西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ラジオ深夜便 昭和史を味わう 「特攻隊員とその遺書」 保阪正康より

2015-05-03 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今朝、ラジオ深夜便で、昭和史を味わう 「特攻隊員とその遺書」を 保阪正康さんから聞いた。現代史を色々研究している方だ。今回は、終戦70周年にちなんで「特攻隊員とその遺書」ということで、彼らの最後の「叫び」「言い残したこと」なども含めて実際を紹介された。  今まで、僕は「なんと無謀な、無意味な”攻撃”なのか」と漠然と思っていて、「聞けわだつみのこえ」を昔ざっと読んだこと以上のことはトレースし、考えていなかったが、昨晩、保坂さんから色々遺族、海軍関係者等に聞き取りされた結果を少し聞いて「そうなのか、こういうことは二度とあってはならない」と心底思った。

・特攻に出発する飛行機を整備する整備兵の証言・・・特攻隊員に選ばれたあとで・・・「落ち込む、泣き叫ぶ」などに落ち込む人が殆ど、そういう特攻隊員を送り出したものとして戦後長く悶々とした。
・特攻機からの連絡の声を聞いていた将校の証言・・・最後の叫びに・・・「海軍の馬鹿野郎!」「お母さん!」などが印象的。
・特攻部隊のトップが指導の担当の将校を集めて、特攻に取り組んでいくことを伝えたとき・・・一人の将校が「私は帰還兵がゼロと分かっている作戦には賛成できません」と反対したと言う。戦後、その将校に聞き取りした時 、「これで銃殺か」と覚悟したが、特攻部隊のトップに「後で部屋に来なさい」と言われ、行くと「君の部隊からは特攻隊員出さなくて良い」と言われ、部下も「助かった訳だが、戦後、他の部隊に対し、長く申し訳なかった・・・」とのこと。

こういうことは初めて聞いた。戦争なら、帰還兵がどれくらいなら、その作戦を採用するかしないか、となるのに「帰還兵ゼロと分かっている」作戦は全く無謀、と保坂さんも言っていた。特攻隊員の死を無駄にしないためには、今後こういうことに落ち込む戦争は絶対にやってはいけないということではないか。

今日は「憲法記念日」だが、この平和憲法をないがしろにする動きも急、しっかりせねばなるまい。子や孫のためにも。 

歴史の展開ー事象のつながりーオーストリーのゼメリング鉄道の例

2014-11-30 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日11月30日の夕方、テレビ4ch.で「世界遺産」のオーストリーのゼメリング鉄道(1998年に世界遺産)を見た。ウイーンから南へ、初めてアルプス越えを果たした鉄道である。それ以前の馬車による輸送から飛躍的に前進した。

ゼメリング鉄道が通ったことによって、(1)まず南からコーヒー豆が大量にオーストリー、ウイーンに流れ込んだ。(2)次に鉄道沿線にアルプスの地下水からの湧き水が発見され、それがウイーンでコーヒーをたてる水となった。(3)ウイーン、北からの客が大量にアルプスを目ざしたのでゼメリング峠に巨大なホテルが成立した。(4)ゼメリング鉄道そのものも橋は鉄ではなく自然石で支えることになった。(5)鉄道の車両はまわりの緑や大空の青に対して「赤と白」のツートンカラーとなった。  時速200キロと言う。一度乗ってみたい。

セメリング鉄道という「一石(いっせき)」が上記の5つのような「多石(たせき)システム」進化した歴史的事例である。

建築史家・鈴木博之さん逝去

2014-02-07 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日の新聞で建築史家・東大名誉教授だった鈴木博之さんが亡くなられた、享年68歳と知った。

直接、面識はないが、テレビの「講義」などでル・コルビュジェの概要を知ったり色々勉強になった。僕のこのブログでも、この今日の記事を含め3件の鈴木さん記事を書いている。

過去のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/s/%CE%EB%CC%DA%C7%EE%C7%B7  これって「コピペ」してください。見ようとすれば・・・。僕のブログで「鈴木博之」で検索。

ご冥福をお祈りするとともに出来るだけ勉強していきたい。

ポツダム宣言受諾1945年8月14日

2013-08-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は、日本の戦後の方向を決めたポツダム宣言の受諾を「御前会議」で決め連合国に通知した日である。

僕は、かって友人の水原 渉さんと一緒にベルリン郊外のポツダムに行き、ポツダム宣言を決めた会議場を見学したことがある。「ああ、ここなんだな」と深い感慨にとらわれた。

この宣言を決めたのは、アメリカ、イギリス、中国で1945年7月26日であった。

改めてネットで調べた「ポツダム宣言全文」を自分のためにも以下に引用する。ことあるごとに世界史に参加している者として読んで考えたいと思う。


「ポツダム宣言条文 全訳



(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。


(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。(poised to strike the final blows)


(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。


(4) 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。


(5) これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。


(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。


(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。


(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。


(9) 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。


(10) われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。


(11) 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。


(12) 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。


(13) われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。 」(以上)


なお、ポツダムには、写真のようなドイツの建築家エーリッヒ・メンデルゾーンの処女作・アインシュタイン塔がある。1920年代の作、建設である。



自分史と日本史、世界史の絡まり

2013-08-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
自分史と言うのは、正に「自分が生きてきた歴史」である。 しかし、同時に日本史、世界史も「現代史」として進行している。そこで、それらの日本史、世界史と自分史との絡まりが、絡まり方の大小を問わず必ず出てくるであろう。それを一寸「小さな私」の場合を例にして考えてみよう。

・私が生まれたのは1941年(昭和16年)6月であり、正に日本が「太平洋戦争」に突入する(1941年12月8日)数か月前だった。
・父母は、私を金沢の母方祖父母に預けて満州に出かけた。父が関東軍の軍人だったため万一のことを考えたからである。妹が1943年に満州で生まれた。
・私の記憶が「はっきり」出てくる4歳時の1945年(昭和20年)8月15日に、日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦の日を迎えた。
・その後アメリカの全面占領が対日講和条約発効の1952年(昭和27年)4月まで続く。
・父母と妹が復員(帰国)出来たのは、私が幼稚園に入る1947年(昭和22年)4月以前であり、かなり「早い」、やはり父が軍人(主計大尉)だったためか。
・小学校に入るのは1948年(昭和23年)4月で、それ以前に「新憲法=現憲法」は出来、発布された。私は新小学校2期生であった。
新憲法による民主化路線は、アメリカの方針転換により1948年から「逆行」し始めた。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発が大きく作用し、警察予備隊、保安隊、自衛隊が出来てきた。
・1954年(昭和29年)に私は中学に入る。高度経済成長が始まる前夜だった。1955年(昭和30年)保守合同(自民党へ)鳩山一郎内閣による日ソ国交回復。日本住宅公団が出来た。
・1960年(昭和35年)私は高校(金大付高)を経て大学(京大工学部建築学科)に入学、最後の宇治分校生。社会的には歴史的安保闘争、日米安保条約の問題点に直面する。

以上が自分史『わが青春の金沢ー1941年~1960年―』の18年間の軌跡概観である。

1951年4月11日は何の日?

2013-04-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
別の地域SNSに少し前に投稿より。(より広い人に知らせたいため)最近月一位でこちらに投稿、にも関わらず毎日100人以上に見ていただいている。有難い。

1951年4月11日は、(昭和26年で)僕は金沢市立十一屋町小学校の4年生になったばかりである。(計算してみると・・・)

で、「今日は何の日?」でラジオが言っていた。その一つが耳に残った。

アメリカのトルーマン大統領が当時の「在日米軍」最高司令官・マッカーサー元帥を朝鮮戦争での方針対立で解任した日」とのことだ。

そうだったんだ、と感慨深い。当時の僕のクラスの担任は若い未婚の20歳台の吉村不二子先生、毎日、「今朝の新聞で気になった記事は?」という質問をしておられた。

忘れてしまったが、恐らく次の登校日に、マッカーサー元帥が解任され(リッジウエー中将が任命され)たということがクラスで話題になっていただろう。

今から思うと、吉村先生は、NIE(Newspaper in Education)を実践しておられたのだ。これで、朝鮮戦争が始まったとか、鉄のカーテンだとか、スターリンが死んだとか、ご飯を食べると頭がわるくなる(だからパンを食べなさいー今から考えるとアメリカが余った小麦を売り込まんがための宣伝!?)とかが頭に残った。

で、マッカーサー解任の主な理由は「朝鮮戦争で(中国義勇軍の参戦などで)不利を一気に挽回するため原爆を使うという提案をしたこと」であったと後に分かった。これをみると、マッカーサーが提案しトルーマン大統領が拒否したことになっている。

ところが、つい最近「もうひとつのアメリカ史」(BSテレビ)を見たら、1951年頃とは反対に「1945年に広島に原爆を投下した時には、トルーマンが推進決定し、マッカーサーが原爆投下なくとも日本は降伏する、と反対した」とのことだ。

当時1945年、7人いた将軍、提督のうち6人が反対したという。マッカーサーや後の大統領アイゼンハワーも反対したようだ。副大統領になりそこね(従ってルーズベルト大統領の後任になりそこね)たヘンリー・A・ウオレスも反対した。

歴史は、色々な読み方をされるのだろうか。とにかくこの日、その前後のことは頭に強く残った。

ドラマ吉田 茂ー負けて勝つーNHKTVを批判的に見るー

2012-10-07 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日NHKTVで全5回でやっていたドラマ吉田 茂ー負けて勝つーが終わった。

ここでは、吉田 茂に対してマッカーサーに臆することなく「戦争で負けたが外交で勝った」みたいな虚像を作り上げていると思う。結構若くして亡くなった高坂正堯さん(京大教授歴任、政治学)が吉田 茂を持ち上げたことが効いている。

まあ「吉田学校」生徒だった池田勇人、佐藤栄作、宮沢喜一、田中角栄らが「礼讃」したことも効いている。

しかし、孫崎 享著『戦後史の正体ー1945~2012-』でも明らかなように、吉田 茂こそ戦後から現在まで日本のアメリカ従属を決定的にした張本人だと思う。

昭和20年代の子供時代に作られたマッカーサーや吉田 茂の「プラス」の虚像(巨像)を頭を再開発して打倒せねばなるまい。

平清盛の時代ー人々のつながり考ー

2012-07-02 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
日曜日の大河ドラマは「平清盛」だが、殆どみていない。3月4月と「見る気持の余裕」がなかったこともある。昨日も見なかった。

その代わりと言ったら変だがラジオで鴨長明の『方丈記』の話を聞いた。正に平安時代から鎌倉時代に変わる平清盛の時代の人物、著作である。

その放送では、『愚管抄』の慈円、『山家集』の西行、『明月記』の藤原定家、さらに右京太夫なども同時代の人と紹介していた。そうなんだ、と思った。

それぞれの人物や著作については、知識として「表面的に」知ってはいるが、内容を深く知っている訳ではない。それぞれの人物の、著作(考え方)の相互作用については、なお知らない。

この貴族社会から武家社会の大きく変わる時代の知識人たる彼等が何を考え、相互に交流したり意識したりしたのか。興味尽きない。毎週日曜の夜20時からラジオ第二で後3回ほど『方丈記』をネタに話が進むようだ。出来れば聞いて考えていきたい。

昨日は、書棚にあった『すらすら読める方丈記』(中野孝次著、講談社)を取って手元に置いた。

歴史は行きつ戻りつ確実に進んでいく

2012-06-11 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
歴史は一直線に一方向に進むと思いきや、ジグザグと「行きつ戻りつ」確実に進んでいくものだなあ、と最近思う。

長い者に巻かれろ、の古い「村社会」が嫌で、個性、個人主義が自由で良いとした「都市化」は、一転、孤立、孤独、無縁社会化の恐れと言われるようになり、核家族よりは、サザエさん流の「世代家族」の方が良いのでは、との流れも出てきている。

個人化の一つであるマイカーも行きすぎてガソリン、石油の無駄遣い、道路や駐車場をドンドンに造らざるをえず、空間の「無駄」、そこで昔の公共交通、市電やバスがベターとなりつつある。そう言えば昨日6月10日は「市電の日」だった。

こういうように「個人」より「公共」、「ファスト」より「スロー」、「集中」より「分散」、「高層」より「低層」、「国際化」より「国内化」等への流れがある、と思う。

最後の「国際化」より「国内化」だが、最近「法人税を上げると企業が税金の安い海外に逃げる」などと「国際化」やむを得ず、と言われてきたが、最近、「国際化」の本尊・アメリカでも「メード・イン・ユーエスエー」が良いとアメリカに舞い戻る企業もあるようだ。

中国やインドの労働賃金は必ずしも安くはなく、本国(日本)水準に急速に近づいているとするならば、日本に戻り少々の法人税増も負担するぜ、という心意気のある企業も出てこよう。そうなれば「消費税」は上げなくてもやっていけるぜ。

共生(きょうせい)、共生き、共生み(『古事記』より)

2012-05-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、『毎日新聞』で古代史の上田正昭さん(京大名誉教授)が、共生(きょうせい)という言葉は和風には「共生き(ともいき)」または「共生み(ともうみ)」と読まれるが、今年が編纂1300年の『古事記』では、後者の「ともうみ」と読まれているようだ。

「共生き」と「共生み」の違いは、前者は「一緒に生きる」ということであり、後者は「一緒に新しいものを生む」ということである。

そうだな、一緒に生きながら一緒に「変身する」ってのがいいのだな。

考古学者・吉村作治さんの話(隠居大学)

2012-04-30 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
コラムニスト 天野祐吉さんが司会のラジオ深夜便の隠居大学で、エジプト考古学者・吉村作治さん(早稲田大学名誉教授、69歳)の話を聞いた。縦横無尽で面白かった。

吉村さんの理想の最期は、映画監督のそれに似ている。エジプトで発掘調査の監督にあたり、あつい太陽光を避け、帽子を被り、椅子に座っている。

午後の部に入る頃、弟子が「先生、始めます」と言いに来た時、ころっと椅子に座ったまま亡くなっている、それが理想という。

そうだな、最期は七転八倒するより静かに過ごしたい。出来れば身近な人達に「有難う、さようなら」と言いたいな。

吉村さんは昔イスラム教に改宗してエジプト人と結婚し息子も作ったようだが、エジプトで住むと言う約束が守れず離婚、その後、恋愛はするが独身を貫いたとのことだ。

そう言えば、吉村さんが鬚(ひげ)を蓄えているのは、イスラム教徒のせいなのだな。

時代の違う二冊の本の共通点

2011-12-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年も色々な本を乱読した感じだが、その中に発行された時代が違うが、大きく見て同じ問題意識だなと思う二セットの本があった。

一つは、江戸時代の貝原益軒の『養生訓』と明治末期に書かれた幸田露伴の『努力論』(1940年発行、2011年2月第15刷りの岩波文庫による)が「似ている」ことであり、もう一つは、最近出た岩波新書の羽田 正著『新しい世界史へ』と2009年10月第15刷りの岩波文庫、宮崎市定著『史記を語る』が「通底」しているということである。

貝原益軒と幸田露伴の似ているのは、ともに「気」の重要性を根底においていることではなかろうか。まあ「東洋的考え方」とも言える。

また羽田 正氏と宮崎市定さん(東洋史学)が似ているのは、羽田さんが現在、東大教授(東洋文化研究所長)ではあるが、京大文学部出で京大で学んだ時には、既に宮崎市定さんは京大教授をやめていたが、京大東洋史学の雰囲気は感じたのではなかろうか。それと、ひょっとして羽田 正さんは羽田 亨さんの孫ではないのかな。私が京大に学生でいたころ、羽田 亨さんが京大文学部教授(東洋史)でおられたのではないか。

ここで、世界史というのは、高校時代に習ったようなヨーロッパ史中心の「世界史」ではないのである。

で、宮崎市定さんも、「歴史は世界史でなければならない」ということを率先して言った方なのである。その伝統を羽田 正さんが引き継いでいるとも言えるのである。  あにはからんや、羽田さんは、その新書で宮崎市定先生を「引いている」。

これからは、内にあっては「気」の重要性を、外にあっては世界史の重要性、面白さをしっかりと学んでいきたい。

日光東照宮の色彩や彫刻について

2011-11-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
テレビの「歴史秘話ヒストリア」で徳川家光が「改築」した日光東照宮についてやっていて興味深いものだった。

実は、明治以降にブルーノ・タウトが日本に来て、あちこち回って色々批評したのだが、その中で、「日光東照宮のきらびやかさ」よりも「桂離宮の清楚さ」を高く評価したために建築関係者でも、桂離宮を持ち上げる論調が強い。

もちろん、他の外人、例えばアーネスト・サトウ氏などは日光東照宮を激賞している。

私は、日光東照宮、桂離宮ともに素晴らしいと思う。まあ桂離宮は、伊勢神宮などの「無垢さ」とも通底しており、日本建築の一つの伝統を表しているとも言える。

しかし、一方、日本に珍しい「絢爛豪華」な日光東照宮が現れたのも事実であって、その原因、意味を深く考察すべき、と思う。

まあ西洋建築、特に石造建築では、外面にも内面にも物語性のある彫刻を多数配している。特に教会建築では、聖書の教えを文字(ラテン語)を十分解しない庶民のために分かりやすく示す彫刻群が「氾濫」しているとも言える。

同じように日光東照宮の彫刻も、家光が大名や庶民へ発したメッセージ(教え)なのであろう。きちんと理解していきたい。

同時に日光東照宮のそういう建築が、日本では「孤立」している意味も考えていきたい。

政略結婚の研究ってあるのかな

2011-09-09 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
「政略結婚の研究」という研究分野があるのかどうか知らない。
でも、まあ歴史的には洋の東西を問わず、そいうことで世の政治というか権力の状態が大きく規定されてきたのも事実であろう。日本では、天智天皇と藤原鎌足以来、天皇家と藤原家が、互いに娘を相手側に送りこみ姻戚関係をつくり「もちつもたれつ」の関係を千年に渡って築いてきたのも歴史的事実である。

最近の大河ドラマ「江(ごう)」をみていて気がついたのだが(遅い!)、織田信長の姪3人がそれぞれ大名に嫁ぎ、とりわけ茶々(淀)が豊臣秀吉側室に、江が徳川家康の跡継ぎの秀忠に正室で嫁いだことだ。つまり「滅んだ」織田家から次の権力者の秀吉、次の次の権力者の徳川家に嫁いでいる。

これは、旧権力者の残された女性達が新権力者の「嫁や側室」になる傾向が歴史的にあるということかな。豊臣や徳川にとっては織田家は主人筋であり、そこの女性陣が豊臣、徳川の男性筋には、それこそ「姫様」な訳だ。それなりの「躾け、振舞い」にも安心できる訳だ。部下にも「示し」がつくだろう。

平家が滅んだ後、平家の姫様達も「源氏」への「女性供給源」になったというのは本当だろうか。

同時代人物交流史の面白さ

2011-08-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
録画してあった「三世代史」のうち金田一京助、春彦、秀穂三代と杉山茂丸、夢野久作、杉山龍丸三代の2本を見た。未だ生きているのは金田一秀穂さんのみである。杉山三代がそう繋がっているとは知らなかった。

これらを見ていて、同時代の他の人物との交流が本人の自分史を厚みのあるものにしているなーとつくづく思う。例えば、金田一京助は同郷の石川啄木と一つ屋根の下で暮らしたことがあり、そのことも京助がアイヌ語研究、ユーカラの翻訳に没頭していく契機の一つになっていったり、民俗学の柳田国男に「応援」されて更に邁進、またアイヌ人の何人かに出会って大きな影響を受けたりする。

こういうことは、歴史的に考えても当然のことで、どんなに「偉い」人物であっても、また「普通の」人物であっても親兄弟、先生の他に多くの友人や同時代人から影響を受ける のである。

これらを丹念に見ていくと、へーそうだったんだ、ということが多々分かってくる。最近、更に同時代人物交流史が面白いと感じるようになった。