西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

思い付き言葉で日記書くー医と食ー

2014-04-30 | 言語・字・言語遊戯
日記に書くことないな、と思ったら、思いついた言葉、気になる言葉、知人から聞いた言葉、とにかく言葉についてあれこれ書いたら良いのでは、と思う。(他には日常茶飯事について書くのも良い)

医は仁術・・・「赤ひげ先生」ではないが、医は「金儲けの手段」ではなくて「真っ当な人の道である」、ということだ。


医食同源(薬食同源)・・・健康は食の吟味から、ということだ。

食育第一・・・これは、僕が今言った言葉である。今日のテレビ「スーパー・プレゼンテーション」で、あるイギリス人がアメリカで「肥満が解消されたら、アメリカは世界に貢献するだろう」と言っている。そのためには食育が大事だ。

  教育論でも、食育第一に続き、第二は体育、第三が徳育そして第四が知育である、と認識すべきであると僕は思う。どうでしょうか。

「間の研究」をやってみたい

2014-04-16 | 地域居住学
今日、たまたま岩波新書の大岡 信著『新 折々のうた1』をパラパラと見た。

で、最初のうたが「橋一つ越す間(ま)を春の寒さ哉(かな)  夏目成美」であることを知った。

ここでの間(ま)は、まあ「空間の間」であると思う。しかし、これを読んで考えるに、「間」という言葉は、空間の間であると同時に時間の間

でもある、と思った。 「間の研究」をやってみたい。 

先輩の「お別れ会」に行く

2014-04-06 | 地域居住学

昨日、4月5日、大学での同じ西山夘三研究室の1級上、3年先輩の三宅 醇さん(豊橋技科大名誉教授、4月1日没、享年75歳)の「お別れ会」に間に合うように豊橋に出かけた。

道中、新幹線は神戸大教授の山崎寿一さんと一緒、豊橋駅で京大教授の高田光雄さんに会って一緒に会場「ディア(涙!)豊橋南会館」にタクシーで行った。

15時過ぎから始まった「お別れ会」は、面白かった。亡くなった三宅さん自身も「面白くしてくれよ」というメッセージを言っていたとのことだ。

仏式でも神式でもキリスト教的でもない、宗教に一線を引く新しいやりかただと思う。

正面を見ると、三宅さんのお棺が中央に据えられ、後ろや横は花で飾られている。花の色は普通の葬儀では、白や黄色であるが、ここでは派手な赤やピンクの花も多い。花畑のようだ。三宅さんの遺影は、にっこり笑っており、背景は故郷、中津川の恵那山とのことだ。この風景は、今まで毎年貰っていた年賀状にあったと思う。

三宅さん自身が、亡くなる間際の意識がはっきりしている時点で、「お別れ会」のプロジューサーとなり、色々指示されたようだ。

「皆さん、来ていただき有難う・・・」のような三宅さんの肉声録音も流された。

弔辞は5人もあり、色々な面から三宅さんの人となりを浮かびあがらせていた。森本信明さん、小川正光さん、正田要一さん(豊橋技科大・三宅ゼミ一期生)、田中 勝さん、住田昌二さんだった。三宅さんが最後の仕事としていた『日本住宅事情史』は、住田さんがバックアップされて三宅さんの弟子の田中さんが完成させるという方向も明らかとなった。

三宅さんと奥さんの結びつきの接点の一つは、コーラスであり、奥さんとそのグループに参列者も加わって「はるかな友へ」「あかとんぼ」「ふるさと」を合唱した。皆が参加意識を高めたであろう。

参列者全員の献花のあと、家族(奥さん、長男、次男、長女)の挨拶(参列お礼と「思い」の開陳)がそれぞれあった。ご長男が、病状の進展具合(最後に自ら設計された自宅に一日だけ戻ったこと含む)もあり、お骨は、豊橋技科大を下に見る寺院に収められ、何時も過ごした技科大を見られるように三宅さんの意をくむ配慮も感じられた。

ご長男の閉会の辞で、約2時間余の「お別れ会」は終わった。個々人で花を三宅さんの眠るお棺に収めた。

奥さんやご長女に昔、拙著(家内との共著)『キラッと輝くいい住まい』(彰国社)に収録するため三宅さんのご自宅を家内と共に訪問し、聞き取り調査をすると共に一泊させてもらったお礼をも言っておいた。ご長女の「あきさん」が、僕が3月27日に出した手紙を、三宅さんの枕元で読みましたよ、と言われた。「良かった、間に合った」と思った。

久し振りに会った人たちと言葉をかわした。後の自主的「二次会」で友人に聞くと、見逃した知り合いが多い。200人にもならんとする参列者で、言葉を交わせなかったのは残念だったが、今後あったら三宅さんのことや、我々の「終活」についても話したいものだと思った。

桜と僕

2014-04-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化

生まれてからこの方70数年、数々の櫻に会ってきた。皆さんはどうですか。恐らく「様々な事 思い出す 桜かな  芭蕉」であると思う。

僕の場合、先ず生まれた町が「櫻畠」であり今住んでいる町が「桜が丘」で、初めと現在、「さくら」に因縁がある。

実際の桜については、生まれてから高卒まで金沢・兼六園の桜、京都に来てからは琵琶湖疏水べりの桜、就職して豊田に行って豊田高専の門前の桜並木、奈良女大に行って構内の桜、中庭の通りは「桜通り」と「ケヤキ通り」だった。記念館の緞帳は卒業生・小倉遊亀さんの「爛漫」で見事な桜だ。

爛漫や 切に西行 招きたし   市路

(注:西行の「辞世歌?」→願わくば花の下にて春死なんその如月の望月のころ  西行)

今住んでいる「けいはんな学研都市域」にも素晴らしい桜がある。

今後のことを言えば、あの世に行く前には、奈良南の吉野の色々な桜を愛でていきたい。西行は訪れたようだが、正岡子規はどうだったのかな

三宅 醇先輩の訃報に接す

2014-04-01 | 京都の思い出(学生時代)

本日、三宅 醇先輩(豊橋技科大名誉教授)の訃報に接した。昨年の11月に三宅さんからお兄さんの喪中の知らせがあって、そこにはご自身の「対癌戦争」について触れられてあったのでビックリしたが、今後治療に専念するので、「訪問は断るが手紙は歓迎(ただし返事は遅れる)」の旨が書かれていた。

で、2週間ほど前に西山夘三記念文庫のメーリングリストを介して、容体が思わしくない旨の知らせを受け取っていた。 そこで、先週、色々考えた末、思い出しの手紙を出した。とにかく付き合い全体は、大学院生(1964年頃)までさかのぼるので50年(半世紀)になり、思い出、思い出しは無数にある。ゆっくりかみしめていきたい。

それより何より三宅 醇先輩のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

考えてみると、三宅さんが2014年4月1日、先生の西山夘三先生が20年前の1994年4月2日(明日)没ですね。今ごろ、三宅先輩は西山先生と語り合っているかもしれませんね。