数日前、nhkテレビで安土桃山~江戸時代の異色の画家・長谷川等伯を見た。勉強になった。能登の七尾の出身、羽咋海岸の柴垣の松林が後の画題に登場する。元々は武士階級の出身、長谷川家に養子で入る。
郷里で色々絵も描いていたが影響は地方どまり、33歳頃に京都に出て、日蓮宗の本法寺と繋がる、やがて秀吉に認められ、有名な「楓図」を描く、狩野永徳の「檜図」の向こうをはったもの、本法寺の日通上人が堺出身ということから、同じく堺の千利休とも「近づき」となり、大徳寺の天井画を「請け負う」、等伯は子息・久蔵を失って「一門」のピンチ、これを狩野派との競合、狩野派乗っ取り、新規開拓の三路線のどれでいくか、結局「雪舟五代」ということを使って需要層の新規開拓、しかし等伯亡きあとは狩野派が歴史から等伯を抹消しようとする。
例えば、絵画鑑定でものしあがってきた狩野探幽は、本当は等伯の作品を自分(探幽)作と偽ったりした。
何時の世でも旧勢力は、新規勢力を抑え込もうとする。でもその確執で芸術的新機軸も生まれるのだろうな。歴史のダイナミズムである。
郷里で色々絵も描いていたが影響は地方どまり、33歳頃に京都に出て、日蓮宗の本法寺と繋がる、やがて秀吉に認められ、有名な「楓図」を描く、狩野永徳の「檜図」の向こうをはったもの、本法寺の日通上人が堺出身ということから、同じく堺の千利休とも「近づき」となり、大徳寺の天井画を「請け負う」、等伯は子息・久蔵を失って「一門」のピンチ、これを狩野派との競合、狩野派乗っ取り、新規開拓の三路線のどれでいくか、結局「雪舟五代」ということを使って需要層の新規開拓、しかし等伯亡きあとは狩野派が歴史から等伯を抹消しようとする。
例えば、絵画鑑定でものしあがってきた狩野探幽は、本当は等伯の作品を自分(探幽)作と偽ったりした。
何時の世でも旧勢力は、新規勢力を抑え込もうとする。でもその確執で芸術的新機軸も生まれるのだろうな。歴史のダイナミズムである。