西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

けいはんなのまちづくりの会運営会議陪席

2005-11-18 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日「けいはんなのまちづくりの会運営会議」が、私の家の近くの積水ハウス総合住宅研究所の建物にある洋風薬膳レストラン「あわさい」であった。私は「会」の代表の杉原五郎さんの要請でオブザーバーで陪席した。「会」はほぼ3年になるので「石の上にも三年」で、来年あたりに「新機軸」を出したいので、その「助走」が始まったようだ。
男性3人、女性3人の参加で、こういう会議は男女共同参画社会の線上で結構であり気持ちよいものである。年齢構成もバラエティがあり、私が最も年長で、次が杉原さんであり、少し若い男性、それから女性二人、更に最も若い人が女性の大学院生だった。京大院生(地球環境学舎)の清水万由子さんで来週の11月25日(金)に「持続可能なまちづくり」という題で「けいはんなプラザ3F会議室」で18時半から話をしてもらうことになっている。関心のある方は是非どうぞ。(写真は、けいはんなプラザ、近鉄・新祝園からバス、又はタクシー)

柳沢 忠先生の最終講義の印象(病院における中庭)

2005-11-18 | 名古屋・豊田の思い出
柳沢 忠先生は、私が豊田高専にいた頃(1966年~1970年)、名古屋大学・建築学科の助教授だった。教授が都市計画の早川文夫先生、助教授が建築計画の柳沢 忠先生だった。お二人とも東大の建築学科のご出身である。「新興の旧帝大」の名古屋大学工学部に建築学科がつくられることになった時、教授陣の構成は、計画系が東大、構造系が京大の「老舗」が世話をしたためだ。構造系では例えば「御大」の横尾義貫先生(京大教授)が兼任で行かれた。一方、京大の計画系の「御大」だった西山先生が「憤慨」しておられたことも記憶している。それ以降のことは飛ばして、私が奈良女子大にいる時に柳沢 忠先生の名古屋大学教授の定年退官の会があり、出かけた。最終記念講演は勿論、病院計画のことで、手術の進歩に合わせて手術室を抜本的に改革された話だったが、最後に設計された最新の病院を示して、これからは「癒される中庭のあり方も重要」と言われたことは、長く頭に残っている。懇親会で、柳沢先生と懇談した時、「私の名前は忠、口の真ん中に心がある、だから言ったことは間違いない」と言われたことも覚えている。柳沢先生は、有名な柳沢吉保の末裔である。(写真は名古屋大学豊田講堂)

住宅計画Ⅱ講義要約5-地域施設

2005-11-18 | 地域居住学
地域施設という場合の内容について、地域における公共的施設として、教育施設(学校教育と社会教育)、医療施設、福祉施設、文化施設、スポーツ施設、(商業施設)、(集会所、公園)等を上げ、先ずそれぞれの機能をしっかり理解すべきことを話した。それらの機能は、歴史的に変化・発展していること、利用者や使用者の捉え方も変化していることも学校や病院を例に話した。病院では医者本位から看護婦本位そして患者本位と変化し、最近は地域住民や環境との「つながり」も問題になっていること等を話した。又、それらの敷地や費用についても、最初から明確に分かっていない場合も現実では多く、大学における設計演習とは違うことに注意を促しておいた。
今日は、冬休みまでの課題とやり方も話した。各地域(主に学生の居住地)において、上記の施設の何かを取り上げ、或いは空地では何が良いか考えて実地に調べて改善点や施設種を提案してもらうことにした。最後の2回にプレゼンをすることにした。

野田中と附属高の並存

2005-11-18 | 金沢の思い出
昭和29年(1954年)頃、運動場から見ると、左が金沢市立野田中、右が金大附属高でL字型に交叉していた。私が中学1年の頃だ。当時の担任は図工の越村先生(男性、後、笠間先生)で目がぎょろっとしていた。後に、高校(金大附属)、大学、大学院(以上、京大・建築学科)と一緒のところに進学し、卒業後の職場も大学だった菊川小学校から進学の中村 武君(現・京都工芸繊維大学名誉教授)も同じクラスだった。黒縁の丸い眼鏡をかけ唇が厚く秀才タイプ、年度の前半を越村先生の指名で中村君が、後半は私がクラス委員(クラス代表)を勤めた。校舎の裏に「防火用水の池」があって、その周りを自転車で回っていて落ちてずぶ濡れになった経験がある。それで、そういうことをすることが禁止となった。横に金大附属高校があったがまさかそこに後に通うとは思わなかった。というのは、親父の出身校が旧制の金沢一中(現在の県立金沢泉丘高校)だったので、当時は、そちらに行こうと思っていたのである。

金沢市立野田中学校の思い出(1)場所と通学域

2005-11-18 | 金沢の思い出
私は、昭和29年(1954年)4月に金沢市立野田中学校に入学、昭和32年(1957年)3月に卒業した。入学して1年間は、野田平和町の旧兵舎が教室だった。高校は金大附属高校で、何度か言及しているが、その高校も言わば同じ敷地内の兵舎で、横に見えていた。運動場は、共用だったのではないか。2年生から新築なった現校舎のある位置に移った。それは、私の卒業した金沢市立十一屋町小学校のすぐ近くで、後に我々が中3の頃に移ってきた石川県立金沢二水高校(森 喜郎、上野千鶴子さん等の母校)のすぐ近くでもあった。当時の野田中学の通学範囲は、十一屋町小学校の他、菊川小学校、新竪町小学校、富樫小学校であったと思う。後に城南中学校が新設されて、通学範囲が変わるが、それは知らない。生徒数は全校で2千人を越した今で言うマンモス中学で、我々が3年生の時は17クラスあった。1組から3組は「就職クラス」で、4組から17組までは「進学クラス」だった。私は、3年9組で新谷善治先生(数学)が担任だった。先生は、まだ小立野(こだつの)でお元気だ。(写真は、その後有名になった野田中の桜並木)

道草

2005-11-18 | 金沢の思い出
昨日は、奈良で小学生の女児が下校時に誘拐、殺されて1周年だった。それ以前からも、そういう所が多いが、登下校は集団で、しかも「道草禁止」である。
我々の世代の子供の頃(1950年代)は、道草が当たり前だった。十一屋町小学校から、歩いて真っ直ぐ帰れば、20分位で帰れるが、まあ1時間以上かかっていたのではないか。金沢市立工業高校が、まだ近くにあって(ブログで既に紹介)、高校野球や高校サッカーが校庭で行われている場合、立ち寄って見てから帰ることもあった。普通は、ぶらぶら友達と喋りながら、また時にはボールを溝(ドブスと言われていた)に流して、それを追いかけながら帰った。途中の店の前で「立ち見」をしたり、「がけの神社」の裏手に回って、電車道ではなく裏道から帰ることもあった。奈良女子大にいた頃、短大に教師として就職した卒業生が、学生にどういう課題を出したら良いか、聞いたことがある。私は「道草体験の調査はどうか?」と言ってみたことがあるが、その時は既に「道草なんて禁止されていました」と多くの学生に言われたという。のんびり道草をして、町の記憶を頭に刻まれるような「良い時代」は復活するであろうか。(写真は道草の一シーン)