西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

昭和20年代(1945~1955年)の再検討『敗北を抱きしめて』より

2011-01-31 | 金沢の思い出
昨日のブログで、昭和20年代の進駐軍やGHQその「親分」のマッカーサー元帥(連合国占領軍最高司令官)の言説や行為あるいは当時「宣伝」されたアメリカ文化の「怪しげさ」を当時の検閲体制の存在とともに指摘した。(入江隆則著『敗者の戦後』(ちくま学芸文庫)による)

で、今日はアメリカ人ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて(上、下)』(岩波書店)を買ってつらつら読みだして、まあ昭和20年代の特に27年4月までの「占領」日本をじっくり再検討する気になった。

当時(アメリカ占領時代)、私は金沢で幼稚園から小学校に通った年代であり、天皇の全国行脚が進駐軍のジープを先頭に金沢も通り過ぎたこと(園児として国旗と星条旗を振っていたのではないか)、進駐軍接収住宅のありようを身近に見たこと、アメリカ文化センターの「温かい、明るい雰囲気」を味わったことなどの実体験はあるが、その意味も噛みしめ、再検討しようと思ったのである。

あること(効果)を狙ってやったことが、思わざる別の効果に繋がることは歴史では絶えず起こっていることだが、日本を「凶暴な軍国主義的天皇制」から根本的に「平和で民主的国家」へと転換しようとしたことが数年を経ずに「軍備国家」に転換させられると言う翻弄がやってくるのもその実例の一つである。

保守・反動主義者は、日本国憲法の非軍事平和主義を、アメリカから押し付けられたと言うが、「再軍備国家」もその後アメリカから押し付けられた国家像であり、(私も含め)日本国民は、より早い徹底した「理にかなう」「押しつけ」(非軍事平和主義)を、より普遍的なものと心底思ったからこそそれが血肉化し、憲法改悪が阻止されていると思う。

こういうことは、もっと言っていかねばなるまい。

進駐軍、マッカーサーの「印象」訂正

2011-01-30 | 金沢の思い出
最近、過去の「頭のつくり変え」が必要だと思うことが多々ある。

その原因は、当時、間違った「プロパガンダ(情報宣伝)」に惑わされていたことがある。その「過去」の一つは、「昭和20年代」のアメリカ(GHQ)による「占領時代」である。

私自身、1948年~1954年(昭和23年~29年)まで小学生時代で、普通の日常的情報に影響されやすい年代だったのだ。昭和27年に「占領」が終るまで、日本の出版、放送界はGHQの「検閲」の下におかれてアメリカの「サクラ記事」しか書けなかったのである。(入江隆則著『敗者の戦後』(ちくま学芸文庫)による。)

そして、小学校では、今でも一寸行われているようだが、NIE(newspaper in education教育における新聞利用)運動が行われていて、私たちは毎日アメリカべったりの記事を読まされていたのである。そのため進駐軍やマッカーサー、アメリカ文化について、仰ぎ見ざるをえなかったのだ。

最近、大手マスコミは終戦時になると時々、戦前の翼賛論調を「反省」し、今後そういうことにならないように・・・、などと言い訳しているが、それなら戦後のアメリカの「検閲」に対して言論の自由を掲げて(これは、ポツダム宣言に入っていて、アメリカ自身が違反していたのだ。)何故闘わなかったのか、言い分を聞きたい。

そういえば、最近も大手マスコミは「右にならえ」で、「日米同盟深化」しか言わないが、まだアメリカの影がマスコミをおおっているのだろうか。そういう仮説を持ち、補助線を引いて見ざるをえないのが現状である。

「現在の奈良と平城宮・京跡」(舘野和己さん講演)

2011-01-29 | 文化論、科学・技術論
昨日、奈良女子大学でJSA奈良の研究会があり、古代史専攻の舘野和己さん(奈良女子大教授)の表記の講演を聞いた。昨年は、平城遷都1300年祭りに全国から予想の250万人を超える380万人も訪れたとのことだ。私も、平城宮跡、復原・大極殿等に行ったが、京跡を色々歩いたかと言われると、殆ど歩いていない。

舘野さんのお話は色々興味あるところが多かったが、最後に「点としての史跡(平城宮跡、諸寺社)は知られても、面としての平城京への理解は?」と疑問を出されたところでは「そうだな、自分としては余り面という前に多様な線も行っていないな」と思った。

舘野さんの言われたヒントのいくつかをあげてみよう。
・朱雀門から東に二条大路を往くと、東大寺西大門跡にぶつかる。途中、奈良女子大構内の南側を通るが、この道が、奈良時代、天皇や皇后が宮中から東大寺に参詣する主ルートであった。朱雀大路の約74メートル幅に次ぐ約38メートル幅の大路であった。(今は4メートルほどの狭い道)
現在、東大寺の正門は、南大門になっているが、往時は西大門が正門であった。

・薬師寺と大安寺は、共に国が建てた寺で、南門は共に六条大路に面している。・・・

舘野さんは、現在の道路わきの主な所に「平城京○○大路に当たる」という表示と「平城京地図」を啓示したら、という提案をされたが大賛成である。

私は、一寸「外京(げきょう)」のことについて質問してみたが、先の線、面理解に関して、元興寺、興福寺、東大寺の配置について「思い」を述べてみた。出来た順は、以上の順で、元興寺は元々は南の飛鳥寺を移築したもので、日本最古の屋根瓦が現在ものっている。この寺は、蘇我氏の氏寺だった。その蘇我氏を亡ぼしたのが藤原氏(鎌足)であり、その氏寺が興福寺である。さらに奈良時代になって、聖武天皇、光明皇后によって外京の外の高台に興福寺を見下ろすように建てられたのが東大寺である。
元興寺は、その後、境内を切り売りして現在「奈良町」と言われている地域に成り、僅かに「極楽坊」しか現存していない。豪族の盛衰、天皇と豪族との関係等が都における位置取りに「反映」しているのかな。

まあ、これらについては色々の考え方があるようだ。

終わって、年一回の懇親会に6人で行った。ここでは、邪馬台国に関する話題などあれこれ古代史談義になり楽しかった。私は、読みたての『古事記』の話もしてみた。来年は古事記1300年となる。

九州の女子大生が北海道で実体験

2011-01-27 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
私が奈良女子大勤務時代に大学院生だった立松麻衣子さん(九州女子大学准教授)から大部の報告書『学生の総合的教育につなげる実体験プログラム―アウト キャンパス スタディin北海道2010』が送られてきた。今年で3年目で毎年送って貰っている。

北九州市にある九州女子大学家政学部の女子学生が9月の夏休み期間に10日間、「過疎地」の北海道厚沢部町(あっさむちょう)に行ってホームステイなどをしながら家政学を現場で学びながら、同時に過疎地の活性化についても考えるという試み、ほぼ同じ面積の北九州市、厚沢部町だが人口や産業構造は全然違い、気候風土も正反対ともいえるところも面白い。

今回は、小学生の子供たちと「ふれあいセンター」で1泊2日の合宿をしたことが新しい。

この企画は、大学と町が提携を結んで行っている。女子大生が主役で主体的に企画を立てている形だが、そこは立松さんなど家政学部の教員集団もしっかりバックアップしている様子が分かる。

取り組んだ立松さんの感想として「家政学って何でも出来るんですね」との感想手紙が添えてあった。その通り、と思う。『北海道新聞』も大々的に取り上げてくれたようだ。女子大生には極めてインパクトを与えた企画なのは明らかで、過去2年の「アウト キャンパス スタディin北海道」に参加した卒業生も社会へ出ての自信につながっているようだ。

しかし、これで北海道から九州まで女子大生が来るとは、いいにくい。でも家政学をこのように「座学、実験学」だけでなく「現場学」として位置付けるのはいいことだ、と思った。

三宅 醇著『考古学ノート』を見る

2011-01-26 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
京大・建築学科で1年先輩の三宅 醇さん(豊橋技術科学大学名誉教授・東海学園大学教授)から最近まとめられた『考古学ノート』が送られてきた。

これは、7年ほど前に豊橋技術科学大学を65歳で定年退官してから、少年時代の研究の夢「考古学」に取り組まれた記録である。

「考古学発掘」や「考古学」そのものではなくて、副題にもあるように「―考古学遺跡と資料館訪問のすすめ―」である。

A4版で128ページの力作である。三宅さんは、あちこちに出歩いて、地の住宅を研究し、地の文化を楽しみ、地の酒をこよなく愛する先輩である。

こういう「ねちねちした」記録は、すでに「自分史」として2冊発行しておられる。

私も「出歩く遊動生活」は好きである。だが最近は「地域にとどまる定住生活」に甘んじている。三宅 醇さんにあやかってうごめきだしてみたいなあ。

『日本人のための戦略的思考入門』を読む

2011-01-25 | 生活描写と読書・観劇等の文化
孫崎 享(まごさき・うける)著『日本人のための戦略的思考入門』を読んだ。1943年満洲生れ、東大法中退、外務省勤務、防衛大学校教授歴任、現在は「評論家」、こういう著書を書こうと思った第一は、・・・日本人の誰よりも馬鹿な戦争を見てきたことにある、と後書きに述べている。「外務省に入ってすぐ、ソ連赴任の直前の1968年にチェコ事件が起こった。モスクワ大学在学中に、中ソ衝突が起こった。二度目のソ連勤務の際にソ連のアフガニスタン侵攻があった。1986年のイラク赴任は、イラン・イラク戦争の真っ最中であった。2001年、イラン勤務の時には米国同時多発テロ事件からアフガニスタン戦争が開始された。 どれもこれも馬鹿げた戦争だ。しかし、当事者は真剣である。近視眼的、特定の問題にとらわれ、国全体を見誤る危険を、日本人の誰よりも見た。」と言っている。今後、日本がそういう馬鹿げた戦争に巻き込まれないためには、自前の戦略を持つべきだ、というのである。(多分、孫崎さんは高校は金大付属で私の2年後輩では、と思われる。)

副題にー日米同盟を超えてーとあるように、今後、中国が経済的にも軍事的にも米国に近付き、超えるような勢いになると、米国の東アジア政策も変わって「米中関係第一」になってくる、そういう時に「日米同盟深化」一辺倒では乗り切れないとの判断をしめし、ではどうしたらよいか、について「戦略的思考をすべきである」としている。

実例として過去の戦争における戦略や経済における戦略を検討している。戦略論の第一の文献として『孫子』をあげている。西洋ものではツキディディス『戦史』(アテネとカルタゴの戦い)をあげている。

結論として、「戦略論」に沿って種々検討し、現在の憲法の枠内での自衛論を導いている。現在の対米追随論者は、約束ではなく、印象を拠り所にしている、と手厳しい。外交官経験者らしく外交文書を拠り所に米国のしたたかさをついている。

対米自主外交への一里塚かな、と思った。

「まきむく」遺跡の桃の種

2011-01-21 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
奈良県桜井市の「まきむく」遺跡から大量の桃の種(2765個)が出てきたようだ。他に海の魚の骨も結構出てきているようだ。

桃については『古事記』の上巻で、男神イザナキが亡くなった女神イザナキを追って死者たちの黄泉の国(よみのくに)に行き、必死に戻る時の様子に出てくる。現代語訳(角川ソフィア文庫より)によると、
 「魔軍がなおも追ってきたが、この国と黄泉(よみ)との境である黄泉つ比良坂(よもつひらさか)の麓まで来たとき、イザナキはそこに生っていた桃の実を三つ投げつけた。すると、桃の霊力にはばまれた魔軍は、全員退却していった。」

だから桃があるということは、霊力を期待する場所である、ということかな。それをすぐに邪馬台国に結び付けるのもどうかと思うが、とにかく「特別の地」であることに間違いないのではないか。桃は、中国の理想郷の桃源郷に源があるし、日本では後世、桃太郎伝説とかに受け継がれていると思う。

早く「桃の節句」が来て温かくならないかなー。

2冊の本 井上ひさし、J・R・ブラウン

2011-01-20 | 生活描写と読書・観劇等の文化
最近の「楽しみ」の一つは自由な読書である。最近買って読もうとしている2冊を上げると、井上ひさし著『この人から受け継ぐもの』(岩波書店)、もう一冊は大部なJ・R・ブラウン著 青木 薫訳『なぜ科学を語ってすれちがうのか ソーカル事件を超えて』(みすず書房)である。

井上さんの本は死後の編集された出版だ。憲法に関して吉野作造(東北人、東京帝大教授歴任)、ユートピアに関して宮沢賢治(東北人)、戦争責任に関して丸山眞男(東大教授、政治学)、笑劇・喜劇に関してチエーホフについて語っている。中々面白い、更に読みこんでいきたい。

J・R・ブラウンの本は最近の科学論争の書だ。自然科学の用語が色々出てくるので読みづらい点もあるが、索引もしっかりしており、訳者あとがきも充実し、376頁、3800円(消費税別)の本、ゆっくり読んでいきたい。

この両書について読まれたはコメント下さいね。感想、読み方、批評など宜しく。


「婚活」を応援する話よりー『古事記』の引用ー

2011-01-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
1月4日のブログで「婚活」へのヒント(メモ)を書いた。再掲すると以下の如し。



(1)目を見つめて! アイコンタクトは、愛コンタクトに通じる。

(2)目から言葉へ、言葉から行動の第一歩へ。

(3)共同理解は共同行動より。(視覚より入って、聴覚、味覚そして嗅覚、触覚で仕上げる)

(4)プロポーズは、古来は男性より(『古事記』より)、しかしバレンタイン・デーもあるよ。


(5)空疎な興奮でもなく平板な執務でもなくて生活は、計画ある営みである。(戸坂 潤)

(6)一人口は食べれなくとも二人口は食べられる。

(7)やはり「子はかすがい」か。

(8)縁は異なもの味なもの、噛めば噛むほど味が出る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で(4)に「プロポーズは、古来は男性より(『古事記』より)、しかしバレンタイン・デーもあるよ。」と書いたのだが、その『古事記』のその部分について以下に(現代語通釈を)引用する。これは、当日引用した本と違うテキストで当日より多い引用であるが、こちらの本が分かりやすく、全体を理解するうえでは必要と考えた。(『古事記』角川ソフィア文庫ー武田友宏著ーより)

「・・・イザナキ・イザナミはこのオノコロ島に降りて、結婚のための聖なる太柱と広い寝殿を建てた。そしてイザナキがイザナミに、「あなたの体はどんなふうにできていますか」と尋ねた。イザナミは「私の体は完成しましたが、塞がらない裂け目が一か所あります」と答えた。するとイザナキが「私の体も完成したが、よけいな突起が一か所ある。だから、私の体の突起したものを、あなたの体の裂け目に差し入れて塞ぎ、国生みをしようと思う。国を作りたいがどうだろうか」と誘うと、イザナミは「それはいいですわね」と賛成した。」

ここに日本最古の神話に男女神が最初に結婚する場面が「あっけらかん」と書かれている。著者は「これは古代の性教育に使われたかも・・・」と(注)に書いている。ここで、結婚の提案は、イザナキがしていることにも注意。

「そこでイザナキは「それじゃ、二人でこの聖なる柱を回り、出会ってから交わりをしよう」と言った。そう約束してから、イザナキは「あなたは右から回りなさい。私は左から回ろう」と言って、互いに柱を回った。
 出会ったとき、女神のイザナミが先に「まあ、すてきな男ねえ」と言い、そのあとで男神のイザナキが「ああ、いい女だなあ」と言い、ほめ言葉を唱え終ったのちに、イザナキはイザナミに向かって「女が男より先に唱えたのはよくない」とこぼした。
 そう言いながらも、聖なる寝殿において交わりをした。最初に生れた子は水蛭子(ひるこ)という子で育たないので、葦の舟に乗せて流し捨てた。次に淡島を生んだが、これも思うようでない小島だったので、子の数には入れなかった。」

ここに交わりに至る儀式が書かれている。まず、聖なる柱の周りを女は右から、男は左から回り、出会ったところで、互いにほめ言葉をかける。それをここではイザナミがイザナキに最初にかけたので寝殿での交わりの結果が思うようにならなかったことが記されている。また、島まで生むことが示唆されている。

「そこで二神は相談して、「今私たちが生んだ子は、よくない。やはり天神のもとに行って、事実を報告しよう」と決心、ただちに高天の原(たかまのはら)に参上して、天神の指示を仰いだ。そして、天神の命令で鹿の肩骨を焼いて裂け目の形で占いをした結果、天神は、「女が先に唱えたのがよくなかった。もう一度オノゴロ島に戻って、改めて唱え直すのがよかろう」と申し渡した。
 そこで二神は島に戻って、ふたたび聖なる太柱を前回のように回った。こんどは男神のイザナキから先に「ああ、いい女だなあ」と言い、その後で女神のイザナミが、「まあ、すてきな男ねえ」と言った。このように唱え終って結婚し、生れた最初の子はアワジノホノサワケ島(淡路島)であった。」

今度は、男神から先にほめ言葉を唱えたのでうまくいったのである。
以下、中略、次々と島を生んだ。淡路島のあと、四国、隠岐、筑紫(九州)、壱岐、対馬、佐渡島そして最後に大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま、本州)を生んだ。全部で八島なので「日本列島を大八島国というのである」というのが、この国生みの部分のまとめである。

こういう次第なので、日本では、古来から、男性から女性に声をかける(プロポーズする)ことになってきたのである。さて、バレンタインデーは、今後、こういう話にどううまく組み込んでいけばよいだろうか。久しぶりにじっくり『古事記』の最初の部分を読んでみたのであった。

利己主義と利他主義(鷲田清一さん小文より)

2011-01-17 | 文化論、科学・技術論
町の図書館に先週金曜日に行って新聞、雑誌を少し見た。で、『科学』(岩波)という月刊誌を見て、気にとまった文章があったのでノートした。昨日のブログに太平洋戦争に至る日本陸軍の暴走についてのテレビ番組を見て、感想、小考察を載せた。

今日は、それにも関連し、金曜日にノートした巻頭エッセイの「「他人」の位置」という鷲田清一さん(阪大総長、哲学)の文章の中から一部引用してみたい。

「…ひとの存在が社会的なもの、つまり相互依存的(inter-dependent)なものであるかぎり、利己と利他はいずれも貫きとおすことの不可能な主義である。いずれも自身の死へつながるからである。
 わたしたちの生存は、だれも独りでは生きられないという、そういう峻厳な条件の下にある。そう、わたしたちの存在はつねに相互依存的なものである。
育児から食事、労働、教育、介護、看取りまで、それらをひとはつねにだれかに頼り、頼られつつ営んできたのであって、独立(in-dependent)して生きうる者などいない。そのように考えるなら、「自立」とは、独立のことではなく、いざというときにインターディペンデンスの仕組みにいつでも頼れる準備ができているという状態を意味することになる。利己か利他かの二者択一を迫るのは、さして身のある議論とは思われない。」

つまり、普通は利己と利他は混じっていて、どういう条件でどちらに傾くか、であろう。しかし、絶えず条件依存的ではなく、各人でその持っている色合いはあるであろう。まあ利己が利他よりも多いのが普通である。
そして、利他は個人に依存するのではなくシステム(仕組み)が必要なのである。


日本人はなぜ戦争へと向かったのか②陸軍暴走の真相より

2011-01-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか②陸軍暴走の真相」を見た。「組織の肥大化・派閥と内紛」が満洲事変から日中戦争そしてアメリカとの太平洋戦争へと繋がっていった歴史を描いていた。

これらを見て、組織人としての「考えるべき」身の処し方、物の考え方を少し考えてみた。

1)個人として利己的にのみ(例えば立身出世のみ)考え、身を処しないこと。→
2)現在の所属する組織防衛、組織拡大のみを考えないこと。→
3)一段高い、広い立場で考える。→
4)一段高い、広い立場の人と議論・交渉する場合は、更に一段高い、広い立場で考えるよう努力する。→・・・・

i)(最終的には)世界(史)的視野で考えるよう努力する。→・・・・

☆)(最終的には)世界(史)的視野から自分の立場、行動の方向を定めるように努力する。

これである。こういう考え方は、西山夘三先生(京大教授歴任、故人、今年生誕百周年である)に教わったと思う。
ある時、ある先生が京大教授になられたお祝の会の席上で、次のように言われた。

「助手の時は助教授になったつもりで、助教授の時は教授になったつもりで、教授になったら学部長になったつもりで、学部長になったら学長になったつもりで、一段高く広い視野でもの考えることが必要だ。」と。

西山先生は、絶えず高く、広い立場で発言しておられたと思う。政治的力関係で教授から学部長にはなられなかったが、助教授の時には「西山夘三助・教授」と呼ばれて建築学会の副会長をし、同時に学術会議会員に選ばれていた。
先生の考え方はあらゆる組織的立場に適用できると思うのである。

ま、こういった「・・・たら」はありえないだろうが、
・陸軍の関東軍が、関東軍の都合だけで考えるのではなく陸軍全体のこと考えたら・・・
・陸軍が、国全体の安全・平和を考えたら・・・
・国が、アジアや世界の平和を本当に考えたら(戦争は起こらなかった)・・・ということである。

現在の自衛隊などに適用すると、
・「危機」を口実に「拡大・膨張」を図らないこと・・・
・国・国民全体を考えて防衛費を減らす場合もありうること・・・
・国も狭い国益だけを考えずに外交・交渉にあたること・・・
・アジア・世界の平和を第一に考えること・・・

例えば、アメリカと交渉する場合には、
・アメリカの国益に擦り寄らない、真の日本の国益も考える、さらにそれにとどまらず、アジアや世界の情勢を広く、歴史的教訓も踏まえて考え抜き「遠交・近交」も駆使する、一歩でも世界平和に近づく・・・

こういうことを考え抜き、実行できる政治家が大政治家だろう。
昨日の歴史番組を見た私への教訓である。

人間の移動と定着ー私の場合からも、歴史的にも考えるー

2011-01-15 | 思いつきから仮説へ
私の場合、生れてから高校卒業までの18年間、金沢市の寺町台に「定着」して住んだ。次に大学進学の事情で京都、と言っても教養部があった宇治に移住、2回生から大学院修士課程まで5年間は京都市内(1度移住)、就職して豊田市に4年、京都に転勤になって京都市内(2度移住)、次に奈良に転勤になったが、しばらくは京都市内に居住、1994年の秋以来、現在地(精華町)に住み、別に奈良市に書庫住宅を持っている。

これを見ると、高校までは極めて狭い地域で「定着」していたが、大学受験ということから別の土地に移住することになった。友人では、もちろん金沢大学に進学し、住まいもそのままの人もいたが、後は東京が一番多く移住した地であり、続いて関西も結構いた。後は北海道から神戸(これは関西だが)まで秋田、仙台、横浜、信州、名古屋、富山、京都、大阪などに散らばった。

大学(あるいは大学院)を卒業(修了)して就職すると、その就職先の事情に左右されて勤務地が決まってきて、また移動(移住)することになる。その後、その職場にいるにせよ、転職するにせよ、色々と移動する。私の場合は、色々な事情で生れて18年間、金沢にいたが、戦争中に父母について満洲(現・中国東北部)に行ったり、戦後も父について東京に行ったかもしれないのである。

事実、私の友人に「君の郷里は?」と聞いた時、「生れたのは○○だが、父が転勤族だったので、××にもいたし、△△にも行った。今は□□に父母がいるが・・・」等と答える場合も多い。

こういう訳で、現代では、生れてこのかた、親の職場移動、自分の進学、就職事情で色々と移動したうえ、リタイアした場合、まあ一般的にようやく「終の棲家」が確定する場合が多い。

これが江戸時代以前の歴史的時代になると、まあ農民の場合は、一定の地域に定着しているかもしれないが、武士になると、大名の戦いによる移動(例えば織田信長の岐阜から安土への移動など)や移封(例えば徳川家康の江戸移封など)によって、移動する。職人や商人も大名について移動する。(例えば、金沢に尾張町という町があるが、これは元々は前田利家が尾張から連れてきた商人を住まわせた町であり、近江町は元々、近江の商人が移り住んだ町である。)

更にずっと昔にさかのぼると、日本列島に大陸から様々のルートで移住してきた。その元を尋ねると6,7万年にアフリカから出た人類に行きつくのである。これらの移動の全ての理由の根本には、「飯が食えるかどうか」ということが横たわっているのだ。

採取時代までは、食えるものをみつけて移動したし(ゴミが堆積し不衛生になっても移動!)、農耕時代にはようやく「定着」したが、国家が出来るにつれて、「定着」とともに「移動」もはげしくなり、経済が国際化(グローバル化)するに連れて地球全体に人類は拡散、混合しつつあるのである。

何時頃に「国境」がなくなるのであろうか。それまで地球はもつであろうか。


老いを考え、老いを実践していく

2011-01-14 | 時論、雑感
無事、今年の誕生日が来ると、いわゆる「古稀」(70歳)となる。「古来、稀なり」である。まあ、私の父は84歳まで生きたので、それから考えるとまだまだだ。だが母方祖父は66歳で亡くなったので、それは「越した」ことになる。

まあ、「古稀」を過ぎれば「老いを考え老いを実践する」立場になる、と自覚している。
昨日、今日とラジオ深夜便で作家・黒井千次さん(78歳)が「老い」を語っていて興味深いものだった。一言で言うと「自然に老いるのが良い(だが、最近は、老いの型が失われている)」といった認識を語っていた。

他に、男性と女性では「老い方が違うのでは・・・」とか、「死ぬまでに自分としてやるべきことを完結すべきか(完結できるか)、中途半端に終わるのか・・・」といったことも語っていた。

私は、基本的に男女平等としても、女性は産み育て色々世話して生き抜く性、男性は後姿を見せて静かに黙って死する性と考えている。それは自分自身の祖父母、父母の体験に接してそのように思うようになった。

「完結するか中途半端か」については、良く考えてみると、「全ては中途半端である」と言えるのではないか。そうであるからこそ、後の世代が、感心したり、批判したりしながら、その「中途半端」を引き継いでいくのではないか。

どんな偉人でも大学者でも、「完結」はありえない。そう考えると、今からでも新しいことにチャレンジする勇気がわいてくる感じだ。どうであろうか。

超高層ビルは、やはり止めた方が良い

2011-01-12 | 住まい・建築と庭
今朝のテレビやラジオを見聞していたら、超高層ビル(まあ、20階以上、60メートル以上の高さ)に対する「長期周期揺れ対策」不十分とのことだ。

地震の揺れ周期には短期と長期が混じっていて、普通の2階建ての住宅や4階位のビルでは短期揺れが効いてくるが、高層、超高層になるにしたがい、むしろ長期揺れが効いてくると言う。

予想されている東海、南海、東南海などの巨大地震の長期揺れ波は5分間も続くこともあるようだ。現在、超高層ビルは2500棟もあり、毎年100棟ほど増えている。それらは主に東京、大阪、名古屋など大都市に集中している。悪いことに、それらがある関東平野、大阪平野、濃尾平野は、長い周期の地震波が伝わりやすいと言う。

まあ、一応、想定の巨大地震でもそれらの超高層ビルは、倒壊までは至らないようになっているが、大きく揺れるのは否めない。それらは平面的揺れというよりぐるぐる回る複雑な揺れともなる。家具が倒れたり、エレベーターが止まったりする。上階に行くほどひどいようだ。マンションなどでは上階ほど価格が高いのに・・・、何だか変だ・・・。

勿論、事前に家具を固定したり、住宅の場合は、居住者協力態勢構築などありうるが、本来、色々と問題があり、未だ完全に解明されていないのなら、そういう未成熟な超高層ビルは、止めた方がいいのではないか。私は、かって「超高層住宅は、何故おかしいか」を書いたことがあるが、そのときの考えは、変わっておらず、益々そう思う現象、事実が出てきていると思うのである。

過去ブログ(「超高層住宅」で検索):http://blog.goo.ne.jp/in0626/s/%C4%B6%B9%E2%C1%D8%BD%BB%C2%F0

干支(えと)の話ー自前で計算ー

2011-01-11 | 文化論、科学・技術論
昔、大学で講義していた時、干支の話となり、「十干十二支」を説明した。一つの「教養」である。

十二支は「ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い」と毎年、年賀状に描いたり貰ったりするので、大抵知っている。

ところが、その元々の漢字となると、皆きちんと書ける学生は少なかった。
「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」である。音では「シ、チュウ、イン、ボウ、シン、シ、ゴ、ビ、シン、ユウ、ジュツ、ガイ」である。

で、十干の方は「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、申、壬、癸」であり、音では「コウ、オツ、ヘイ、テイ、ボ、キ、コウ、シン、ジン、キ」である。昔(戦前)は、学校の学業成績は、これらで付けたようだ。今の「オール5」と言うのは、昔は「全甲」であった。

それで、十干と十二支を順にペアで並べていくのが干支(えと)である。

最初が「甲子」で、まあ甲子園が出来た年が、「甲子」であった、と説明する。「甲子」の読み方は、音では「コウシ」で良いが、訓では「きのえね」と言う。「子」は「ね、うし、・・・」の「ね」であるが、「甲」は「きのえ」なのである。

十干を五つのグループに分けて、順に「木、火、土、金、水」とする。それで、それぞれを「兄と弟」に振り分け、「兄」が「え」であり、「弟」が「と」である。そうすると「甲」は「木のえ」であり、「乙」が「木のと」となる。

以下、「丙、丁」が「火(ひ)のえ、火のと」、「戊、己」が「土(つち)のえ、土のと」、「庚、申」が「金(か)のえ、金のと」、「壬、癸」が「水(みず)のえ、水のと」となる。

十干と十二支を、順にならべると、一回目で十二支の二つがはみ出す。で6回、十干を繰り返すと、十二支が5回割りつけられて、元に戻る。そこで、10×6(12×5)=60、60年で「還暦」となるのである。

今年は、2011年で「辛卯(シンボウ、かのとう)」の年である。「辛抱、辛抱」でもあるかも・・・。さて、歴史的に、乙巳の変(いっしのへん、昔の言い方は、大化の改新)、壬申の乱、戊辰戦争は西暦では何時だったでしょう、という問題が出たら、最近のそれらにあたる西暦を見つけて60の倍数で遡っていけば良い。

まあ、「大化の改新」が645年と覚えていたら、同じ7世紀の壬申の乱の西暦は、割り出しやすいかもしれないが、別の方法で割り出してみる。戊辰戦争は慶応4年・明治元年から2年と分かっているとすると、1868年が戊辰の年、明治2年が己巳、明治3年が庚午、明治4年が辛未、明治5年(1872年)が壬申なのである。これは、「壬申戸籍」が明治5年と知っていたからである。

すると、そこから1200年遡ると672年となり、どんぴしゃりなのである。

同様に遡っていくと甲子園は1924年(大正13年)に出来たことになる。