西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

春日山原始林周りを16kmほど歩く-1機会と案内役

2005-11-13 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日、奈良の春日山原始林の周りを16kmほど歩いて、「くたくた」となった。しかし、大変な勉強となった。日本科学者会議(JSA)奈良支部の企画で、幸い天気も良く20人ほどの参加で盛況だった。企画を立てられたのは、奈良女子大学理学部の生物(植物)学の佐藤先生、案内役は佐保短大の前迫先生だった。前迫先生は、植物生態学の菅沼先生(元奈良女子大学教授、昔、昭和天皇に春日山原始林を現地説明)のお弟子さんで、春日山原始林を正に研究フィールドにしておられ、最適の人選と言えた。参加者は、私のように元奈良女子大に務めていた人間が三人、先端科学技術大学院大学の先生、民間の研究所所員、元民間技術者だが定年退職した人達、弁護士の方等だった。配偶者も、企画が良かったか何人か参加した。私の家内もその一人である。中学生も二人参加、勉強になったことだろう。奈良県新公会堂の横を抜けて老舗の料理旅館の「月日亭」(つきひてい)の前に10時集合、日程の関係で原始林そのものに入る許可が間に合わず、原始林を右手に見ながらの外周観察だった。先ず、そこから専用歩道になっている春日原始林の外周を丁寧な説明を聞きながら、2時間ほどかけて若草山の頂上まで歩いた。(写真地図は、真ん中に原生林(原始林)、外周に道路等を示す。)

神棚

2005-11-13 | 金沢の思い出
四畳半の茶の間の水屋の上に神棚が乗っていた。毎朝、水をかえ灯明をつけるのは祖父・由森の役だった。祖父が私が中学生の時に亡くなってからは高校を卒業するまでは私の役となった。別に八畳間には、仏壇があった。毎日、この世話をするのは、祖母や妹であった。神棚と仏壇の二つがあっても、何も違和感を感ぜずに過ごした。後に大学に入って色々と勉強して、一寸変なことを理解するようになった。
子どものころ、氏神は、大櫻にある「諏訪神社」である。正月に、家族で初詣に行った。祖父は「信心深い」方で、正月には「諏訪神社」に皆で行く前に、早起きして鶴来の「白山媛神社」に初詣に出かけていた。毎朝、神棚にまいる時は、先ず家の神棚を正面にしてかしわ手を打った後、「白山媛神社」の方向に向いても「かしわ手」を打っていた。後に「神道」を信ずるわけではないが、家を新築した時、神棚用の「棚」をつくった。「へ~西村さんでも・・」とある人に言われたので「一つの習俗です」と答えた。(写真はインターネット検索引用・イメージ)

金庫

2005-11-13 | 金沢の思い出
4畳半の表(道路側、前庭側)に面しては1間(いっけん)の窓があり、そこへは畳の間から半間(はんげん)の板の間が出ていた。その板の間に幅が半間ほどの大きな金庫が置かれ、その上に前に説明した「五球スーパー」のラジオが鎮座していたのだ。正月になると、ラジオは、床に下ろされて金庫の上には鏡餅が飾られていた。こんな大きな金庫は、出入りしていた近所の家にはなかった。西村の祖父・由森(よしもり)が銀行員で、定年後も金融業をしていた所為であろう。とにかく祖父や祖母・すすむはこの金庫を大事にし誇りにしていた。開けるための番号を承知していたのもこの二人で、私は後々、祖父がなくなった後、大分たった大学生になって母も亡くなり「いざという時」のため祖母から知らされた。(今はもうないので、写真は雰囲気の似ているものインターネット引用、そっくりなものは見つからない。高さは1メートル以上だったと思う。)

水屋と茶箪笥

2005-11-13 | 金沢の思い出
桜畠の家では、4畳半の茶の間が中心と言ったが、もう少し置いてあった「設え」(役者)を描写・説明しておく。茶の間に皆集まって食事をしたりお茶を飲んだりしていたので、食器や茶器を入れておく水屋と茶箪笥と呼んでいた小さな「水屋」の二つがあった。水屋は上下二段になっており、下には醤油、酒、酢などの瓶が入っていたのではないか。上は右手に茶碗やおわんと言ったものが入っていて左には家計簿等の「家事書類」がかなり雑然と入っていたのではないか。引き出しが幾つかついていたが、そこに財布や小銭などが入れられていたと思う。
もう一方の壁際に水屋より背の低い「茶箪笥」が置かれていて、三段位になっていた。コーナーに切り込みの棚があって急須などが置いてあった記憶がある。上の段には何故かハンカチ、中の段には茶碗等、下の段には薬類が入っていたのではないか。そういえば、富山の薬売りが時々来訪していて、その薬の入った袋は、柱に吊るされていた。壁際の情景である。(写真は茶箪笥のイメージ)