西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ル・コルビュジェ「カップ・マルタン小屋」の窓からの眺め

2005-11-22 | 住まい・建築と庭
行った時の「お楽しみ」と言ったが、NHKTVで一度見たこともあり、ル・コルビュジェ「カップ・マルタン小屋」の窓からの眺めを紹介したい。インターネット検索である。この小屋や近くにあるル・コルビュジェの墓には多くの日本人が行っていることはインターネット検索で良く分かる。私は昔、33歳の頃、1975年に「国土問題研究所」の海外研修でカップ・マルタン近くのニースに行ったことがある。コート・ダジュール即ち紺碧海岸で誠に美しかった。もう一度も含め、アルル、マルセイユ(ル・コルビュジェ設計の集合住宅「ユニテ」がある)、ニースそしてカップ・マルタンと行って見たい。(写真は、ル・コルビュジェ「カップ・マルタン小屋」からの眺め、近くの緑、地中海、向こう岸の山と緑、住宅群、雲、大空が見える)

私の考え出した言葉(43)方向性のある窓

2005-11-22 | 私の考え出した言葉
久しぶりに「私の考え出した言葉」だが、「言葉」というか「設計のアイデア」である。これは、奈良女子大学の「学園だより」に2000年の2月に書いたものだが、今年の最終講義でも説明した。「方向性のある窓」とは、部屋の方向、建物の方向にとらわれず、見たいものがある方向に向けた窓である。建物(土台)の方向が一段目、部屋の方向が二段目とすると窓の方向が三段目で、それぞれを自由な方向に向ければ面白い立面となる、というやり方だ。三段構成は、人間自体の体の方向、顔の方向、そして目の方向であり、物では「ルービック・キューブ」の三段をイメージしたらよい、と私は言っている。
(写真は、ルービック・キューブ、上段が窓、中断が部屋、下段が建物(土台)の方向のイメージ)

窓からの風景ーキリスト教世界における教会、その他

2005-11-22 | 住まい・建築と庭
「つなね」の海外旅行スライド会(11月20日ブログ)でT.さんがウイーンで見たベートーベンの住んだ家の窓から、遠くの教会の尖塔が見えた、と言われた。そう言えば、上田 篤さんも本で、どんなに町がごちゃごちゃしていても各家の何処かの窓から教会が見えるように都市空間秩序をつくっている、といったキリスト教世界の都市描写があったことを思い出した。そうやって考えてみると、アムステルダムに行って「アンネ・フランクの家」を見学した時も屋根裏の窓から「西教会」の尖塔が見えていたな、と思い出した。私は、仮説として「大自然の風景が見えること」が窓からの風景の理想のあり方と考えているが、キリスト教世界では、教会も見える風景に入れておきたいのかな、と思った。
他に、ロンドン博物館の窓が外の「ローマ遺跡」を狙っているように、特別なものを狙う窓もある。9月24日ブログ「ロンドン報告(13)博物館・美術館訪問-1ロンドン博物館」参照。奈良女子大の卒業生が、卒業設計で、生駒山、大阪城、天神祭の船渡御(ふなとぎょ)を一度に見えるようにしたい、と言ったが、それらは方向も違い、どだい無理で、それぞれ「狙う窓」を設計するしかなかった。
(写真は、アンネ・フランクの家の屋根裏窓より)

ル・コルビュジェのカップ・マルタン小屋

2005-11-22 | 住まい・建築と庭
私は、今までブログで「窓からの風景」というテーマで幾つか書いてきた。一番最初が私自身の「つなねの家」の窓からの風景だ。(05年6月25日)これがブログのスタートを飾っている。出来ればカレンダーで6月25日をクリックして見て下さい。その時、頭に最も大きくあったのは、ル・コルビュジェの地中海に面するフランス・コートダジュール(紺碧海岸)の「カップ・マルタン小屋」である。一度は、現場に行って見たいと思っている。
その後、西山先生宅からの風景、ノルウエーの音楽家グリークの作曲小屋からの風景、奈良の志賀直哉邸からの風景をも取り上げた。西山先生は8月22日の「西山卯三先生の思い出(14)家ーその4 松の樹冠」で、グリークは9月28日の「ノルウエー報告(19)音楽家グリークの家-4仕事場」で、志賀直哉は10月13日の「奈良女子大・奈良散歩05年10月13日-3志賀直哉旧邸」を見て欲しい。先日「つなね」での海外スライド会でウイーンのベートーベンの家の窓からは近くの緑と遥か向こうに教会(?)の塔が見えていたことが分った。スウェーデンのシベリウスの家の窓からは、グリークとやや似た自然の風景が見えていたことは、体験している。ル・コルビュジェの「小屋」は、最小限住宅を模して造られたのかもしれない。1950年に63歳の時の作品である。外観は、インターネット検索で得られたが、中から窓を通じての風景は、昔テレビで見たことがあるが、実際にみるまでの楽しみにしておこう。コルビュジェは、77歳で、このカップ・マルタンの沖で泳いでいて水死し、この地に墓もある。来年あたりに行きたいなあ。(写真は、ル・コルビュジェの作業小屋)

向島ニュータウン(5)-小学校と中学校

2005-11-22 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
近隣住区論では、住区の中心は小学校であるが、向島ニュータウンでは、向島二の丸小学校があり、向島中学校が隣接していた。娘は小学校4年生になる時に松ヶ崎小学校から転校し、中学校も向島で卒業した。中学校2年から3年生にかけて私達一家はロンドンに滞在したので、その時は娘はロンドン日本人学校だった。
今回、向島で小学校や中学校を見て、体育館の屋根が、鉄板葺きのせいか、錆びて赤茶けていたのが気になった。ニュータウンに隣接の向島北小学校でも同じだった。錆びは他にも気になったので又の記事でも描写、考察することにする。とにかく向島二の丸小学校は、運動会その他、私にも思い出のあるところである。ところで、何故「二の丸」なのか。豊臣秀吉の伏見城は、宇治川の北にあったが、巨椋池(おぐらいけ)の向島に出城の「二の丸城」があったため、地名として現在、向島二の丸町となっているからである。(写真は二の丸小学校の体育館)