西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

呼吸、飲水、食べるについて

2013-08-25 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
今日は、facebook、地域SNS、ブログ同じ記事にした。

栄養、運動、休養・・・健康の三留意面(今日も運動についての4)→facebookより

呼吸、飲水、食べる→先だって「呼吸」について書いた。緊張し、力を出す時は「吸う」、リラックスの時は「吐く」ですよね。だから「ため息」はリラックスしたいサインです。大きな顔で「ため息」をつきましょう。

で、呼吸は5分も止められない。だが飲水は5分はおろか普通は5日間止めても大丈夫、でも熱中症危ないときは頻繁飲水だよね。

そして食うは5×5の25日「断食」も可だ。日本人は、その昔アフリカを出発し、飢えに耐えつつ、途中残念にも亡くなった人もいるが、無事、現在、日本で生きている同胞は皆飢えに耐えてきたのだ。我々はその遺伝子を持っている。

少々の「断食」も大丈夫なのに「飽食」にふけるからメタボになりダウンするのだ。

鼻、口、小便器、大便器で出し入れしている物に対して長年生きてきた僕流の評価と位置づけである。どうでしょうか。

だから、いい空気、いい水、いい空気を「入れ出し」しましょうね。

『わが青春の金沢ー1941年~1960年ー』書き出す

2013-08-22 | 金沢の思い出
昨日あたりから『わが青春の金沢ー1941年~1960年―』を書きだした。下書きは10年以上前から、書きためている。それらを読み返しながら書き出したのだ。

まあ太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)に生まれて70年以上ここ日本列島に生きてきた。途中10か月ほどロンドンにいた。あとは、旅行で短時日海外にいたこともあるが、それ以外は日本である。

最初のスタートは、修学旅行で一寸離れたことはあるが、まるまる18年間、生まれて高校を卒業するまで18年間、金沢市櫻畠三番丁に住んでいた。

だから金沢市(櫻畠)が故郷(ふるさと)と言って間違いではないだろう。まあ気分として「温故知新」で書き出している。

「おふくろ」と「おやじ」との因縁

2013-08-19 | 金沢の思い出
私の最初の金沢の18年間(高卒まで 1941年~1960年)の自分史を書きだした。今日の私自身の存在を言うためには、当然、私を生み出した「お袋」と「親父」に言及する必要が出てくる。

で、過去に書いたメモを見て少しづつ書き出してみた。それで思うのは、「今日の日の私」があるのは、やはり「おふくろ」と「おやじ」のお蔭である、ということだ。

おふくろは、おやじと結婚して23歳の時に私を生んだ。1941年、太平洋戦争が起こった年である。おふくろは愛子と言い、正に祖父母の愛に包まれて育った一人娘だった。師範付属小学校を卒業ののちに石川県立第二高等女学校(現在の「21世紀金沢美術館」のある所にあった)を卒業する時におふくろは「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)への進学を希望した。「第二高等女学校」の同窓会「真清水会」の方に聞くと「西村さんなら推薦されて行けただろう」と言う。

ところが両親(私の祖父母=西村由森・すすむ)は、一人娘で「跡取り」、婿さんを迎えなければ、と思っているので、奈良への進学には「絶対反対」だった。

それなら、と母・愛子は両親に条件を出した。「では、帝大(帝国大学)卒業生と結婚できるよう取り計らって下さい」と。まあ、当時の女性としては「東京女子高等師範学校」(現・お茶の水女子大)か「奈良女子高等師範学校」(現・奈良女子大)に行くのが最高の教育を受ける道、また結婚するなら「帝大卒業生」とする、というのが最高のライフコースだった。それが見合い結婚が世の流れの時に両親に出した条件だった。

それであれこれの後に旧制「一中」(現・泉丘高校)、旧制四高(現・金沢大学)を経て京都帝国大学法学部を卒業した瓜生留雄(うりゅうとめお)と1938年(昭和13年)に結婚することになったのだ。


私が生まれ、京都大学に進学し、奈良女子大学に長く勤めたのは、正に私と両親の因縁でもある、と思うのである。

奈良女子大1983年(昭和58年)卒30周年記念同窓会に参加雑感

2013-08-18 | 奈良の思い出(助教授時代)

一昨年から日航奈良ホテル(JR奈良駅裏)で行われている奈良女子大卒後30周年記念同窓会に今日(8月第三日曜日)招待されて参加した。今年は1983年(昭和58年)卒の同窓会である。私は奈良女子大学を定年退職した2005年から参加し、今年で9回目である。

2005年から2010年までは奈良ホテルで行われた。2011年、2012年、今年と日航奈良ホテルである。4階の飛天の間である。

又2006年までは8月の第一日曜日開催だったが2007年から今までは第三日曜日となった。

1983年卒というと、入学が1979年で「共通一次」一期生だった。実は彼女らが4回生だった1982年の秋(10月)から1983年の8月まで僕は家族(妻と娘ー中2~中3-)と文部省の在外研究員でイギリスに留学した。だから、彼女らの卒業に立ち会っていない。が、色々と思い出深い学年であった。1982年の夏ごろに完成したE棟にⅮ棟から引っ越ししたが、ゼミ生に手伝ってもらった。彼女ら(3人)の卒業研究は、未だ健在だった扇田 信教授、今井範子助手(当時)が指導した。僕自身は、イギリス留学準備の他、学位(工学博士)論文を京大(巽 和夫教授)に提出した「大変な」年だった。


今日の同窓会プログラムは、おおむね毎年同じだが、13時に始まる前に記念撮影、2010年までの奈良ホテル時代は、3学部(文学部、理学部、家政学部)一緒に同窓生、教員全員(約250名前後)を写していたが各人の顔を識別しがたく、2011年の日航奈良ホテル時代からは、各学部別(学長、同窓会長のみ3回とも入る)に撮影となり、写真は見やすくなった。

次に開会の辞、そしてこの1年間に亡くなった同窓生や教員に対して全員起立で1分間の黙とうをした。

・続いて学長が大学の現状等につき概略説明を兼ねた挨拶をされた。今岡春樹さんが、1983年以後の実情と今後の改組の話をされた。今後、何年かは18歳人口は横ばいだが、それ以後80万人ほどに激減、大変とのことだ。

・乾杯は、最年長の井上公正(92歳、哲学)さんが音頭を取られた。あと1回(来年)で93歳、「満期」となる。(奈良女子大では63歳が定年、その30年後は93歳なので定年退職した教員にとっては、93歳がこの卒後30周年記念同窓会の「満期」となる・・・)

それからテーブルごとの歓談、カメラマンがスナップを撮って回っていた。

住居学科は卒業生19人、教員7人(年齢順に近藤公夫、梁瀬度子、疋田洋子、僕、磯田則生、今井範子<以上名誉教授>、北口照美さん)が3テーブルに分かれて飲みつつ食べつつ駄弁った。卒業生は、久し振りに会った人ばかりである。今日、僕のアテンダントをしてくれたのは、安恒万記(旧姓・糸賀)さん(筑紫女学園短大・准教授)だった。同じテーブルは、教員は今井さんと私、元学生は1講座1名(伊東理恵さん、欠席は岡野良子さん、綿谷容子さん)、4講座が6人だった。4講座の先生(高口恭行さん、瀬渡章子さん)は欠席。他の2テーブルは、2講座(学生一番多い)と3講座である。

・「恩師お言葉」は、毎回一人「実行委員会」で選んで依頼する「恩師」が近況・雑感などを話す。今回は理学部の野口誠之さんだった。前学長である。

僕も2010年に「けいはんな市民雑学大学」のことなど話した記憶がある。一昨年年は松生 勝さん、昨年は石川 実さんで3年連続家政学部であった。


同窓会・佐保会の疋田洋子理事長の挨拶・・・初めて、来年の佐保会100周年の色々なイベントの説明があった。

・合唱で「校歌」と「ふるさと」を歌った。

・最後に実行委員長・藤原素子さん(教育学科、体育学専攻卒)の挨拶、バランスのとれた挨拶だった、やはり卒業30年もすれば、こうなるのか、と感心した。

ほろ酔いで16時頃に散会、(3時間余の)いい同窓会だったなー。元学生との交流の他、元先生同士の交流も良かった。

僕の戦争体験、戦中と戦後すぐの時代

2013-08-17 | 金沢の思い出
僕の戦中の戦争体験(~4歳)

(1)富山方面に編隊で飛ぶB29  (2)防空頭巾  (3)防空壕  (4)灯火管制  (5)疎開  (6)防火訓練ーバケツリレー  (7)戦争ごっこ


僕の戦後すぐの戦争体験(5歳~9歳位)

(1)本土復員(父母と妹)  (2)買い出し  (3)芋栽培  (4)米などの配給  (5)進駐軍の邸宅接収  (6)アメリカ文化センター  (7)天皇「行脚」、 (8)傷痍軍人・・・


「自分史」では、出来るだけ「詳しく」書いていきたい。

戦争体験をボチボチと

2013-08-16 | 金沢の思い出
終戦時、僕は満4歳を越えて1か月半位の時だった。 だから記憶が一部かろうじて残る年代に終戦になったのだ。

当時、小学校、中学校などの児童、生徒だった僕より一寸「上」の先輩たちは、もっと鮮明に、あれこれ「銃後の苦労」や、実際の米軍空襲などの「怖い思い出」が記憶に残っているに違いない。

それ以上の先輩の中には、実際に「兵隊」となって戦争を体験した人もいるに違いない。

しかし、歳が離れる先輩ほど、亡くなったり、体験をはっきり思い出して言えない状況になる。

そこで、戦争体験の核心ではないが、確かに「体験と言えば体験だ」というものを持つ我々の世代の体験も徐々に重要となってくる。

そういう訳で、僕も「自分史」の一面としての「戦争体験」を思い出して述べていきたい。(1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年))


それらは戦後の徐々によりはっきりしてくる記憶体験へと繋がっていくだろう。(今日は取りあえずここまで・・・)

終戦68周年記念日に

2013-08-15 | 時論、雑感
今日2013年8月15日は、「太平洋戦争」終戦68周年記念日だった。まあ「終戦じゃない、敗戦だ」という人もいるだろうが、ここでは一応「終戦68周年」としておこう。

この戦争では、アジアの人民2千万人以上が死に、日本国民は310万人が亡くなった。そのうち200万人は1945年(昭和20年)の8カ月半に原爆や大空襲などで亡くなったし、150万以上は戦闘で亡くなったのではなく餓死したのだ。


何ということだ、もう半年から1年早く「幕を引いていたら」多くの日本国民やアジア人民は助かっていたのだ。歴史に「たら」はないとも言われるが、残念でならない。
今日は何故か12時に「テレビ」にあわせて黙祷した。生まれて初めてのことだった。日本武道館では6千人以上が参列、73%が70歳以上と言う。僕もそのグループに入っている。甲子園でも若者たちが黙祷した。

今後、いくら何でも70歳以上を「赤紙」で徴兵はしまいが、孫達20歳以下の若者にとっては、徴兵制は重い「制度」となりうる。親、祖父母世代としても絶対に認めてはならない。

今や米ソ冷戦はなく、aseanなど平和的外交の時代であろう。日本よ、何時まで「アメリカ従属」でいくのか、と問いたい。保守の人にも訴えたい。僕の(金大付高)後輩の元外交官・孫崎 亨さんも「アメリカ従属」脱却を訴えている。 日米安保条約より憲法を重んじる時代になっているのではないか。1960年(昭和35年)の日米安保条約破棄闘争を曲がりなりにも闘った者として強く訴えておきたい。

ポツダム宣言受諾1945年8月14日

2013-08-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は、日本の戦後の方向を決めたポツダム宣言の受諾を「御前会議」で決め連合国に通知した日である。

僕は、かって友人の水原 渉さんと一緒にベルリン郊外のポツダムに行き、ポツダム宣言を決めた会議場を見学したことがある。「ああ、ここなんだな」と深い感慨にとらわれた。

この宣言を決めたのは、アメリカ、イギリス、中国で1945年7月26日であった。

改めてネットで調べた「ポツダム宣言全文」を自分のためにも以下に引用する。ことあるごとに世界史に参加している者として読んで考えたいと思う。


「ポツダム宣言条文 全訳



(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。


(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。(poised to strike the final blows)


(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。


(4) 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。


(5) これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。


(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。


(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。


(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。


(9) 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。


(10) われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。


(11) 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。


(12) 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。


(13) われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。 」(以上)


なお、ポツダムには、写真のようなドイツの建築家エーリッヒ・メンデルゾーンの処女作・アインシュタイン塔がある。1920年代の作、建設である。



「長崎平和宣言」を読む

2013-08-10 | 時論、雑感
長崎市長・田上富久さんが9日の長崎平和祈念式典で読み上げられた「長崎平和宣言全文」を新聞で読んだ。格調高く感動した。以下に一部を書き写す。

「…日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。  

今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80ヵ国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。  

しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきでない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。

インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。

NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。

日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。

非核三原則への法制化への取り組み、北東アジア非核兵器地帯検討の呼びかけなど、被爆国としてのリーダーシップを具体的に行動に移すことを求めます。…」

同じ式典であいさつした安倍首相との言葉と比較しても「雲泥の差」があると言わざるをえない。日本政府代表の安倍首相は、田上市長の「長崎平和宣言」に応えるべきと思う。  

「集団的自衛権(憲法9条に関連)」について

2013-08-09 | 時論、雑感
集団的自衛権(憲法9条に関連)・・・今までの歴代内閣(自民、自公)は、憲法9条2項に関連して「集団的自衛権は、認められない」という立場だったのに、今回の選挙後の安倍さんは、その立場と「違う」外交官を内閣法制局長官に「クーデター的」に据えた。参議院選挙「大勝」の「おごり」が見えている。最近、自民党支持率は下がらないのに、内閣支持率が下がってきているのは安倍政権の無茶ぶりに自民党支持者も安倍政権に「嫌気」がさしているのではないか。

今日の『朝日新聞』に元法制局長官の阪田雅裕さんが「集団的自衛権容認、整合性なし」と言っており、もしそのような道に行くなら「解釈改憲となり邪道」と批判している。

言ってみれば、「集団的自衛権」とは、「自衛権」という名目が付いているが、これは日本の自衛にもアメリカ本土の自衛にも関係がなく、過去ソ連がやったチェコ、ハンガリー「侵略」やアメリカのベトナム侵略などがその例になり、韓国軍は「集団的自衛権」でアメリカのする戦争に協力、ベトナムに派遣されて大分戦死しているが、日本は憲法9条2項の歯止めでベトナム戦争に直接人的に「巻き込まれなかった」、もっとも基地・沖縄他日本各地の米軍基地は好きなように使われたが・・・。

憲法9条は大切、集団的自衛権は認めない、という普通の道を行くべきでは、と思う。安倍さんは、過去の先輩内閣の方針を「全否定」する積りであろうか。
なかなか、そうはいくまいとは思うが・・・、やはり国民の意見が最後の決め手である。

自分史と日本史、世界史の絡まり

2013-08-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
自分史と言うのは、正に「自分が生きてきた歴史」である。 しかし、同時に日本史、世界史も「現代史」として進行している。そこで、それらの日本史、世界史と自分史との絡まりが、絡まり方の大小を問わず必ず出てくるであろう。それを一寸「小さな私」の場合を例にして考えてみよう。

・私が生まれたのは1941年(昭和16年)6月であり、正に日本が「太平洋戦争」に突入する(1941年12月8日)数か月前だった。
・父母は、私を金沢の母方祖父母に預けて満州に出かけた。父が関東軍の軍人だったため万一のことを考えたからである。妹が1943年に満州で生まれた。
・私の記憶が「はっきり」出てくる4歳時の1945年(昭和20年)8月15日に、日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦の日を迎えた。
・その後アメリカの全面占領が対日講和条約発効の1952年(昭和27年)4月まで続く。
・父母と妹が復員(帰国)出来たのは、私が幼稚園に入る1947年(昭和22年)4月以前であり、かなり「早い」、やはり父が軍人(主計大尉)だったためか。
・小学校に入るのは1948年(昭和23年)4月で、それ以前に「新憲法=現憲法」は出来、発布された。私は新小学校2期生であった。
新憲法による民主化路線は、アメリカの方針転換により1948年から「逆行」し始めた。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発が大きく作用し、警察予備隊、保安隊、自衛隊が出来てきた。
・1954年(昭和29年)に私は中学に入る。高度経済成長が始まる前夜だった。1955年(昭和30年)保守合同(自民党へ)鳩山一郎内閣による日ソ国交回復。日本住宅公団が出来た。
・1960年(昭和35年)私は高校(金大付高)を経て大学(京大工学部建築学科)に入学、最後の宇治分校生。社会的には歴史的安保闘争、日米安保条約の問題点に直面する。

以上が自分史『わが青春の金沢ー1941年~1960年―』の18年間の軌跡概観である。

「改憲せずに現れた独裁」ー日本国憲法下での集団的自衛権行使容認?!ー

2013-08-03 | 時論、雑感
今日の『朝日』35面に「改憲せずに現れた独裁」という記事あり。重要と思うので書き写す。太田航さん記事だ。

「「ワイマール憲法という当時欧州で最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくてもそういうことはありうる」麻生氏は発言の前段でこう語っている。ワイマール憲法はナチスの下でどんな経緯をたどったのか。

ワイマール憲法は1919年、第一次世界大戦の戦況が悪化するなかで帝政が崩壊したドイツで成立した。憲法案を審議する議会が中部ドイツの古都ワイマールで開かれたことがその名の由来だ。戦争の反省も踏まえ、国民主権や普通選挙、生存権の保障などをうたい、20世紀の民主主義憲法のさきがけとされた。

しかし、ヒトラー率いるナチスが台頭。世界恐慌や対立を繰り返す既成政党に対する民衆の不満を背景に支持を集めた。33年1月に誕生したナチス政権の独裁を可能にしたのは、同年3月に議会を通った「全権委任法」だ。議会の関与なしに政府が立法権を行使できる内容で、ワイマール憲法は実質的に停止される。

この法案成立には国会の3分の2の賛成が必要だったが、ナチスに反対する共産党議員らを次々と逮捕し、可決に持ち込んだ。憲法から縛られなくなったナチスは独裁体制を築き、大量虐殺、戦争へ突き進んだ。

ドイツ憲法に詳しい戸波江二・早稲田大教授(憲法)は「ヒトラーは不安定な政治状況につけこんで独裁体制をしき、憲法を停止させた。(麻生氏の発言中の)『誰も気づかない』うちに、というのは事実でない」と指摘する。

「憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使を認めることに前向きな安倍晋三首相の姿勢と重なって見える」。上脇博之・神戸学院大法科大学院教授(憲法)はこう語る。

折しも、安倍首相は、憲法9条の下で集団的自衛権は行使できないとした政府解釈を支えてきた内閣法制局の長官人事に着手。集団的自衛権の行使容認に積極的な外務官僚を起用する方針を固めた。

上脇教授は「憲法を骨抜きにする手法そのものだ。立憲主義を否定する政治が進むおそれがある」と危惧する。(太田航)」


集団的自衛権とは?

2013-08-02 | 時論、雑感
今日の夕刊(『朝日』)を見ると、「集団的自衛権 容認派起用へ  法制局長官に小松大使」という記事がトップにきている。「集団的自衛権は、同盟国などが攻撃された時に自国への攻撃とみなして反撃できる権利。」であり、歴代内閣は「国際法上保有しているが憲法9条との関係で行使できない」という憲法解釈を踏襲している。

安倍首相は、この解釈を「行使できる」に転換しようと狙っている。しかし、法制局長官が、その転換が出来るとは考えられない。法制局長官は内閣における一公務員にすぎない。国の大方針を転換するのだから国会あげて、国民も呼応して大議論を行う必要がある。

もし、仮に「集団的自衛権」に基づきアメリカがある国に対して起こした戦争に同盟国の日本が巻き込まれた場合に、相手国が戦争だから「強く」「遠い」アメリカ本国ではなく同盟国の日本が「狙いやすく」「近いから」等の理由で集中的に攻撃してくることも大いにありうるのだ。それを認めますか。僕は絶対に認められない。故に「集団的自衛権」については過去の法制局解釈に近いと言えよう。僕はとにかく日本国憲法」の下で成長してきたのだ。それで全く今まで不都合を感じていない。とにかく、先の大戦でポツダム宣言を受け入れ、天皇制の下での軍国主義に徹底的に反省することから戦後がスタートしたのだから、世界もそのように見ているのだから、その道を堂々と前進するのが「大道」と言えよう。 皆さんはいかがですか。

現憲法の「お勉強」

2013-08-01 | 時論、雑感
この夏休み、日本国憲法を再度学習してみたい、と思っている。最近、書斎にある過去資料を整理していたら、かっての京都府知事・蜷川虎三さんが広く配布された小冊子『憲法』が出てきた。

胸ポケットに入るぐらいのもので、憲法そのものと共に教育基本法や児童憲章も載っている。「憲法略年表」もついていて全体で64頁、「無視」できないものだ。

蜷川知事の当時のスローガンは「憲法を暮らしの中に生かそう」だった。僕が京大の学生、院生ちょっと飛んで京大助手の時、蜷川さんが京都府知事であった。

かっぷく良く、もう一人の「虎さん」だった。

で、最近、参議院選挙で、改憲を狙う安倍さんの自民党に対して真っ向から対決して、「躍進」していると言われる共産党では綱領で憲法がどう位置づけられているのかネットで調べてみた。全体で17項あるうち、12項に次のようにある。

「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。」 一寸びっくりした。僕らが学生だった1961年の綱領では、「平和的民主的諸条項の完全実施」は追求するが、天皇条項などは「取り除くべし」」みたいな感じだった。戦前、絶対的天皇制打倒を掲げて運動した共産党として当然かな、と思っていた。

ところが2004年(9年前)の綱領改定で、「現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。」 となったのである。これだと第一章で八条ある天皇条項も全体としてまもることになる。 これを読んで皆さんどう思いますか。

・・・「第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴 であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」が大事、天皇の地位は「国民の総意」に基づくものであって、憲法のベース、国民主権は、ここにも貫徹しているのである。

それゆえ、共産党は、これは「君主制でも何でもなく世界に類をみない、国民主権に基づく象徴天皇」なのである、と分析、認識したものと思う。

・・・「第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」と規定、国政に関する権能(内政、外交等にわたる権限)は「ない」と明確にしているのだ。

まあ、こういう訳で共産党は、ある意味では、やっと蜷川虎三さんに追いついてきた?、とも言えるであろう。今後、憲法論議が展開すると思うが、現憲法が「時代遅れ」ではなく、もっとも「先進的なものだ」という認識からは、あれこれの改正は、全く問題にならない、と思う。

どうか、もう一度、現憲法をじっくり読んで、考えてから「思い」を述べて欲しいな。・・・