西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

法然800回忌、親鸞750回忌

2011-07-31 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年は、専修念仏を切り開き、発展普及した法然800回忌、親鸞750回忌の年である。

テレビ「歴史秘話ヒストリア」を見ていて、法然の専修念仏の「種本」が分かった。

43歳まで、色々と悩み、過去の仏典も探っていて、ある日、はっと目がいったのであろう。それは中国・唐代の僧・善導の『観無量寿経疏』である。その部分の和訳(テレビによる)は以下の如し。

「一心にもっぱら 阿弥陀仏の名号を念ぜよ 歩いていても座っていても 横になっていても構わない 時間や場所に関係なく 念仏をやめないこと これは阿弥陀仏自身が選んだ 必ず極楽浄土にいくことができる行いなのである。」(ビデオの一時停止機能を何回か使って筆写)

うーん、種本があったのか。だが、それでも「ピーン」ときて、それを押し出す戦略が一瞬のうちに分かったことだろう。「こころ そこにあれば 一事より万事へ」であろう。

法然と親鸞は40歳歳が離れていたが、享年が80歳と90歳なので遠忌が800年と750年と50年の差となり今年となる。親鸞は、非僧非俗を追求、肉食妻帯もして「念仏を唱えずとも念ずるだけで良い」とした。これも鎌倉新仏教の一つのありかただった。

「階級、階級闘争」から「小集団、個人参加」へも

2011-07-30 | 地域居住学
マルクスは、色々なことを「発見」し、我々に伝えたが、階級および階級闘争の発見は、凄いインパクトを世に与えた。

私は、学生時代、卒論のことを助教授の上田 篤さんに相談した時(喫茶店「進々堂」で)、私は無前提に「労働者階級の住まいに先進性があるのではないか。だから、それらの調査をしたい。」と言った時、上田さんから厳しい「教条主義批判」を受けたことを覚えている。

今でも大きく言えば階級、階級闘争が重要なことは、論をまたない。

しかし、実態として「労働者階級」やそれを主体とする「階級闘争」は、色々な理由で下火と言わざるをえない。

そのかわり、「小集団(アソシエーションやコミュニティ)や個人(地域住民、市民)」の多様な活動、運動が目立っている。NPOやボランティアもそうである。

私は、それらを正にマルクス、エンゲルス時代にはなかったこととして、現代的動きとして評価し、励まさないといけない、と思っている。それらの活動は、代議員制度とともに将来の新しい豊かな民主主義にとっても一つのベースとなりうるだろう。

皆さん、それぞれの持ち場で頑張っていきましょうね。

デンマークのアンデルセン

2011-07-30 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
テレビ北欧特集でデンマークの童話作家アンデルセンの「生い立ち」を見た。

デンマークの第三都市オーデンセに19世紀の初頭に生れ、家庭的に色々な悩みを抱え、10代にコペンハーゲンに出た。当時のデンマークは絶対王政で、下層階級出のアンデルセンは、ある意味で苦労した。しかし、ある貴族の「引き」を得て童話作家として地歩を築いていく。

「みにくいあひるの子」「マッチ売りの少女」 など良く覚えている。下層階級の悲哀と誇りを反映している。

有名になってから、彼はヨーロッパ中を旅行し、フランスのバルザック、デューマ、ユーゴ、イギリスのディケンズなどと面会、交流した。

ヨーロッパは「革命の世紀」、1948年にフランスで革命がおこるが、それについてアンデルセンは何も言っていない。デンマークは、絶対王政から立憲君主制に「平和的に」移行したのに。その年は、正にマルクス、エンゲルスが『共産党宣言』を著した年である。

まあ、とにかく「隔世紀」である『19世紀 再考』を実践していきたい。


最後に見たい風景(仮説)

2011-07-29 | 住まい・建築と庭
人生の最後に見たい風景は、どういうものだろうか。

まあ、亡くなってしまった人に「本当は、最後にどういう風景見たかったの?」と聞けるなら、その答えによって、はっきりするだろう。

しかし、そういう訳にはいかない。そこで、亡くなる間際でまだ意識がはっきりしている人に、「どういう所で、どういう状況で最後を迎えたいか?」と聞いて、その答えをまとめれば、「最後に見たい風景」が明らかになるかもしれない。

でも、この作業も本人、家族、医療関係者等の同意を経てやるべきなので「大変」だ。

後は、このブログのように、こういうテーマを提示して個々に答えるのに任せるばかりである。

で、先ず自分から少し「今のところ」を述べてみたい。

前に「窓からの風景」に関連して、和室から見える最後の風景について「例えば、この和室で死に目を迎えた人は、恐らく縁側に近い畳の上の布団に寝ている視点から大空、木立、「さつき」など全てが見えなくてはならないだろう。何故なら、そこから「大空」に「帰って行く」のであるから・・・」と述べたことがある。まあ、これは今もそう思っている。

「窓を通じない」風景も含めて、全風景となるが、「窓を通じない」風景とは、まあ屋内、部屋内風景となる。

そこには、配偶者や子孫、家族などが見えたほうが良いし、出来れば「弟子」、友人などもいたらなお良い。最後に感謝の握手をしたいと思っている。

他には、常日頃身近にあった器具(例えば茶碗や箸)、本などが見えたらよいのでは、と思う。どうでしょうか。

思想の「隔世紀遺伝」ってあるのかな

2011-07-28 | 色々な仮説や疑問
遺伝学で「隔世遺伝」というのが認められているのかどうか知らない。

だけど、自分として娘への直接遺伝が「効果」をもたらしているかどうか分からない。

それとは別に、3人いる孫に対して、ある意味、「隔世遺伝」を期待している。「爺馬鹿チャンリン」である。

ところで、思想の「隔世紀遺伝」ってあるのかな、とフト思った。それって「19世紀の思想が21世紀に働く」という意味だ。まあ100年から200年前だから現存の人たちは生身を知らず、ただ思想のみを知っているのだ。かと言って500年、1000年前はチト「古すぎる」感もある。ちょうど、我々が親しみを持ちつつ、偉い人がいたもんだ、という位の「離れ方」である。

で、19世紀の大思想というと、ダーウイーンの思想(進化論)であり、マルクスやエンゲルスの思想(唯物史観)である。

で、最近、マルクス(主義)関連の本を読みだしている。いやー1960年代の学生時代が懐かしい。当時は、「安保闘争」の時代で、マルクスの著作を読んでいないなんて学生ではなかったと言えるほどだった。勿論、「後継者」のレーニン(『帝国主義論』など)や毛沢東(『矛盾論・実践論』など)も読んだ。

日本人の著作をもう少し読むべし、と後になって思った。

最近買った本は、
『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』(内田 樹、石川康宏著、かもがわ出版)二人とも神戸女学院の教師時代の「往復書簡」、内田さんは中々鋭く余り気づかない点を指摘している。

『21世紀から見る『資本論』 マルクスとその時代』(的場昭弘著、NHK出版)ラジオで放送中である。マルクスがロンドンで中産階級的生活をエンゲルスの援助でしていたこと、ああそうだったんだ、と思った。へレーネ・デムートという「お手伝いさん」も雇っていた。娘も「いい学校」に通っていた。経済的、時間的余裕がないと毎日、大英博物館に通って経済学をほぼ「一」から勉強し(研究し)『資本論』を書くなんて出来ない相談だ。

『なぜマルクスは正しかったのか』(テリー・イーグルトン著、松本潤一郎訳、河出書房新社)一寸読みにくいが「味」がある。じっくり読みたい。

大思想の「隔世紀遺伝」は、どうなるだろうか。19世紀の日本人大思想家(幕末、明治の思想家)の所説も検討してみよう。

金沢の「古代」は?

2011-07-28 | 金沢の思い出
私は、金沢生れだが、まあ「百万石の町」として余りにも有名で、加賀前田藩からの歴史は、色々と学ぶ機会が多いが、それ以前の歴史については、余りにも知らない。

現在の町の形も前田藩の城下町に原型がある。

昔、チカモリ遺跡に行ったことがあるが、この時代は、またポンとかけ離れ過ぎている。

古代というと、金沢ではなく大和(奈良)などになってしまう。隣りの越中(富山県)では、万葉集の「痕跡」が高岡などに見られるが、そういうことも加賀では、余り「発掘」されていないのでは・・・、と思える。

つまり、金沢という地において、古代から現代までの「通しの歴史」が知りたいのだ。

こういうことは、金沢に限らず全国いたるところで感じられることかもしれない。

金沢の歴史を、アジア大陸との交流の始まった時代位から振り返ってみたいものだ。

明治以降の歴史を世界史の中で見直すと面白いだろうな

2011-07-27 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、宮崎市定著『アジア史論』(中公クラシックス)の最後の論考「東洋史の上の日本」(1958年11月『日本文化研究』第一巻)を再度読んだ。

スケールの大きな「世界史指向」の論考である。

その中で、明治維新以来の日本史に関しても、「広い視点から見るべきこと」を説得性を持って指摘している。

「明治維新以来の日本の歴史が、順風に帆をあげたように着々実績を挙げることができたのは、それがヨーロッパ諸国(アメリカ含む:私注)の利益と一致したからだ。 ヨーロッパ諸国はアジアの最も便利な地点において、安心して利用できる基地がほしかったのだ。

ヨーロッパ列強が植民地化して利益をあげうる最大の目的物は中国である。この中国を制するには日本に足場を設け、日本人を利用するのが一番・・である。日本は巧みにこの潮流に乗ったわけだ。ここに日本独特の追随外交が始まったのである。
(私注:残念ながら、今もその「伝統」が続いている。)

明治の官僚は人民に対しては横柄に威張ったものである。だから一般人民は、あんなに威張る官員が、外国人の前に出てペコペコ頭を下げようとは夢にも考えなかった。そして歴史が間違って書かれてしまったのだった。」(363頁~364頁)

(内部に対しては、天皇制を盾に「独裁的」に振舞ったが、外部(欧米)に対しては大局「ペコペコ」していたのだ。今は、それはアメリカ(一部EU)に対してである。だから、絶えず、そちらに「補助線」を引いて日本政府の行動を見守る必要があるのだ。)

世界史的に研究された明治維新以来の日本史の業績は未だないのではなかろうか。どうでしょうか。

独自技術の重要性

2011-07-27 | 時論、雑感
中国の「新幹線技術」は、「拙速」だったことが露呈した。

日本の原発技術も又「未熟」だったことが明らかだ。元々アメリカの軍事技術(原子力潜水艦)に基づくもので、アメリカのハリケーンに対する「防護」方法はあるが、大地震や大津波は、想定されていなかったようだ。そういう日本独特の条件に対応するには、日本独自で研究し、開発すると言う思想が必要だが、時間も金もかかるのは事実。

出来あいのものを右から左へ、横文字を縦文字にする程度の「悪い癖」が出たと言っても良い。ロボットも当初はアメリカ製を使っていたし、汚水処理システムもアメリカ製とフランス製の混合だ。これでは上手くいかないのは見え見えだ。

戦前も、陸軍はドイツ式、海軍はイギリス式で輸入したため、度量衡もメートル式とヤード式に分かれ、ネジ一つ、弾丸一つ共同で生産できなかったという愚があった。

今も、原発での汚水管の大きさや継ぎ手の仕様が食い違っているのでは、と恐れる。

少し時間がかかっても金がかかっても独自技術が「安全保障上」も重要だ。再生自然エネルギー開発でも自前の独自技術を追求して欲しい。日本にその能力はあると確信している。

中国新幹線事故の後処理?

2011-07-27 | 時論、雑感
中国新幹線の大事故の後処理が問題になっている。

日本で大事故が起こった場合はこうはいかない。過去の例でも良く分かる。

JR西日本が尼崎で起こした脱線大事故では、原因究明のため出来るだけ現場を保存し、調査し、だいぶたってから運転が再開された。

ところが中国では、1日半後に運行が再開されたのである。脱線、高架から落下した列車も地面を掘って埋めると言う「暴挙」もあった。

しかし、国際的に批判されて、掘り返されて移動し原因究明の対象の一つとなるようだ。

中国の技術、対する政治のあり方の今後が注目される。中国国内のネットで批判が展開されているのも注目だ。

一定の苦役、一定の余裕のバランスを

2011-07-25 | 生活描写と読書・観劇等の文化
人間は、余り「暇」だと気がおかしくなって、「小人、閑居して不善をなす」となる傾向がある。

一方、「搾取労働」と言おうか、やたらギリギリ働かされると、何も考えられなくなり、ゆっくり考えたり、少し体を動かす「無量(無料)の楽しみ」が味わえなくなる。

まあ、日に8時間働き、週に6日働き1日休み、年に特別に20日休み、7年目に1年休む(サバティカル)と言ったリズムが良い。これらはキリスト教国で、まあフランス革命などを経由して確立してきた生活リズムのルールである。

日本は、西洋とは少し違うが、人類が獲得してきた普遍的な「生活リズム」を尊重していきたい。

今年は、定年退職して7年目の「古希」なので1年間「休んで」いいのだが、まあそうも言っておられないけれど、何日か、何処かにゆっくり行きたいと思っている。

そして次は7年後の「喜寿」が目標かな。そこでは1年「休んで」楽しんで執筆しようかな。

最近読んでる本の「総合的ネット(繋がり)関係」

2011-07-24 | 地域居住学
最近、「毎日が日曜日」で種々の読書が出来て至福の時間を過ごしている。

どういう本を、どういう意図で読んでいるのか。まあ、一部を紹介し、対してコメントも期待する。

今日買った本。
(1)溝口優司著『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』(ソフトバンク新書、2011年6月、初版第二刷)
(2)牧 紀男著『災害の住宅誌ー人々の移動とすまい』(鹿島出版会、2011年6月初版)
これらは題名からも分かるように「移動」がキーワードである。

これに加えて過去に買った本で関連しそうなものをあげると、
・西田正規著『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年3月第一刷)
まあ、これらは東日本大震災後、人々の居住地、住居はどうあるべきか、に関する直接、又やや間接の論考である。

○人類学では、アフリカに生れた人類が全世界に定着している現在までのプロセスを達観すれば、一時定住しつつ、次の居住地に向けて移住する、これらを繰り返して現在に至っているのだ。全世界に広がったという結果から言うと「定住」より「移動」が主たる面であろう。
○農業革命の後は、定住が大きな傾向になるが、それで終わった訳ではない。
○「安定して」居住していた所であっても、諸種の災害ーハリケーン、台風(土砂崩れ)、地震、津波、原発事故その他ーで住みにくくなれば、そういう災害が起こりにくい所に移住するのが大きな傾向だ。

○更に地球の温暖化、寒冷化に対しては、身体の「進化」、適応出来る場所への「移動」、人間的「技術での対応」もすると思うが、そこにも「移動」は大きな領域として存在する。

これらが大局的にみた人類の地球上での振る舞いと言える。こういう大きな線上で今後のあり方を考えていくべきだろう。

(私の個人史では、大学に入った時、金沢から京都(宇治)への移住、就職の時、京都から豊田への、転勤となって、次に豊田から京都への移住、更に奈良に転勤になって京都市内での移住、京都南部への移住となり、現在に至っている。平均15年に1回か。)

(牧 紀男さんは、私の京大建築学科の後輩だ。一度、話し合ってみたい。)

平城京、平安京的な都市づくり

2011-07-22 | 地域居住学
平城京、平安京的な都市づくりと言うと、今から1200年以上前のことで、現在の「都市づくり」には全く無関係、という捉え方もあるだろう。

だが、「歴史は繋がっている」という根本的認識に立つと、平城京、平安京の東西南北の道路システムで町が区切られるやりかた、それによって道路に囲まれる「敷地」が四角く沢山生みだされること、これは「余裕をもった」「redundanncyある」空間計画である。防災都市計画でもある。

まあ、こういう当面の「無駄」も含みつつある「都市づくり」は、未来型のやりかたでもある、と思う。こういうことをやるには強い権力の集中が必要だ。

江戸時代、明治時代には、そこまで強烈な権力集中が難しかったので平城京、平安京的「都市づくり」が無理だったのだろう。

次の国民主権の集中した時代があるとすると、ひょっとして平城京、平安京的「安全・安心」の都市づくりが可能となるかもしれない。

奈良女大・生活環境学部「親和会」に行く

2011-07-20 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、昔いた奈良女子大・生活環境学部の懇親会である「親和会」に招かれて行った。

新大宮の「奈良ロイヤルホテル」である。40人ほど集まったが「名誉教授」は私だけだった。

そこで今岡春樹学部長(「アパレル」の先生)の挨拶の後、乾杯の音頭をとった。

「本日は、お招きいただき有難うございました。名誉教授の常連の先生などが来ておられないので私から。私は7年前63歳で奈良女を定年退職し、7年経ちましたの何歳になったか、皆さんおわかりですね。古希なのです。古希は「古来、希なり」と言われますが、今年は正に古来希な事件が起こっています。第一に東日本大震災であり第二に東電福島第一原発事故ですよね。

まあ、これは近代では明治維新、太平洋戦争敗戦に次ぐ第三の変革期に当たるのでは、という人もいますね。しっかり取り組んでいきたいものです。

もう一つ、古来希な良いことも起こりました。サッカーの「なでしこジャパン」が世界制覇したことです。女性は、やはり歴史的考えても強い、奈良女子大学、生活環境学部も女性を励ます取り組みをしていって欲しい、と思います。学部の発展と皆さんのご健康を祈念して乾杯!」

まあ、今岡さん始め多くの知り合いと交流したが、今年4月に赴任された4人の方々と交流したことも良かった。  奈良女子大生活環境学部は全学的改組をして前進するようだ。

行って良かった。

台風6号(雨台風)が日本を直撃だが

2011-07-19 | 地域居住学
台風6号が南から四国に接近し高知へ上陸か、と思われたが19時頃に急に東に進路を変え紀伊半島に向かっているようだ。猛烈な「雨台風」のようだ。降り始めから雨量が1000ミリに達した地域も出てきている。

お陰で京都府南部、奈良北部と言った感じの私の住宅地でも風が強くなり、雨量も増えてきたようだ。だが土砂崩れとか床下・上浸水などの恐れはまずない。

私は、生れ、育ちは金沢だが「高台」の寺町台地に住んでいたため犀川の洪水にも安全だった。僅かに局地的豪雨で床下に浸水したことが一度あるに過ぎない。

だから以後、就職し自分で居住地の立地を考える場合、先ず第一に「洪水」に会わない所を選んできている。

まあ、人口に対してこんなに可住地が少ない日本列島だから、全員が洪水や出来れば地震に対して比較的安全な所に住むのは至難の技かもしれないが、出来るだけ、そのようにありたい。