西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

木表と木裏

2005-11-09 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日の「生活環境フィールドワーク」で、杉材で椅子兼物入れを仕上げたのだが、その過程で、指導をお願いした高槻市の「森林組合」に勤める若い大工・小野さんに「木表と木裏」を実地に教わった。私は、彼女等に対して「春学期(=前期)」に「建築一般構造」で「木表と木裏」について概略を話したが、今日のように「腑に落ちる」説明をしたかどうか疑問だ。だから、もう一度、反芻して説明しておきたい。このことは、奈良女子大に勤めていた時にも「一般構造」を教えていた時期があり、その時期の卒業生が、このブログを見ていたら、復習と思っていただきたい。(写真は、木表側を示す)
(1)木表(きおもて)とは、樹木の中心からみて外側である。だから、逆に木裏(きうら)は中心部の方である。(2)材の中心部は「赤身」であり、外側は「白身」である。だから、年輪を見ずに木表、木裏を判定する方法は、赤身が多いのが木裏、白身が多いのが木表である。(3)木表と木裏と、どちらに反ってくるかと言うと、木表の方である。これは現在の私の考えでは、年輪が真っ直ぐになろうとするので、木表に反るのだ。(4)釘を打つ時、年輪が見える側に打つのと木表、木裏に打つのとどちらかを選択する場合には、年輪側は避けた方が良い。釘が硬い部分に長くひっかりやすく曲がって入る可能性が比較的高いからだ。/  植物材の木は、鉄などの工業材のような均一性がない分、色々考えないといけないが、それが面白いと思わないと、やっていけない。

高槻郷土料理御膳(平女祭の出し物の目玉)

2005-11-09 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今度の土曜日(12日)に行われる「平女祭」に、平安女学院大学・生活環境学部の学生達が先生の指導の下、「高槻御膳」をつくって売りだすようだ。私も前売り券(500円)を買った。まあ土佐郷土料理とか長崎郷土料理と言うと、何となく食べる前から美味しそうである。ところが、「高槻郷土料理」と言っても、それは何なんだ?と思ってしまう。そこで、準備している3回生に聞いた。「説明してもややこしいのでメニュあげます」とコピーをくれた。見ると、飯もの・・栗ご飯、山菜ご飯(選択制) 焼物・・鶏肉の山椒煮(焼き?)、出汁巻き卵、海老の黄金焼き  煮物・・炊き合せ(椎茸、人参、高野豆腐、隠元マメ、生麩)  和え物・・酢の物(若布、胡瓜)  吸い物・・麩と三つ葉のお吸い物  寒天物・・寒天コロッケ、角きりそうめん  香の物・・富田漬け  デザート・・芋羊羹  とある。数年間、実際やってみて「固まってきた」メニューのようである。
「こりゃ、高槻だから高くつき、か?」と聞いたら、いや地元が協力してくれていますので・・とのことだ。そう言えば、朝に高槻市役所のO.さんに会ったら、「平女祭の食材手配で大変だった」と地元食材をあげてくれた。米(樫田米)、栗、さつま芋、干し椎茸、地鶏と地卵、寒天、富田漬け とのことだ。なかなかのものだ。これらを、高槻の木で作ったお箸で、高槻の木で作った「高杯(たかつき、高い御膳)」で食べたらどうか、と「発展形」を提案しようかな。先ず土曜日に食べなくっちゃ。皆さんもどうぞ。
注:高杯(たかつき)・・食物を盛る、高い足つきの小さな台。古くは主に土器であったが、のちには木で作り、漆塗りなどを施すようになった。角(かく)高坏と丸高坏とがある。(辞書より)

母・愛子の思い出

2005-11-09 | 京都の思い出(学生時代)
私の母・愛子は、私が大学2回生の春(1962年)過労の肺炎で亡くなった。実は、色々な事情で、母は父とは、私と妹が小さい頃に別れて、言わば「女手一つ」で金沢で私と妹を育ててくれた。私が京都に「遊学(?)」出来たのも、母のお陰である。母は、戦後、金沢で洋裁学校を始めて、少し大きくし、私が京大に行くといった時に祖母が反対したが、母が「好きなようにすべし、自分が若い頃、奈良女高師に親に反対されて行けなかったから、一朗には自由にして欲しい」と言ってくれたのである。勿論、最終的には祖母も賛成してくれた。丁度、私が京大に入る頃、金沢の寺町二丁目に間口7間、奥行き4間総2階の「高等文化服装学院」という新校舎を母が造った。私の入学式にもついて来てくれた。後から考えると、自分が奈良に行けなかったのを、息子が京都に行くことで「代替」した気持ちになっていたかもしれない。その奈良に後に私が行けたのも何かの縁だろう。私のことや妹の将来のことを考えて、亡くなる前、がむしゃらに働いていた、と後で祖母が言っていた。
母と、京大時計台の前で並んで写真を撮ったのが、母に対する最後の「親孝行」かな、と思っている。

銀閣寺前町

2005-11-09 | 京都の思い出(学生時代)
私は京大4回生から大学院修士課程を修了するまで3年間、銀閣寺前町のⅠさん宅の2階に新しくつくられた6畳間に下宿した。大谷大学から京大大学院文学研究科に進学してインド哲学を専攻していた高校同期の松原 洋君(その後、金沢工大教授)も隣の部屋に下宿していた。サンスクリット語で仏典を読んでいて「凄いなあ」と思ったものである。その下宿は、銀閣寺の真ん前4,5軒目といった所にあり、午前10時過ぎに大学に出て行くときは、下から上がってくる観光客を「かきわけて」電車道まで出ないといけない感じだった。実は、この銀閣寺へも「知る人道」があって、ただで入ったことがある。一度だけだ。大学の建築史の講義で、書院造りの祖形があると聞いていたが、学生時代にはしっかり見ておらず、それを確かめるのは大分後のことである。又、銀閣寺前町は「大文字の山焼きの町内」でもあり、一夏、山の上で燃やす薪を運んで、火をつける手伝いをしたこともある。暑かったが、山の上から逆に京都市内のネオンや明かりが暗くなるのを見たのである。

宇治・橋寺放生院

2005-11-09 | 京都の思い出(学生時代)
京大宇治寮には1960年5月頃から入ったと思う。4月一ヶ月間は、京阪電車の宇治終点で降りて、一寸、宇治川を遡る形で右岸を行くと直ぐ左手にあるのが、橋寺放生院で、そこで下宿したのである。どういう経緯で、ここに「下宿」することになったか忘れているが、とにかく金沢大学附属高校時代の同級生で京都大学の工学部に一緒に入学した中村 武君(建築学科)、小原邦夫君(冶金学科)と一緒にこの橋寺にお世話になった。本堂の仏さんの前で寝て、控の間で勉強、食事は「茶の間」で橋寺の人達とも一緒にした記憶がある。ここで、覚えているのは、私は「レタス」という生野菜を生まれて初めて食べたことだ。小母さんが、裏の畑でとれた、と言っていた。
この橋寺には本堂に重要文化財である本尊の地蔵菩薩像と不動明王像が祭られているとは、後知恵で知ったが、当時は知らずに(或いは住職が説明されたかもしれないが、耳に入っていない!)その前で寝起きしていたのだ。橋寺自体、名前からも想像できるかもしれないが、直ぐ横の宇治橋の架橋、管理に関係のあるお寺である。鎌倉時代に奈良・西大寺の僧が橋供養で建立したようだ。宇治橋自体は、大化2年(646年)に架けられたという「断碑」が出てきて、橋寺にかざってある。
私は、何となく窮屈で、一ヶ月で気楽な寮にかわった。友人二人は、もう少しそこで暮らしていた。卒業してから懐かしくて宇治に行ったついでに一二度寄っている。

黄檗山万福寺

2005-11-09 | 京都の思い出(学生時代)
京大の宇治分校は、京阪電車宇治線の黄檗駅が最寄り駅だった。現在はJRにも黄檗駅があるが、1960年当時は国鉄で、京都方面から来ると木幡の次が宇治で、黄檗はなかった。「黄檗」とは、近くの山手にある黄檗山万福寺に因む。江戸時代、中国から渡った隠元禅師の創建、中国明朝風の壮大な伽藍、伽藍配置である。「門を出れば日本(門を入れば中国)」と言われる。隠元の日本にもたらしたものは、黄檗宗は勿論だが、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚などである。同じ宇治市五ケ庄の宇治寮から万福寺への我々だけの知る「抜け道」があって、ただで入れてもらったこともある。卒業20年位の時に、万福寺門前で普茶料理を皆で食べたのではないか。また行きたいものだ。今度は、勿論、堂々と山門から入ろう。