大學記念館)

道普請(みちぶしん)、水普請(みずぶしん)

2005-11-17 | 地域居住学
今日、「地域居住学Ⅱ」の講義で、今日から農山漁村計画の話を数回することにして、最初に国土における農山漁村の位置づけを都市との対比で話した。勿論、第一の意義は、生産的意義で、普通これだけが前面に出てくる。農村における米や野菜、山村における樹木の育成、伐採、漁村における魚の捕獲等である。これらにおいては市場経済の下で生産物の価格が下がったりすると、食べられなくなり、出稼ぎや離村につながる。もう少し国土全体からみた意義付けが考えられないか、として、私が西山先生の京大退官時の記念論文集に書いた論文(1974年頃『農山漁村における地域環境管理計画ー京都府伊根町を事例としてー』)を基に、地域環境管理的意義もあると話した。その場合、挙家離村になった場合を想定すると、誰かが後を管理しないと、地域環境が崩れて広く悪影響(例えば洪水など)を及ぼしやすくなる。行政や都市住民が何らか乗り出して管理の手助けをする場合、それまでの「管理慣行」が分っていないといけない、として例に道普請(みちぶしん)、水普請(みずぶしん)をあげた。普請とは、江戸時代までの言葉で「建設・建築・修理」という意味を含み、普請奉行というと、今の国土交通大臣(一寸前の建設大臣)、普請道楽というと、食道楽、女道楽などと並び、中でも最も金のかかる道楽だった。道普請や水普請は、定期的には農閑期、田植えの始まる前に出合い(協働)で行われた。それをきちんと行なっていないと1年間の農事カレンダーが回っていかないのであり、それらは正に地域環境管理慣行だったのである。そして、この管理にも国土管理費(税金)があてうるとすると、少しは農山漁民は楽になり挙家離村しなくてもすむかもしれないのである。