西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

高の原のいわれ、平城相楽ニュータウンの町名

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
世に高天原(たかまがはら)というのはあるが、高の原とは何だろうと当初思っていた。とにかく高台の原っぱだからそうなのか、等と思っていた。ところが、ある時、近鉄・高の原駅から出てきて左手の足元に「碑」があって、そこに万葉集からの歌が刻んであるのに気付いた。それを読むと「秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上  万葉集巻一  長皇子」とある。万葉集 巻一の最後の歌のようだ。
長 皇子(ながのみこ)は天武天皇の皇子、その昔、この辺りは野鹿が出没、互いを求めて鳴いていたのだ。そして平城京から「遊び」に来ていた 長 皇子もその声を聞いていたのだ。由緒ある地なのだな、と思う。
そう言えば、平城相楽ニュータウンの奈良側の町名に、朱雀とか左京、右京という奈良が昔、都だったことに因む名もあるが、それは厳密にはここではないのだからおかしいのではないか、という議論もあった。「つなね」コーポラティブ住宅は、朱雀二丁目である。私の「第一住宅」のある精華町側の町名は、桜が丘である。木津町側の町名は兜台、相楽(さがなか)台である。(写真は、万葉集歌碑)

近鉄・高の原駅33周年

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
私の住まいから一番近い急行の止まる駅が近鉄・高の原駅である。最近は平日には午後19時を過ぎると特急も止まる。平城相楽ニュータウンの中心にある。この駅は33年前の11月22日(明後日)にスタートしたようだ。当時は、私は未だ京大助手をしていて左京区松ヶ崎に住んでいた。多分、何かの機会に「平城ニュータウン」(その頃は、まだ平城・相楽ニュータウンと言わず、平城ニュータウンと言っていた)に京都から見学に来たことがある。まだ平城第一、第二団地が出来たころで、戸建て住宅地は未だ「すかすか」だった。
今日、駅構内を通ると、33年間の歴史略年表と思い出の写真が貼ってあった。構内を出てくると、「高の原駅誕生33周年」の横断幕もあった。

談山神社を訪れる(5)藤原鎌足像を見る、奈良女アーカイブへ

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
「神廟拝所」に上がって、藤原鎌足像を拝した。横に息子の不比等像もあったが、大きさが雲泥の差だった。像に鎌足の人相を伺うと、いかにも「策士」という感じも出ている。彼が策をめぐらせて蘇我入鹿を誘い出して撃ったのだ。
そこで、思い出したのだが、私が奈良女子大にいるころに、談山神社にある絵巻等の資料を奈良女子大学の画像アーカイブに収録したということだ。たしか、大化の改新の前夜、入鹿を打つ場面も絵巻にあって、入鹿の首が血を引きながら飛んでいる絵もあった。ご覧になりたい方は、次の番地へどうぞ。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/
(この絵巻の終わりの方です)

談山神社を訪れる(4)「けまりの庭」から見上げる

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
「権殿」から石段をおりると「広場」になっていて、ここが「けまりの庭」である。中臣鎌足の家は、天皇家の水の世話をする家だったようだ。それで中大兄皇子とも近づきになり、一緒に蹴鞠(けまり)をしたことが、一層両者を親しくしたようだ。そこから両者の「談合」を経て、645年に蘇我入鹿、蘇我家を滅ぼし「大化の改新」となったと言うわけだ。そこで、談山神社でも「けまりの庭」をつくり、文化の日(11月3日)等に実際にここで、けまりをするようだ。ここから上を眺めると中々良い。十三重の塔も全容が見えるし、右手に「神廟拝所」がある。
(写真は「けまりの庭」からの見上げの図、真ん中が十三重の塔、左が権殿、右手が神廟拝所)

談山神社を訪れる(3)談山(かたらいやま)に登る

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
十三重の塔の横に、「権殿」があり、その左手から裏山に登る道があり、多くは木の段だった。こちらへは知る人ぞ知る、で余り多く登っていなかった。本当に「しんどい」せいもある。その段を上っていくと、御破裂山と談山(かたらいやま)に至るようだ。御破裂山頂上には藤原鎌足の墓所(古墳)があり、その名前のように国家に危機のあるときは、(地下の鎌足が心配して)山が鳴動したという言い伝えがある。その頂上からの見晴らしも良いようだが今日は時間の関係もあり、行かなかった。木段を一生懸命上がって、T字路に出て、右に行った。左に行くと御破裂山である。右手に談山の頂上566mがあった。この談山を「かたらいやま」と言っているのは、例の中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、蘇我入鹿を撃つための「談合」を秘かに行った場所と言い伝えられているからだ。その石碑があり、前に1円玉が「お賽銭」で並んでいた。まあ「相談成功を願って・・」というのは一般に良いが、「談合が上手くいきますように・・」だったら一寸問題だな、と思った。しかし、いずれにせよここは日本における「談合の原点」であり、談山神社の名も「この両者による談い山」に基づいている。(写真は、「御相談所」の石碑と賽銭)

談山神社を訪れる(2)十三重の塔と紅葉

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
談山神社には色々の見ものはあるが、秋は奈良では紅葉の名所の一つであり、日本唯一の木造十三重の塔があるのもそうだろう。今日は日曜日、観光客で一杯だった。駐車場の自動車やバスのナンバー等を見ていると、奈良は勿論、大阪、名古屋の辺りからも来ている。まず背の高い十三重の塔が目に入った、これは説明によると構造は栗の木のようであり、十三重の屋根は檜皮葺き、正面一面だけ、多分、後にしたのだろうが銅板で檜皮を押さえていた。何故、「十三」なのか、良く分からないが、仏教等では悪くはない数のようだ。家内が「京都に櫛屋さんがあるが、櫛(苦死)というと縁起が悪いので、(九と四を)足して十三屋(じゅうさんや)と言っている」と教えてくれた。塔の上に相輪(そうりん)も乗っている。何故、神社に寺のような仏塔があるのか。どうも、神仏習合によるようだ。(写真は談山神社・十三重の塔と紅葉)

談山神社を訪れる(1)休日の渋滞

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日、精華町の精華祭もあるのだが、やや起きるのが遅く、午後に天気も良かったので紅葉を見に、又前に7月26日のブログ(談合と談山神社)に書いたことも確かめたく、更に家内は賀状の題材探しに奈良県桜井市にある談山神社(だんざんじんじゃ)に出かけた。談山神社とは、辞書によると「奈良県桜井市多武峰にある神社。祭神は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)。鎌足の子、定慧(じようえ)により創建された妙楽寺聖霊院が起源。天文元年(一五三二)に再建された木造十三重塔がある。」とある。近鉄で南下、大和八木で乗り換えて桜井まで、南口からバスに乗って山に登るのだが、バス会社の人に聞くと、いつもは25分で行くが、今日は渋滞で1時間以上かかる、と言う。タクシーだって同じ道なので早くならない。意を決してバスに乗った。案の定の渋滞で、1時間半かかった。談山神社周辺の駐車場が満車で、出てくる分しか入れず、入れない車が道路に列をなしているので渋滞は止むを得なかった。(写真は、登り口の渋滞)

「つなね」での海外旅行スライド会

2005-11-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
コーポラティブ住宅「つなね」で昨夜、今年海外に出かけた人達のスライド会があった。大体、出かけた日付順で、勝手に題をつけると(1)台湾、中国の食べ物、市場、石窟等の旅、(2)スウェーデンの大学都市訪問、(3)スウェーデンの高齢者対応住宅と町、(4)バングラディッシュ訪問、(5)新疆ウイグル地域の住まいと食べ物等、(6)ボローニャ(フィレンツエ、ヴェネチア含む)の町の様子、(7)パリを楽しむ、(8)ウィーン散歩、(9)ノルウエーとロンドン再訪、といったところで、私は最後をつとめた。18時半から一品と飲み物(ビールや酒)持参でワイワイ進んだ。家内が「おでん」を作ったので鍋ごと持って行った。私は当日の結婚式披露宴で結構食べているので、ビールや酒中心となった。「パワーポイント」説明は一人15分ということだったが、何かと延びて終わりは21時を大きく過ぎていた。建物中心のもの、記念撮影風に人物中心のもの、アラカルト風、講義風と色々だった。どうも大学の先生方は何人かいたが、自分も含めて放っておいても「講義風」になってしまう。次回は、自分は、もっとざっくばらんにやろうか、と思った。

私達の結婚式1968年3月27日

2005-11-20 | 名古屋・豊田の思い出
前田真子さんの結婚式に出て、私達の結婚式を思い出した。私達の結婚式は、1968年(昭和43年)3月27日に名古屋の東海銀行主税町(ちからまち)クラブで「人前結婚」で行われた。司婚者に服部千之先生(当時、名古屋工大助教授)夫妻をお願いした。当時、私は豊田高専に勤め、日ごろ京大大学院西山研先輩の服部先生の研究室に出入りし、そこで彼女と「再会」していたからである。西山先生はお忙しく日程の関係で出席してもらえなかったが、京都からは先輩の巽 和夫、上田 篤、三村浩史(以上、当時、京大助教授)先生、広原盛明、高口恭行、同輩の延藤安弘(以上、当時、京大助手)さんに来てもらった。名古屋でも先輩の玉置伸吾さん(当時、日本住宅公団)達にも出てもらった。住宅問題に関心のある人が多かったので、結婚式披露宴後のアトラクションで名古屋周辺住宅地めぐりのマイクロバスツアーを本多老人の協力で仕立ててもらったりした。思い出すと色々あるが、今回はこの辺にしておく。