西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

吉村順三の「小さな森の家」

2005-11-27 | 住まい・建築と庭
今日、NHKTVの「新日曜美術館」で「簡素にして品格あり」の建築家・吉村順三(元・東京芸大教授)をやっていた。やはり三男建築家である。(坂倉準三、丹下健三、西山夘三等)テレビでも紹介されていた軽井沢の山荘は、PHAIDON社の「The House Book」にも掲載されている。この本は、世界から500の住宅を選んで紹介するものだ。1階は湿気を考えてコンクリートの「基礎的部分」、2階が木造で片流れの屋根である。2階の居間で窓を開け放つと回りは森、樹木の海である。吉村は「小鳥籠」にたとえている。「そうだな」と思う。吉村は、奈良の国立博物館の別館をも設計した。奈良公園に溶け込む設計を目指したようだ。とにかく彼も自然との「つながり」を重視した建築家の一人だった。

へっつい

2005-11-27 | 金沢の思い出
今まで、金沢で18年間住んだ桜畠の家について、中心の4畳半の「茶の間」の「部分空間・部品」について卓袱台(ちゃぶだい)から始まり色々ブログに書いてきた。カテゴリー「金沢の思い出」をクリックしてみて欲しい。これから次に「台所」のことについて色々描写したい。私の家は大正末期から昭和前期の建築と思われるが、江戸時代からの間取りの伝統を引いていたと言える。この伝統間取りについては、亡くなった玉置伸吾さん(元・福井大学教授)と弟子の増田達男さん(金沢工大教授)の研究により「玄関後退型」と呼ばれる前田藩の足軽級のものと分かっている。桜畠には足軽級が住んでいたのだ。「玄関後退」ということは、逆に「台所突出」ということだ。台所は、1間×2間の2坪ほどだった。表に面した所に「へっつい(かまど)」があった。私は家人から「男のくせに・・」と批判されつつ、へっついで火を焚くのが好きだった。「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、炊き上がるころ又ちょろちょろ」と言うのが焚き方だった。上の口が薪をくべる口、下が空気口である。上の口を開けたままだと火が煙突の方に流れて効率が悪かった。そういことも現場で覚えたのである。へっついの横が薪置き場だった。(写真は、へっついのイメージ)

増田友也設計の京都・東山会館の思い出

2005-11-27 | 奈良の思い出(助教授時代)
私は京大・建築学科では「建築意匠論」を増田友也教授に習った。設計製図の多くも増田先生の指導だった。私は、先生の設計では、「東山会館」が好きだった。1988年に取り壊されて今はない。場所は、南禅寺、疎水の近く、現在、京都市国際交流会館のある所だ。この東山会館で、私の印象にあるのは、入り口前の樹木、そして中庭である。樹木について、先生が「あの樹木があそこにあるのは必要なことで、仮に何かで枯れても同じように再現してもらう契約になっている」といったことを言われたことを覚えている。樹木が、建築にとって極めて重要なのだ、と頭に入った。次に中庭だが、一寸舞台になっている所もあって、回りの廊下辺りからも良く見えてよかった。この建物で色々な会合や「コンパ」風の集まりもあったが、一番の思い出は、西山研究室の先輩の三村浩史先生が京大教授、広原盛明先生が京都府立大学教授に前後してなられた時に、後輩達がお祝いの会を確か1985年の暮れに開いたことである。その時に、西山夘三先生は「教授になっておめでたいが、次を考えないと・・」と言われた。その言があったからかどうか分からないが、その後、広原さんは京都府立大学学長になられた。(写真は、増田友也先生)

どうだんつつじ

2005-11-27 | 生活描写と読書・観劇等の文化
桜が丘の家から「つなね」の家へは、専用歩道を通り、高の原駅前を通って25分ほどだが、今日は時間があったのでぶらぶら行った。その道筋に積水ハウス総合住宅研究所があり、中に私も理事の一人のNPO西山夘三記念すまい・まちづくり文庫がある。その積水ハウスの敷地には研究用のモデルハウスもあるが、庭木や並木の研究用に種々の樹木も植えてあって、名前が表示されているので勉強になる。今日は、真っ赤な「どうだんつつじ」に目が行った。これも春と秋に我々の目を楽しませてくれるのだな、と思って写真を撮った。(後ろが積水ハウスの研究所)

NPO地域支援研究フォーラムならの「打ち合わせ」他

2005-11-27 | 地域居住学
私は、一応、「NPO地域支援研究フォーラムなら」の理事長をしている。副理事長が奈良女子大学の中山徹先生だが、現在院生の井倉雅子さんが久しぶりに「打ちあわせ」に「つなね」の家に来た。中山先生に頼まれた「書類」を探しに来たのだが、一寸見当たらず別を探すことにした。ついでに、最近の生駒商店街のことや、研究のこと、住宅設計のこと、来年ヨーロッパに希望者で行きたいなあということ等を駄弁った。彼女もル・コルビュジェにも関心があるので、そこも行きたいし、私としては、来年はロンドンのハムステッド田園郊外のスタート百周年なので、その行事にも行きたいし、同じイギリスに行くならパトリック・ゲデス関係のエジンバラ他にも久しぶりに行きたいし、と「希望」が膨らんでくる。元々は、ワールドカップでドイツに希望者で行こうということだったのに・・。でも本当に実現するかどうか不確定だが、「宝くじ」と同じように色々「旅の夢のシュミレーション」は頭の体操兼休養で楽しいものだ。(写真は行きたい所の一つ、ル・コルビュジェのロンシャン教会、知り合いで、ここで結婚式を挙げた人もいる)
NPOについては、NPO地域支援研究フォーラムなら番地:http://geocities.yahoo.co.jp/gl/chiikisien_nara へ

地域での共同清掃

2005-11-27 | 地域居住学
日曜日、朝8時半から町内(桜が丘一丁目)で共同清掃が約1時間、その後、公園で消防署の人に来てもらって消火器使用訓練があった。私は、軍手にズックで出かけた。スタートで近所のある婦人が「集会所の裏がもやもやしている・・」とつぶやいた。それを聞いていたのが私と近所のF.さん夫妻ともう一人知らない若い男性だった。その4人で、とにかく集会所の裏に回ってみると、確かに雑草で通り抜けられない状況になっていた。両方から手分けして片っ端から抜いていった。集会所から少し離れて「境界のコンクリート」が立ち上がっているが、その間、約1~2メートル(途中で壁の位置の関係で変わる)離れている地面は元々白い小石が敷き詰められているので雑草が繁茂しにくく、抜きやすい状況だ。今後は、表の道路から見えない所だが時々「草抜き」をしたら、こうまでならなかったのにと思った。これで、大変だったのは、軍手、セーター、ズボン、ズック一面に、更に髪の毛までに「雑草の実」がはりついたことである。他の三人も同じだ。雑草も「生き延び戦略」で必死なのである。とにかく終って公園に行くと、最初に「つぶやいた」婦人が、「御免ね、自分が言ったばっかりに・・」と言って「雑草はりつき」にも気の毒がった。家に帰って「猿の蚤取り」のように取るのに小1時間かかった。軍手は、新品を一つ貰った。(写真は雑草取り後の集会所裏、縁とこちら側壁2m、向こう側壁1m位)