西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

アジアの歴史のお勉強より

2010-12-31 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年読んだ本で滋味があるな、と思ったのは宮崎市定著『アジア史論』(中公クラシックスJ7)である。中でも最初に読んだ「世界史序説」は、「目からうろこ」だった。

一口で言うと、すべからく歴史は世界史である、との把握を目指すべし、ということである。私達が高校時代に習った「世界史」では、古代に四大文明発祥地を置いて、一定の相互作用はあるものの、かなり歴史が進まないと世界が一体的に歴史を刻む感じにならなかった。

ところが宮崎先生(実は、宮崎市定先生は、私が京大に入学した1960年に教養部長で「世界史」を講じておられた。その講義をとらなかったのを今「残念だった」と思っている。)は、仮説的に西アジア(いわゆるメソポタミア及びその西方のシリア、地中海沿岸)に最古の文明発祥地をおいて、すぐ近くのエジプトへ、それから少し時をおいて東のインダス、黄河へと波及した、という説を立てておられるようだ。

まあ、考えてみると、人類はアフリカを出て、世界中に分散したということを前提すると、住みやすい地として最初に落ち着いた所が西アジアではないか。そこから更に東へ東へ、又一方では北や西へと分散したのではないか。そう考えると、先ず西アジアが人類歴史の最初の「橋頭保」になったということも良く分かる。そこが、現在は民族対立、宗教対立の「最前線」というのも皮肉かもしれない。

今後、宮崎市定先生の『アジア史論』を手引きにアジア史から世界史を見ていきたい。そして、日本史、地域史も位置付けていきたい。

この年末三日間、家族論(人々のつながり)、環境・土地論(環境とのつながり)、そして世界史論(歴史とのつながり)という私の最近の「繋がり論」の三つの方向、広がりを振り返ってみた。

地球の環境はどうなるのか-中国人の不動産買い漁り考-

2010-12-30 | 地域居住学
「地球の環境はどうなるのか」と書いたが、実際は、「日本列島の環境(土地、森林)はどうなるのか」、といった問題を夕方のNHKTVの「追跡スペシャル」で見た。

一番印象に残ったのは、どうも中国人の「投資家」が北海道砂川市で292haの森林を買ったようだが、その目的、狙いは?の追跡だった。その「情報」等を基に私の組み換え「把握」を述べたい。

そもそも日本の山林は国土面積の7割近くを占めるが、戦後その山林所有は、農地のように借地人たる「小作」には解放されず、山林地主の手元に残ったのだ。

農地は解放されることで「生産性」は予想通り大いに上がったが、山林では解放すると言っても「誰に?」というのがはっきりせず、地主の管理に任せた方が分かりやすいとなったのではないか。

しかし、実際には国がというか農林省が、そこで桧や杉の植林を大々的に推進した。ところが、その植林が30年以上を経て「使えるようになる」前に外国材を自由に輸入できるようにしたために、「安い」外材が日本列島を席巻するようになったのだ。

使われない杉が溢れて別の問題ー杉花粉問題ーが起こってきた。まあ、「読み」が一つずれ、政策が一つ違うと、全然予想もしない風景を切り開いてしまうのである。

で、今や放置された民有地山林は、それこそ世界に向かって「売りに出されている」のだ。中国人の買いの目的を追跡するが、巷でいわれている「水資源をおさえる」などという戦略があるわけではなく、投資でもなく単なる貯蓄(意味不明)という。それと、中国では土地は社会主義のため国有であり、マンションなどでは個人の所有権ではなく利用権を買っているにすぎないようだ。

そこで、個人の土地所有権要求を満たすため、海外で土地・不動産を買っているようだ。なーるほど、である。

しかし、森林には、それが私的所有空間であっても、公共的意味、機能がある。生態系の維持が大きい。だから、それを根拠に「公的規制」が可能と思う。

日本の森林、世界の森林がどうなるのか、絶えず追跡していきたい。




日本の家族はどうなるのかー四世代家族の実例よりー

2010-12-29 | 地域居住学
今夕、NHKTVで「遠野 山の中の四世代12人!自給自足の暮し」を見た。これは、現時点の日本では稀な例と思うが、戦後ずっと続いてきた核家族システムが将来どうあるべきかの一つの方向を示唆していると思った。

もう一つ、最近『朝日新聞』では特別企画で「孤族」(こぞく)というのを連載している。これは、核家族が正に「核分裂」して孤独な個人がむき出しに社会に投げ出された実態、傾向だ。

私は前者にも「サザエさん家族」のような三世代に連なるものとして憧れるが、社会システムまでに成長できるか現時点で疑問である。後者を社会保障として対応しようとすると莫大な負担を伴う。だとすると、これらの中間に「地域家族」というカテゴリーを設定し、追求したどうか、と今日、思い付いたのである。

「地域家族」ってどういうのか、と言えば、多くの地域において核家族や単身家族の集まりが優勢なのに対して、将来を見越して、それぞれが地域祖父母、地域両親、地域親(父、母)、地域子供、地域孫であると捉えて、それらの組み合わせとして協力し楽しんで生活するというイメージ、システムである。まあ私を例にあげると、私は地域祖父であり、地域子供や地域孫の面倒を応分にみ、将来、彼らから少しは面倒を見て貰う、というシステムである。

地域で、それぞれが、まあ世代家族を演ずるという型である。どうでしょうか。

来年以降、追求してみたいと思いつつ今年も暮れていくのである。

家事の持つ意味

2010-12-28 | 生活描写と読書・観劇等の文化
年末に来て「大掃除」、日ごろ家事手伝いをしていない男性や子供達も少しは手伝いしているのではないか。

最近来た雑誌『図書』1月号(2011年)に小泉和子さん(生活史研究家)が「昭和のくらしと家事(下)」を書いている。(上)は、12月号だ。ここでは(下)を少し引用しつつ家事の持つ現代的意義を少し考えてみたい。

戦前は、「良妻賢母」思想が強くて、家事は主婦の「仕事」だった。暗く寒い家事空間の台所で冷たい水を触りながら炊事や洗濯にいそしんでいたけれど、それは辛い「労働」だったことも良く分かる。

戦後になっても、「慣性」で家事は主に女性の分担となり、それは女性に目の敵にされ、女性の自由を阻むものともされ、女性達は家事からの解放をひたすら願ってきた、と小泉さんは振り返る。

確かに戦前の家事は重労働で女性だけに押しつけられるのは不当だった。戦後も不当性は残っている。

しかし、と小泉さんは家事の持つ「教育力」を道元の『典座教訓』を引きながら説明している。

さらに「たしかに家事をすることで観察力が鋭くなり、注意深くなり、段取りがよくなります。知識も豊かになり、感性が磨かれ、忍耐力がつき、人に共感することができるようになる等々、あげれば限りありません。

その証拠によく家の手伝いをする子供は気がつきますし、働くことを苦にしません。人の役に立つ喜びも知ります。弟妹の面倒を見ることで幼い者への慈しみが育ちます。このことは大人でも同じです。たしかに家事は大変で面倒なことではありますが、面倒なこと、辛いことが人間トレーニングになるのは絶対確実です。「艱難汝を玉にす」です。

かってはこうしたことによって人への共感や助け合いを学び、人のつながりが育ったのです。加えて家事にはその他にもモノを作るクリエイティブな面とか、みんなで作業する楽しさといったさまざまな生産的な力があります。

それを面倒なことはしたくない、嫌いなことはしたくないといって避けてきたことで家の中から技術が消え、人を育てる機能も失われていったのだと思います。」(同上書20頁)と小泉和子さんは言います。

私は、更にこれに加えて子供にとっての教育力、創造力涵養の他に、現代と言う高齢社会で言えば、高齢者の「基礎的生活力」の根幹が、この家事力だと思います。私の言う「基礎的生活力」とは、炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所付き合いの七つほどで、殆どが家事ですね。

これらの複雑な段取りに日夜取り組むことで、「認知症」予防にもなるのでは、と思っていますし、炊事に取り組むことで、食事の質に思いが及びます。そうすると農業のあり方が気になります。こういう具合に、家事が、さまざまな方面につながっていることが理解できます。

炊事を夫婦、親子で肩を並べて談笑しながらやる風景なんていいのではないでしょうか。

「つなね」居住地での年末行事

2010-12-26 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
10年余前に23軒で共同で造ったコーポラティブ居住地「つなね」に私の「書庫」がある。

今の自宅に対する「セカンド・ハウス」であるが、「つなね」では一番狭く、今のところ「寝泊り」は難しく、書庫、書斎として使っている。

しかし、私達は居住者には違いないので(住民登録は自宅でしているが・・・)管理組合の組合員であるし、私は今年、役員もしている。

だから、毎年年末に行われる年末行事には夫婦で参加している。今年は春に10周年記念の会もあったし、10年目の「計画修繕」もあったので、とりわけ感慨がある。

その年末行事は昨日(25日)にあった。

先ず10時に居住地全体にけたたましくベルが鳴り響き、皆、集会所前に集合、防災訓練だ。点呼があり、次に大掃除に移る。

拙宅は、地階(表面上1階)にあり最も狭い専用面積なので、周りに言わば「共用」のスペースがあり、一部、皆の自転車置き場になっている。そこには10年間の間に不要になったものも放置されてきたので10年目を期して整理することになった。6台ほど出した。後の自転車も一時移動させて、吹き入った落ち葉や砂の掃除をした。子どもたちも「箒(ほうき)隊」で参加した。

私は、家の中の大掃除も一部試みた。床を拭いて、底を洗ったスリッパーを置いた。玄関扉の外部を、共同性ある空間として細かいガラスマスの中を拭いたが、角の部位が綺麗にならない。一種のデザインミスかもしれない。外部の郵便受け、ガスメーターの上なども雑巾で拭いた。「真っ黒」である。

11時前から集会所前で「餅つき」が始まった。8臼ほど搗いたのではないか。私は「60歳代の人!」という呼び出し声につられて出て行って、ゆっくり20搗きほどした。最高齢82歳の男性も頑張っていた。年末に「戻ってきた」娘家族一家の参加もあった。

搗きたての餅を丸めて中や外に餡子をつけるもの、焼いてぜんざいに入れるもの、普通の丸餅(草餅、海老餅ー桜餅ー)などのバリエーションがあり、餅を丸めるのは女性陣、搗くのは男性陣と大体の役割分担、勿論、女性で搗いている人もいる。

豚汁や大根漬けも出されている。日本酒やビールも飲みだしている。和気あいあいの餅つきだ。餅を食べるのが昼食の代わりである。13時半頃に搗いた餅を各家族に分配(大人1人400円、子ども200円負担に応じ)され終了。共同で後片付け。

夕方6時の「忘年会」まで休憩、持ち寄り料理の準備時間である。休憩は私、料理準備は妻である。今日の料理は、人参・松阪牛の揚げもの、海老コロッケ、鮭の千枚漬け巻の三種だ。

17時半過ぎに妻の自動車で出かけた。忘年会は18時より、私が理事会年長というので「乾杯の音頭」をとり、スタート、今回は色々の事情で6軒ほど欠席、少し淋しかった。だが、一食べ一飲みしてから「家族の一年」のスピーチがあった。息子さんが結婚した、就職が決まったなどのいい話もあった。20時頃から席がばらけて色々交流、21時過ぎに一応「終わり」、妻と一緒に22時頃に帰宅、これで年末の「忘年会」関係は終りである。

奈良女時代同僚有志の「忘年会」(末広会)

2010-12-24 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
年に一回、年末に奈良女時代の同僚有志で忘年会をしている。今年は場所を奈良で探すことになり、私が担当した。1,2知り合いに聞いて、また実際に行ってみて、奈良町の「粟(あわ)」にした。2年ほど前に出来た店(伝統野菜と大和牛)で、以前も何かレストランだったようだが記憶がない。

奈良町の伝統町家を内部改装している。最初に予約した時には、席は、一番奥の蔵部を改装した2階となっていたが、今度の参加者には「高齢者」も多く、蔵のやや急な階段が「しんどい」と思ったので店長に頼んでツボ庭が見える和室に変えてもらった。

参加者は、去年の8人にたいして都合で2人欠席で6人、「末広会」になっていない。この「末広会」というグループ名は去年、京都の「魚三楼(うおさぶろう)」で行った時に私が提案して決めたのだが、皆忘れていて、誰も思い出さない。いやー「歳だな」と、思った。しかし去年の日記(ブログ)に書いておいてよかった。「会員」も「末広がり」(定年退職者が次々加わるはずだから)との意味づけもあったはずだが、努力せず?、去年と同じ会員数だ。

60歳台は私も含め3人、70歳代以上が3人だ。先輩3人が「上席」、我々60歳代3人が「下席」、先輩方には座イスをお願いした。まあ「末広会」には、八十歳代になっても益々元気に、という意味ももたせてある・・・。しかし、70歳代で一番若い先生と60歳代で一番若い先生が心筋梗塞の手術をしておられる。今はお二人とも元気だ。

現役時代、食物学科所属が3人、住居学科が2人、生活経営学科が1人である。いきおい、食い物のこととか、住居のこととか、家計のことなども話題となる。田沢湖にいて絶滅したと思われていた「国鱒」が西湖で見つかったというニュースについて水産学科出身の先生が「そんなに大きく扱うニュースとも思わないが、他のニュースから目をそらせるためか」などとうがった見方を提示された。また「今日は天皇誕生日だが、天皇が記者会見で、魚を正確に「うお」と言っておられるのには感心した」とも言われた。

確かに後で辞書をみると、魚類は魚と書いて「うお」と言うのが正しく、「さかな」は元々「酒菜」であって、肴と書く。まあ「うお」も「さかな」に多かったので魚(うお)も「さかな」と言うようになったのだろう。

絶滅と言えば、狼の絶滅が山中の鹿、猪などの異常な増加と関係がある、漢字圏では、狼は獣偏に「良」と書く、日本では「大神」である、と去年ぐらいからの私の認識を披露しておいた。

まあ、共通で健康の問題も話題となり、私は、最近、江戸時代の儒学者の貝原益軒の『養生訓』を松田道雄訳で読んでいることも披露しておいた。

料理は、大和野菜及び世界の伝統野菜がベースの「健康料理」で、それらは奈良市南部の「清澄(きよすみ)の里」でNPO及び提携農家で作られているようで、「粟」の本店は「清澄の里」にあるようだ。

そこは天理にも近く、紅葉や酒の発祥地としての正暦寺(しょうりゃくじ)にも近い。

まあ地産地消である。少量ずつ多くの野菜(大豆含む)料理を頂いた。大和牛のユッケ(生肉千切り)やタタキも頂いた。飲み物は生ビールに始まり、焼酎湯割り、日本酒と「ほろ酔い加減」(貝塚益軒推奨)で頂いた。デザート果物、コーヒーで仕上げである。

店をでて、未だ奈良町にある奈良女子大学のセミナーハウスを見たことがない先生が3人おられたのでぶらぶら見に行った。今日は祝日で鍵がかかっていた、裏に回って庭や縁側を見た。

帰りは、興福寺の五重塔を見ながら近鉄奈良駅方面へ、元興寺の極楽坊にも立ち寄った。これは、明日香の飛鳥寺の移築であり、屋根には一部日本最古の瓦がつかってある、と説明した。生活経営の先生が「農家住宅でも減価償却は最後に1割残るようにし、その1割は瓦代だ」、とのこと、「なーるほど」と思った。元々の飛鳥寺は蘇我氏の寺である。

だから、それを亡ぼした藤原氏の興福寺が北にそびえて五重塔が見え、さらに「上」のほうに聖武天皇建立発願の東大寺がある。一種の「階層構造」になっている、と訳ありに言ってみた。どうでしょうか。

来年は、「末広がり」になるように・・・。

去年の様子:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/b1f5e91242b37332d1fbd52eb4203eb7

全体から部分を見る、部分から全体を見る

2010-12-22 | 思いつきから仮説へ
最近、東洋史関係の内藤湖南とか宮崎市定さんの本(中公クラシックス)を少し読んでいる。

内藤湖南は、邪馬台国論争に火をつけた人だし、宮崎市定さんは弟子筋にあたるが、「客観史学」を唱え、真の有機的世界史を構想し、その視点から日本の歴史ー古代史、中世史、近世史、最近世史ーに一石を投じておられる。

内藤さんも宮崎さんも京大文学部の東洋史の教授だった。内藤さんは戦前、退官した後、「けいはんな地域」の「恭仁京域」の自邸「恭仁山荘」に住んで文筆活動をした。宮崎さんは、私が入学した頃(1960年)、教養部長だった。「世界史」を講じておられたが、高校時代習った「世界史」が今一つ面白くなかったので取らなかった。残念なことをした。

その分、少し「腰」を入れて勉強していきたい。お二人とも正にHi-story(心高ぶる物語)として歴史を叙述しておられる。全体(世界史、東洋史)から部分(日本史)を見ておられ、「井の中の蛙」にならなくてすむ語り口である。

最近(と言っても16年ほど前に、だが)「けいはんな地域」に住みだしたので、その歴史を把握したいと思っているが、当然、より広い地域に位置付けて把握すべきなのは論をまたないだろう。

自分も、昨日、住宅現象全体に位置付けて「自分のやってきた領域」(部分)を見直したいみたいなことを書いたが正にそうだと思う。体の部分的不都合(病気)も、その部分だけで考えるのではなく全身(精神も含めて)の「ホメオスタシス」として健康を考えることにも通じている。

しかし、同時に部分から全体を見直してみることも大切と思う。「特殊」を通じて「普遍」に至る道であろう。どう具体化したらいいのだろう。それが問題だ。

住宅現象の研究ー「まとめ」への考察ー

2010-12-21 | 地域居住学
まあ、研究の経緯ー自分史ーについて、20歳代に始まっているが、その時に一生のテーマ展開を見通して研究を始めた訳ではなく、例えば「古希」近くになり、半世紀(50年)後に振り返ってみれば、そういう人は、ほぼ皆無と言えるだろう。

その時点時点で最善を尽くしてテーマ設定し研究しても、後から考えると終始一貫したものにはなっていない場合が多いと思われる。

だから、出来れば後半生を使って、その時々の研究展開を一つの「まとめ」にしてみる試みは意味があると思う。まあ反芻である。でも懐古趣味で行うのではなく、取捨選択、修正増補、「半顧半望」の発展イメージで行いたいものだ。

とにかく住宅現象をあれこれ研究してきたので、まあある時点では「ハウジングの研究」(京大・巽 和夫研究室など)と言われていたが、やはり一種の「総合」を目指してまとめていきたい、と最近思っているが・・・。

参考:
卒論:ダイニングキッチン成立に関する歴史的条件および現状に関する一考察(こういう感じ!)
修論:民間住宅供給業者に関する事例的研究
博論:集合住宅地共用空間の共同管理に関する研究

生活ー供給ー管理と展開している。

「坂の上の雲」初めて見る。日露開戦、瓜生外吉のこと。

2010-12-19 | 金沢の思い出
今夕、テレビで初めて「坂の上の雲」を見た。司馬遼太郎原作のテレビ化である。司馬遼太郎は生前、このテレビ化に同意を与えなかったという。日本に変な国家主義が又芽生えないかと恐れたためであるようだ。

しかし、NHKはあえて映像化に踏み切ったのである。このNHKドラマについて、既に中塚 明/安川寿之介/醍醐 聰著『「坂の上の雲」の歴史認識を問う』(高文研刊)という優れた批判書がある。だから、一歩退いて冷静に見ることができる。勿論「娯楽」の要素もあるので、それはそれとして楽しめる。

今日は、ついに日露開戦になるまでを描いていた。明治天皇、伊藤博文、山本権兵衛、山形有朋、大山 巌、小村寿太郎、東郷平八郎などの歴史的人物が出てくる。

日露戦争でフト思い出したのは、遠い親戚だった瓜生外吉のことである。私の祖父・瓜生余所吉の又従兄だった。彼は、加賀藩の支藩であった大聖寺藩士の出、明治に入りアメリカのアナポリス海軍士官学校に留学、帰国して帝国海軍の将校となった。日露戦争では、第二艦隊第四戦隊長(中将)だった。開戦の仁川沖海戦で活躍、以後、大将、佐世保鎮守府長官、横須賀鎮守府長官を歴任、最後は男爵、70歳で予備役、80歳で亡くなった。祖父共々、私が生まれる前に亡くなった。

私の金沢の家の座敷には東郷平八郎元帥の像が額でかかっていた。これは、誰か、大学に行く頃にようやく分かった。父も戦前、陸軍にはいり終戦時、大尉だった。もし、陸海軍が今も続いていたら、そういう家庭環境だったから、私も仕官していたかもしれない。

でも、そうならなくて良かったと心底思うのである。

大学教養部時代のクラス会準備へ

2010-12-18 | 京都の思い出(学生時代)
今日、京都府に住むS.君から電話があって、今年、来年に我々は古稀(満70歳)を迎えるので、記念に大学(京大)の教養部時代のクラス会を来年に教養部(1回生)のあった宇治でやらないか、とのこと。賛成だ。

で、京都周辺に住んでいる同期生で準備をしようとなり、私は、当時(1960年度)の宇治分校の様子を知る資料(地図や写真など)を集めてみることになった。

当時、京大の教養部(1回生、2回生)の学生全部を吉田分校(旧制三高キャンパス、京大本部構内の向かい側)のみでは収容できず、宇治の旧陸軍施設を宇治分校として1回生(約1600人)のみ、そちらで勉学に励んだわけだ。と言っても、ご存じ1960年は「安保闘争」の年、夏休み前は、殆ど授業がなかったと言ってよい。

S.君や私のクラスは工学部3組(T3と言う)で、ドイツ語をとった組、40人ほどの専攻別では建築、土木、鉱山、原子核が混じっていた。1回生の担任?は、人文地理の藤岡謙二郎先生だった。

このクラスの関東に住んでいる友人は既に東京周辺で何度かクラス会を開いているらしい。今度、古稀を期に関西やその他全国に散らばっている同期生にも呼び掛けて「宇治」でやろうという企画だ。旧宇治分校の敷地は、今は京大の研究所用地となっている。地震が起こるとテレビで活躍する「防災研究所」や「木材研究所」「食糧研究所」もここにある。宇治分校は、我々が最後で、吉田分校に「ビル」を増設して、今は、そちらが「教養部」というか、教養課程の学習の場になっている。

まあ万福寺や平等院へも久しぶりに行こうかな。


菅首相の辺野古ベターはワーストの言い方

2010-12-17 | 時論、雑感
今日、菅首相は沖縄を訪れて仲井眞弘知事に対して「(米軍の)普天間基地移設について、辺野古はベストでないけれどベターだ」と述べた。これに対して記者会見した仲井知事は「菅首相のベターという言い方はおかしい、沖縄県民にとって県内移設は問題にならずバッド(bad)の系列である」と批判した。

その通りと思う。グッドの系列ではなくバッドの系列であり、まあワーストと言ってよい。最悪ということだ。県知事が公約で「県外」と言っているし、最近の世論調査では、アメリカと交渉し直しをして「国外」がベストというのが沖縄県民だけではなく日本国民の気持ちである。

菅さんが5月28日の「日米合意」を見直し、「県外、国外」で再交渉しないなら、もはや菅政権では解決不可能ということだろう。

再交渉してこそ、日米対等にようやくなる、ということだ。

奈良のおん祭の雑踏と「ゆったり昼食」

2010-12-17 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、妻と連れだって奈良に行った。実は、大和野菜の昼食を食べに出かけたのだが、行くと丁度、「おん祭」の行列にぶつかった。三条通りを通るもので、おめあての「大和野菜レストラン」へはすっと行けなくて興福寺境内から祭りの行列を眺めた。

何度か「おん祭」を見に来た経験があるが、こういう場面は初めてだ。猿沢の池の周りも屋台がずらりと並び雑踏である。金曜の昼なのに小中生が一杯、「特別休み」なのかな。

で、13時半頃に雑踏を抜けて南下し、「旬彩 ひより」に行って「大和野菜料理」の昼食にありついた。場所は、中新屋町26の鶉屋(うずらや)倶楽部1階である。3年ほど前から営業しているらしいが、私達は初めてだ。

この店では、田原本の農家と提携して「大和野菜」中心のメニューだ。客では熟年の女性グループが多いかな。

うーん、レストランも健康志向なのだな、と納得、我々もこの店の売りの「大和野菜ランチ」を頂いた。天麩羅(牛蒡など)、和え物(九条ネギなど)、酢のもの(ほうれん草)、ふろふき大根、諸種菜のみそ汁、古代米+雑穀のご飯、香のものなどだ。一人1500円ほど、まあこんなものかな。

どうぞ、「旬彩 ひより」のホームページを検索下さい。「ひより」とは、マスターが最初にここに来た時に奥の一角に太陽光が射していたからだ、と言う。今日も「ひより」だった。

環境で空気の質が最重要

2010-12-16 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
別の地域SNS(けいはんな)で、人間の体に出入りしているものは、「情報」などを除くと、食物、水、空気であるが、まあ最も値段が付きにくい空気の質が一番重要と書いたことがある。

以下引用:
美味しい空気ー上策、中策、下策ーメモ


空気が美味しい、ってのはどんな空気かな?

前に、人間の体に物質的に出し入れしているのは、空気、水、食い物であり(光や音やは今は除く)、重要性も、この順である、と述べたことがある。 

空気は生れてから死ぬまで、四六時中、寝ても起きても呼吸しているものであり、水に潜る時とかは少し我慢して「息」を止めるが、長く止めることはできない。

水は、呼吸より長く止めても死なないが、1週間も2週間も止められない。まあ数日位は飲まなくても死なない。

食い物は1週間食べなくても水を飲み小便を出し、呼吸し、寝たり起きたりしていれば死なない。だから、命にとっての重要度は、空気、水、食い物の順なのである。

ところで、その一番大事な空気だが、まあ煙草を吸ったりするのは健康に「悪いのではないか」と一応言えるのではないか。大気汚染地域に長くいたり、自動車の排気ガスに面するところにさらされたりするのも拙い。

だから、それらの明らかに空気を汚す要因は、抑え、出来れば取り除く必要がある。もっと積極的に健康に良い「美味しい空気」を呼吸できるようにしたいものだが、それはどんな空気であろうか。

僕は、一応、森の中の空気ではないか、と思っている。これも前にフィトンチッドなどを上げて述べたことがある。

だとすると、「上策」は、身近な所、何処でも「森のような状況」が望まれる。「都市の森林化」である。「中策」は、そういう美味しい空気のある所へ簡単に移動(旅行、滞在)出来ることである。そして、まあ美味しい空気を圧力をかけてボンベなどに詰めて持ち帰り、それを呼吸することだ。これは「下策」である。

美味しい水が商売になっているように美味しい空気ボンベも商売になるかもしれない。(もうなっているのかな)


以上の私自身の言説の引用は同意して頂けるでしょうか。
最近、テレビを見ていたら、次のような話もあった。「杉板は空気を「綺麗に」する。
化学物質過敏症の親子も屋内の床、壁を杉板で仕上げた家で症状がおさまったと言う。杉板の年輪が伸びる方向に比較的大きな空隙があり、その内部は他の木の板より6倍も有害物質を吸収するかららしい。

板壁に溝を掘って、年輪を多く空気に暴露する工夫が大切。その加工が難しい。建物の外壁に貼ると外部空間の空気の質も改善しうるが、防火性能を上げることが難しい、といった問題点がある。

戦後、日本の山は杉と桧の人工林におおわれてきて、「少しおかしい、過ぎたるは及ばざるがごとし」と言ってきたが、多い杉を上記のように利用できれば、良い面もあるな、と思った。「言い過ぎ(いい杉)」と言えよう。


空気の質の追求(研究)は、健康の追求であると共によりよい住宅の追求でもあるのだ。

新建築家技術者集団奈良支部忘年会でのマイ・スピーチ

2010-12-15 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
昨日、西大寺で新建築家技術者集団奈良支部忘年会があり参加した。10人参加、男性6人、女性4人で、設計事務所関係4人(構造事務所含む)、工務店関係1人、公務員3人、その他2人(私含む)だった。

ここにマイ・スピーチを(言いたかったこと含めて)書いておきたい。他の9人の皆さん、ここに書いたことの多くは昨日話しましたが、時間切れで(?)言えなかったこともありますので、それらを加えました。これが、my speech as it might have been(そうであったかも知れないマイ・スピーチ)です。

「西村です。半分ほどは見知っている方ですが、若い方で初めての方もいますので、自己紹介がてら最近していること、考えていることなど話します。金沢生まれで奈良の地には32歳から63歳まで勤めていました。今はお隣の京都府精華町に住み、「地域人間」をやっていますが、この新建など幾つかの活動に参加しています。新建・研究会などにはもっと出席したいのですが、時間配分上、皆が集まる会合やこういう会合には出来るだけ参加させて頂きたいと思っています。

まあ、ブログを見て頂くと分かるのですが、最近は「けいはんな市民雑学大学」の運営を10人余の運営委員と協力してやっています。近くのイオンの4階「こすもすホール」が会場(原則第四土曜日の午後2時より)なので又是非おいで下さい。

「職場人間」から「地域人間」になると、生活時間管理が大切で、不規則になりがちで、それが不健康にも連なるので健康がベースと思い、色々勉強しつつ健康維持に努めています。最近は、ここに持ってきたのですが江戸時代初期の貝原益軒の『養生訓』を文庫本で読んでいます。まあ一寸はどうかなと思う所もありますが、大半は、良く経験を反芻し、世の中の不健康現象を観察し、中国の文献にもあたり、「なるほど」と思いますね。今日の会は「飲み放題」ですが、そこはぐっと抑えて益軒のいうように「酒はほろ酔い、花は半開が良い」に従いたいと思います。

先ほど川本さんが「新建は、まあ老若男女がそれぞれ前からの知り合いのようにフラットな場で付きあえるのが良い」と言っていましたが、私もそう思い、今年の私の漢字を「繋」(けい、つながる)にしたいと思います。来年も、先ほどから色々出かける計画案も出ていましたが、楽しく付き合っていただくことをお願いしておきます。」

兼六園の大和武尊像(銅像)について

2010-12-14 | 金沢の思い出
昨日、テレビを見ていたら、「イグ・ノーベル賞」のことをやっていた。1990年にアメリカで始まったらしい。まあ面白い(知的好奇心を刺激する)(笑える)発見や発明に対して与えられる。

「犬語」を理解する「バウリンガル」装置など記憶に残る。で、突如テレビ画面に私が良く知っている郷里・金沢の名勝・兼六園の一角に鎮座する大和武尊(やまとたける)の銅像が写った。

何かというと、世の中の銅像の上には鳩やカラスが糞をして汚れているのに、兼六園の大和武尊(やまとたける)の銅像の頭はそんなに汚れていないと言う。これを何故かと研究して、同じような合金を作り、鳩やカラスを寄せ付けないようにした広瀬幸雄・金沢大学教授(当時)に2003年のイグ・ノーベル賞(化学賞)だったとのことだ。

広瀬さんは、大和武尊(やまとたける)の銅像の修理の時を捉えて銅像の頭の部分を少し削り取って分析、猛毒のヒ素が普通の4倍も含まれていたと言う。これを元に合金を作ったと言う。確かに面白い。

ところで、私が更に疑問に思っているのは、江戸時代に造られた大名庭園の兼六園に、明治以降に何故、日本神話の大和武尊(やまとたける)の銅像が「場所にそぐわず」造られたのかということだ。

子ども時代から、ずっと毎年「花見」のころに見てきて、大人になってから「変だなー」と思いつつ、未だ自分として「解決」していない・・・。