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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

『模倣と習熟 「学び」の復権』(辻本雅史著、岩波)を読みだす

2012-10-29 | 教育論・研究論
数日前から『模倣と習熟 「学び」の復権』(辻本雅史著、岩波)を読みだした。どうも「教え込み型」教育から「滲み込み型」教育へ転換すべし、との論のようだ。明治以降の日本の教育は大きく見て「教え込み型」、江戸時代の教育には「滲み込み型」もあり、まあモデルを見ての見様見まねの「自学自習」もあったようだ。

で、その江戸時代の教育の先達として貝原益軒をあげている。その教育に関する著書は『和俗童子訓』である。「「和」というのは「漢」(中国)に対する日本のこと、「俗」というのは「雅」の反対で、学問に通じた「雅」なる知識人とは異なる一般庶民の世界を指している。」

つまり、そういう「日本の庶民の子供に対する」教育論である。詰め込みの「教え込み型」ではなく、自学自習の「滲み込み型」である。

いやーたまげたな。貝塚益軒と言えば『養生訓』でよく知られているが、そういう健康論も、なにかをやり遂げるのに健康は必要だ、という総合的視点に立っている。同じように『和俗童子訓』は、大人以外の子供(将来大人)のしっかりした教育が未来を保証するとはっきり自覚した教育論で、おそれいる。

シーボルトは「貝原益軒は、日本のアリストテレス」と評した ようだが、確かにアリストテレスのような総合的学問を目指しており、しっかり読み込んでいきたい。

辻本雅史さんは、京大大学院教育学研究科教授、1949年愛媛県生まれ、京大大学院教育学研究科修了、文学博士である。日本教育史、思想史専攻。


日本家政学会功労賞受賞にあたり

2012-05-13 | 教育論・研究論
昨日、大阪市大で行われた第64回一般社団法人日本家政学会大会において、私は「日本家政学会功労賞を受けた。

まあ1974年に奈良女子大学に勤務して以来、日本家政学会に所属し、研究発表をするとともに、特に教授になって50歳を過ぎる頃から「住居学部会」の部会長をやり、関西支部の庶務幹事、支部長(本部理事)、本部副会長、監事をやったことに対するものであろう。

支部長以来10年にわたり本部役員をした勘定になる。特に思い出すのは副会長、監事の時の2004年8月1日~7日に京都の国際会館で行われたIFHE(国際家政学会)の大会の現地実行委員長を務め、英語の挨拶を何回か苦労してやったことである。

また1995年に阪神淡路大震災調査研究委員会の副委員長を務め「報告書」をまとめ、継続してグループで科研費に応募して研究を続けたことである。

今回、東日本大震災にあたっても家政学会本部で態勢を整え、現地へ入り色々協力していることが分かった。シンポジュウムで現地の市長さんや現地に入っているボランティアの人たちから家政学会への期待も寄せられた。特に、限られた食材でも栄養バランスを考えた料理づくりの出来る「料理教室」展開などが期待されている。他の分野でも取り組むべき課題は無数と思う。

阪神淡路大震災の時の調査研究中心から、今回は同時に現地で役立つ実践へ踏み出しているのは、歴史的前進と思う。食物に限らず生活全般の復旧、前進をどう図るか、総合的に取り組む要があるだろう。

今後とも、可能な限り日本家政学会の「応援団」を務めたい。

参加者の知り合いから「おめでとう」と声をかけられ、昔の「教え子」らから花のアレンジメントを貰った。皆さんの協力・支持のおかげですよ。皆さん、本当にありがとう。

小冊子『家政学、生活環境学と私  1974/4~2012/3』つくる

2012-04-09 | 教育論・研究論
この度、古稀(70歳)になったのを一つの節目と考え、『家政学、生活環境学と私 1974/4~2012/3』という小冊子をつくった。

主に「日本家政学会誌」に掲載した小文を数編と学会の役員としての「年頭挨拶」および2004年夏の京都国際会館で行われたIFHE(国際家政学会大会)の私的記録などをまとめたものである。

100部ほど作った。家政学、生活環境学、住居学・住環境学等で小生と「付き合い」のあった方々、興味ある方には謹呈したいと考えている。

お声掛けを宜しく願います。

小生メイル:ichiro@cc.nara-wu.ac.jp
 

「縦割をぐちゃぐちゃにしたい」太田 光さんの発言

2012-02-04 | 教育論・研究論
昨日、テレビ「あさイチ」で「爆笑問題」の太田 光さんのトークがあって面白かった。
案外、肩幅が「狭い」のだな、と思った。

で、太田さんと相方の田中裕二さんとでやっている「爆問学問」シリーズでの太田さんの専門家・学者に対する「鋭い追究」は何のため?との質問に対して、

「大学って学部がそれぞれ別々で総合大学と言っても総合ではない。医学部なんてのもそうだ。だから、ああいう番組では、出演者は皆同じ土俵、だから思ったこと、疑問に思っていることをぶつけて縦割学問を一度ぐちゃぐちゃにしなくっちゃ・・・」

別に「(追究して)切れた人はいませんでしたか?」の質問に「○○大のおじいちゃん(先生)が切れたかな・・・」とのこと。

分析的研究を「総合」するには、市民が率直に疑問を出す必要があるのだ。

太田さんが、ある意味、代弁している面がある。今後、そういう目で、「爆問学問」を見ていこう。

原発事故で先生が子供に「御免なさい」と謝るのか

2011-07-09 | 教育論・研究論
7月5日の私のブログで「原発安全神話」と墨塗り?という記事を書いた。
7月5日のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/964f451e6ff2d4627c4f5bc8806ae853

で、最近、朝ドラ「おひさま」で1945年の終戦前後のことをやっており、陽子先生は、終戦直後の「国民学校」(後の小学校)の教壇で、児童に「先生の嘘つき!日本は絶対負けないと言ってたじゃないか。」と詰め寄られ、「昨日まで間違ったこと言ってごめんなさい。教科書で間違ってた所に墨を塗って下さいね」と言わざるを得なかった。

今回も東電福島第一原発での大事故で、副読本で「安全神話」教育を文部省、文科省の指示で行っていた先生方は、児童、生徒に対して、終戦後と同じように、「昨日まで間違ったこと言ってごめんなさい。副読本で間違ってた所に墨を塗って下さいね」と言うのであろうか。

情けないけれども現在の法体系では、地域での教育は国から自立して独自に行うように「教育委員会」があるにもかかわらず、文科省の思うようになってきたのだ。

教育は、政治や国家の思惑から独立しなければならない。

もし中高生に話するとしたら・・・5教科と4教科

2011-06-30 | 教育論・研究論
もし、中高生に今、話が出来るとしたら何を言おうかな? 一つの仮の講話である。

「皆さんは高校または大学等に向け受験勉強していますよね。その教科は文系、理系などによって少し変わりますが、大枠で受験科目と言うと、国、数、英、理、社の5教科ですよね。

ところが、まあ受験に直接関係のない4教科、即ち美術、音楽、保健体育、家庭科もありますよね。実は、これって、実社会に出て家族を形成し責任を持って有意義で楽しい生活を送ろうとすると実は必須の「科目」なのです。

私はもう定年退職した身なのですが、5教科に関わる再学習も楽しいけれど、美術や音楽は生活を彩る教養だし、健康維持では、保健体育は重要だし、基礎的生活力を涵養する家庭科も男女によらず大切だと思います。

今後の長い人生で、そのように考えて、それぞれの教科をしっかり自分の生活に位置づけて取り組んで欲しいと思います。」

この講話を中高生を集めた目の前でやるとしたら、周りにそれら9教科の先生方も聞いている格好になる。

それら、先生方への「効果」「メッセージ」は、「受験5教科だけが大切なのではない。他の基礎、教養4教科も長い人生展開の上では重要なのだ。そういう位置づけで9教科協力してほしい」ということだ。

何だか中学、高校の校長先生の気分だな。どうでしょうか。

サンデル教授のハーバード白熱教室@東京大学を見る

2010-10-03 | 教育論・研究論
今日、夕方のNHK教育チャンネルで8月に行われた「サンデル教授のハーバード白熱教室@東京大学」を見た。大変興味深いものだった。

サンデル教授はどうやら哲学の先生らしいが、ハーバード大学でディベート教育(白熱教室)をやっているので、問題の出し方、議論の誘導の仕方そしてまとめ方も誠に手際よいもので、現役の日本の大学教授にも参考になるものだったに違いない。

今日は、功利主義(イギリスのベンサム)、個人の道徳的権利の重要性(ドイツのカント)そして人間としての利他主義の擁護(アリストテレス)の三つの考え方を具体的事例を出しながら議論を導いた。最初の事例は、イギリスで起こった遭難して4人がボートで漂流し、最後に三人の家族持ちの一人、船長が身寄りのない弱った少年を殺して、その肉を食べて生きながらえることを提案し、その通りにして三人が生きながらえ助かった事例だ。

「これは許されることだろうか」これに対して賛否両論がでる。ベンサムに根拠をおく考え方とカントに根拠をおく考え方だ。ここで、議論が思わぬ方向にも向かう。個人は個人の身の処し方について自由がある、自殺したければ自分の責任で自殺したら良い、という意見がだされて反論も出る。

「個人の身体といっても、そこまで成長し生きてきたのには、親、兄弟、友達、先生、近所の人たちなど多くの人の支えがあったればこそであるから軽はずみに自殺する権利はない」、という考え方だ。これについてサンデル教授は「それは、不可譲(ふかじょうー譲ることの出来ない)の権利と言う」との説明をした。腑に落ちる考え方だ。

次に、イチローの年収は、オバマ大統領の40数倍だが、これは認められるか、という問い、関連して富の不平等を課税を通じて均すことは是か非かも議論された。

また、東京大学に少数だが高額寄付(5千万ドルとか1億ドル)した場合、入学を許可して良いかの問いもだされた。参加学生は、ほぼ全員(推薦等はないのかな)競争試験で入学してきたので、そういう問には「駄目」という答えがほとんどだった。しかし、多分、韓国からの留学生は、少数なら良いのでは、の意見だった。そのことによって、競争入試にほとんど影響がないし、1億ドル(83億円)も入れば研究・教育環境全体の改善にプラスになる。(イギリスでも、そういうことをやっていたことを思い出した。「高額寄付を受けて、その子弟を入学させても卒業するのは至難の業、それなら大学丸儲け」との考えらしかった。)

まあ、しかし、大体は課税を通じて所得再配分したら良い、との意見だったと思う。

しかし、サンデル教授は、ディベートを先導したが、どちらが「勝った」みたいな行司役はしなくて、多様な意見の位置づけをして整理しただけだった。

来週(10月10日午後6時)は、「戦争責任」の問題を議論すると言う。期待したい。

米飯と味噌汁の学習

2010-07-05 | 教育論・研究論
53回家庭科教育学会で、「家庭科を中核とする食育プログラムの開発ー米飯と味噌汁の学習を中心にしてー」をたまたま聞いた。佐倉市南志津小学校の児玉喜久子先生の報告だ。千葉大学(教育学部)の石井克枝先生との共同研究である。

で、改めて小学校は、多くの科目を一人の担任の先生が担当する、そこで「総合的教育」が担任の先生の心がけ次第で可能になる、と分かった。我々の60年ほど前でもそうだったな、と思い起こした。

児玉先生は、5年生を対象として家庭科を中心におくのだが、他に「総合的な学習」時間で米作り、「理科」における大豆の生長観察、「学級活動」での味噌作りを関連させ、「家庭科」を含め10時間のプログラム実践を説明された。

私も最近毎朝、朝食作りをしていて米飯、味噌汁、納豆を中核に食べているので、思わず身を乗り出した。

米を作ったら脱穀なども実践し、玄米を精米する、糠も出てくる。ところが調理(米飯炊き)では、精米された白米だけ炊いているのだ。発表が終わって私は「ハイ」と手を挙げ質問した(というか、意見を言った)。「せっかく米作りをし玄米から白米に精米しているのだから、玄米についても栄養価、炊き方、食べ方などを教え実践させたらどうなのか」と。

答えは、時間の配分上難しかった、今後の課題である、と言われた。期待したい。

味噌作りも行い、味噌汁の出汁として煮干も使っているのは良いな、と思った。最近は、顆粒出汁が主流と言う。あれは、「素材が細かく粉砕され紙袋に入れられているものだが、空気に触れて素材が酸化している」と思われる。

こういう調理実習を中心に、「上流」(農業や漁業の実態)や「下流」(捨てられる現実)の学習も進めれば、複眼的・総合的視点をもった国民が成長することになるだろう。

朝食は、パン食よりやはり米飯と味噌汁と一品(まとめて一汁一菜)だな、と思う。だって、我々、日本人なのだから。

この発表で午前の部が終わったので廊下に出た。司会していた佐々木貴子先生(北海道教育大学)が「(先生は)朝食作っておられるのですか」と聞かれた。「はい、玄米飯、味噌汁、納豆です」と言うと「関西の人でも納豆食べるのですね」と言われた。

説明すると、ややこしいので、「えー」と答えたが、私は子どもの金沢時代から食べつけているのである。

「問題の出し方」井上ひさし著『ふふふ』より

2010-07-04 | 教育論・研究論
『ふふふ』というのは一種の「含み笑い」である。笑いは「は行」である。「ハハハ」「ヒヒヒ」「へへへ」「ホホホ」とこの「ふふふ」である。面白い井上ひさし著の短編エッセイ集である。

その中に「問題の出し方」という外国での大学入試問題の話が先ず面白かった。アメリカとフランスでの話しだ。アメリカで出された問題例:「ここにあなたの一生を書き綴った一冊の伝記があって、その総ページ数は300頁である。さて、その270頁にはどんなことが書いてあるだろうか。その270頁を書きなさい」

もう一つフランスの例:「夜更けにセーヌ川の岸を通りかかった君は、一人の娼婦がいままさに川へ飛び込もうとするところに出会う。さて、君は言葉だけで彼女の投身自殺を止めることができるだろうか。彼女に死を思い止まらせ、ふたたびこの世界で生きて行く元気を与えるよう試みよ」

ちなみにフランスでの問題に対し「「『わたしと結婚してください』と説得するしかありません」と書いてめでたく合格したアンドレ・マルローという生徒がいた。彼はのちに『王道』や『人間の条件』などの小説を書き、やがて文化相にもなった。」(32頁)

大変ユニークな生徒は最後までユニークであった。ふふふ

日本家庭科教育学会53回大会に初参加

2010-07-04 | 教育論・研究論
昨日、今日と京都の「京都テルサ」(近鉄東寺から東に行き南に下る)で行われた日本家庭科教育学会53回大会(総会と研究発表会)に初めて参加した。

ほぼ2年前(2008年8月18日)に同学会の関西支部で私が「住まいを基本舞台として家庭生活を総合的に考える」といった講演をしたのが「縁」で、同名の研究会が関西支部12名の参加で立ち上がり、今日の発表にこぎつけたためだ。

発表は二編に分けて行われた。一編は、理念・構想編で、もう一編は、それを基にした小学校家庭科での実践報告だった。私は、「研究助言協力者」として全体の研究会と主に「理念・構想研究会」に参加してきた。

スタートとなった私の過去ブログより:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cdd1228565b2fcbdd005210d7206eb7b

まあ、家庭科の衣食住、家族、生活経営等で、総合する軸となりうるのは、住居と共に家族や生活経営(消費生活)であろう。衣服や食物で全体をまとめるのは少し難しい。で、他の出演者が演技できる「基本舞台」は、文字通り「住居舞台」ではないのか。

住居の上で衣生活や食生活、更に家族生活、消費生活全体が行われているのである。家庭科の時間が徐々に少なくなる「圧力」の下、「縦割り」で細々と主張するより、何処か、何かを軸に総合化の力を魅力的にし、跳ね返していく必要があるのではないか。




先生は案外「コンサバティヴ(保守的)」なのか

2010-04-30 | 教育論・研究論
今日、昔、奈良女子大学附属中等教育学校の副校長をしておられた中道貞子(なかみち・ていこ)先生に久し振りにお会いして色々喋った。

先生が、附属中等教育学校の副校長をされていた頃、私が生活環境学部長で、アフガニスタンの女子学生を五女子大学(順不同で奈良女、お茶女、日本女、東京女、津田塾)で受け入れるというプロジェクトで協力し合った仲である。

で、今日は別用で会ったのだが、先生はもう退職後の生活に入っておられるので、「毎日どういう生活ですか」と聞いてみた。色々と忙しそうだ。その中に、新しい指導要領に基づく生物学の教科書か副読本を書いて普及するお仕事があるようだ。

DNAのことなど新しい生物学研究の成果も色々入るようだ。そういえば、私の高校時代(1957年~1960年)、既に四塩基の組み合わせによる「二重螺旋構造」は発見されていたのだが、「教育へのタイム・ラグ(時間的遅れ)」で、生物学ではメンデルの法則どまりだった。

中道先生は、紙を切り抜き細工して伸ばしたり折りたたんだり出来るお手製の「二重螺旋模型」を楽しそうに見せてくれた。「でも、こういう新しい教育には、先生方は案外「コンサバティヴ(保守的)」なのよ」、とも言われた。絶えず、教育内容をフレッシュにするのは何時も難しいのであろう。中道先生は、チャレンジ精神旺盛、来月には半月ほど、またアフガンに出かけられるようだ。「土産話」をまた聞きたい、と思った。

『読書力』(齋藤 孝、岩波新書)を読む

2010-01-06 | 教育論・研究論
最近、やたら『○○力』といった本が多い。よほど、日本人は「力なく」「弱弱しく」なってきたのかな。

 でもまあ一度読んでみるか、と思って年末年始に『読書力』(齋藤 孝著、岩波新書)を読書してみた。先頃の「教育論」問題意識の続きである。さすがに、こういう題の本を書くくらいなので、齋藤さんは、若いころから猛烈に読書していることが分かる。

 文庫本100冊、新書版50冊を22,3歳頃までに読むべし、と「文庫本」100冊の推奨リストも付いている。とにかく、読書する癖、作法をつけてしまえば死ぬまで楽しく有意義に読書でき、それが、何事をするにも思想、行動のベースになるとのことだ。

 面白かったのは、一つには、本を読むということは、その著者から面と向って語ってもらっていると考えると、古今東西の識者に「教えを請うている」格好で、「至福の時間だ」ということだ。もう一つ、面白い考えかなと思ったのは、例えば西洋では『聖書』といった「唯一絶対の本」があって、それにより生き方の基本が決まる面が強いが、日本では、そういう書は、ないので、そのため一定の本を読んで(言わば「雑学」ブレンドして)「大体の生きかた方向」を定めてきたのではないか、とのことだ。(江戸時代までは、『論語』などの「四書五経」であったかもしれないが・・・)

 後、具体的な書棚での背表紙を見せた本の並べ方と並べ替え方、読書会の効用、三色ボールペンでの線の引き方、複数の人で登場人物、キーワード等を共同でマッピングしてみることなど、How to?に関する技法伝授もある。

 細かいキーワードの一つで「アイ・スパン(目が行き届く空間)」というのが面白い。別のことだが、触発されて、建築を見る場合でも、どの範囲を見るかによって、見方が違ってくると思った。

 注文としては、出来れば、何歳から始めても「読書力」は身につくものだ、そして「読書は楽しくて知らず知らず役に立つものだ」という風に展開して欲しかった。

 でも国民全般に「読書力」がつくことが、全体的な国民力を確実につけ、上げていく「急がば回れ、瀬田の唐橋」だ、ということは本当にその通りと思った。

 齋藤さんは、ここから『コミュニケーション力』『教育力』『段取り力』『退屈力』などと、どんどん「力」をつけて普及している。私も、いくつか「○○力」を構想してみているが、早くやらないと齋藤さん他に先を越されるかな・・・。


地域教育に責任をもとう

2009-12-31 | 教育論・研究論
『「おバカ教育」の構造』(阿吽正望著、日新報道刊)を読み終えて、文部科学省(旧・文部省)の官僚たちの「行動パターン」を知るとともに、言うに言われぬ「怒り」が込み上げてきた。

私の昨日のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/9651ab22777970f05582eb2e331ffd5b

結局、戦後の教育は、最初の憲法や教育基本法による民主教育から官僚による「統制教育」に徐々になってきたのだ。元々、教育委員会の委員も公選(民主主義)だったのが廃止、たてまえでは自治体で「教育計画」が作られているが誰も見ていない。

学習指導要領がたびたび改訂されるが、何故改訂されるのか、どのように教える工夫をするのか、などの研究や研修がほとんどなし。

基礎学力が、学校教育では上げられず、学習塾、家庭教師任せ、そういうところに行けない児童、生徒は取り残される。登校拒否が増える、・・・。

世界の学力を着実に上げている国々は、元々それが高く、先進的技術革新はそれに支えられてやられた日本の教育に学んでいる。それは、憲法、旧教育基本法のもとで実現してきたのだ。

フィンランドの教育は、この本によると、自由と民主が横溢している。官僚統制一切なしである。それが、学力「世界一」にしたのだ。

まあ、著者は、「考えてみると、憲法の精神、旧教育基本法に戻れば教育もうまくいく」と言っている。憲法は、アメリカの「押し付け」という外形的なことで「改正論」があるが、あれより良い憲法は中々難しい。当時のアメリカ民主主義の理想に近く、日本国民の気持にもマッチしたから長く維持されてきたといえる。それを官僚と、保守政治家と(1950年以降のアメリカ)が骨抜きにしてきたのだ。

私は、1948年に小学校に入ったので、「民主教育」を受けている。

児童会の選挙があり、私も「立候補」して「演説」した記憶がある。講堂で「児童議会」もあった。先生たちは、試行錯誤で学力を上げるため努力している姿が良く見えていた。PTAもプラスに機能していた。

今は、「地方評議員」はいるが形だけらしい。

私達は、地域の教育に子供、孫が当地にいてもいなくても責任をもって発言していくべきだと強く思った。

それは、地域福祉づくり、地域農業づくり、地域まちづくり等に責任をもって発言しないといけないことと同じ民主主義だ。

折しも、この本は8月に発刊、政権交代とピッタリ一致している。

教育に関心のある人は、是非一読してほしい。
(勿論、細かいところー私は、特に大学論や家庭科教育ーで色々議論がありうるのは当然であるが・・・)

(紅白歌合戦を背後に聞きつつ・・・)

『「おバカ教育」の構造』(阿吽正望著)を読む

2009-12-30 | 教育論・研究論
コメント欄で「大和さん」から「『「おバカ教育」の構造』(阿吽正望著)を読んでみたら」、と言われて買ってみた。年末年始に読み終える予定だ。私が孫に中一、小二を持っていることもある。

まあ、この本によると(まだ読了していないが・・・)、戦後の私も受けた「民主教育」が、1977年頃から大きく「愚民政策」に転換したのだ。いわゆる「ゆとり教育」もその一つである。筆者は、このような唐突な文部省(現・文科省)の方針転換は、ひょっとして日本の教育水準の高さに支えられた科学技術の優秀性、工業製品の優秀性に脅威を抱いた某勢力、某国の「謀略」では、との仮説を提起している。

うーん、そうかもしれない、と思う。日本の明治(1868年)以降の発展、戦後(1945年以降)の発展は、教育水準の高さに支えられていたのは明らかだ。
それが「大きな力」が働いて最近の「おバカ教育」に堕しているのだ。

私の感想、将来展望を言うとすると、一部の「エリート教育」ではなく、フィンランドのように、社会そのものを反映した様々な階層の人々の子供を各教室に含む「統合教育」を教師自身の自主研究に基づいて展開することだろう。そこで、先生と子供たちが協力し合って全体の学力を高めることが大切だろう。

考えてみると、会社でも行政でも地域社会でも家族でも、皆が「持ち前」に応じて協力しつつ働く、動くことによって1+1>3となるのである。別の言葉では「三人寄れば文殊の知恵」なのだ。そこで、協力すれば良くなることが分かれば、国全体、世界全体でもその方向に行くだろう。

いわゆる「エリート」は、自分だけが「良い目」をするのではなく、そういう集団の力をアクセレレイト(加速する)上で、皆から期待された役割を演じれば良いのだ。そうすれば、尊敬されるだろう。

また、先生達が、子供たちに、様々な夢のある世界があることを、児童、生徒、学生に生き生きと示すことが出来るかどうかもポイントだ。

21世紀の日本、世界の教育を、新しい政治・経済を展望、求めつつ、「お利口」にやっていこうではないか。

自由七科(西洋)と六芸(東洋)より、音楽

2009-12-08 | 教育論・研究論
人間のバランスある成長の基礎としての「教養」は極めて大切、という認識が徐々に戻ってきているのではないか。

それは、西洋では「自由七科」、東洋では「六芸」という。

西洋の「自由七科」は、次のようだ。曰く「おもに言語にかかわる3科目の「三学」 (トリウィウム、trivium) とおもに数学に関わる4科目の「四科」 (クワードリウィウム、quadrivium) の2つに分けられる。それぞれの内訳は、三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽である。(「ウキペディア百科」より)

東洋の「六芸(りくげい)」は、礼 - 礼節(道徳教育) 、楽 - 音楽、 射 - 弓術(心身共に鍛えた)、 御 - 馬車を操る技術、 書 - 文学(読み書き)、 数 - 数学(そろばん)である。(同じく、「ウキペディア百科」にプラス)

両者に共通なもので、はっきりしているのは「音楽」、まあまあそうかなと思われるのは「読み書き、そろばん」であろう。

「音楽」は、数学と共に論理学とも関連があるだろう。五線譜により記録される西洋音楽は、論理的、数学的なことから普遍的であり感動をもたらすのだろう。

一昨日、奈良女子大記念館講堂で「けいはんな市民雑学大学」の特別講座で、「親子で探検!バイオリンの魅力 梅沢和人の楽しいレクチャー・コンサート」を楽しんで、その感を深くした。梅沢さんは大阪フィルのコンサート・マスターでバイオリニスト、当日は、モーツアルトのバイオリンソナタ28番ホ短調K304を友情出演の上田賀代子さんのピアノ伴奏で聞いた。

梅沢さんの桐朋学園時代の先輩で、10月に亡くなられた京響のコンサート・マスターであった工藤千博さん追悼の意味も持たせてほしい、との梅沢さんのメッセージもあり、沈んだ悲しげなメロディが一層、胸にしみた。この曲は、力強い明快なメロディの中に深い悲しみが潜んでいる。作曲当時、モーツアルトが母親と死別していることが、そういう色合いに関係があるのでは、との解説もある。(推定1778年作曲)

その日は、音楽が、人間教養の根柢の一つにあることを自覚した一日だった。

過去の梅沢さんの記事の一つ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/08ad7b51a625f33c22c3e0d1102cbd90