西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ローマ法王のアウシュビッツ訪問

2006-05-31 | 時論、雑感
5月27日にはローマ法王ベネディクト十六世のアウシュヴィッツ訪問があった。ノルウエーに住む安達正興さんのホームページで知った。ドイツ生まれのベネディクト十六世は若い頃にナチスの青年組織に属していたようだ。だからか、なおさらポーランドのアウシュビッツを訪れ語りかける必要があったのだ。
ポーランド人の歓心を引こうとドイツ語ではなくポーランド語で演説したようだ。カトリックも中々大変だな、と思う。

和歌山県のアメリカ村

2006-05-31 | 奈良の思い出(助教授時代)
今夕『日経』大阪本社版の「夕悠関西」欄(13面)に掲載の和歌山県のアメリカ村とは、和歌山県美浜町の三尾地区のことである。JR紀勢線の御坊で降りてバスで西へ、日ノ御碕に行く途中にある。私が奈良女子大学に助教授で赴任した後、『朝日新聞』大阪本社と提携して「家庭欄」で「住まいの風土記」連載をしたい、と準備を始め、関西、四国地方を中心に取材した。その中にこの「アメリカ村」があり、私が取材した。結局、色々な事情で『朝日』連載は出来なかったが、自家版で『住まいの風土記』をまとめた。そこに私の執筆で「アメリカ村」も載っている。三尾地区にある記念碑に明治21年(1888年)に最初にカナダのバンクーバーに単身渡った大工・工野儀兵衛のことが書いてある。訪れたカナダ帰りの家に、木で作った腰掛式の「洋風トイレ」があったことを強く覚えている。

米原万里さん56歳・卵巣がんで死去という

2006-05-31 | 時論、雑感
今日の『毎日』余禄を読んでいたら、米原万里さんが亡くなったようだ。ブログ・ニュースで見ると、25日に亡くなったのが29日に分ったようだ。56歳、卵巣がんだったと言う。そのニュースによると「日本共産党所属の衆院議員だった父・米原昶(いたる)氏(故人)の仕事の関係で、少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。東京外語大、東大大学院でロシア語を学び、同時通訳に。」とある。『毎日』余禄では、抜群のロシア語通訳者としての米原さんの言葉として「日本語の下手な人が学ぶ外国語は、日本語よりさらに下手にしか身につかない」というのを紹介している。まことにその通りであろう。『国家の品格』の藤原正彦さんも似たようなことを言っている。米原さんの「集英社新書」の『必笑小咄のテクニック』が面白いようだ。「ロシアのアネクドート(小咄)から」・・・ガガーリンが地球に帰還すると共産党の書記長から電話があった。「頼むから神様に会ったのは内緒にしてくれ」。すぐローマ法王からも電話が来た。「どうか神様がいなかったのはご内聞に」・・・こういうのをユーモアというのだろう。米原さんのユーモアが聞けなくなるのは誠に残念、ご冥福を祈る。

人は歩けば情報にあたる

2006-05-31 | 言語・字・言語遊戯
「犬も歩けば棒にあたる」とは、つまり「人は歩けば情報にあたる」ということであろう。今回2泊3日で秋田を「歩いた」が、このブログでも9つも記事があって、これを入れると10となり1日に平均3つのコンテンツが生まれたことになる。去年の9月にノールウエー、イギリスに10日間ほど行っていて50以上のコンテンツが生まれている。(昨年の9月から10月にかけてのブログを見よ)ただ歩いていても、歩いている自分が磁石のように「情報」がくっついてくるが、イベントに参加したり、人と喋ったりすると格段に「情報強度」が上がり記憶に留まるのが私の経験則である。だから、私は何でも聞いてやろう、と質問するのである。相手してくれた人に「有難う」と言いたい。
で、当面、秋田記事の最後・・「コンベンション応援団」の秋田美人に聞いた話。秋田に文人が良く来たという。美味しい料理を目指したのか「秋田美人」を目指したのか定かではない。どちらも目指したのであろう。一番良く来たのが若山牧水(宮崎の人、北国に憧れたか)、谷崎潤一郎も川端康成も良く来たようだ。川端康成が来ていた時は、一時的に「川反通り(かわばたどおり)」は「川端通り」になり、康成先生もご満悦だったと言う。(写真は、若山牧水)

秋田行き雑感

2006-05-31 | 訪問場所・調査地
5月26日から28日まで2泊3日で家政学会参加のため秋田市、秋田大学に行ったのだが、秋田にゆっくり泊まったのは初めてだ。良く東北の夏祭りをテレビで見るが、秋田は「竿燈祭り」で、市内の大通りに「竿燈大通り」というのがある位だ。「赤煉瓦通り」に「竿燈」の記念館もあるが入る時間がなかった。青森の「ねぶた」、秋田の「竿燈」、山形の「花笠」と続いて最後は仙台の「七夕」である。日を少し重ねつつ、ずらせているので次々見ていけるようだ。タクシーの運転手に「岩手はどうなのか」と聞いたら「「ちゃぐちゃぐ馬っこ」というのがあります」と言う。そう言えば、昔、花巻の宮沢賢治記念館(?)に行った時に、そういうことを聞いたことを思い出した。帰りは、大阪空港、関西空港への切符が取れなくて、初経験で東北新幹線(秋田線)に乗って東京まで行き、東海道新幹線に乗り継ぎ6時間半かけて帰った。秋田から東京まで「こまち」号である。次の大曲で進行方向が逆になる。盛岡で八戸から来る「つばさ」と一体となる。秋田~盛岡は緑の中を走って気持ちが良かったが、本線の方は高架、トンネルが多く余り良い気分ではなかった。(写真は「こまち」号)

調理は癒しに良いと思うが・・

2006-05-30 | 色々な仮説や疑問
今度、平安女学院大学では生活福祉学部生活福祉学科に健康福祉セラピーコースをつくる。基本生活行為の衣食園芸やレクレーションが「癒し」になると考えて、その視点から取り組んでいくことになっている。関連で、私は「調理は五感全てを使い、それらの活性化を促すので癒しになるのでは・・、食材を見て触って切ったりし、味見をしつつ調理し、見た目に綺麗に盛り付けし、楽しく会話して食事すれば、それ即ち癒しではないか」と話していたら横から女性陣がすかさず「先生のようにたまに料理するなら、そうかもしれないが365日朝昼晩とやっている主婦から見ると、そんなものではない」と切りかえされた。まあ基本的に365日の忙しさをもう少しゆったりしていけば、自ずと「癒し」気分になるだろう。関連して「音楽療法」と言っても、音楽を聞く気分になっていないなら、無理に聞いても何の効果もなく「逆効果」かもしれないのである。

男瓦、女瓦

2006-05-30 | 住まい・建築と庭
今日の建築史の講義で「桟瓦葺き(さんがわらぶき)」「本瓦葺き(ほんがわらぶき)」の話も織り込んで、沖縄では「本瓦葺き」で下の平瓦を「女瓦」、上の丸瓦を「男瓦」とも言っている、と話した。大分昔のことだが宮本憲一先生(前滋賀大学学長、大阪市大名誉教授、現・立命館大学)の科研費グループで沖縄に行った時に、ある博物館で聞いた。説明していた年配の婦人が「沖縄では台風がしょっちゅう来るので、屋根瓦は漆喰でしっかりとめねばならない。そして男(瓦)と女(瓦)がしっかり抱き合って家を守っているのですよ」と言った。誠に上手い説明で何時までも記憶に残っている。(写真は、女瓦、男瓦の沖縄の家)

日本建築史小テスト(中世の一)

2006-05-30 | 住まい・建築と庭
日本建築史では、当然メートル法だけでなく歴史的な尺貫法も理解しないといけないし、歴史建築の用語も理解しないといけない。今日やった範囲で。
鎌倉・室町時代について、次のような言葉に「振り仮名」を振って意味を簡単に記せ。
・僧重源 ・六枝斗栱技法 ・東司(または西浄) ・方丈 ・花頭窓 ・塔頭 
案外、私も直ぐにすらすら分かるわけではない。六枝斗栱技法は鎌倉時代に成立した和様の一種のモデュールであり、重要であるが、はっきり覚えていなかった。「六つの垂木の間に三段の斗栱を重ね、それらで梁を支え柱に荷重を伝達する様式」である。
禅寺の方丈について、『方丈記』の話も織り込んだが、後の感想で「へー」という学生もいた。『方丈記』や『徒然草』は、中世の住まいを理解するのにも、教養としても読んだほうが良いと言っておいた。

ジャワ島中部地震

2006-05-30 | 時論、雑感
私が家政学会で秋田に行っている間にジャワ島では直下型の地震が起こり、5千人以上の死者、8千人以上のけが人を出している。建物も多数壊れているのをテレビで見た。救援物資が末端まで行き渡らないようだ。日本からも応援が行っているが・・。なんだか日本でも大地震が近づいている感じだが・・。

秋田大学工学資源学部附属鉱業博物館、平田篤胤の墓

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
5月27日(土)に秋田大学工学資源学部附属鉱業博物館と近くの平田篤胤(あつたね)の墓に行った。「工学資源学部」とは、昔の「鉱山学部」である。ユニークな学部で私の高校同期にも一人進学した友達がいる。それが、時代の流れで「工学資源学部」と名前を変えたわけだ。附属鉱業博物館は、郵便局の「人気投票」では「秋田で訪れたい観光場所」の第一位とのことだ。それは、秋田大学の外れにあって円形の3階建てだ。研究棟を附属している。一寸資料が多すぎて1日で回るのは「無理」な点もあるが、とにかく「宝石の所だけでも・・」と思って見た。
そこを出て近くの高台にある国学者の平田篤胤の墓に行った。自然石の墓で、その向きは師の本居宣長の眠る松阪方面と言う。荷田春満、賀茂真淵と共に「国学四大人」の一人である。(写真は秋田大学鉱業博物館)

久保田城、千秋公園、平野政吉美術館

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
せっかく秋田に行ったので、家政学会の「合間」を縫って久保田城、千秋公園、平野政吉美術館へ行った。久保田城は佐竹氏の城で明治に炎上して今は城跡だけであるが、城門が一つ復元されている。樹齢250年の欅を使っている。その城門のすぐ前に「番小屋」があって、これは本物で修復されていた。的場輝佳先生と中に入って薄暗い畳の間に座り外の風を聞いた。5月なのに風が強く、城内樹木の青葉がごうごうと鳴っていた。「薫風の音なお激し久保田城  市路」
この城跡一帯は千秋公園となっており、沢山のつつじが満開をやや過ぎていたが誠に綺麗であり、背景に多くの人が記念撮影していた。又青いシートを敷いて桜見物のような宴会も見られた。土曜だったせいであろう。「満開のつつじ香りぬ久保田城  市路」
公園を降りてくると平野政吉美術館があって入って見た。平野政吉さんは秋田の大地主で藤田画伯とも親しかったため藤田嗣治の作品も多く所蔵し、京都・大阪に今貸し出しているのもある、と言う。ここで圧巻だったのは秋田の庶民生活の様子(冬の景色)を横に広い画に描いている作品で、今回初出展と言う。一緒に行った磯田則夫先生が、その絵のミニチュアを買っていたが、私は買い忘れたが目に焼き付けておいた。歴史、自然、芸術を堪能した半日だった。(写真は千秋公園のつつじ)

瓦ー色の変化、反り、飾り瓦・・

2006-05-29 | 住まい・建築と庭
秋田空港からリムジンに乗って市内に入る間に車窓から風景を眺めた。田んぼに水がはってあり、田植えも始まっている。建っている住宅の屋根を見ると殆どトタン葺きで瓦屋根はわずかである。私は、昔、日本海側を鉄道で北から南下して山形県の真ん中辺りまで屋根瓦が殆ど現れなかったことを思い出した。やはり北国で「貧乏」なせいかな、などと失礼なことも考えて見た。「塗炭の苦しみ」である。
それはおいておいて、27日に早起きしたら、旅館のテレビで「瓦」のことをやっていて面白かった。現在最も古い瓦は、奈良の元興寺極楽坊の屋根瓦で、飛鳥寺からもってきたもののようだ。色が「赤っぽく」なっているのが古いものだそうだ。もう一度しっかり確認したい。屋根の反りは鎌倉時代からのものらしい。平瓦の上に漆喰をおいてその上に丸瓦を載せるのが「本瓦葺き」だが、屋根の反りはその漆喰でコントロールするようだ。さらに飾り瓦に注目、と言っていた。近世の鬼瓦等である。「しゃちほこ」は水を吹くので防火の守りと言う。そういえば「水」と書いた飾り瓦もあったな、と思い出した。庶民の家に瓦が普及したのは江戸中期以降の防火のためらしい。

秋田市川反(かわばた)通り、赤煉瓦通りの味わい

2006-05-29 | 訪問場所・調査地
秋田市に5月26日から28日までいて、26日、27日と夜は「川反(かわばた)通り」で食事をし飲んだ。この通りは、秋田の「飲食街」であるが、秋田駅から西のほうに歩いて旭川を渡った所に南北にある通りで、正に旭川の川端通りなのだが、何故か字は「川反」と書く。これについても「あきたコンベンション応援団」の美人連に聞いた。この応援団が家政学会の受付応援をしていたので「暇な」時間帯に雑談してもらったのだ。その話によると、旭川のこちら側というか、昔の城のほうから見て川の反対側なので、「川反」と書いて「かわばた」と読ませたようだ。そうなのか、と思った。そう言えば、江戸でも金沢でも川の向こう側に廓街(red light zone)があった。「川反通り」も昔はそうだったのだろう。今は、秋田一の飲食街、私たちも少し季節を無視して「きりたんぽ」「しょっつるなべ」「はたはた」「稲庭うどん」など秋田料理を味わった。
その通りの、もう一つ西に「赤煉瓦街」があり、この通りは銀行や証券会社の立ち並ぶ通りである。一つ、元銀行の赤煉瓦の建物が記念館になっていて中も見学できるが、明治大正の昔はこういう赤煉瓦の建物がさらに幾つか並んで建っていたようだ。最後の日は雨になって駆け足見学でだったので、次回はゆっくり見学したいと思った。(写真は夜の川反通り)


石川 好氏の「私の考える家政学」

2006-05-29 | 時論、雑感
日本家政学会の大会の特別講演で、石川 好氏の「私の考える家政学」を聞いた。石川さんは作家、秋田公立美術工芸短期大学学長である。普通、県立大学とか市立大学とかは聞くが、公立短大とは聞かないのでそれは何かと、後で実行委員長の石黒先生にお聞きすると、秋田市と周辺の市町村の共同立とのことだ。それはともかく、石川さんの話は刺激的だった。まず「家政学とは、男女の性の問題ではないか、アメリカの大統領選では中絶是か非かと論争している。最近は婚外子も普通に権利が認められてきている。日本で少子化を問題にしているが、男女の問題をタブー視している。」「家政学は専門の細かい重箱の隅に行かずに総合にも行くべきだ」「作家の直感で言うと、経済財政諮問会議で経済学者主導で何でも決まる風潮(小泉流)だが、むしろ家政学者が日本人の生活全般にわたって意見を言うほうが良いのでは・・」と言って、「ところで、家政学者と皆さん名乗っているのですか
」と壇上からの問いかけがあったが、誰も大きな声で「イエス」とは言わなかったのではないか・・。後日、石川さんの「経済学より家政学を!」と言った論考評論が出る感じがした。

秋田美人の話

2006-05-29 | 色々な仮説や疑問
この2泊3日の秋田行きは、毎日、秋田美人を見てすごしたということでもある。世に「秋田美人」と言うが、本当に美人が多いのか、もしそうならそれは何故か、という疑問がおこるのは自然だろう。これについて「あきたコンベンション応援団」(ボランティア)の中年の秋田美人から伺った。秋田大学の先生(現名誉教授)が真面目に研究したとのことだ。それで仮説的結論は、北からやって来た白系ロシア人の血が土着の日本人の血に混ざって秋田美人が出来た、ということだ。DNA鑑定もしたらしい。
ところで、私は、昔、次のようなことを何処かで聞いた。日本海側の秋田、新潟、石川、京都、出雲あたりには美人が多いと言われるが、それは大陸(朝鮮半島含む)から海流に乗って日本に漂着した人と土着の混血によるのではないか、と言う。そう言えば、朝鮮から日本海を北上漂流すれば出雲半島、丹後半島、能登半島、佐渡島、男鹿半島辺りに引っかかるのは必至であろう。(写真は「秋田小町」)