西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

天龍寺の庭(窓からの理想の風景の典型)

2005-11-23 | 住まい・建築と庭
今朝のNHKTVで紅葉の京都、天龍寺の庭を放映していた。私はこの5月に金大附属高校11期生の卒後45周年の会で天龍寺にも行き庭も堪能した。その頃は新緑であったが、紅葉は一段と綺麗なようだ。夢想国師の作庭になる池の回りを巡る回遊式庭園で、嵐山を借景としている。寺自体は足利尊氏の建立になる臨済宗総本山である。
歴史的に先立つ平安時代の寝殿造りの庭が「原点」かな、と思う。
こういう建物の、(1)直ぐ前が例えば白砂を敷き詰めた空間、(2)その前に池や遣り水、(3)その向こうに植栽、(4)更に向こうに山などの借景という配置は、日本における現代に続く伝統的「住まいと庭の関係」ではなかろうか。
これが、私が思っている「窓からの理想の風景」なのである。
(写真は天龍寺の秋の庭ーインターネット検索)

パリ・アパルトマンの窓からの風景

2005-11-23 | 住まい・建築と庭
これも都筑 清さんの写真から拝借した。パリのアパルトマン窓からの一般的風景は、こんなのかな、と思う。パリ市内20区の居住空間は、殆どアパルトマンだから、一般にアパルトマンからはアパルトマンが見えるということになる。これでは、私の窓からのありうべき風景仮説が成り立たなくなる。大体、ロンドンでは、低層住宅も多く、外に並木も多いので、「樹木の緑が見えること」という私の仮説根幹に大体あてはまる。このパリの「困難」を切り抜けるのは、人間は動物である、つまり一般に好きなところに移動できる、ということである。パリっ子は、こんな風景ばかりでは息が詰まってくるかもしれないので、セーヌ河畔に出たり、ブローニューの森に行ったり、更に遠出で自然に触れようとしているに違いない。名工大の服部千之先生は、時々スイス・アルプスに出かけて英気を養っておられた。当時(1970年頃)は、人工都市の計画者がなんで遠いアルプスまで行くのか、と「不審」であったが、最近ようやく「空間滞在のバランス理論」が分るようになってきた。(写真は、都筑清さんのブログ写真から)

気分転換ー都筑 清さんのアンヴァリッド

2005-11-23 | 時論、雑感
一寸気分転換、私はロンドンも良いと思うが、パリもパリッとした街で又良いと思う。ブログ・サーフィンをしてみたら、ヨーロッパ関係で一番良く見られているのが、写真家の都筑 清さんの「パリ・ブログ」であった。綺麗な写真が多く、関心が多様で、時々覗きにいこう。都筑さんのは、逃げも隠れもしない、自分を堂々と出しているブログで参考になる。でも写真は足元にも及ばない。今日は、都筑さんのアンヴァリッドを紹介し、昔聞いた話をしておく。アンヴァリッドとは、ナポレオンの墓所である。ここに訪れる観光客で一番多いのがイギリス人である、と言う。そこでパリッ子の解釈:「イギリス人は、本当にナポレオンが死んだのかどうか、アンヴァリッドに確かめに来ているのさ」、確かにナポレオン全盛期にはイギリスも飲み込まれそうな感じだったのだろう。(写真は、都筑 清さんによるアンヴァリッド)

向島ニュータウン(9)-4街区の町並み等

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン4街区の町並みは、写真の如きものである。向島ニュータウンでは、もう一ヶ所、国道24号線の東側の7街区が低層であるが、国道24号線から西側の1~6街区では、4街区が唯一低層2階建てで、あとは全て10階以上の高層である。コンクリートの二戸一棟建て(イギリス風にはセミ・デタッチド)で「テラスハウス」と言っていた。これはイギリスの言い方と少し違う。右側が「北入り」、左側が「南入り」である。私は「北入り」に住んだ。自動車車庫を想定した「開いた部屋的空間」が道に面してあったが、私達は当時、自動車を持つ気持ちがなかったので、そこは「内部化」して「応接間風」にした。その後、26年余が経過している。見ると多くは「内部部屋化」している。自動車は、窮屈そうにその前に置いてある。私の家だった家の前面もすっかり変わった。ここのコミュニティでは、「出合い」でどぶ掃除もしたこともあるし、隣近所の葬儀も手伝って、昔の「田舎風」とも言えたが今はどうなっているだろうか。(写真右手手前は「街区公園」、突き当りの高層は、1街区)

向島ニュータウン(8)-4街区の「街区公園」

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
写真は、向島ニュータウン4街区の「街区公園」である。集会所の道を隔てた所にある。看板には「二の丸児童公園」と書いてある。法律で、児童公園が街区公園に変わったが、この公園は児童公園時代に出来たのだ。最近は、児童は減る一方、一方で高齢者は増えている。高齢者が近くの「公園」で憩おうと思っても、「児童公園」と書いてあると何となく使いにくいし、事実、施設も遊具中心だった。そこで、「児童公園」の名称が誰でも使える「街区公園」に変わったのだ。この「児童公園」は「出合い」で月一で掃除していたのではないか。夏に街区の夏祭りもここを中心に行われた。一度、地面を掘り下げて、青色防水テントを敷いて、インスタント・プールを作って子ども達に喜ばれたこともある。夜、ここに高校生等が溜まってうるさく近所から何とかしてくれ、と町内の自治会に諮られたこともあった。街灯を暗くしたら寄り付かないのでは・・、いや逆に煌々と明るくしたら退散するのでは・・との議論もしたが決め手がなく困った。今はどうなっているだろうか。

向島ニュータウン(7)-4街区の集会所

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン4街区100数十戸の集会所は、共有空間で、全戸で管理組合を作っていた。今もそうであろう。大きな洋室1室で、トイレや流しがついていた。管理組合の役員会が月1回あり、年に1回の総会があったが、それらは勿論、集会所で行われていた。夏休みに子ども達の「お泊り会」を集会所でやって子ども達が大いに喜んだこともある。私は、この4街区に16年8ヶ月間ほど住んだが、一度だけ集会所管理組合の役員(理事)をしたことがあり、その時に、4街区の隅々まで分かった。町内の役員は少なくとも一度はしてみるものである。今度、写真の集会所を訪れると、「高齢者施設」といった看板もかかっていた。恐らく行政(京都市)の「施設」に指定されたのであろう。4街区の共用空間というと、集会所、公園、道路なので、この集会所の敷地内に物置小屋を作って、街区の清掃道具等も置いてあった。(写真は、4街区の集会所、左手は住戸、後ろは3街区住棟、右手に3街区に抜ける小路がある)

向島ニュータウン(6)-3街区は「化粧直し」

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンの駅前左手の3街区は七つの住棟で構成されている。京都側からタクシーで24号線を帰る時、宇治川を渡る辺りから良く見えた。現在、三つの棟では大きく覆いがかぶさっていて外壁(外面)全体が補修中である。この街区は、私が4街区に住み始めた1978年3月以降に出来たものであるが、もう25年以上は経っている。だから、ひょっとして2度目の補修(化粧直し)かもしれない。
この街区には、私の知り合いが何人か住んでおられる。奈良女子大で10年ほど「先輩」のE.先生(現・名誉教授)、やはり奈良女子大におられたが京大に替わられた6年ほど「先輩」のS.先生である。阪神・淡路大震災の後にE.先生に聞くと、廊下のつなぎ目の「エキスパンション・ジョイント」のピンが飛んだ、と言っておられたのが記憶に残っている。よほど揺れたに違いない。
(写真は、大きく覆われた3街区の住棟)