西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

総合交流センターか交流総合センターか(長岡京市)

2005-07-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
JRで高槻から京都に帰る途中、長岡京がある。昔、「神足(こうたり)」と言っていた駅だ。長岡京は、平城京から平安京に移る途中の一時的な都である。
この長岡京の駅前(北)の再開発がほぼ完成している。列車から見ていると「長岡京市総合交流センター」と書いたビルが目に付いた。それで、ふと「総合交流センターとは何であるか」気になった。「総合的に交流する」ということだとしたら意味が分からない。「総合を求めて交流する」というのなら、むしろ「交流総合センター」ではないか、と思った。一度、長岡京市の人に聞いてみたい。

高槻の売り出し方

2005-07-31 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
高槻は、京都と大阪の中間にある、JR新快速が止まる唯一の都市であり、人口は35万人ほどで奈良市と同じ規模の中核都市で、県庁所在地以外では珍しい。
こういう高槻市にある大学に働くことになったので、別に高槻市に頼まれた訳ではないが、高槻をどう売り出すか、日々考えつつ通勤している。今日の帰りは、タクシーを呼んで何人かの相乗りでJR高槻駅まで行った。運転手は高槻市生まれ高槻市育ちだった。聞くと、高槻では、古墳が多くでてきたので古墳ツアーがあったが今はない。藤原鎌足(中臣鎌足)が一時住んでいたが、中大兄皇子(のち天智天皇)に「呼び出されて」例の蘇我入鹿暗殺の謀議(大化の改新)で明日香に戻ったという経緯もある、とのことのようだ。これが本当なら立派な史跡となろう。他には山のほうの摂津峡など自然環境にも恵まれている。淀川や芥川も流れている。西国街道筋だ。以上色々あることが短時間のうちに分かった。
高槻=高い月or高い槻(ケヤキ)ということもふくめ色々考えていきたい。

扇田 信先生の思い出(7)今井町へ三村先生と

2005-07-31 | 奈良の思い出(助教授時代)
扇田 信先生、三村浩史先生(現・京大名誉教授)と一緒に、奈良の南の「今井町」に出かけたことがあった。江戸時代の街並みがそれこそ面的に残っている所で現在は「重伝建地区」になっている。近鉄大和八木の次の八木西口で降りてすぐの所だ。街並みを歩いて、写真を撮りながら行ったら、黒い壁の新築住宅があり、一寸街並みにそぐわない雰囲気だった。私は「これは数奇屋風ですか」と言ったら三村先生は「数奇屋というより寿司屋ですな」と混ぜ返されて軽便なカメラでパチパチ写真を撮っておられた。すかさず扇田先生は「三村さんのカメラのシャッターはチャチッという音がしていますな」と言われた。三村先生は絶句であった。

家庭料理は今まだ仮定料理である

2005-07-31 | 時論、雑感
久しぶりに駅売りの『毎日新聞』を買って電車の中で読みつつ来た。「今週の本棚」で養老 猛さんが岩村暢子著『<現代家族>の誕生ー幻想系家族論の死』について書評しているのを読んだ。本体を読んでから感慨を述べるのが筋だが、考えさせられたことがあったので忘れないうちに書いておきたい。
「いま、ごく普通の家庭の日常の食卓は、想像を絶するほど凄まじく崩れ、激変している。」と言う。これを、前世代、さらに前々世代からの問題としてとらえ、母親の味なんて、幻想、という結論になっているようだ。戦争中、貧しい食事だったから、戦後それを受け継ごうなんて考えられないし、いわゆる民主主義になったので、あれこれ言わなくなってきたのだ。現在、テレビや雑誌で料理ものも多いが、あれらは毎日毎日の家庭料理としては手間や金がかかりすぎて不適当なものが多い。結局、今後、自ら家庭料理文化を努力して構築していかないと、ということだ。
そういう意味では、家庭料理は、今まだ仮定料理なのであり、過程料理でもあるのだ。一緒に考えて創っていきたい。

グリーンクラブ

2005-07-31 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日は日曜だが大学でオープンキャンパスなので早く家を出た。家の真ん前は町内の集会所である。高齢者の男性が、周りの草木に「水遣り」していた。聞くと、町内の「グリーーンクラブ」のメンバーだと言う。200軒位の町内で10人位いるとのことだ。ご苦労さんと声をかけ駅へ急いだ。

暑き日や水しむ草の声うれし 市路

不活性元素、18族再説

2005-07-30 | 言語・字・言語遊戯
一寸前に、不活性元素の真っ当なおぼえ方と「ど活性」なおぼえ方を紹介した。その後、フリーの百科事典で元素を調べたら、18族の覚え方が三つあったが全て「活性的」おぼえ方であった。

変な姉ちゃんある暗闇でキスの連発(注:He Ne Ar Kr Xe Rn以下同じ)

変な姉ちゃんある日狂ってキスの練習

変な姉ちゃん歩いてくるよ キセルくわえてランランラン

とにかく、変なの!

漢字、仮名を読みやすく

2005-07-30 | 時論、雑感
今朝の「朝日新聞」の読者の声欄をみていたら、60歳前の男性が、博物館や美術館に行って、古い掛け軸、書簡、色紙等を見ることがあるが、そこに書いてある漢字、仮名が良く分らない、抽象絵画を見ているようだ、出来れば横に楷書で漢字仮名混じり文を添えて欲しいと言う。私も若干年上だが、尤もだと思った。
勿論、教養を深める意味で古い文字を勉強するのは良いが、皆が皆出来るとは限らない。是非、博物館、美術館関係者に考えて実行して頂きたい。

高槻駅北・芥川一丁目中地区まちづくり協議会プロジェクト

2005-07-30 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
表記の場所は、今朝書いたJR高槻駅北の「AKTAMORE」の更に北の地区だ。ここの再開発に関して今度、来週の火曜日5月2日にまちづくりのシンポジュウムが開かれる。詳細はこちら:http://blog.goo.ne.jp/akutagawa1naka/e/a964dd0a4b9a54adcaad20b087cbddac
ここに三つのプロジェクト案が提出されている。一つは地元の「つなぐ会」提案のもので超高層、二つ目は森ビルのもので、これも超高層、三つ目は平安女学院大学生活環境学部の4回生が何人かで考えたもので、これも概ね高層だ。これらの案は「AKTAMORE(アクトアモーレ)」の一階に展示されている。可能な方は是非見てコメントを投函して欲しい。

私の考え出した言葉(22)逆説の住居論

2005-07-30 | 私の考え出した言葉
長谷川工務店CRI発行の「CRI近畿版No.119」(1988年7月発行)に書いた「寄稿」のテーマである。「一度、住居において普通良いと思われている価値観の実現と逆の方向の「価値」も考えてみたらどうか」・・今少し具体的に言えば、「広い空間」に対して「狭い空間」、「明るい空間」に対して「暗い空間」、「気密性の高い空間」に対して「隙間風の入る空間」等々の「価値」、「意味」を一度考え直してみたらどうだろうか、といったことである。(中略)
子供達へのメッセージー「薄着をし、小骨の魚を箸で食べ、布団で寝ること」
結論・・メリハリの住居論、目標・・「人間の五感を適当に刺激し、それらを豊かにする住空間」

一途の「拡大リッチ路線」は地球環境保全、省資源から「シンプルリッチ路線」に切り替えるべきとの線上でのことだ。

日米中英男性の会話

2005-07-30 | 言語・字・言語遊戯
H先輩に聞いた話。日米中英の4人の男性が話をしていて、落ち着いた結論(冗談):(1)最も望ましい生活・・アメリカ人並みの給料で、美味しい中華料理を食べ、イギリスの住宅に住み、日本人女性と結婚することだ。(2)最も悲惨な生活・・中国人の給料で、毎日イギリス料理を食べ、日本の「ウサギ小屋」に住み、アメリカ人女性と結婚することだ。(後注:これは1990年頃の話で状況は変わっている)

私の考え出した言葉(21)反芻脱皮論

2005-07-30 | 私の考え出した言葉
1990年6月2日の日記。日記を少し反芻して読み付箋メモつける。「反芻脱皮論」の実行だ。反芻脱皮論とは、今までの経験等を反芻しつつ新たな点を発見し、今までより脱皮を図っていく、ということだ。それが出来るのは、それをする人が日々成長しているからに違いない。この反芻は単なる懐古とは異なる働きと言えよう。

付録洒落:1990年6月6日。「家相などは戦後、ほ・かそう、となったが根強く残っている・・」

10歳の大学生

2005-07-30 | 時論、雑感
中国の10歳の張君が天津の天津工程師範学院(数学・応用数学科)に入学することになった、と新聞が報じている。中国最年少である。
歴史的に思い出すと、サイバネティックスのノバート・ウィナーも10歳代前半で大学院を出て、18歳位で大学教授ではなかったか。
こういうのは理数系の一部では、ありうるようだが例外と考えたい。皆がこういう方向を目指せるわけでもないが、そういう方向に目が行くと世の中変になるにちがいないからである。

JR高槻駅北の再開発(ACT AMORE)

2005-07-30 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
JRの京都、新大阪間で新快速が止まるのは高槻だけである。どちらからも13乃至15分位である。その高槻駅の北側に2棟の「超高層ビル」が建っている。30階建てで約100mの高さで市内の何処からも見え、一種のランドマークだ。夜になると飛行機がぶつからないように建物のフリンジに赤いランプが点滅する。
地域居住学を受講した近くの町に住む一人の学生も余り良い建物ではないと言っているが私もそう思う。
ところで、この建物には「ACT AMORE」(アクトアモーレ)という名が付けられている。これらの横文字は連続しているが、ACTとAMOREは字体が少し違うので、表記ではACTとAMOREに空白を入れておいた。ACTは英語で、AMOREはイタリア語だと思う。訳するのも無粋だが、「愛を演じて・・」てな気分かな。アモーレというと、昔見たイタリア映画、ピエトロ・ジェルミ主演・監督の「刑事」の主題歌を思い出す。「アモーレ アモーレ アモーレ アモレミヨ インブランチャ テメスコルド ニドローレ ボーヨレスタ コンテ シノメモーロ・・」
この「ACTAMORE」の切り方を変えると、「ACTA MORE」となる。この周りは芥川商店街で、近くに芥川も流れている。何だか「芥川商店街にもっとお客を!」とも言っているようだ。

西山卯三先生の思い出(9)人事方針

2005-07-29 | 京都の思い出(学生時代)
私が京大大学院修士課程を終えたのは1966年(昭和41年)3月であった。その時、進路の問題が当然起こってきたが、私は博士課程に行く積りだった。同期の延藤安弘君(北大出身)、梶浦恒男君(東北大出身)も博士課程に行きたいという希望だった。当時は講座1名が博士課程定員だったので、これは困ったな、と思ったが、西山先生としては、もう1講座(地域生活空間計画学講座)増設されるし、他の歴史や環境工学の「計画系」で博士課程に行く人がいなかったので、その定員も流用させてもらえばよいので、当初は「行けるよ」と言っていただいていた。ところが、修士論文を発表した日に、西山先生は私に終ったら教授室に来るように言われた。行くと中年の紳士がおられ「豊田高専の橋本です」と言われた。西山先生が良く知っておられる京大建築の先輩・橋本敬二郎先生だった。西山先生は私に「豊田高専に助手で行かないか」と言われた。同期が三人(もう一人いたが、修士論文を先送りして留年)いるのに、どうして私なのですか、と言ったことを西山先生にお聞きした。先生は大略次のように言われた。「君は京大の出身だが、あとの二人は余所から預かっている形だ。だから二人には早く学位論文も書いてもらい、飛び立ってもらわないといけない。君は、又戻る機会もあるだろう。その間、しっかり村夫子(そんぷうし)にならず頑張ることだ」と。そして実際4年後に京大助手で戻ることになった。
西山先生の人事の仕方を考えると、ご自分の体験に基づいていると思う。西山先生は、石本事務所、住宅営団、軍隊を経て京大に戻った。絹谷先生を大阪市大から戻された。上田篤先生を建設省から戻された。巽和夫先生を建設省建築研究所から戻された。三村浩史先生を大阪府から戻された。
私は、こういうやり方は西山先生の経験主義ではなくて、普遍性があると思っている。我々の分野は「純粋培養」は良くなくて、現場のあれこれを経験し苦労をして、初めて新しく面白いことも考えられるということではないだろうか。人事は一番大事なことだが、しっかり考えて実行したいものだ。