西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

布野修司さんから転居通知受け取る

2006-06-30 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
滋賀県立大学教授の布野修司さんから転居通知を受け取った。京都市左京区の京大の近くから琵琶湖に面する彦根への移住である。布野さんは東大・建築の鈴木成文先生のゼミ出身、しかし昭和40年代の大学紛争で普通のゼミ生活でなかったかもしれない。彼は、東洋大学に勤めたことでアジア(東洋)に取り組むことになった。その業績が認められ京大の西川幸治教授に引っ張られ京大に来られたが、色々「苦労」の末、滋賀県立大学に移った。京都では学生の横の繋がり(CDL)の結成を後押し、広原盛明さんらも押し立てて頑張ったと思う。西山卯三先生の評価に関して西山先生が亡くなった直後から取り組み、発言しておられる。私としては全部認めるわけではないが、大いに参考になると思っている。
滋賀県は古代から交通の要衝で文化財も多い。布野さんは山陰の松江の出身、アジアも広く歩いているから大都市と違った雰囲気の所に住むのも苦にならないだろう。暇になったら是非、布野さんの案内で彦根周辺を歩いて見たい。まあ、しかし布野さんは当分は暇にならないと思うが・・。私が奈良女にいる時、院生のため特別講義に来て頂いて有難う。今後とも宜しくね。

1941年度(昭和16年度)生まれ

2006-06-30 | 金沢の思い出
私は1941年(昭和16年)6月に金沢で生まれた。この1941年度(1941年4月1日~1942年3月31日)生まれは、どういう世代か一寸考えてみたい。
・生まれた年に「太平洋戦争」が起こった。(1941年12月8日)
・アメリカ軍のB29爆撃を実際に覚えている最後の世代、1945年は4歳位である。
・戦後民主主義教育の最初の世代。(1948年小学校入学なので新教育2年目であった)
・小学生の頃に朝鮮戦争が起こり(1950-1953)スターリンが死んだ(1953.3)。
・高校に入る頃(1957年)に高度経済成長が実質スタート。
・高校卒業、大学入学頃に「安保闘争」(1960年)
・大学卒業の頃、就職はほぼ「フリーパス」、名神高速道路、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された。(1964年)
・大学院生の頃に大学紛争、1970年に大阪で万博があった。
以下、現在に至る・・。同世代には、安藤忠雄さんがいる。彼は、何処の大学も出ずに東大教授になった稀に見る建築家だ。1歳年上に亡くなった地井昭夫さん、「イマジン」のジョン・レノンがいる。1941年度生まれの皆さん、頑張っていこう。

地井昭夫さんの思い出

2006-06-30 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
今朝、神戸大の山崎寿一君から電話があって、広島国際大の地井昭夫さんが亡くなられた、と言う。食道がんだったようだ。去年の大阪(近畿大学など)での建築学会大会の時に特別に二人で会って、広島の「田舎」の彼のセカンドハウスで囲炉裏を囲んで駄弁ろうと約束していたのに・・。思えば、地井さんが早稲田大学から広島工大に移られ、私が豊田高専から京大助手になってから本格的付き合いが始まったのではないか。37年ほど前である。彼は大学では私と同期(彼は早稲田大学吉阪隆正研究室出身、歳は一つ上)、私は『建築雑誌』に「漁村を見直す視点」の記事を書き、京都府の伊根町や熊本の水俣に取り組みだした頃、既に彼は日本の漁村計画に精力的に取り組み伊根町にも私より一歩先に入られ調査しておられた。早稲田で彼の同期で大学院は京大に来た霜田 稔君(元鳥取大教授)と一緒に京都の天性寺で語り合ったこともある。その後、金沢大学教育学部に転任、金沢が私の郷里だったこともあり金沢で何度か会った。彼が後押しする金沢の雑誌に寄稿したこともある。地井さんの遠い先祖は加賀の小松出身と言っていた。私の親父の先祖は大聖寺藩の出だから近くである。彼は、早稲田の吉阪先生を深く尊敬しておられ、吉阪先生が亡くなられた時、精力的に吉阪隆正全集の出版に取り組まれた。(私の書棚にもある、早稲田の吉阪研出身は大抵ユニーク、吉阪先生の薫陶によるだろう)
その後、広島大学学校教育学部教授として赴任、以来、広島で過ごした。瀬戸内海沿岸や島に沢山漁村があって良い、と言っていた。子供の名に「漁夢(あさむ)」と付けるほど漁村に入れ込んでいた。昨年の建築学会の時、農村計画委員会集住文化小委員会編集の『集住の知恵』(技報堂刊)を買ったが、やはりそこで地井昭夫さんは「舟小屋」を執筆、伊根浦を紹介している。昨年会った時に地井さんは、広島で田舎にセカンドハウスを作り田圃で米も作っている。その飯を食い上手い広島の酒を飲んで囲炉裏を囲んで語ろうよ、一度おいでよ!と言われていた。前の冬は駄目だったので今度の冬かなと思っていたのに・・。伊根町にも一緒に行って、「舟小屋が岡に上がって妻入りになる」という彼の説に対して、案外、伊根では平入りが多いことをどう解釈するかの見方の違いをディスカッションしたかったが出来なくなった。安らかに眠ってください。もし起きたら、吉阪隆正先生に宜しくね。(図は、建物、集落の方向性に執着していた地井さん描く鎌倉・鶴が岡八幡と海)

ダイニングキッチン成立の歴史的条件と現状についての一考察

2006-06-29 | 京都の思い出(学生時代)
「ダイニングキッチン成立の歴史的条件と現状についての一考察」とは、多分、私が1964年1月頃に京大建築学科に出した卒業論文のタイトルだ。「多分」と言うのは、そのコピーが手元にないからである。詳しいことは飛ばすが、その後、そこで得られた自分流結論は、その後、他の研究に取り組む場合も一つの「ガイドライン」となった。(1)戦後の「女性解放」という歴史的条件の変化が背景にある。・・何事も歴史的背景を考える重要性。(2)冷蔵庫、排気ファン等の台所回りの技術的整備。・・空間回りの設え等の技術的状況の把握。(3)椅子坐の普及。・・生活様式の変化の読み。(4)空間的節約志向。・・空間への思い。
私の指導教官だった西山卯三先生からは、何故か「51年C型公営住宅におけるダイニングキッチンの東大の吉武泰水先生の研究室での「発明」」について説明して貰えなかった。
当時、1951年時点で、西山先生がこれをどう評価しておられたのか、「西山文庫資料」で、これも知りたいことである。傍証では青木正夫九州大学名誉教授(1951年当時、東大院生)が京都まで来られて進々堂(喫茶店)で西山先生にダイニングキッチンのことを「きっちん」と報告されたらしいが、「ケンモホロロ」だったとのことであるが・・。(青木発言は、西山文庫シンポジュウムでの発言より)
後日の西山先生の著書(『住まい考今学』)では、私の整理に良く似た整理の上にダイニングキッチンを評価されているのだが・・、だとしたら、どの時点で評価が変わるのだろうか、私の学生時代はひょっとして未だ昔のままで、私の卒論で変わった、なんて分かったら面白いのに・・。




香里団地のマスタープランと現実計画

2006-06-29 | 地域居住学
1955年に日本住宅公団(現・都市機構)が出来、関西の枚方市の香里で計画的団地をつくることになったが、今のようにそのような技術が蓄積し、関連コンサルタントもいる状況ではなかったので、公団は当時、関西の住宅研究の「メッカ」の京大西山研究室にマスタープラン作成を依頼した。そのマスタープランは残っているが、それを見ると現実プランと大枠範囲は同じようだが、中味が随分違うようだ。これを細かく検証するのは研究の域に入るので、ここでは仮説的に一二気づくことを指摘しておきたい。先ずこのマスタープランは私の見るところ、当時、西山研「番頭」だった絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生のアイデアが中心になっているのではないか。そして、中央部「へそ」の場所に「市民劇場」や「野外劇場」がぶらさがっているのはイギリスのハムステッド田園郊外からヒントを得ているのではないか。又、長大住棟が丘陵の尾根、谷、尾根と渡っていてピロティで支えられているのは、ル・コルビュジェの影響ではないか。若い絹谷さん(当時30歳台)の意気込みが感じられる。これらは、実際に西山先生のアドヴァイスも含め、どういうプロセスで発想されたか、西山記念文庫の資料で明らかにしていきたい。(写真は、現在の欅並木通り、他に桜並木通りもある)

高齢者世帯800万を越す

2006-06-28 | 時論、雑感
時事通信によると「65歳以上の「高齢者世帯」が推計で800万世帯を突破したことが、厚生労働省が28日発表した2005年国民生活基礎調査で分かった。」私もここに含まれる。このうち2/3ほどが恩給や公的年金だけで生活している。500万世帯ほどである。私は若干年金以外の収入があるが、年金は大幅にカットされている。この800万という数字は「末広がり」でどんどん増える。
とにかく我々は、1票を持ち、人生経験も「豊富」、日本の将来を左右することを自覚して進んでいこう!

人生最初の海外旅行

2006-06-28 | 奈良の思い出(助教授時代)
今だったら学生時代に、遅くとも新婚旅行で海外旅行を体験しているのが普通ではないか。私の学生時代には、AFSやフルブライト奨学金でアメリカ等に行っている人もいたが、それは全くの少数派、今で言うエリートだけだった。
私が最初に海外に行ったのは33歳の夏休み、国土研で行ったヨーロッパへの「崩壊ダム地域調査」だった。1974年で羽田からアラスカのアンカラで中継、オランダのスキポール国際空港に着いた。ガランとしたダダ広い空港だった、早朝着いたので人影が少なく、なお広く感じたのかもしれない。(ブログ05年11月29日参照)
Schiphol空港とは、英語で言うとShip+hole、船の穴という意味のようだ。つまり、埋め立て前は船が遭難するような所で、遭難船が海底の穴に沈んだのであろう。これは後々に知ったことである。先だって亡くなられた国土研・理事長の木村春彦先生(元、京都教育大学教授)が団長だった。本当に「断腸の思い」である。
(写真は崩壊したマルパッセダムの跡地、ダムは無駄だ!)

ポツダムのアインシュタイン塔

2006-06-28 | 住まい・建築と庭
今ドイツでワールドカップサッカーが行われている。私もドイツに何度か行ったがいわゆる「東ドイツ」に行ったのは1回だ。勿論ベルリンの壁が崩壊した後だ。現在、滋賀県立大学教授の水原 渉さんと「オペル」を借りてドイツ中(?)を回った時だ。ベルリンの郊外のポツダムに有名な「ポツダム宣言」の相談をした会議場があるが、同時に近代建築史の上では有名なメンデルゾーンの設計になる「アインシュタイン塔」がある。ここにも水原さんと行った。その時は不覚にも、この建物の位置づけが明確に分らなかった。でも今回『建築史』の勉強をして、20世紀初頭の合理主義に反発する「ドイツ表現主義」の流れに位置づけられる、と分った。道理で「ぐにゃぐにゃな形」なのだ。勿論この建物はノーベル賞のアインシュタインを記念する建物である。(1921年)これも「大戦間建築」である。

女子大生、身代金目的で誘拐される

2006-06-28 | 時論、雑感
『毎日新聞』ニュースでは「テレビや雑誌でもてはやされた「カリスマ美容外科医」の娘が狙われた。東京・渋谷の明治学院大4年、池田果菜子さん(21)が26日正午すぎ、自宅近くで襲われた身代金目的誘拐事件は、警察が27日未明、監禁現場に突入し、13時間ぶりに解決した。容疑者は、日本、韓国、中国籍を持つ3人組。」とある。これによると、テレビや雑誌の情報が、容疑者に「その気」を起こさせた可能性が高い。とにかくマスコミが何事もセンセーショナルに報じると、それが「一つのヒント情報」となって次の事件の原因の一つになる、という構造、これを何とかしないと、と思う。同時に、こういうブログ情報の書き方も十分考えていかねばなるまい。

準々決勝でブラジル、フランスが対戦へ

2006-06-28 | 時論、雑感
ワールドカップ・サッカーではベスト8が出揃った。ドイツ対アルゼンチン、イタリア対ウクライナ、イングランド対ポルトガルそしてブラジル対フランスが次の準々決勝のカードだ。全部わくわくする対戦だ。まあヨーロッパと南米が残ったわけだ。ここに日本が来るのは何時のことだろうか。
今日ブラジルとガーナは前半のブラジル1-0後のガーナの攻めは素晴らしかったが、2-0になって足が一寸止まった。結局3-0でブラジルの勝ち。
フランスとスペインは、スペインがPKで先制、しかし前半1-1になると後半フランスは全員で守りスペインに決定的チャンスを与えない。逆に前々回の優勝の立役者の司令塔ジダンの見事なフリーキックの狙い、最後の自ら持ち込んでのキーパーの動きまで読んだ決定的シュート。3-1でフランスがスペインを倒した。
次に王者ブラジルもジダンの輝きに、こればっかりは「示談」という訳にいかず、ひょっとして「地団駄」踏むかもしれない、とふと思ったが・・。

Inter-war eraに西山夘三先生の時代を重ねてみよう

2006-06-27 | 地域居住学
前の記事を書きつつ、1919年から1939年と言われるInter-war era(大戦間時代)に若き西山夘三先生の時代を重ねてみたらどうなるのか、とふと思った。西山先生は1911年生まれ、1933年に京大建築卒、ナチスがドイツで政権を握る時代だ。ヨーロッパではCIAMの活動がル・コルビュジェ等の活躍で展開されていた。まあ、その「最小限住宅」と西山先生の「食寝分離論」はどうクロスするのか。国際的視野で位置づけてから「発信」したら、と思う。
mixiの「西山夘三」コミュニティにも書いておこう。

建築分野でもInter-war eraは豊潤時代か

2006-06-27 | 住まい・建築と庭
都市計画分野では、1919年から1939年の20年間のInter-war eraは豊潤時代ではないか、と前に書いた。(ブログ6月15日参照)近隣住区論やアテネ憲章等が生まれたからだ。建築設計の分野でも、ロッテルダム派(デ・スティール派)、ワイマールのバウハウス、フランスの純粋派等が活躍、アメリカでは高層建築花盛り、日本でも分離派が新風を吹き込み、ライトが帝国ホテルを作っている。国際的にCIAMも生まれた。
どうしてInter-war eraは豊潤時代なのだろうか。一方では1933年にナチスが政権を握るとかもあるが、1929年の大恐慌のあとのニューディール政策で、公共建築が沢山建てられたからだろうか。とにかく、この20年間は都市計画でも建築デザインでも興味深い時代である。

ウクライナ健闘、PK戦でスイスに勝つ

2006-06-27 | 時論、雑感
ワールドカップサッカーも決勝トーナメントに入り佳境に入ってきた。今日の戦いで、ウクライナースイス戦は延長も戦ったが点が入らず、PK戦となり3-0でウクライナが勝利をおさめた。今までのベスト8選出過程で初めて私の予想が外れた。ドイツ、アルゼンチン、イングランド、ポルトガルと来て今日はイタリアだが、これらは予想通りだ。今日は、とにかく120分の戦いではウクライナはスイスに一歩も引かぬ戦いぶりだった。
PK戦で最初に蹴ったウクライナのエースのシェフチェンコが止められ、どうなることかと思ったが、これで硬くなったかスイスは連続で止められ万事休した。
益々決勝リーグが面白い。寝不足が続く。ま、副産物で職場に早く行ける。

動物園が好きですか、植物園が好きですか。

2006-06-27 | 生活描写と読書・観劇等の文化
動物園が好きですか、植物園が好きですか、と聞かれたらどう答えますか。私は、現在なら、植物園ですね、と答える。でも大抵の子供は動物園だと言うと思う。私の男の孫が未だ小さい1,2歳の時、私が夏に彼を「カート」に乗せて散歩するとき、近くに「むくげ」や「さるすべり」の花が綺麗に咲いているので、「綺麗だね」と言って立ち止まって見せようとするが、犬が横を通ると、すぐそちらに行こうと催促する。近くの池に鴨などがいたのだが、「そちらの池に早く行け」と催促の風。ま、動物としての人間は、先ず動くものに注目するのは仕方がないか、と思った。
だけど、私くらいの年齢になると、やはり「いそがしい動物」より「泰然自若の植物」がよくなる。林の中を歩くと「ほっと」する。生物のベースは、やはり植物ではなかろうか。(写真はロンドンのKEW GARDEN)

近江隆東北大学教授定年退職記念冊子受け取る

2006-06-26 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
今日、近江隆東北大学教授の定年退職記念冊子『空間の社会・建物の社会』を受け取った。今年3月に退職で私より「1年後輩」ということになる。彼は、東北大学建築学科の佐々木嘉彦先生の研究室の出身だ。この冊子をぱらぱらと読んで、彼が2年生の時に「建築学生会議」で京大にやってきて絹谷祐規助教授(当時)に話しかけられたことを知った。私も4回生で当時、京大にいたのだが会う機会がなかった。その後、「若手」研究者としての交流があった。農村のことを取り上げた学位論文を貰ったこともある。いつぞや教え子の結婚式で山陰に行ったとき、彼も参加していて(教え子が仙台に行って近江さんの世話になったようだ)偶然会って彼から「今、カヌーでの川くだりに熱中している」と聞いて「へー」と思ったものだ。私は彼は仙台と言う地の利を活かしてづっと農村計画の問題に取り組むのかな、と思っていたが、その後、仙台でも増えてきたマンションの問題に取り組んだようだ。彼の東北大先輩で、京大大学院では私と同期の梶浦恒男さんのマンション取り組みから影響を受けたかもしれない。今は又、農村、樹木保全等に関心が回帰してきたようだ。ゆっくりと駄弁りたいと思っている。