西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

バス通り裏 歌詞

2014-06-10 | 金沢の思い出
バス通り裏

中原美紗緒・ダーク・ダックス
作詞:筒井敬介
作曲:服部正

小さな庭をまんなかに
おとなりの窓 うちの窓
いっしょに開く窓ならば
ヤー こんにちはと手を振って
こんなせまいバス通り裏にも
ぼくらの心が かよいあう

小さな花をまんなかに
おとなりの窓 うちの窓
むこうがとじた窓ならば
なぜだろうかと ふりかえる
こんなせまいバス通り裏にも
目にしむけむりが 流れくる

『これで古典がよくわかる』(橋本 治著、ちくま文庫)を読む

2014-03-06 | 金沢の思い出
金沢の高校時代(金大付高)、国語の古文で源氏物語、枕草子(以上、平安時代)、徒然草(鎌倉時代?)などをならったが、それらの古典を体系的に位置付けて習ったわけではない。で、最近になって日本の古典(文学)を歴史的、体系的に捉えてみたい、との要求がふつふつとして起こってきた。

そういう場合、最も参考になると思われる文献に当たる、というのも一つの方法だと思う。そこで、『これで古典がよくわかる』(橋本 治著、ちくま文庫)を読んでみることにした。まあ完全に読破し消化したとの自覚があるわけでもないが、歴史的、体系的な理解の見通しを持った。

歴史的にいうと、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』は、日本にまだ日本語をみづから表記する文字がなかったので、中国から入ってきた漢字を借用した。そのうち漢文を日本語的に読み下し文にするために読む順(返り点など)や漢字に付随するカタカナがつくられ、平安時代にいたって「万葉仮名」としてひらがなもつくられた。

しかし、『源氏物語』や『枕草子』は、女性が使うひらがなのみによって書かれている。男性は、漢文、漢字カタカナ混じり文のみだったが、女性と思いを交流するためには、女性が使うひらがなを使わざるをえず、和歌を作って女性に送ったのだ。ために徐々に男性もひらがなに慣れ漢字ひらがな混じり文も書くようになってきたのだ。まず「漢字カタカナ混じり文」として長明の『方丈記』そして「漢字ひらがな交じり文」として『徒然草』があらわれたのだ。


で、現在、我々は「漢字ひらがな、カタカナ、アルファベット混じり文」に到達しているのだ。

『懐風藻』『竹取物語』、『今昔物語』等の位置づけもしておくべき、と思う。


注:橋本さんは、7歳ほど年下、東大文学部卒、1968年(昭和43年)、学園闘争全盛期の東大駒場祭で、「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」というポスターを制作、マスコミに注目された。僕は、豊田高専に勤めていた。

擂り鉢、擂り粉木・・・

2013-12-13 | 金沢の思い出
朝ドラ「ごちそうさん」は、今1923年(大正12年)の大阪を舞台に展開している。食い物が蔭の主人公なので、食材を売っている市場ー天満天神市場ーも出て来るし、その時代の道具も色々出て来る。

今日、和枝とめ以子が鰯料理をつくるため使っていた擂り鉢(すりばち)と擂り粉木(すりこぎ)は、私の子ども時代(1945年~1960年頃、昭和20年代から30年代)でも(金沢の)台所で使われていた。

懐かしい感じだった。

思いだし住居論

2013-09-27 | 金沢の思い出
思い出と思い出しの違いを言うと、「思い出」は「自然な形で」印象的なことを思い出すことであろう。それに対して「思い出し」は、意識的に努力して全体が繋がったものとして思い出すこととなろう。18歳までのこと。

思い出す住経験(五感に関するもの)

見える ・・・天井のしみ、庭(雪、台風時の雨)、庭の眺め(裏の家の栗の木、隣の家の柘榴、朝日、石灯篭や木々や苔等)停電時の蝋燭と影、真っ暗なトイレ、鏡に映る祖母の姿、床の間の掛け軸、東郷平八郎の肖像、玄関の屏風、ガラス障子のガラス絵・・・

聞こえる・・・柱時計の音、雨戸の開け閉め、はたき・箒、風鈴、鼠が天井裏を走る、台風やシベリア季節風が電線を鳴らす、市電の走り始め(早朝)、北陸本線の汽車(走行音や汽笛)、深夜の夫婦喧嘩(畳に耳を当てて)、物売りの声(金魚、納豆、野菜など)、ポン菓子の音、托鉢僧の読経、乞食の物乞い、紙芝居の拍子木、火の用心の声・拍子木、ラジオ体操の呼び鈴、春の鶯の声、セミ時雨、秋の虫の音・・・

におう・・・畳、漬物・秋刀魚、トイレ、DDT・・・

触れる・・・畳(足の裏、寝転ぶ)、縁側の板、柱(背比べ、寄りかかる)、壁・・・


動く ●登る・隠れる・走る・・・屋根(遠くの火事を見る、雀の巣を見る)、木登り、塀のぼり(鬼ごっこ)、押し入れや洋服ダンス、二つの階段を使い鬼ごっこ・・・

思い出す住経験(取り組んだ行為)

ほぼ毎日・・・神棚に水を上げ仏壇にご飯を供える、自分の布団の上げ下げをする、お櫃(ひつ)を台所から茶の間に運ぶ、道路・庭の掃除と水撒き(夏)、雪すかし(冬)・・・

時々・・・漬物をつける時々は樽からあげる(冬)、炭を床下から炭櫃(すびつ)に移す、雨戸を閉める、へっついの火番(小便たれになる、と言われつつ)、旗日(祝日)の旗上げ、庭の草むしり、溝さらえ、ネズミ取り、蠅取り紙の取り換え、蠅たたき(夏)、蚊帳吊り(夏)、板間の雑巾がけ、薪割り・薪運び、布団干し、時計のねじ回し、自転車の掃除・・・

たまに・・・煙突掃除、塀(板塀)のコルタール塗り、大掃除(梅雨明けと正月前:畳運び、叩き、床下へのDDTの散布、床への新聞敷き、障子はりなど)、ヒューズの取り換え、留守番、たらいに行水水を張る(夏)、落ち葉炊き(秋)、餅つき手伝い、雪下ろし手伝い(冬)・・・

単語、言葉と「芋づる記憶」

2013-09-26 | 金沢の思い出
最近、自分史を書いてみていて、何か「思い出の物」を思い出すと、そこから色々と連想で芋づる式に思い出してくるもんだ、と分かった。当たり前のことかもしれない。

それらをノートなどに書きつけておいて、後で「何時のことか」「何処でのことか」「一緒にいたのは誰か」とかも→などでサブで書きつけておく。

時々、それらをながめて、どういう物語があったかを考えてみて、整理していく・・・。もうノート4冊(ビッシリ書いているわけでもない)、このブログで「金沢の思い出」カテゴリー記事は200以上ある。

先ごろ、金沢で昭和29年(1954年)発行の「金沢地図」を買ったので、生活空間の広がりを考えて、いくつかの「部分地図」(町内、連合町内会域、小学校区、中学校域、金沢中心部ー良く行ったーなど)を作って、それぞれに

対応空間生活状況を整理していきたいと思っている
。どうなりますやら・・・。

小学校の登下校風景

2013-09-16 | 金沢の思い出
一応、昔書いた「下書き」を読みながら推敲し、パソコン入力で自分史の原稿を作っている。一応、幼稚園が終わって小学校通学という話を書き出して、ハタと思い出したのは、小学生の途中で、道路での歩行のルールが変わったのではないか、ということだ。

それで一寸調べてみると、昭和22年から23年までの2年間だけ歩行者・左側通行で、昭和24年に何故かGHQの指示で右側通行になり、現在に至っているのだ。(例外、鉄道駅構内は「左側通行」も認める。)

ウーンそうだったんだ、と思い出した。大通りの右側を行くか左側を行くかは校門がどちら側にあるかによって違ってくる。帰りの道草も、どちら側が何処に行きやすいかということとも関係してくる。

いやー色々と勉強になる。でも、どうして右側にしたのか、未だはっきり分からない・・・。

ようやく幼稚園時代まで書く

2013-09-15 | 金沢の思い出
自分史、一応、高校時代までの18年間(1941年~1960年)を書き出し、ようやく幼稚園時代まできた。私の生きたその時代は、歴史的・社会的には、「アジア・太平洋戦争」に突入し、1945年に完膚なきまでにアメリカに敗北し、戦後のアメリカ型民主主義に転換、朝鮮戦争が起こり「再軍備・逆行」になってきた。しかし、9条を持つ「平和憲法」の下、今日まできている。1955年ころから始まる「高度経済成長」コースに入り、1960年からは、その後10年間の「所得倍増計画」が始まった。

その頃までの金沢の様子を書いていくのであるが、今日はようやく金沢学園幼稚園時代、満5歳から6歳の時代である。

次はいよいよこの時代の「中心」、金沢市立十一屋町小学校時代(1948年~1954年)である。


18歳までの自分史に登場する人物の名前について

2013-09-12 | 金沢の思い出
今、18歳まで、金沢市で過ごした自分史を書きつつある。

まあ今から53年前(1960年、昭和35年)までの僕周りの出来事と家や町の様子を思い出しつつ、資料や写真であるものは使おうとしている。

で、家族、親族(親戚)先祖、学校の先生、友達、先輩・後輩、近所の人々など出てくるが、これらの人々をどう書いていくか、悩みつつ、「出来るだけ実名でいこう」と決めた。53年前までに出会ったり調べたりした人々で、僕の世代前後の人々は存命だが、多くの人は故人である。

プライバシーの問題もあるけれど、まあ名誉を傷つけないかぎり、実名の方が、もし出版するなら「懐かしがられる」し、新たな情報(訂正意見その他)が得られるかもしれない。それらをフィードバックして充実させれば、後々の個人史の歴史資料になるかもしれない。

どうでしょうか。

体験学校空間の位置づけ

2013-09-10 | 金沢の思い出
僕が生まれて行った「学校」は金沢時代の18年間に幼稚園1年、小学校6年、中学校3年、高校3年だが、校舎は、言ってみれば皆、木造、古いものであれ新しものであれそうだった。中学校の金沢市立野田中学校は、1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)の3年間通ったが1年のみ野田平和町の旧校舎(騎兵第九連隊兵舎)、2年生3年生は現在敷地に当時新築した木造モルタル塗りだった。現在のは、その次の鉄筋コンクリート造と思う。十一屋町小学校は元々小学校の古い木造だった。現在は建て替わっている。

高校のみ3年間古い騎兵第九連隊兵舎ー野田中の1年次と同じーだった。現在のは、これも建て替わっている。

で、まあ小中学は義務教育で私学などに行かなければ、公立ならば、どんな校舎だって文句が言えない。ところが高校は「義務」ではないので行こうと思えば、色々比較検討して受験校を選ぶ、となるであろうが、実際には、どんな校舎で、どんな教育空間で学習するのか、殆ど問題視していなかったと、振り返って思うのである。むしろ校舎より先輩、同輩、先生の人間的要素が選択の上位に来ていたと思う。最近、自分史を書きつつ思う。どうでしょうか。

自分史 書き出し

2013-09-04 | 金沢の思い出
最近、高卒までの自分史を書きだした。時々、部分を紹介したい。今日は書き出しだ。

「生まれて初めての強い印象-B29襲来と「押し込み」-

 「ブルンブルンブルンブルン」と空に鳴りわたる轟音。「来た!B29や、じっとしとって!」と母方の祖父・由森(よしもり)の声。4歳の孫の私は、同じく母方の祖母・すすむと共に一階の座敷=八畳間の「押し込み」(押し入れの意)に入り、仏壇の横で布団にくるまり、防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶって、息を殺していた。
祖母は「ご先祖様、仏様が守ってくださる」「ナンマイダ、ナンマイダ」と、お経を唱えていた。祖父は気の強いほうで、表に様子を見に行っていた。もしも遠くで爆弾が落ちだしたら庭の防空壕に移動しなければならないからだった。
金沢といっても私たちが住んでいた寺町台(櫻畠)は、町の中心ではなく犀川を渡った南部の縁辺部だから、もし爆撃でやられるとしたら町の中心、お城(金沢城)内の陸軍第九師団司令部か、繁華街の香林坊、片町あたりから、と祖父が思ったのかもしれない。「もう大丈夫やさかい出てきて見まっし」と言われ、恐る恐る門口に出て夜空を見あげた。薄明かりの空を無数の大鳥・B29が東の彼方に飛び去って行くのが見えた。
 B29といっても最近の若い人には分からないかもしれない。もちろん、私も小さな時には、ただそういっていただけで正確な意味を知ったのはずっと後のことである。
B29は、ボーイング社の29番目とネーミングされたアメリカ軍の長距離高空爆撃機であって、当時の世界の最新鋭機であり、日本全体を高空からの焼夷弾による絨毯(じゅうたん)爆撃で恐怖のどん底にたたき込んだ張本人だった。
 幸い、私の生まれ育った町で、これからの話の舞台になる金沢には、戦時中、陸軍の師団司令部がおかれていたのに本格的爆撃はなかった、と言われている。京都や奈良などと同じく歴史都市と思われていたからかもしれない。後々分かったのであるが、上に描写したB29の集団は、港もあり工場も多い富山方面を爆撃するための編隊だった。(1945年(昭和20年)8月2日未明)終戦直前である。
 当時、私はようやく4歳すぎ、記憶が残るかどうかの年頃であったが、当夜のことは恐怖感も手伝ってその断片が脳裏に焼きついたのだと思う。これも後で知るのであるが、この時、軍人だった父・瓜生(うりう)留雄と母・愛子そして妹のみゆきは、満洲(中国東北部)にいたのである。妹・みゆきは満洲(新京特別市興安大路陸軍官舎百七号東、現・長春)で1943年(昭和18年)11月3日に生まれたのであった。


『わが青春の金沢ー1941年~1960年ー』書き出す

2013-08-22 | 金沢の思い出
昨日あたりから『わが青春の金沢ー1941年~1960年―』を書きだした。下書きは10年以上前から、書きためている。それらを読み返しながら書き出したのだ。

まあ太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)に生まれて70年以上ここ日本列島に生きてきた。途中10か月ほどロンドンにいた。あとは、旅行で短時日海外にいたこともあるが、それ以外は日本である。

最初のスタートは、修学旅行で一寸離れたことはあるが、まるまる18年間、生まれて高校を卒業するまで18年間、金沢市櫻畠三番丁に住んでいた。

だから金沢市(櫻畠)が故郷(ふるさと)と言って間違いではないだろう。まあ気分として「温故知新」で書き出している。

「おふくろ」と「おやじ」との因縁

2013-08-19 | 金沢の思い出
私の最初の金沢の18年間(高卒まで 1941年~1960年)の自分史を書きだした。今日の私自身の存在を言うためには、当然、私を生み出した「お袋」と「親父」に言及する必要が出てくる。

で、過去に書いたメモを見て少しづつ書き出してみた。それで思うのは、「今日の日の私」があるのは、やはり「おふくろ」と「おやじ」のお蔭である、ということだ。

おふくろは、おやじと結婚して23歳の時に私を生んだ。1941年、太平洋戦争が起こった年である。おふくろは愛子と言い、正に祖父母の愛に包まれて育った一人娘だった。師範付属小学校を卒業ののちに石川県立第二高等女学校(現在の「21世紀金沢美術館」のある所にあった)を卒業する時におふくろは「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)への進学を希望した。「第二高等女学校」の同窓会「真清水会」の方に聞くと「西村さんなら推薦されて行けただろう」と言う。

ところが両親(私の祖父母=西村由森・すすむ)は、一人娘で「跡取り」、婿さんを迎えなければ、と思っているので、奈良への進学には「絶対反対」だった。

それなら、と母・愛子は両親に条件を出した。「では、帝大(帝国大学)卒業生と結婚できるよう取り計らって下さい」と。まあ、当時の女性としては「東京女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大)か「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)に行くのが最高の教育を受ける道、また結婚するなら「帝大卒業生」とする、というのが最高のライフコースだった。それが見合い結婚が世の流れの時に両親に出した条件だった。

それであれこれの後に旧制「一中」(現・泉丘高校)、旧制四高(現・金沢大学)を経て京都帝国大学法学部を卒業した瓜生留雄(うりゅうとめお)と1938年(昭和13年)に結婚することになったのだ。


私が生まれ、京都大学に進学し、奈良女子大学に長く勤めたのは、正に私と両親の因縁でもある、と思うのである。

僕の戦争体験、戦中と戦後すぐの時代

2013-08-17 | 金沢の思い出
僕の戦中の戦争体験(~4歳)

(1)富山方面に編隊で飛ぶB29  (2)防空頭巾  (3)防空壕  (4)灯火管制  (5)疎開  (6)防火訓練ーバケツリレー  (7)戦争ごっこ


僕の戦後すぐの戦争体験(5歳~9歳位)

(1)本土復員(父母と妹)  (2)買い出し  (3)芋栽培  (4)米などの配給  (5)進駐軍の邸宅接収  (6)アメリカ文化センター  (7)天皇「行脚」、 (8)傷痍軍人・・・


「自分史」では、出来るだけ「詳しく」書いていきたい。

戦争体験をボチボチと

2013-08-16 | 金沢の思い出
終戦時、僕は満4歳を越えて1か月半位の時だった。 だから記憶が一部かろうじて残る年代に終戦になったのだ。

当時、小学校、中学校などの児童、生徒だった僕より一寸「上」の先輩たちは、もっと鮮明に、あれこれ「銃後の苦労」や、実際の米軍空襲などの「怖い思い出」が記憶に残っているに違いない。

それ以上の先輩の中には、実際に「兵隊」となって戦争を体験した人もいるに違いない。

しかし、歳が離れる先輩ほど、亡くなったり、体験をはっきり思い出して言えない状況になる。

そこで、戦争体験の核心ではないが、確かに「体験と言えば体験だ」というものを持つ我々の世代の体験も徐々に重要となってくる。

そういう訳で、僕も「自分史」の一面としての「戦争体験」を思い出して述べていきたい。(1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年))


それらは戦後の徐々によりはっきりしてくる記憶体験へと繋がっていくだろう。(今日は取りあえずここまで・・・)

3月16日のNHKラジオよりー金沢の野田中時代

2013-03-21 | 金沢の思い出
お久し振りです。これから時々こちらに書きます。

3月16日の朝のラジオ(NHK)6時15分過ぎで、僕が前に投稿した原稿が取り上げられた。以下原稿より。

「ラジオの前のそこが特等席(3月2日)で「伝説のアナウンサー 高橋 博」を聞きました。

そこで紹介された『アナウンサー』という高橋アナウンサー著の本(昭和31年10月18日発行、洋々社刊)を大事に書棚最上段に保管しているのを思い出して、ほこりを払って手にしてみました。

古谷さん(注:担当アナウンサー古谷敏郎さん)が言われていた和田信賢さんと高橋 博さんが神宮球場の食堂で写っている写真も確認しました。

この本が出た当時、僕は金沢市立野田中2年、スポーツアナウンサー志望で、ヘルシンキオリンピックの放送の後、パリで客死された和田信賢さんや、志村正順さん達に憧れていました。

NHK金沢放送局(JOJK)主催の「中学生豆アナウンサー」に応募して入選し、兼六園球場で中学校野球の決勝戦(県大会)を実況したことも懐かしく思い出します。(京都府精華町在住 西村一朗(71歳)」