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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ロンドンでの動物(ペットなど)風景(2)

2010-05-16 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
1982年12月11日のロンドン滞在日記より(続き)


 糞というと犬より大きくて明らかに違うものもある。それは馬の糞である。僕の住んでいるBorough of Barnet(バーネット区)は北の郊外で、Open Spaceが豊富なので、馬の運動ををさせるところも多いのであろう。僕の家の近所に、ゴルフ場と墓場の間を抜けて林の小道があるのだが、この小道は馬の散歩道の一つにもなっているようである。
 狭い小道なので、こちらの散歩と向こうの馬での散歩とかち合うことがあるが、木の間に入ってよけてやると「Thank you!」と可愛い娘さんの声が返ってくることもある。時々、自動車に貼り付けているのと同じ「L」マークを乗馬服に貼り付けている人も見かける。(「L」マーク・・・Learning 修行中、初心者)

リス
 この小道の両側の林には、リスが住んでいる。散歩の途中、ガサガサいうので何かと思ったら小リスが木をのぼり木を飛び移っているのだった。色はうすい灰色をしている。僕はヘンドン図書館に通う時は、たいていこの道を通るのだがいつも、2、3匹のリスに出会う。
 中には全く逃げずにすぐそばの道ばたで木の実か何かを盛んにかじっている。食べるのに夢中で逃げ忘れたか、あるいは「また例の奴が通るぞ」と安心しているのかどうか分からない。逃げるといっても姿も見せずにいつの間にかというわけでもなくて、大抵は音のするほうを見ると、リスが木をよじ登っていたり木の蔭にかくれたりしているのがみえるのだから、「間が抜けている」といえるかもしれない。

小鳥
 ロンドンに初めて来た人がまず行くところは、「トラファルガー広場」かもしれない。ここからは、繁華街の方にも近いし、ビッグ・ベンのある国会の方にもバッキンガム宮殿の方にも近い。また、すぐ横にタダで入れる「ナショナル・ギャラリー」(国立美術館)がある。このネルソン提督の高い塔の下の広場は、また、鳩の群れが集るところである。観光客が、奈良の鹿に対するのと同じようにエサを買って与えるために、全く人怖じしない鳩の群れとなっている。足元まで来ても、意識的に蹴飛ばさない限り逃げないし逃げるといってもバタバタと2,3メートル飛び下がるだけである。手や肩、頭の上にさえ平気に止まってエサをねだっている。
 これほどでもないが、僕が「ハイ・ホルボーン」の公園で「take away(お持ち帰り)」のサンドイッチなどをベンチで食べていたら、やはり鳩とスズメがやってきた。鳩が人に近づくのは当然としてスズメがすぐ手の届くほどそばまで来て投げてやったパンくずを平気で食べているのには少し驚いた。
 イギリスの庭にやってくる小鳥(文字通りGarden birdsと言う)も、日本より種類が多いようだ。スズメや鳩のほかにblack bird(カラスにあらず)や私の知らないものも来る。イギリス人はバード・ウオッチング(小鳥観察)が好き、というのも多種多様なの小鳥がいるからだろう。ある日の朝、となりのモーア老夫妻の家と僕の家の境に立っている木にガーデン・バードが鈴なりになっているのを見つけて、フト餌でもやってみようか、という気になってパンくずをパラパラと庭先にまいてみた。しかし、一向に我が庭に降りてこず、となりの庭のほうばかりに降りてくる。おかしいなと思って2階の窓からとなりの庭を見下ろしてみてたまげてしまった。そこら中、2-3メートル四方一面に白くなるほどパンくずがまかれているのだ。他に止まり木付きのエサ箱も木に吊るしているのである。これでは、こちらに降りてこないはずである。
 次の日から捨てていたパンの耳を大切に大切にとっておいて、それを細かくちぎって隣りほどではないが、少し芝生が白くなるほどにまいてみた。案の定、降りてきた。小鳥にも習性がもちろんあって、見ていると面白い。勇気のある(?)一羽がまず近くに降りてきて様子をうかがい思い切って食べだすと、いっせいに木々や屋根や塀に止まっていた奴が降りてくる。窓のカーテンをめくったり、一寸物音をさせるといっせいに飛び立ってしまう。別の日に焼き飯の残りや白い飯の残りも置いてみたが、知らないうちになくなっていた。

 以上、猫、犬、馬、リス、小鳥について観察した二三のことを書いてきたが、総じて、こちらの小動物は(日本と経験的に比較して)人間により近い存在ではないかということである。イギリス人は動物好きの国民といえるだろう。(一応、終わり)

ロンドンでの動物(ペットなど)風景

2010-05-12 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
1988年2月10日以前の日記は、ノートにメモ風に書いている。本来の日記風かもしれない。今日は、ロンドンへ在外研究員で出かけていた1982年10月~1983年7月までの日記ノート4冊を書架に見つけた。読み出すと、これが自分で言うのも何だが面白いのである。

当時の光景がありありと目に浮かぶ。時々、日記の中に「覚え書き風」のエッセイのような文がある。これらは、まとめると面白いかもしれない。今日は、1982年12月11日(土)の日記に付随している「イギリス人と動物(ペット)」を表題のようにして紹介する。(若干、言葉遣いを変えている)

ローラ(猫)
 全体としてみると、イギリス人の方が日本人よりもより多くペットを飼っているといえよう。僕のとなりのモーア老夫妻も「ローラ」というメス猫を飼っている。近所に猫や犬を飼っている家が多い。庭によく近所の猫が入ってくる。少なくとも「ローラ」以外に三毛猫一匹、黒猫二匹をみかけた。そのうちの黒猫一匹が一回家に入ってきたことがあった。朝、台所のドアをあけてゴミを出していた妻が庭にいる黒猫をみつけて「Come on!」と呼んだところ、さっと逃げるのかと思いきや「庭石」を伝って台所口までやってきた。彼女がためしに「ニボシ」を二、三戸口においたらソロソロと近寄って臭いをかぎ、口にいれた。前にとなりの「ローラ」で試してみて失敗している妻は「アレ、この猫、ニボシ食べるよ」と叫んでいる。
 食堂にいた僕も台所口に立っていって見ると真っ黒な猫がノッソリと台所に入ってくるところだった。首輪をしているので当然どこかの飼い猫である。手を出してみたが別に逃げようともせず、かえってドンドン家の中に入ってくるという感じである。ノドをなでてやっても別にいやな顔もしていない。うれしい顔もしていない。ニボシをたべてから、ノソノソと食堂の方まで入ってくる。イスの足や洗濯物干しの足でさかんに背中をこする格好をしている。きっとかゆいのであろう。
 僕は、そんなに特に動物好きでもないのでやや離れて観察しているわけだが、妻のほうは動物が好きなものだから、ひょいと前足二つをつかんでイスの上にのせてやっている。別にいやがるわけでもなくなお背中をイスや妻の足にこすりつけている。
 食堂のドアは、その時すでに閉まっていたのだが、ややあってその黒猫はひょいとイスをおりてそのドアのところまでゆき、さかんに前足で開けようとしている。「ははーん、もう帰りたいのだな」と思って開けてやると、そんなに急ぐわけでもなく、またノソノソ台所の方にもどっていく。台所口まで行くかなと見ていると、途中で止まって、さかんに台所の中をかぎまわしている。
 妻は「ニボシの臭いがするからだわ」と言って又二、三与えている。背中をまるめてゆっくりとうまそうに食べている。恐らく、生まれてはじめての味ではないだろうか。食べ終わってもノッソリと僕らの顔を見上げているばかりで一向に出てゆこうともしない。
 僕は「もう出したら」といっていわば無理に戸外に押し出してドアを閉めた。ドアのガラス越しに見ていると、向こうでうずくまってこっちを見ているのである。ややあって、庭の木戸の下からとなりのほうに出ていった。
 このように、こちらの猫は、全然見ず知らずの人にも近寄ってくる場合が多いのである。


 猫がこうだから犬はなおさらである。朝夕、レセプション・ルームのカーテン越しに近所を散歩させている人を何人も見かける。それもほとんど鎖なしである。買い物に犬を連れてくる人も多い。特別に食物関係の店では「Sorry,no dogs allowance!」(すみませんが犬お断り!)と入り口に書いているが、他の店では中まで入ってくる場合もある。店の外で待たせている例もある。その場合も、おとなしく長時間でも待っている。地域の図書館の前でご主人が中で数時間も読書をしている間、外で待っている例も目撃した。
 地下鉄やバスににも犬は乗せてよいことになっている。盲導犬はタダだし、その他の犬は子ども料金である。地下鉄で真っ黒な犬(犬の種類も日本よりはるかに多くて、よく判別できない)をつれた婦人が僕のとなりに座ったことがあった。その犬は座ったその婦人に足をかけようとして、叱られて無理に足を床におろされている。やむなくそこいらを眺め回しているが、僕と眼があった。ヌーと僕のほうに首をつきだしてひざの上のカバンなどの臭いをかいでいるが、ただそれだけである。
 犬を自動車に乗せている人も多い。近所の家の外壁を塗りに来ていたペンキ屋の犬は、自動車の助手席で長時間、仕事が一段落するのを待っていた。公園に散歩に来ていた犬が帰りに自動車に乗せてもらって帰るのだが、ドアを主人が開けるとヒョイと飛び乗ってちゃっかり後ろの席に鎮座ましましている。盲導犬もよくみかける。
 犬の散歩は日常茶飯事で、鎖をつけていなくても噛み付くなどということはまずないのであるが、一つだけ「オヤッ」と思うことがある。それは、犬の糞を飼い主が始末しないことである。歩道によく「鎮座」しているのをみかける。が、いつの間にかなくなってはいる。その近くの人が処分したのか、市の清掃局の人が清掃したのかよくわからない。ロンドンでは並木も多く、落ち葉も多いのだが、その落ち葉は時々市の人が清掃しているのを見かけるので、その時、一緒に犬の糞も清掃するのかもしれない。(まあ、乾燥しているので、糞は日本ほど臭くはないのだが・・・)(続く)(馬、リス、小鳥編へ)

イギリスでは居間、台所は「公的」空間

2010-04-04 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
今日、午後に「つなね」住宅地の人達と近所の公園に花見に行って、寿司やビールを飲みつつワイワイ話をした。その話の一つ・・・A.さんが西欧で会ったばかりの当地の人に「家においでよ」と言われ付いていったら、居間や台所は、きちんと整理されているのに驚いた、と言われた。まあ、日本だったら、家に人を招く場合は、家中整頓してから「どうぞ」となるのと大いなる違いである。

私も1982年~1983年にかけてイギリス・ロンドンにいたのだが、同じような経験を何度もした。これは、考えてみると、家の中まで靴を履いて出入りしていて、脱ぐのは寝室である。つまり、家の中の「公室」は、外の続きの「公的」空間で、いつも綺麗に整えておくのであろう。日本は玄関で靴を脱ぐと、全て「私的」空間で平生は「ぐちゃぐちゃ」なのである。(まあ、西洋では、寝室のみが「ぐちゃぐちゃ」と言えよう)

これは、『街並みの美学』(芦原義信著、岩波)の冒頭で指摘されていたことだったかな。

グリニッジ、カティーサーク号の火事

2007-05-24 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ウィスキーの銘柄にもなっている紅茶運搬帆船で唯一残っていた「カティサーク号」が21日未明火事に会い、半分ほど焼けたようだ。マイミクのHIROさんの日記で知らされた。私もロンドンにいる時に、グリニッジに行き、繋留されていたカティーサーク号を間近に見た思い出がある。ドックランドの近くのライムハウス(Limehouse)という所にLSE(ロンドン大学)で知り合ったMichael Hebbert(マイケル・ヘバット)先生(現・マンチェスター大学教授・都市計画)が「テラス・ハウス」に住んでいて、一夏、1987年に1週間ほど私たち家族が借りて住んだことがある。先生は先生でその間、家族でスコットランド旅行していた。その家の事は、拙著『キラッと輝くいい住まい』(彰国社)に書いた。その時、確か、テームズ川の地下道を通り対岸のグリニッジに行ったのではないか。天文台は東経、西経の原点、GMT(グリニッジ標準時、グリニッジ・ミーン・タイム)の原点で、東経、西経ゼロを越えて左右の足を置いて記念撮影した記憶がある。19世紀はイギリスの世紀で、世界の空間と時間の原点をここに置いたのだ。カティーサーク号は修理中で放火との話もあるが、幸い、中にあったものは別の所に移されていて助かったようだ。出来れば復元して欲しい。もう一度、中まで見に行きたいものだ。
(写真は、火事のカティサーク号、Asahi-com,APより)

グーグル・マイマップでロンドンでの借家付近を表示

2007-05-09 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
グーグル・マイマップの使い方をFUTANさんに教えてもらい、試しに1982年から1983年にかけてLSE(ロンドン大学、行政学部)に文部省在外研究員で行っていた時の家族で住んでいた二戸一連棟のセミディタッチド住宅を探して印をつけ、同時に近くの買い物に行ったSCのTESCOと近所のパブ、ゴルフ場、墓場、その間の道にも印をつけた。(下記)地図は自由に大きさを変えれるし移動も可能、右上の「航空写真」にするとグーグル・アースの写真として見られる。左の欄の目印をクリックするとそれぞれが表示され説明も見ることが出来る。
これで、海外旅行の記録もつくることが楽しくなる。目印だけでなくルートも書き込める。写真はどうして貼り付けるのか。TESCOの写真は、グーグル・マップのものである。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&om=1&q=oakhampton+road,London+NW7&oe=UTF-8&msa=0&msid=117469149049471677079.000001126f7b5df34176e&ll=51.605384,-0.208397&spn=0.03433,0.060339&z=14

マンチェスター紀行1983年6月

2006-06-17 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
イギリスにいた1982年~1983年の今頃、マンチェスター大学のGosschalk先生を訪ねてマンチェスターに行った。当時の日記に「紀行メモ」があるので書いておく。
「マンチェスターはローマ人がブリテン島にいた頃は、要塞チェスターとヨークを結ぶ一つの駐屯地に過ぎなかった。近代にいたり産業革命がおこり、綿工業が発達すると、一躍その中心地となり、ヴィクトリア時代のイギリスにあってマンチェスターの名は世界中にひびきわたり、その綿取引所は一時期世界一の地位を占めていたのである。丁度そのころ、その綿工場の一つの経営を父親からまかされた若きフィリードリッヒ・エンゲルスがマンチェスターにやってきたのだった。そして、その発展する資本主義の光と影をまのあたりにして、彼は有名な『イギリスにおける労働者階級の状態』を執筆したのである。彼が住んでいた住居のあたりは現在はマンチェスター大学の若々しい学生の姿で満たされており、住居跡プラーク(記念板)はマンチェスター大学学生寮の外壁に貼られている。そこから最も近い古いポストの横を通った時、ゴシャーク先生は「このポストは、エンゲルスがロンドンにいた友人カール・マルクスにしばしば出した手紙を投函したポストに違いない」と言った。」ゴシャーク先生は、私の書いた『いい家みつけた』(晶文社刊、1986年)の175頁に写真で載っている。

Bay window とBow window-出窓の話ー

2006-05-13 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
昨年7月22日のブログの「私の考え出した言葉」に「出窓にデマンドあり」というのがある。洒落である。確かに日本では最近、出窓が増えつつあるのでは、と感じる。私がロンドンにいた1982年~1983年、住んでいたセミ・デタッチド(二戸一棟)の家にも出窓があったし近所でも大変多く見られた。これも7月22日ブログにも書いたが、帰国して、今は亡き吉野正治先生(京都府立大教授、仏教大教授歴任)から「西村君、Bay window とBow windowはどう違うのかね」と聞かれた。字の通り、Bay window は、入りこみ「湾」のように台形のように張り出した出窓、Bow windowは、弓形に張り出した出窓である、と答えた記憶がある。辞書によると、Bow windowには俗語として「太鼓腹」というのもあり覚えやすい。私のロンドンの家のは、Bay window であった。イギリスでは、窓から外を見ているのは「老人と猫」という言い方があった。確かに町を歩いていて、出窓の猫に良くお目にかかった。

ロンドン日記摘要(1983.4.3.)イースター、Fenton Houseへ

2006-04-03 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
23年前の1983年の今日、私は家族で未だロンドンにいた。日記によると、その日はEasterday(復活祭)である。日曜なので家族でHampstead Heath(ハムステッドヒース)に行く。地下鉄Northern Lineで、Camden Townで乗り換え、Hampsteadで下車、「ヒース」に行く前にNational Trust管理のFenton House(フェントン・ハウス)に行く。1693年の建築、もう少し新しい19世紀などの家具、陶器の飾り物、絵なども展示され、更にBach(バッハ)以前の西洋楽器(ハープシコード系)が移転展示、1階、2階のほか屋根裏もある。
そこから北に、ハムステッド・ヒースへ行った、高台、ロンドン市街が見下ろせる。何処かで読んだが、カール・マルクス家族がロンドンにいた頃(1880年頃か)、ここに良く気晴らしにピクニックで来たようだ。
その日は、かなり疲れた「歩き」であった。(写真は、ロンドンのFenton House裏庭より)

Across the years

2005-12-29 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
1982年の大晦日はロンドンにいた。手持ち無沙汰でBBCのテレビをみていた。番組は「Across the years」というもので、BIG BEN なども写していた。Across the yearsとは、両年を横切って、といった直訳も出来るが、日本流には「行く年、来る年」であろう。一寸気が早いが、ビッグ・ベンが深夜の12時を打つと新年1983年で、その日は、トラファルガー広場など大騒ぎになった。その時だけ、だれかれなく抱きついてキスをしても良いことになっているためだ。私は後から知って文字通り「後の祭り」だった。1984年までいたのなら試してみるのだったが、残念、というところであった。(写真は、ビッグ・ベン)

ロンドン日記摘要(1982.12.17.)7Welwyn(第二田園都市)へ

2005-12-17 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
Kings Cross発10時10分発のNothern London Electricsに9番ホームから乗る。メインホームは8番まで、9,10番はSuburban Line(郊外線)で、左手に行った所だ。(注:今年、ここからCambridgeに行った。途中にハリー・ポッターのホームもあった。9月26日ブログ参照)切符はチケットの窓口で、「Welwyn Garden City, Awayday Return」と言って、2.7ポンドで買う。Welwynの発音は、Peter Levinに習ったようにやって成功。(子音が三つ続くと真ん中は発音せず、ウェリンのようになる)電車に約26分乗って5つ目の駅がWelwynだ。(中略、町歩きの記事は、次に行くときの参考になるが、知らない人には面白くないので省略)このWelwynはLetchworthに次ぐ第二田園都市で、ハワードの田園都市はこれで終いだ。次回は、泊りがけでゆっくり行ったらよい。帰りは、午後15時1分発、Kings Cross15時27分着だ。町はクリスマスの飾りで溢れている。(Welwyn地図)

旧型ダブル・デッカー引退

2005-11-06 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ロンドンの旧型二階建てバス(Double Decker)が来月から姿を消すようだ。車掌が乗った後ろから乗り降りする奴だ。時に転落事故を起こしたり、高齢者や身障者に乗りにくい等で低床の新型ワンマンバスに置き換わるようだ。淋しい気がする。古い車両がなくなる時は何時もそうだろう。京都の市電が廃止になる時は、最後の夜に「北大路車庫」付近に見に行ったことを思い出した。
旧型バスはコベント・ガーデンの交通博物館に置かれるのかな。(来年、行ったら見に行こう)買い取る人もいるらしい。そう言えば、建築家の清家 清さんが庭にJRの古い車両を置いて「書斎」にしていたことを思い出した。

ロンドン日記摘要(1982.10.28.)6バービカン・センターのランチタイムコンサート

2005-11-05 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
少し前後するが、書いておく。「・・11時半に三宅さんのおられる部屋(バートレット・スクール)に行く。大學を案内してもらい昼食。キングス・クロス駅まで歩き、地下鉄でバービカンへ、バービカン・センターに13時15分前に着く。スタンドでラガー半パイント飲む(50P)、皆飲んでいる。今日のLunch time concertの出し物は、バロック音楽(ロンドン・バロック・オーケストラ)、最後はモーツアルトの交響曲29番だった。軽やかな音。13時に始まり14時に終る。入場料2ポンドであった。三宅さんが見つけられた昼の「楽しみ方」だった。
終って、バービカンの再開発地を歩き高層住棟も見上げた。ロンドン博物館に行き、ロンドンwall(ローマ時代遺跡)を見下ろす窓に印象を受ける。・・」(それで、今年も再度行ったのである)
注:三宅さん・・三宅 醇さん(現・豊橋技術科学大学名誉教授)当時、私と時期的に重なってロンドンに文部省在外研究員で行っておられた。大學の1級先輩である。

ガイ・フォークス・デイ

2005-11-05 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
11月5日は、イギリスでは「ガイ・フォークス・デイ」(ボン・ファイヤー・ナイト花火の夜)と言われている。昔、国会をこの日に爆破しようとした首謀者ガイ・フォークスに因む。インターネット検索から引用「1603年にエリザベス一世が跡継ぎを残さないまま崩御し、スコットランドのメアリー女王の息子である「スコットランド王ジェームズ六世」が、「イングランド王ジェームズ一世」としてイングランドとスコットランド両方を治めることになった。カトリック教徒の間で、自分たちを弾圧するジェームズへの不満が高まり、国王を暗殺しようという計略が持ち上がった。それがガイ・フォークスを含む13人のカトリック教徒による陰謀「Gunpowder treason Plot」である。」
そこで、この日は、イギリスの子ども達は、ガイ・フォークスのわら人形を作り、引き回し、夜には焚き火に放り込んで燃やす、又花火を鳴らす。花火は、どうも11月5日に限らず、前後で私達の住むOakhampton Road近くの「ゴルフ場」からも「音」が聞こえていた。10月の終わりごろ、地下鉄駅で子ども達が「10P please!」(10ペンス頂戴!)と我々にもねだっていたが、三宅さん(三宅 醇さん)に聞くと、「あれは花火を買う小遣いねだりだ」と解説してくれた。
アメリカなどでは、10月終わりと言うと「ハロウィーン」と思うが、イギリスでは目立たなかった感じだ。

ロンドン日記摘要(1982.10.30.)5週末の生活例

2005-10-30 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
今日で日本を出てから2週間、週休2日制(土曜日)で9時前に起床。9時からLTV(ロンドンテレビ、民放)で娘は「セサミストリート」見ている。10時からBBC-2で「OPEN UNIVERSITY」(注:日本の「放送大学」のモデル、ニュータウンのミルトンキーンズにある)でConsumer's decisionで住宅の探し方やっている。午後は14時過ぎスーパーの「TESCO」に家族で買い物に、私はリュックで米その他5kgほどかつぐ。夕食は、焼肉、サラダ菜、トマト、ポテト、味噌汁、胡瓜の漬物、ご飯といったところ。週末のテレビはスポーツと映画が多い。BBCの天気予報のマークは日本のと異なっている。マークの基本は雲の形、これが黒いと天気は悪く、雨だと二三の水滴が垂れている。晴でも雲から太陽光線が漏れているマークだ。
明日の予定・・家の測定と写真。


ロンドン日記摘要(1982.10.26.)4LSE登録、森嶋通夫さん

2005-10-27 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ミルヒル・イースト駅でWest End ZoneのWeekly ticketを13ポンド10ペンスで買う。9時45分にLSEのConnaut HouseでMrs.Taylorに会い、次にRegister counterでResearch scholarとして2学期分200ポンド払う。大学の諸施設利用料だ。TutorのDr.Levinに午後に会うことにして、ぶらぶら、LSE路地の突き当たりの本屋に入り、バッタリ金沢大学の小林昭さんに会う。先日のブログ(10月18日)で書いた。昼食を近くのパブで一緒にして、互いに住所や電話番号を言って以後連絡をとることにした。分かれて、私は森嶋通夫教授の所に行った。森嶋先生は、当時もう有名で文化勲章も貰われていた。この先生は、私の建築学科西山研究室の先輩の早川和男さん(現・神戸大学名誉教授)のお知り合いで、イギリスに出かける前に早川先生から住所等を聞いて、手紙でLSEの様子などを聞いていた。その御礼に伺った。発行したての私の編訳本・ゲデスの『進化する都市』が手土産だった。森嶋教授室は、屋根裏のようなところにあり、秘書が案内してくれた。聞いた話「イギリスの大学の教師は国家公務員の3/4位の給料だ。何故なら夏休み3ヶ月は働いていないとみなされている。家賃は高いと言われるが家具付を考えると、そう高くはない。こんな不景気なのに外国に大学の先生を派遣しているのは日本位だ。イギリスはゼロである。ただサバティカル(長期休暇)に二種類あり、長年の功績によるのと、相手の招待によるもの、前者も少なくなっている。・・・」森嶋先生はLSEに日本資金を導入した功績者でもある。SUNTORY―TOYOTAファンドである。お忙しく電話が鳴っていたので早々に退散した。帰国時に挨拶できなかったが、その後LSE同窓会講演が日本であった時二度ほどお会いして話をお聞きしたことがある。先生も鬼籍に入られている。