西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ハノイのロンビエン橋のこと、ベトナム訪問の一風景

2014-05-17 | 訪問場所・調査地
5月1日から7日まで、14名の「団体」でベトナムを訪問した。僕としては初めてである。

その様子は、face bookに10回以上書いたし、地域snsでも同じように書いたが、ここでは「こぼれ話」を書いてみたい。

それはハノイのホン河に架かるロンビエン橋のことである。この橋は、鉄橋のトラス橋でフランス統治時代、フランス総督のポール・ドウメルが主導してフランスの会社が落札して1902年に完成した。長さ約1.7kmである。一説には、エッフェル塔を設計した技師・エッフェルの設計と言う。真偽を今後追求したい。そのせいか、この鉄橋には「横たわるエッフェル」の呼び方もあるようだ。印象に残る言い方で、出来て100年以上経つが是非長く保存してほしいと思う。何せ本場のエッフェル塔より「若い」のだから。

もう一つ、この鉄橋は、ベトナム戦争の時、アメリカの爆撃機B52の恰好な標的になり何度も爆撃・破損したが、その都度めげずに再建されてきた「不死身の鉄橋」なのだ。

この橋は、ハノイ滞在中、計画に入っていなかったので直接行けなかった。次の機会には是非行きたい。もう一つ行きたい理由は、このホン河のコンクリートの堤防に4.5kmにわたって様々な絵が描かれギネスブックにのっているとのこと、是非みてみたい、と思う。

(写真のアップは今後・・・)



ル・コルビュジェツアー企画案

2012-01-13 | 訪問場所・調査地
ル・コルビュジェからの「メッセージ」という形で五つのブログ記事を書いてきたが、まあ、そこに上げられた建築等の「現地」に行ってみたい。

まあ、私として行ったことがあるのは、上野の国立西洋美術館とパリ「大学都市」のスイス学生会館であって、他は未だ行っていないので、それらの見学(調査)ツアーをするとしたら、どこどこに行くべきか、考えてみたい。

歴史的順序からいうと、コルが生まれて育ったスイスの地からスタートしたらどうだろうか。○ラ・ショード・フォン・・・生家(1887年生)、博物館(美術館)、シュオブ邸(1917年) ○ブベイ(Vevey)・・・両親のために1923,24年に設計した「小さな家」

次にパリおよび「東方への旅」(1910年)トレース・・・○アテネのパルテンノン神殿 ○ローマのパンテオン 
パリのオーギュスト・ペレの鉄筋コンクリートのアパート(1903年) 
パリ近郊のサヴォア邸(1931年)

マルセイユ及びカップ・マルタン・・・○ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)(1945-1952年) ○木造の休暇小屋(1952年)及び夫妻の墓(カップ・マルタン)

ロンシャン礼拝堂(1950-1955年)

インドのチャンディガール、ニューヨークの国連本部ビル、ブラジルのブラジリア

色々「近所」の地も含めてツアーに行きませんか。以上を一つの候補場所として、なお練っていきたい。例えば、「ラ・ツーレット修道院」(1960年竣工、リヨン郊外)は、今回の放送ではやっていなかったが是非含めたい、と思っている。

一緒に行きませんか、上野の「国立西洋美術館」(1956-1959年)も含めて・・・。


写真は、ラ・ツーレット修道院

ワロン地方訪問(3)ディナンの「城砦」、乾パン、サックス

2011-11-07 | 訪問場所・調査地
ワロン地方の最後にディナン(Dinant)に行った。写真は、ロープウエーで上がった城砦(シタデル)から下を見た風景で手前に教会、ムーズ川が真ん中に見えている。

両岸がディナンの町だ。この城砦(シタデル)で長期間たてこもって戦うために、保存食として固焼きクッキー、昔の日本の乾パンが生まれ、現在、名物お土産となっている。「クック・ド・ディナン」と言う。

この町で、もう一つ有名なのは、金管楽器のサキソフォン(サックスの音―直訳)いわゆるサックスの生みの親アドルフ・サックスが生まれたということだ。上記写真は一寸見にくいが、事実、橋の両側の歩道にづらりとサックスをかたどったものが並んでいる。4年に一度、サックスの国際コンクールが開催されるようだ。

そこで、私達は、土産として少し大きめの「サックスが描かれたクック・ド・ディナン」を1枚買った。湿気に気をつければ、1年はもつと思っている。見たい人はどうぞ・・・。

ワロン地方訪問(2)デュルブイの「猪亭」

2011-11-06 | 訪問場所・調査地
モダーヴ城に行ったあと、昼食を食べにデュルブイ(DURBUY)の「猪亭」(いのしし亭、サングリエ・デ・ザルデンヌ)へ行った。入口に「猪に乗った少年の像」が置いてある。

ここはホテルに付随したレストランで、かって日本の皇太子夫妻も食事したということで、この地方に来る日本人は大抵利用する「有名レストラン」らしい。(写真は、ホテル兼レストランの「猪亭」)

何を食べたか、はっきり覚えていないが、最初出てきた「ムース」が美味しいことは美味しいが、やや塩辛かった。ビールでは地ビールで「ダークビール」を飲んでみた。

この町は、人口約500人、昔から「世界一小さな町」と呼ばれているらしい。端から端まで歩いても10分くらいか。参加者が、確か地のジャム屋さんがあるはず、とのことで食後の散歩でそちらに行ってみた。町中、石畳である。車道も歩道も。行ったジャム屋さんは、狭い店で私のリュックが引っ掛かってジャム瓶ひとつ落して割ってしまった。店主は「いいよ」と言ったが€2弁償しておいた。

このアルデンヌ山地には立派な石造りの農家も見られる。それは「シャトー・フェム(農家のお城)」と呼ばれているようだ。

バスの窓から見ると、乳牛、肉牛の放牧が広く行われているようだ。その日、最後のディナンに向かった。

ワロン地方訪問(1)モダーヴ城へ

2011-11-05 | 訪問場所・調査地
10月25日朝起きると雨だ、今日はワロン地方のアルデンヌの森地域に行く予定。これはオプションで36人中20人の参加だ。

ベルギーのワロン地方とは、ブリュッセルより大体南の地方全体をいい、北のフランダース地方に対している。フランス語圏である

朝食を食べ、支度してバスに乗って出発したら、解説員の正○地さんが、「大体ベルギーは天気が悪い、こんな日が多い」と言う。しかし、ブリュッセルを脱し高速道路に乗ったら雨が止んできた。 

ワロン地方、アルデンヌの森地域は、北の都市域に対して南の田舎、正に「南北問題」の南である。田畑や牧草地がバスの窓から見えていて気分がいい。

最初に行くのは古城のモダーヴ城である。断崖絶壁の端に建っていて背後は深い絶壁、川が下を流れている。だから、背後から攻められることはない構えである。

行くと小学校の生徒達が、まあ「郷土史研究」でやってきていた。一緒だと拙いので先を急いでみた。

まあ、昔フランスで見たフォンテンブローのナポレオンの滞在した城やルイ14世のベルサイユの城(宮殿)でもそうだが、四角の平面、城主がぐるりと回ると各部屋にいる住人ー后とか・・・ーのプライヴァシーは皆無となるが、実際はどうだったのか・・・。

この城は、現在何故かブリュッセルの水道局の管理になっている。余談だが、置かれている感想ノートをみたら、東京都水道局の人が来ている。まさか日本の城を東京都(水道局)が管理するつもりでは?・・・(冗談!)

最後に売店でパンフレットを買った。出ると、皆、カップル同士、友達同士、また一人でも誰かに頼んで記念撮影していた。僕らは淡白で殆ど写していない。ここでも写さなかった。

で、バスで急いで有名レストランで昼食を食べるべくデュルブイDurbuyに向った。

フランダース地方訪問(3)ゲント(バーフ教会の「聖なる子羊」)

2011-11-04 | 訪問場所・調査地
最後の日の午前、ブリュッセルからバスでゲントに行った。ゲントはアントワープやブリュージュより近い、人口25万人位で、ブリュッセル、アントワープに次ぐ都市人口のようだ。(実は、ゲントという都市名は都市計画の祖の一人ぱパトリック・ゲデスの『進化する都市』ー小生達が翻訳、鹿島出版会刊行ーに出てきていたことから知った)

解説員の正○地さんは、自分はブリュッセルの次にこのゲントが好き、と言っていた。確かにこじんまりし、歴史と文化を感じさせる町である。

先ず我々が行ったのは聖バーフ教会にある「聖なる子羊」の絵(ファン・アイク兄弟作と言う)である。この絵は、キリスト教の教えをきっちり描きこんでいるものであり、とりわけ初めての「油絵」であることでも知られている。

解説員の解説は、微にいり細をうがったものだった。描かれた植物も数百に及ぶということだ。

他に市庁舎も見たが、16世紀の建造だがゴシック様式とルネッサンス様式の合体のようだ。私は「東大寺三月堂のようですね」と言っておいた。

数時間の早足見学だったが、次回は、ゆっくり泊まって見てみたい。



フランダース地方訪問(2)ブルージュ(運河の歴史都市)

2011-11-03 | 訪問場所・調査地
アントワープの次にブルージュに行った。現在、人口12万人の運河に○く囲まれた可愛い歴史都市である。

昼食を皆で、このブルージュで食べた。もちろん、「地」のビールも飲んでみた。

食べたのは、フランドル風シチューのワーテルゾイである。4人掛けだったので、1組の夫婦と一緒だった。聞くと、「旦那」は58歳、定年2年前、今年は夏休みを取らなかったので、「秋休み」で「奥さん」と来たらしい。「ワーテルゾイ」はゲントが発祥のようだが、鶏肉が入り(魚系統もあるようだ)、ジャガイモ、人参も入っていたが、やはり味はやや「塩辛かった」。ビールは、味が変わっていて良かった。

食後、歩いて町を見て回った。今回の旅行には、解説員S.さんがついていた。在ベルギー22年のベテラン、よく調べていると思った。36人に「聞き取りイヤホン」を配って、自分は送信用マイクで喋っていた。参加者36人もいると、列も乱れ長くなるので、これは便利と思った。但し、4日間ほど使うと電池がちょっと心もとなく最後の頃は近くに行って「生」で聞いていた。

カリヨンの音色が響く「マルクト(市場)広場」、鐘楼というのはギルド「市民」などが資金を供出して作ったもので、教会の塔の鐘と趣旨が違うようだ。それらの「高さ」などを競っていたようだが、さすが北海に面する「商工業」都市である。

聖母教会はレンガの塔があって、122㍍、アントワープの聖母大聖堂より1㍍低いようだ。

途中で、運河クルーズをした。約30分、ぐるりと回った。日本語の解説テープが回っていた。この運河は、別の日に行ったゲントにつながっているようだ。運河から周りの建物や通り過ぎる橋などを見ていると、時代が中世に戻る感じがした。殆どが石造りなので、外観は、ほとんど変わっていない印象だ。よく見ると、現代風に改装しているのもあるのだが・・・。

上がって最後に愛の湖公園、ベギン会修道院庭園を見た。1時間半かけてブリュッセルにバスで戻った。高速道路は、無料のようだった。何処にも「関所」はなかった。

フランダース地方訪問(1)アントワープ(ルーベンス絵画)

2011-11-02 | 訪問場所・調査地
ベルギーのフランダース地方(英語名、フランス語でフランドル、オランダ語でフランデレン)のアントワープ、ブリュージュそしてゲントに行ってきた。

フランダース地方は、ブリュッセルより北側、オランダに国境を接する、オランダ語が公用語の地方である。アントワープは、ブリュッセルより、ほぼ北に45kmバスで約1時間である。2日目の午前中に行った。まず、市庁舎やギルドハウスの建ち並ぶ「クロート(グローテ)・マルクト」(ブリュッセルではフランス語のプラスー広場ーがアントワープではオランダ語のマルクトー実は市場ーとなる)に行き、都市名にも関係ある「ブラボーの噴水」も見た。

そこから「グルン広場」に行き、中央に立つルーベンス像を見上げた。背後に後に行く「聖母大聖堂(世界遺産、フランス語では「ノートルダム大聖堂」)」の123㍍の塔がそびえて見えている。ルーベンスは、フランドル絵画の代表、アントワープ生まれ、1577年―1640年、1600年から8年ほどイタリア「留学」、新しい画法を持ち帰った。

ところで、「フランダース」と聞くと、日本では小学生の時に読んだ『フランダースの犬』という童話が有名(但しベルギーでは全く無名)、少年ネロ(ネルロとも)と犬パトラッシェの「胸の詰まる」物語である。ネロはアントワープ郊外の村に住んでいるが、画家ルーベンスに憧れ、大きくなったら画家になりたい、と思っている。村でおじいさんの手伝い、おじいさんが病に倒れてから自分とパトラッシェとで村から町へ牛乳を運ぶ仕事をしていた。アントワープでは、ルーベンスの絵を「教会」(聖母大聖堂)で見ようとするが、カーテンで閉じられていて、お金を出さないと見られない。貧乏で、お金がなくずっと見られなかった。

その後、おじいさんが亡くなり、女の子(友達)アロアの家が火事になり、ネロが疑われたり(放火)、家賃が払えず家を追い出される。途中、パトラッシェがアロアのお父さんの財布を見つけ、ネロが届ける。頼みの絵画展に応募していたが落選、失意のネロは、雪の中アントワープの教会にルーベンスの絵を見に行く。クリスマス前でカーテンが開いていて憧れの絵(キリスト降架)を見ることができる。クリスマスの朝、人々はネロとパトラッシェがルーベンスの絵の前で抱き合って冷たくなっているのを見つける・・・。(何だか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」に最後が似ている。)

このネロが憧れたルーベンスの絵を我々も見に行った。教会は、宗教空間ではあるが、彫刻や絵画の展示空間でもあることが、ここにルーベンスの絵が4枚、飾られていることでもわかる。ルーベンスの絵以外でも見事な説教台、ステンドグラスなども見ものであった。

さてルーベンスの絵であるが、祭壇正面には「聖母被昇天」(聖母マリアの昇天画)、向かって左には「キリスト昇架」そして向って右には、ネロとパトラッシェの見た「キリスト降架」(1612年、上写真ー検索写真ーキリストが十字架から降ろされる図)である。解説によると、これらの絵はルーベンスのイタリア留学の成果として、画面の斜め線方向を強調して巧みに人物を配している、という。

アントワープに来た最大の成果は、ルーベンスの本物の傑作を、美術館ではなく本来あるべき場所において見られた、ということだな、と帰りのバスでかみしめていた。


バリアありーの石畳

2011-11-01 | 訪問場所・調査地
今回の3泊4日のベルギー旅行でブリュッセル、アントワープ、ブリュージュ、ゲントなどの町に行ったが、皆、石畳の道だった。

古い石畳でガタガタしているし、ハイヒールなどは「隙間」に挟まって無理であろう。
自動車も「ガタガタ」走っている。車いすでは「危ない」感じ、歩道も狭くて通りにくい。

だが、これら石畳が出来たころを考えてみると、土、泥の道では、靴に泥が付くし、車(馬車など)の轍(わだち)が食い込むし、やはり当時としては石畳の道が「一歩前進」だったのだろう。

しかし、現代では、まあ言ってみれば「バリアフリー」ではなく、「バリアありー」である。こうなってくると、ある意味で、伝統的石畳よりも現代的なアスファルト舗装の方が「バリアフリー」に近いとも言えよう。

ブリュッセルの凱旋門

2011-10-31 | 訪問場所・調査地
ブリュッセルでバスの中から「凱旋門」を何度か見たが、行っていない。今度行く時?には、近づいてみて、屋上にも上がり、見晴らしの良いレストランで食事をしてみたい。

この「凱旋門」は建国50周年の1880年に完成の予定が大いに遅れて25年後の1905年に完成した。レオポルド二世のベルギー「絶頂期」である。

しかし、良く考えてみると、ベルギーは何処かに戦争をしかけて、勝って「凱旋」したことは一度もないのだ。

まあ、お隣のパリのナポレオンの凱旋門に「対抗」しているともいえるが、強いて言うと「未来における凱旋」を期待して、とのことだが、それから一世紀以上経った21世紀、今さら「戦争からの凱旋」なんて先ずありえないのだから、まあ「精神の勝利」「文化の勝利」そして「平和の勝利」を願うかな。

そういう思いで将来行って見たいと思うのである。

グランプラスという空間

2011-10-30 | 訪問場所・調査地
ブリュッセルの「中心空間」は、グランプラス(Grand-Place大きな広場)であろう。これはフランス語である。

ビクトル・ユーゴーは、「これは世界一の広場だ」と言ったようだ。世界遺産となっている。

プラスとは、Placeでありフランス語では「場所」という意味と「広場」という意味を併せ持つ。フランスなどヨーロッパでは、「大事な場所が広場」なのだ。

他国語では、場所及び広場を表す言葉は、ドイツ語ではPlatz(プラッツ)、スペイン語ではPlaza(プラザ)、イタリア語ではPiazza(ピアッツア)などで同じような言葉になっている。

このブリュッセルのグランドプラスには市庁舎(15cのゴシック建築)も面しているが、中世の職人の扶助組織の「ギルド」の建物も面している。それらの建物には、それぞれの守護聖人の彫刻も刻まれている。

また、ベルギー特産のチョコレートの老舗(ゴディバ)や新勢力の店も、この広場に面している。

ここで7月には盛大な祭りがあるようだが、今回は10月なので見られなかった。

このグランプラスからは色々な店があるレストラン街、世界一古い「アーケード商店街」、有名な小便小僧像にもすぐ行ける。

ところで、私たち夫婦は、夜の自由時間に、ここからホテルに帰るのに迷子になって1時間以上ウロウロした。こういう場合には、元に戻って、一度は歩いた道を行くのが一番いい。

こうして21時半過ぎにたどり着いたが、ホテル隣のレストランでビールにありついてホッとしたのだった。

ベルギーという国

2011-10-30 | 訪問場所・調査地
ベルギーは、「北」にオランダ、「南」にフランス、「東」にドイツ(ルクセンブルグ公国もあり)があって、北側はオランダ語圏(フランダース地方)、南側はフランス語圏(ワロン地方)、一部ドイツ語域、ほぼ真ん中の首都ブリュッセルは、フランス語、オランダ語両方が公用語になっている。

従って、ブリュッセルでは、交通標識も、フランス語、オランダ語両方で書いてあるが、オランダ語圏(フランダース地方)に行くと、オランダ語だけ、逆にフランス語圏(ワロン地方)に行くとフランス語だけになる。全体としてはオランダ語6割、フランス語4割だが、ブリュッセルではフランス語が6割になるようだ。

このツアーに一緒に参加した私より高齢の男性が、国内で違う言葉が公用語なんですねー、と感心していた。私は、他にはスイスのようにフランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマン語の4つが公用語のところもありますよ、と言っておいた。日本にいると、考えもしないことだろう。

特にベルギー語というのがなく、こうなってきたのは、長い歴史の結果であろう。ベルギー史をしっかり勉強すると、ヨーロッパ史が分かるかもしれない。ベルギーはローマ帝国、フランク王国、ブルゴーニュ公国、ハプスブルグ家、ネーデルランド王国(オランダ)を経由して、ベルギーが独立した1830年(10月4日)ころからも、ヨーロッパの他国(ドイツ公国)から王様(レオポルド一世)を招いた国柄である。

日本の近代が1868年に始まったとするとベルギーはそれに先立つ1830年に「近代」が始まったと言える。ヨーロッパ列強に遅れて「植民地」を取りに行き、アフリカにベルギー領コンゴを得ている。ここのゴム採取や鉱産物などにより1900年前後のレオポルド二世時代が、「一番」繁栄したとのことだ。ブリュッセルにレオポルド二世が造ったという宝の蔵が五つもあり、1900年のパリ万博に日本から出展した「五重塔」をレオポルド二世が気に入って、買い取って、現在もブリュッセルに現存している。

ブリュッセル人もレオポルド二世を偲んで「レオポルド二世通り(LeopoldⅡ)」という通りをつくっている。

現在は、オランダ語圏は主にプロテスタント、フランス語圏は主にカソリックとのことだった。全体としてはカソリックのようだ。人口は全体でほぼ1千万人、首都のブリュッセルは1割のほぼ100万人である。全体面積は九州位である。

政治・軍事・経済から言うと、ヨーロッパ「全体」のEUの本部、NATOの本部がブリュッセルに置かれているが、国内的には、議会は、全体議会、ワロン地方議会、フランダース地方議会、首都圏議会が重層的にあって複雑なようだ。

オランダと合わせて「ネーデルランド」と言われ、平地が多いが、オランダが殆ど平地ばかり(海抜0メートル以下もある)なのに対してベルギーは北のオランダ続きのフランダース地方は、ほぼ平地だが、南のワロン地方のアルデンヌの森あたりは山地である。

案内人のS.さんに聞いたら、ベルギーのバス運転手でアルデンヌを走る分には良く起伏を知っているので安心だが、オランダからの続きでオランダのバス運転手で走る場合、気をつけないと、とのことだった。ブレーキを踏みすぎて煙が出たこともあったという。今回は、もちろんベルギー人の運転手でアルデンヌの森を走ったので安心だった。


ベルギーの3泊(実質)旅行

2011-10-29 | 訪問場所・調査地
前のブログに書いたように今回「古希自分祝い」旅行で、妻と一緒に初めてのベルギーに行ってきた。ベルギーは、余り良い気候の国ではないようだが、今回は、「行いが良かったか」明け方に二日ほど降られたが、目的地では、殆ど傘は要らなかった。

ブリュッセルに3連泊して、そこからバスで地方に行った。連泊は、スーツケースを整理して毎日ごろごろ転がす必要がなく、「年寄り?」には良いかもしれない。

ホテルで「枕銭」を試しに毎日徐々に「上げていったら」案の定、掃除のやりかたが段々丁寧になったような感じだった。そういう「遊び」も出来た。

今回は、某社企画のグループ旅行、結局全体で36人の参加、男性8人、女性28人で圧倒的に女性優位、このうち7組が夫婦ないしカップル、男性一人(60歳代)、女性で夫婦ないしカップル以外は、日本では夫婦ないしカップルなのだが旅行には単身で来たのか、元々単身なのか分からない。

まあ、目分量で年齢構成をみてみると、私ら夫婦より年配(70歳から80歳位)は、4組(8人)、「単身」60歳代は男女3人、50歳代夫婦2組(男性一人は自営、もう一人はサラリーマンだが夏休み取れず、その替わりに今回参加と言う)、あとは40歳代、30歳代で20歳代はいなかったと思う。私らも含めて65歳以上がほぼ1/3の11人、なかなかのものだった。

行った所は、一日目:ブリュッセル市内、   二日目:アントワープ、ブリュージュ、
三日目:アルデンヌ地方の古城など、   四日目:ゲント である。

毎日、ブリュッセル市内を抜けてバスで地方に行くのだが、大体行き帰りはブリュッセルの通勤ラッシュに巻き込まれた。特に三日目や最後の日は、例のギリシャ危機の処理の問題でのEUサミットがブリュッセルのEU本部であったので、サルコジ仏大統領やメルケル独首相らが集っていて交通規制がかかっていて大変だった。

ブリュッセルの交通渋滞は、毎日のようであった。歩道や自転車道も一部駐車場になっていて「大変だな」と思った。渋滞解消のため地下道もあちこちで掘っているが、バスは通行禁止で、我々はノロノロと地表を進むのだった。

以下、印象に残ったことを書いていきたい。

ベルギーに行ってきます

2011-10-21 | 訪問場所・調査地
明日からベルギーに短期間行ってきます。ベルギーに行くのは生まれて初めてです。
 古希(70歳)になったので、その「古希自分祝い」旅行です。

まあEUの本部が首都のブラッセルにある、という意味でヨーロッパの「中心」ではあるが、フランスやドイツに比べ遙かに小国である。

今までヨーロッパで行った国々は、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スイス、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウエーの10カ国かな。

それぞれの国々は世界史、日本との関係では色々あり、結構はっきりしている。

ところがベルギーは、世界史での役割、日本との関係はどうなのか、私にとってはっきりしていない。皆さんは、どう位置付けられますか。

今度の旅は、それを明らかにするのも一つの目的かな。まあ気楽に楽しみたい。

ベルギーのこと、特に既に行かれた皆様、色々教えてくださいね。

西山夘三先生ゆかりの地ウオッチング

2011-05-15 | 訪問場所・調査地
昨日、新建築家技術者集団(略称:新建)(関西、主に京都支部と奈良支部)企画で、京都で西山夘三先生ゆかりの地ウオッチングがあり、出かけた。晴れて良かった。

西山夘三先生は、1911年大阪生まれ、京大の建築学科で「建築計画」「地域生活空間計画学」講座の教授を勤められ、1994年没(享年83歳)、今年は「生誕百周年」の年である。

実は、西山先生は私の恩師でもあり、京大を63歳で定年退官される時(1984年3月)に助手を勤めていたのも私である。

西山先生は「計画学」の調査研究で大きな業績をあげられたが、いくつかの建築作品、構築物の設計にも取り組まれてきた。今回、「生誕百周年」にあたり、それらを京都市内で見て回ろうというものだった。折角だからと他の建築なども見た。

コースは、京大病院前(南側)にある京都教育文化センターに集まって、京都教育センターから始めて、以下、岡崎公園、白川堤町を経て知恩院境内の京都解放戦士の墓まで歩いた。

懇親会は、祇園のロシア料理店「キエフ」であった。参加者は、地元の京都支部が一番多く、次いで奈良支部(9名)、大阪支部、兵庫支部は各1名で全部で30名近くいた。懇親会には20名ほど参加した。以下、それぞれ興味深い話があったが、筋だけ書いておく。

・京都教育センターについては蓮仏 享さん(元京都建築事務所所長、80歳)が説明された。1960年ごろから話が起こり1964年竣工。(後で見る京都会館との「対比」は?、当時は「打ち放しコンクリート時代」で共に影響を受けている・・・)

・岡崎公園へ(今回は時間の関係で西山先生ご自身の設計の墓のある西昌寺に行くのは止めた)ここでは、京都支部の方から前川国男設計1960年の京都会館改築(改装)問題について説明があり、近代建築の「遺産」とも言えるこの建築は保存すべし、とのことだった。「ローム」という会社が50年間50億円で命名権を買い取り、オペラが上演出来るように改築(改装)計画を進めているようだ。デザインも問題だ、ペントハウス部分など。

・並河靖之七宝館前を通り白川堤町へ・・・地域住民の北村さんと京都支部のK.さんから説明があった。西山先生が、マンション建設に対して建築審査会で住民の立場に立って、高層に反対、結局、住民運動の圧力で中低層にさせた、とのことだ。

・知恩院境内にある京都解放戦士の碑に行く。京都支部のH.さんから説明あり、彼は改修設計に携わったようだ。私は初めて見た。東山通りから東に入って華頂大学(短大含む)の新しい京都景観条例後の建物を見ながら行く。


・18時前からの懇親会は、祇園のロシア料理店「キエフ」に行った。キエフ市は京都市と姉妹都市である。例のチェルノブイリ原発の近くの大都市だ。この店は、歌手の加藤登紀子さんの兄夫妻が経営している。その夫妻(70歳代)が店に出ていて挨拶に来た。「強い」ウオッカはやめにしてビールとワインで喉を潤した。結構歩いたので美味しくはらにしみた。

9月3日(土)には、西山記念文庫によるシンポジュウム、9月11日(日)には新建によるシンポジュウムがある。又、次第が決まればブログに又書きますね。