西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

三村浩史先生に聞いた話(聞き書きメモ)より

2014-06-22 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、NPO法人西山夘三記念すまい・まちづくり文庫の総会・同懇親会で久しぶりに三村浩史先生(京大名誉教授、僕の京大建築学科7年先輩)とお話しした。たまたま、西山夘三先生は自伝で「建築家=三男説」にふれている話に及んだ。西山夘三先生も三男である。他に丹下健三、坂倉準三さん等がすぐ思い浮かぶ。で、やはり京大建築大先輩の東畑謙三さん(故人、東畑建築事務所創立者)から三村先生が聞いた話をしていただき「へー」と思った。東畑先輩は東畑兄弟の一員、長男の東畑精一さんは、日本農業経済学の泰斗で東大教授を歴任した。

東畑謙三さんは京都帝大・建築学科を大正15年(1925年)卒業、西山夘三先生は東畑さんの後輩の昭和8年(1933年)卒だ。東畑さんは三村浩史先生らに(昭和30年代以降と思うが)西山夘三批評をして「西山君は、庶民住宅の研究で研究の道に入って成功したと言えるが、もし設計事務所など建築家の道に入っても大成しただろう」と言われたと言う。


まあ東畑謙三さんは、京大建築学科卒の建築家の「走り」とも言えるので、西山先生がそうなったかもしれないが、わからない。西山先生自身は、「建築家」と称することもあった。西山先生の四部作の一つに確かに『建築論』(勁草書房)がある。もう一回見直してみたい。

東畑さんの作品として思い起こすのは、京大人文科学研究所で武田五一先生(京大建築学科初代教授)との共同設計ということになっているようだ。

東畑謙三さんについては僕の親戚筋とも「知り合い」だったことが最近分かった。

「建築計画学」「都市計画学」を生き生きと捉えるため先輩たちに対して「聞き書き」が必要と思うが、どうでしょうか。

三宅 醇先輩の訃報に接す

2014-04-01 | 京都の思い出(学生時代)

本日、三宅 醇先輩(豊橋技科大名誉教授)の訃報に接した。昨年の11月に三宅さんからお兄さんの喪中の知らせがあって、そこにはご自身の「対癌戦争」について触れられてあったのでビックリしたが、今後治療に専念するので、「訪問は断るが手紙は歓迎(ただし返事は遅れる)」の旨が書かれていた。

で、2週間ほど前に西山夘三記念文庫のメーリングリストを介して、容体が思わしくない旨の知らせを受け取っていた。 そこで、先週、色々考えた末、思い出しの手紙を出した。とにかく付き合い全体は、大学院生(1964年頃)までさかのぼるので50年(半世紀)になり、思い出、思い出しは無数にある。ゆっくりかみしめていきたい。

それより何より三宅 醇先輩のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

考えてみると、三宅さんが2014年4月1日、先生の西山夘三先生が20年前の1994年4月2日(明日)没ですね。今ごろ、三宅先輩は西山先生と語り合っているかもしれませんね。

ミックスジュースの思い出

2014-02-25 | 京都の思い出(学生時代)
僕の「お初」より:ミックスジュース

僕は、ミックスジュースというものを大学に入ってから初めて飲んだ。
まあ、色々な果物をジューサーで擂り潰してジュースにして飲んだのだ。これを飲んだのは京都の「進々堂」喫茶店である。

今出川通りに面し、通りを越えて南面は京都大学のキャンパスだ。1963年頃か、僕が建築学科の4回生の頃だ。絹谷祐規先生(当時、助教授、教授は西山夘三さん)に連れられて「進々堂」に来て飲んだのがミックスジュースであった。

絹谷さんには色々なことを習ったが、喫茶店でコーヒーではなくミックスジュースと言う僕にとってはハイカラーな飲み物も習ったのだった。

その絹谷さんが、僕が大学院修士1回生の頃(1964年の夏頃)、オランダ留学に出かけ、こともあろうに「交通事故」で亡くなったのは、かえすがえす残念だった。

慕っていた若い先生に先立たれたのも初めてだった。

『図書』2014年1月号 「読む」ー瀬戸内寂聴

2013-12-30 | 京都の思い出(学生時代)


 今年は岩波書店の創業100周年だったようだ。その記念講演会?で喋った瀬戸内寂聴さん(91歳)の「これまでの100年、これからの100年」が載る岩波書店の雑誌『図書』の2014年1月号をパラパラと見た。

その小文の中に「人生は恋と革命」という節があって、瀬戸内さんは「きょうはあまり若い人がいないようだけれども(笑)、諦めないで、いまからでも、人生は恋と革命だと思ってください。・・・」と言っている。

これを見て、僕が大学院生(1964年~1966年)時代、夏のゼミ旅行で若狭湾に海水浴に行ったとき、先輩で助教授だった上田 篤さんが「人生は恋か革命か学問か、だよ。で、いまのところ自分は恋や革命は卒業して学問かな。西村君は何を取るのかな。」と聞かれたことを思い出した。

一寸考えて「それら三つを並行してできませんかね」と言ってみた。23歳頃のことである。さて、今後はどうなるか。上田先輩は、確かに西山夘三先生とは一寸違った方に学問を進めていて未だ「活火山」だ、しっかり学んで、思って生きたい。

大学教養部時代のクラスメートに会って

2013-11-29 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、京大教養部時代(1960年~1962年、1960年度は最後の宇治分校時代)の同じクラス(T3、第二外国語はドイツ語)の同期会が京都であった。2年前に初めてKKR京都くに荘で50年ぶりに会ってから2回目で、今回は京都の聖護院・御殿荘で行った。宿泊なしの午餐会だった。京都では聖護院に限らず例えば仁和寺でも境内に一般を対象にした宿泊所があり、仁和寺の宿泊所では高校(金大付属高校)の同期会をしたことがある。又、別のところも今後、探す「楽しみ」が増えたかもしれない。昨日は御殿荘の人に聞くと、修学旅行生も結構泊まっているようだ。気軽に泊れて値段もリーズナブルであると思う。

ところで、京大での僕らのクラスは、土木、建築、鉱山学科が主力三学科で他に原子核工学3人、電子工学1人(留学生)の40人のクラスであったが、5人が鬼籍に入ってしまった。会の冒頭に黙祷して冥福を祈った。その中に、今年度亡くなった土木工学科出身の山口嘉之君の思い出を少し語ってみたい。山口君は、京都の紫野高校の出身、手元に1回生の終わりごろ宇治分校でクラスメート36人が写っている写真のコピーがあるが、それには前列のほぼ真ん中に写っている小柄なハンサムボーイが山口君である。彼は河川工学を専攻、大学院修士課程を修了後、1966年に建設省に入省、河川畑を歩んでいて、1990年中国地方建設局河川部長の時に中公新書(976)で『水を訪れるー水利用と水資源開発の文化ー』を書いている。2年前のクラス会で、山口君に会えなかったので、土木出身の友人に山口君の動静を聞いたら、どうも土木のクラス会にも出てこなくなって、「付き合い」を拒否しているようだ、と聞いて、手紙を出してみたが、返信がなかった。中公新書は、専門外でも読みやすく、「小流域水備蓄ダム」の提案も、個人的とうたっているが、僕なんか「そうだな」と思うが、あるいは「大ダム方式(?)」の国土交通省主流とぶつかったのかも・・・、と勝手に推測している。水問題を文化問題として、日本列島の特徴を良く見て論じているる山口君の肉声を聞いて議論してみたかったが、出来なくなってしまった。ご冥福を祈りたい。

又、教養部時代のクラス担任、1回生の藤岡謙二郎先生(人文地理学)、2回生の多田政忠先生(物理学、湯川秀樹先生とは中学、高校、大学と同期)ともすでに亡く、思い出を語り合うのみであった。

で、こちらは元気にNPO住環境ネット理事長をしている建築学科出身の稲井信輝君には2年前も今回も会って、東京での活動について少し聞いた。稲井君は、福岡高校出身、京大建築学科を卒業の後、大成建設に就職、勤めあげて、10年前から「建築技術」の実績を背景にNPOで活躍している。稲井君の話に、後輩(京大建築学科)の西 和彦君の話が出てきて、彼も、大成建設OBで、稲井君のNPOの理事とのことだ。西君というと僕の金大付属高校の4年後輩でもある。3年前の2010年に幻冬舎ルネサンス新書で『60歳からの暮らしの処方箋』を出していて、中々「簡にして要」の本だと思う。

皆さーん、特に関東地方の皆さん、「http://www.npo-jyukankyo.net/」へどうぞ。

巽 和夫先生の思い出と思い

2012-11-08 | 京都の思い出(学生時代)
巽 和夫先生(京大名誉教授)が11月6日に亡くなられた。享年83歳。私より丁度「一回り(12年)」年上の先生であり先輩だった。

私が京大大学院修士2回生の頃(1965年頃)、建設省建築研究所から京大工学部建築学科助教授で「戻られた」と思う。西山夘三教授の下の「建築計画学講座」の助教授である。

以後、経緯色々あって、西山先生が、新設の「地域生活空間計画学」教授に横滑りの後、巽先生が「建築計画学講座」の教授になられた。

私は、京大大学院工学研究科修士課程を「西山研究室」で過ごして修士論文を書き、西山先生の推挙で愛知県にある国立豊田高専に助手として就職、4年後に、これも経緯あって京大「三村浩史研究室」助手として戻った、そして2年後に「西山研究室」助手に移り、西山先生最後の助手を勤めた。

そして更に2年後、西山先生が退官されて、私は西山先生の推挙と扇田先生(扇田 信奈良女子大教授)の「引き」で奈良女子大学に助教授で赴任した。

ところが、32歳を過ぎているのに未だ学位(京大工博)が取れていなくて、以後、奈良では扇田先生、京大では巽 和夫先生の助言・指導で、ようやく40歳をこえて取得出来た。巽先生に心から感謝している。

特に豊田高専時代は、月に一回京都に来て「自主研修」(費用は竹中奨学金)していたが、巽先生には「オープンゼミ(誰でも参加できるゼミ)」を開設して頂ただき、大いに議論、指導して頂いた。「豊田高専」に就職したこともあり、「建築技術論」をテーマに選んだこともあって、巽先生に「指導教官」になっていただいたのだ。

「オープンゼミ」は楽しく、夏休みに京都西山のお寺で合宿したこともある。

実際の私の学位論文の題は『都市集合住宅地共用空間の共同管理に関する研究』で、多分、巽先生ご指導の学位論文では「住宅、居住地管理」テーマの「はしり」と思う。

巽先生は、元々「建築生産学派」であると私は思っていたが、その後、「ハウジングの研究」「建築企画の研究」「行政建築家の提案」などもされていて、一言で言えば「建築プロセス制御工学」を目指しておられたのではないか、と推量している。

後に続く「若手」に大いに期待する。

巽先生、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

通知ー

通夜: 11月9日(金)19時~
告別式:11月10日(土)11時~
場所: 龍雲寺
(JR京都駅よりJR奈良線(約15分)に乗り換え、JR桃山駅下車徒歩10分ー北へ歩く)
(近鉄桃山御陵前下車、東へ歩く、国道24号線を越え更に東に、JR奈良線踏切を越え直ぐ北(左)に折れる、まっすぐ北へ約5分)
*まことに勝手ながら、御供花、御香典の儀は固くご辞退申し上げます、とのことです。


西山夘三著『現代の建築』(岩波新書)の再読へ

2012-10-18 | 京都の思い出(学生時代)
今日、自宅(京都府内)の書棚を整理して学生時代(1960年~1966年)に初めて読んだ本を最上段に並べた。その中に今は絶版になっていて古本でしか買えない、あるいは大きな図書館でしか読めないだろう西山夘三著『現代の建築』(岩波新書)があったので、手に取って見た。

この本は、岩波新書の(青版)229番、1956年(昭和31年)1月16日に第1刷、1962年(昭和37年)7月20日の第9刷を買った。130円だった。私は京大工学部建築学科3回生であった。教養課程から専門課程に進み、ある意味、勉学意欲に満ちていた。西山先生の講義も目の前で聞いてはいたが、まとまった著書を読んでみたいと思ったのである。

その新書のカバーの帯書きには、「戦後の建築はぐんぐん美しくなっている。都市美を代表するオフィスやデパート、劇場などはいうまでもなく、集団住宅や個人のすまいにも戦前とは違った近代的な様式が大胆にとりいれられている。本書は、近代建築の美しさや合理性を、その歴史的な変遷、技術上の進歩、生産の仕組みの問題など、さまざまな角度から検討し現代建築の課題を提供する。」とある。

全部で6章構成、Ⅰ私たちの生活と建築 Ⅱ建築技術の進歩 Ⅲ棟梁から建築家へ Ⅳ建築の美しさ Ⅴ国民の建築 Ⅵむすび 計184ページである。

今日は、Ⅳ章 建築の美しさ をざっと読んだ。色々と近代の建築、建築家、建築理論を幅広く取り上げており、西山先生の「学習・研究」の幅広さも窺える。

まあ、モスクワのモスクワ大学や地下鉄のデザインに対する評価は、未だ「社会主義」を前提にしているが、現在生きておられたら又別の評価をされるだろうと思う。

西山先生は生きておられれば101歳、医者の日野原重明さんと同じだ。二人とも学部は違うが戦前の京都帝大の卒業、キャンパスで通りすがりに会っていたかもしれない。

今日、見た書棚には、故人の服部千之先生(名工大、京大大学院、西山研究室修了)や長峰晴夫先生(住宅公団、名大、東大卒)の本もあった。読み返していきたい。

日本建築学会に最初に報告した論文(1965年9月)より

2011-08-26 | 京都の思い出(学生時代)
私が昔発表した「論文」として、昨日、一昨日と「「原子力発電所」と地域開発」(1973年2月)を上げて再掲してみたが今日は、京大院生時代(1965年9月)に初めて日本建築学会に報告した「論文」の題名、狙いなどを述べてみたい。

その「論文名」は、「道路開発にともなう山村の生活環境条件の変化と問題点」というもので、日本建築学会大会で私が発表したものである。共著者は、三村浩史さん(当時、京大助手、現・名誉教授)、延藤安弘さん(当時、京大院生、同期)であった。

この報告の元データーは、三県山岳地域開発に関する調査研究で、奈良県十津川村の林道等に関して調査したデーターだった。(三県とは奈良県、和歌山県、三重県である)

この論文をまとめるため三村浩史さんと何度も話し合った記憶がある。三村先生は、当時オランダの研究所に、オランダで亡くなられた絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生(京大助教授歴任)の「後釜」として出発準備で忙しい時だった。

ところで私の「論文」だが、道路そのものを対象とすると「土木工学的」となるので、「生活環境条件」という言い方をして、道路の開発と関係した生活条件を探るテーマとしたのである。

林道が開通する以前は、樹木運搬は河川を通じる筏(いかだ)であった。林道が通じてからは、五条にも新宮にも樹木を搬出できることになり、両市場の様子を聞いてから目的地を決めれたのである。林業上、便利になったと言える。

生活上も、自動車やオートバイがあれば便利になったのである。そういう風にプラス面ばかり目につくが、じっくりと自動車もオートバイももてない階層に思いをいたすと、バスなどの公共交通が導入されないと、かならずしも便利になったと言えないのである。また生活空間として道路を捉えると、ゆったりした散歩などには、トラックや自家用車やオートバイは危険要因で、歩道設置ということもある。この論文では、それらのことを明らかにしたのである。今では「当たり前」だが1965年(昭和40年)では、そうでもなかったのだ。

こういう風に、以後、現在にいたるまで、住宅そのものを対象とする研究を中心としてきたが、同時に道路、ダム等の土木空間を生活空間として捉える研究もしてきたが、この「最初の論文」にそれが現れているといえる。地域開発と、個々の空間だけでなく地域全体を問題とするスタンスも得たのではないか。それが「原子力発電所と地域開発」という捉え方に通じるし、後々、「地域居住学」という発想にも通じていくのである。

京大T3会の余韻

2011-05-12 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、今日と一昨日の京大T3会の余韻(今日的言葉では、余震)がメイルを通じてあった。

今回参加しなかった友人への連絡先が送られてきた。私が「彼はどうしているかな?」と言ったためだ。50年前のクラス集合写真(白黒、全員は網羅されていないが、2/3位は含む)が送られてきた。別の動静を聞いた友人からのメイルもあった。いやー熱を感じる。

まあ「古稀」にしてこういう会を立ち上げたからには、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)そして卒樹(90歳)と「寿(ことぶ)いていきたい」ものだ。

京大T3会(クラス会)発足

2011-05-11 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、雨の中、京都のKKR(国家公務員共済)くに荘(京都府立医大病院裏)に昼前に行った。

そこで行われた京大T3会発足の会(午餐会など)に出席のためである。ほぼ50年(半世紀)ぶりに会う友人もいる、果たして会っても分かるだろうか、自分も分かって貰えるだろうかの不安があった。

というのは、私が入学した1960年(昭和35年)頃は、教養課程2年間は、専攻別のクラス分けではなく第二外国語によって、1クラスに数専攻の学生が混じっていた。そのうちの建築専攻者は、3年(関西では3回生という)以上でずっと一緒で、卒業しても若いころは10年に一回、最近では少なくとも5年に一回は「建築クラス会」で会っているので、風貌の変化も含めて良く知っているのだが、他の土木専攻、鉱山専攻、原子核専攻、電子専攻の友人とは、1962年3月に「分かれた」ので少数の友人を除いては、会うのは49年数か月ぶりなのである。

我々「T3(工学部3組)」は「ドイツ語組」であり、全員で53名(全員男性)、土木が一番多く、次いで建築、更に鉱山、原子核と電子は少数で2人と1人だった。今回参加は、土木13名、建築8名、鉱山6名計27名で過半数で、原子核と電子は残念ながら欠席だった。この間、亡くなった友人は3名。ついでに言うと、当時の京大工学部入学者は600人台、教養部では10数クラスがあったと思う。

我々の担任教授は、1回生時は藤岡謙二郎先生(人文地理学)、2回生時は、多田政忠先生(物理学、日本初のノーベル賞の湯川秀樹先生と、中学ー府立一中、高校ー三高、大学ー京都帝国大学理学部とづっと同期)だったが、お二人とも鬼籍に入っておられる。

一部家業等で現役も若干いるが、殆どはリタイアして年金生活者である。まあ年齢が69歳~71歳位(現役から2浪まで)であるからそうなるのであろう。職業経歴では、ゼネコンが一番多いかと思うが、建設省や大阪市など国や地方自治体の役人も特に土木卒で結構いるし、私のように大学や研究所勤務も一定のまとまりだ。京大で教授になったのは土木で二人いる。

受付に行って会費を払いプログラム等を貰った。名札を付けた。建築の連中は全部分かる。土木、鉱山でも何人かはすぐに分かったが、名札と顔を見比べてようやく「そうか」と分かった友人、後で学生時代の写真(アルバム)を見せて貰い、ようやく分かる友人もいた。

実は、こういう会をしたらどうかと私も大分前に提案したことがある。昨年度辺りに機が熟してきたのか、東京圏にいる半分位のクラスメートで集まって、西日本の友人も含めて開こうとなって、幹事を選び(14名)、メイルで場所や形態などのアンケートをしたり、卒業後の略歴や個人史、最近の日常や子供や孫のこと、健康のことなどは事前にメイルで依頼があり、全員に配布してあり、自己紹介時間の節約をするなど手際良い運営だった。

最初にこの間、亡くなったクラスメート三人と東日本大震災で亡くなられた方々に黙とうをささげて会はすすんだ。

座を移動させながら殆どの友人と駄弁った。まあ体型を分類すると、メタボ系、ややメタボ系もいるが、私は普通系か。おつむもシルバー系、薄い系、ゴマ塩系などが混じっている。私はゴマ塩薄系か・・・。

以後、15時まで歓談と京大T3会設立の承認、当面2年に一度当分京都で開催、幹事長と幹事次長の選任など行った。懐かしの写真も見せて貰った。

15時に一旦解散、なお夕方の二次会にも参加する友人は残り(15人か)、またそれには参加しないが京大周辺散策に参加する友人も残り、小雨の中、京大吉田キャンパス(2回生時の学び空間)、本部時計台キャンパス(3回生以上の専門課程空間)に行った。京大教授歴任の土木の友人が最近の様子を細かく説明してくれた。私は友人3人と時計台内で京大ビールを飲んだり、時計台前喫茶店でアレコレ駄弁ったが、吉田山に登ったり、真如堂などに行ったグループもあった。

18時から、四条河原町の居酒屋で更に駄弁った。50年の「蘊蓄」を聞くので時間は全くの不足、またゆっくりとなった。書いた本を持ってきた友人もいて一冊買った。

今日の記念写真、記録写真、昔のクラス雑誌のコピーなどを幹事がCD化して配ると言う。楽しみにして又噛みしめたい。幹事の皆さんご苦労さん、有難う。又再来年!

大学教養部時代のクラス会準備へ

2010-12-18 | 京都の思い出(学生時代)
今日、京都府に住むS.君から電話があって、今年、来年に我々は古稀(満70歳)を迎えるので、記念に大学(京大)の教養部時代のクラス会を来年に教養部(1回生)のあった宇治でやらないか、とのこと。賛成だ。

で、京都周辺に住んでいる同期生で準備をしようとなり、私は、当時(1960年度)の宇治分校の様子を知る資料(地図や写真など)を集めてみることになった。

当時、京大の教養部(1回生、2回生)の学生全部を吉田分校(旧制三高キャンパス、京大本部構内の向かい側)のみでは収容できず、宇治の旧陸軍施設を宇治分校として1回生(約1600人)のみ、そちらで勉学に励んだわけだ。と言っても、ご存じ1960年は「安保闘争」の年、夏休み前は、殆ど授業がなかったと言ってよい。

S.君や私のクラスは工学部3組(T3と言う)で、ドイツ語をとった組、40人ほどの専攻別では建築、土木、鉱山、原子核が混じっていた。1回生の担任?は、人文地理の藤岡謙二郎先生だった。

このクラスの関東に住んでいる友人は既に東京周辺で何度かクラス会を開いているらしい。今度、古稀を期に関西やその他全国に散らばっている同期生にも呼び掛けて「宇治」でやろうという企画だ。旧宇治分校の敷地は、今は京大の研究所用地となっている。地震が起こるとテレビで活躍する「防災研究所」や「木材研究所」「食糧研究所」もここにある。宇治分校は、我々が最後で、吉田分校に「ビル」を増設して、今は、そちらが「教養部」というか、教養課程の学習の場になっている。

まあ万福寺や平等院へも久しぶりに行こうかな。


大学院に進んだ一つの理由

2010-09-23 | 京都の思い出(学生時代)
1964年(昭和39年)に大学(学部)を卒業した後、大学院(修士課程)に進もうと考えた一つの理由は、指導教授など大学教官が講義や著書(論文)等で言っておられることを、素直に実践できるのは、正にその指導教授のような立場になることだ、と思われたことだ。

逆から言うと、卒業して会社に就職しようと、官庁に就職しようと、そこでは、大学で学習し、研究したこと(卒論研究)は、そのままストレートに役に立てることは出来ない、と思われたことでもある。

高校時代は、大学を言わば専門学校のように捉えていたと言える。だから、大学に入って教養科目の学習が2年間もあることに最初いらだちを感じたが、徐々にそういう学習こそ大学でやることなのだ、と納得していった。まあたまたま「旧帝大」に進学したから出来たかもしれない。「教養部」は、旧制高校だったのである。

大学に入った時、大学での学習・研究の目的は「真理の追求」と言われた。社会で必要な知識は、大学での学習・研究を基に自分で勉強すればよい、とのことだった。

他にも理由はあるが、とりあえず、大学学部から大学院に進んだ大きな理由は簡単にいうと以上のようなことだった。

京大工学部・教養部T3会発足

2010-02-17 | 京都の思い出(学生時代)
いやー、私が京大工学部に入学したのは50年、半世紀前の1960年(昭和35年)4月である。

で、その時の教養部のクラスはT3(工学部三組)だった。色々の専攻のメンバーが混じっていて、当時のクラスメートの専攻は、土木、建築、鉱山、原子核、電子だった。ここに書いた順で構成メンバーは多かった。

クラス編成は、教養部で取る第二外国語によっている面がある。我々のクラスはドイツ語だった。クラスには「担任教授」もいて、1回生の時は人文地理学の藤岡謙二郎先生、2回生時は物理学の多田政忠先生だった。多田先生は、旧制一中(現・洛北高校)、旧制三高(理)、京大理学部と湯川秀樹先生と同期とのことだった。

同期クラス51名中、2名のみ鬼籍、まあ頑張っているのではないか。専門の建築学科では同期40名(T3以外のクラスも含む)なのに7名も亡くなっている。T3(建築)では14名全員元気である。

最近、クラスメートの関東在住の友人たち12名が東京で集まって48年ぶりにクラス会をしたようだ。これを機会に51名のクラス全員の名簿を整備してくれた。それを今度メイルで送ってもらった。建築学専攻の友人は5年ごとに集まっているが、他の専攻の人達とは、卒業後、疎遠であった。今度の名簿には懐かしい名前が並んでいる。今後「全体会」もするようだ。是非、参加したい。幹事7人に感謝!

我々は、安保闘争の1960年に入学、最後の宇治分校を体験した。また東京オリンピック開催、東海道新幹線、名神高速道路開設の年に学部卒業、色々と節目の世代である。今後どれだけ生きれるか分からないが、何かの縁なので大学・教養部のクラスメートと楽しく付き合っていきたい。

日米安保条約50周年の感慨

2010-01-19 | 京都の思い出(学生時代)
今日は、1960年1月19日に岸首相とアイゼンハワー大統領との間で現日米安保条約が結ばれてから満50年、半世紀である。そして1960年6月15日に日本では国会で「自然成立」し、現在に至っている。

思えば50年前の今日は、私は高校3年生の最終段階、大学受験直前であった。そして大学に入学してから6月15日まで落ち着いて講義は受けられず、議論、学生大会、街頭デモ等に「振り回された」毎日だったと言ってよい。デモの時は、宇治分校から京都に出てきて、大抵は立命館大学広小路キャンパスの「わだつみ像」の辺りに集合、そこから出発し、河原町通りを南下した。京都ホテルの前を通るとき、2階ホールから見下ろすアメリカ人らしきグループも目撃された。その辺りでフランス・デモ(道一杯に広がるデモ)に移ったりした。シュプレヒコールは「安保反対、岸を倒せ!」というのがメインだった。そして、四条から東に折れて八坂神社裏の円山公園の野外劇場まで行くのだった。

当時から現在まで、その思想的・理論的根拠には自らに「進化」はあったし、世界や日本の情勢も大いに変わったと言えるが、日米安保条約には「反対」で、いづれ廃棄すべきもの、という認識できた。当時は、日本もアメリカも両政府は、この条約は10年以上はもたないと考えていたらしく、10年経過したら、どちらか一方の通告で「終了」すると規定している。

当時、少ししてから、それを知って「へー」と思ったものである。

その後、ベルリンの壁が壊れ、ソ連も崩壊して「東西冷戦」は終わった。そして、現在である。アメリカ政権も日本政権もかわったのである。韓国、中国やインドもアジアで「大きく」なってきている。次の50年(と言わず、もっと早いかも)は、条約下での「対等平等」から、「廃棄」へ、「日米友好条約」へ、そして「東アジア共同体」へと歴史は回っていくのではないか。

大学は何をする所か?

2010-01-11 | 京都の思い出(学生時代)
大学(大学院も含む)は、一体何をする所なのだろうか。

『中央公論』二月号は、「大学の敗北」を特集している。歯切れの良い養老猛司さん(元東大教授・解剖学者、今「虫少年!?」)が「東大よ「世間」に背を向けよ」という趣旨を70歳を過ぎた「勝手にしやがれ」の立場からボンボン言っている。

こういう好きなことを言っていれば長生きするだろうな、と思う。

私は、たまたま京大に入ってから総長「訓示」や教授講義等で「大学は真理の追求の場」と言われても、初めは正直ピンと来なかった。社会に出て就職するための通過機関と思っていた。

ところが、当時、たまたま「安保闘争」(1960年)の時期だったせいもあるが、毎日毎晩、口角泡を飛ばして「ああだ、こうだ」の議論の日々、色々友人の口から出てくる本を読んでいないと恥ずかしいので、直ぐに岩波文庫等で買って慌てて読んで、前から知っているがごとくに次の日には議論に参加、という日々だった。

たまたま総合大学だったので、経済学部、法学部、文学部などの講義にもぐりこんで高名な教授の講義を聞くも、さっぱり分からない。でも、こういうのが学問なのか、と高校までと全然と言っていいほど違う雰囲気に少しずつ慣れていった。また、教養部の先生方の話は面白いものが多かった。

でも、養老さんが言っているが、東大をはじめとする旧制帝大でも明治以降、実学中心で、学生の大半には学問・研究する場ではなく、法学部は「官吏養成所」、医学部は「医者養成所」だったと言っている。現在の東大医学部は、全国トップの偏差値の理系学生が入ってくるが、医学部のカリキュラムは医師養成のため全国一律で、まあ、東大医学部では6年かかって「お利口さん」を「お馬鹿さん」に引き下げているようなものだ、とも言っている。

まあ、要するに「研究大学」と「官吏・医者養成大学」などを区別せよ、ということらしい。勿論、これらは並列であって上下の序列ではない。一面では、そう思うが、他方、現在の国民の「民主主義」理解では中々難しい。全国に同じようなダム、空港が出来ていくのが今までのシステムで大学もその線に乗ってきたのだ。今後は、どう変わるのだろうか。見守っていきたい。

まあ、継続的な研究や勉強が好きな人は、偏差値などにとらわれず(少しは「並行」しているが、)旧制大学系(+旧制高専系)に行ったほうが良いのかな。体験から言って・・・。