西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

記憶の特徴について

2010-07-31 | 色々な仮説や疑問
最近、『失われた風景と暮らしー我が青春の金沢1941~1960-』(仮題)を1年以内でまとめてみたいと思っている。

そのパーツ作成も兼ねて別の「地域SNSけいはんな」の日記で「夏休みの思い出」シリーズを毎日書いている。まあこれは「夏休み中」の一応「終わる」予定。

こういうこと(自分自身に対する詳しい聞き書き、聞き取り調査)をやりながら、「記憶の特徴」について、考える日々でもある。

先ず、記憶とは、現実世界の五感(特に視覚が強い)を通じての脳への一つの反映であるということを確認しておきたい。つまり、現実世界が厳として客観的に存在しないなら、それを反映する記憶もないと言える。だから、記憶は、ある意味で主観的であり、その中で変容することもありうるのだ。

仮説として、
(1)体験記憶には強化作用と弱化作用がある。・・・「良かった」「楽しかった」などのプラスの体験記憶は、何度も簡単に思い出せて、そのことによってその記憶は強化される。一方「拙かった」「悲しかった」などの一般にマイナス体験と思われる記憶は、一般に弱化され、忘れ去られるものもある。

(2)美化作用と合理化作用がある。・・・一般に体験記憶は、美しい体験に記憶内で「変えられる場合(美化作用)」がある。又、客観的に「悪いことをした」経験記憶でも、無意識に「正しかった」経験記憶に「合理化」される場合もありうる。

(3)地理的、歴史的に有名場所、有名人、有名事件(イベント)に関しては、なるべく自分も「関係アリ」との記憶情報を探す傾向がある。

(4)自分が脇役でも主役になりがちである。

(5)全体として「美しい物語」になりがちである。

(6)日々おかずに書かれた日記、イベントの資料、新聞その他の資料などによって記憶が修正されることもある。


これらが脳内のどういうメカニズムで起こるのか、「研究途上」という認識である。

客観的資料を殆ど用いず、主観的物語をどんどん作ろうとすれば、それはフィクション(小説)となるだろう。資料を多く参照すればドキュメンタリーになりうる。

さて、どうしようかな。

日光を見ずに「ケチ」をつけるな(自省)

2010-07-31 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
昨今、「ラジオ深夜便」で日光東照宮の禰宜(ねぎ)の高藤晴俊氏の「日光東照宮を読み解く」を少し聞いて、補足で雑誌『ラジオ深夜便』8月号の同氏同名のエッセーを読んで一寸考えることがあった。

建築史の話で、良く日光東照宮と桂離宮が対比される。「日光東照宮は彫刻、障壁画などゴテゴテしていて(装飾過剰で)、すっきり形も色もシンプルな桂離宮にかなわない・・・」という説に、私はずっと引っ張られてきたといえる。

昭和の始めにに日本にやってきたドイツのブルーノ・タウトの批評がベースにあり、歴史的にもずっと影響を与えてきたと言えよう。

私は、例えばアテネのパルテノン神殿の外壁にも、パリのノートルダム寺院の外壁にも多様な彫刻、レリーフがあるのを知っているけれども、西洋と日本は建物の外壁処理は違って当然のように思ってきた。

ところが、高藤さんは、「「建築は一冊の書物である」という言葉があります。この言葉は、東照宮建築にも当てはまります。東照宮に施された彫刻や絵画の一つ一つは記号で、その記号がつながって文章となり、その文章のまとまりが一冊の書物となっているのです。これらの彫刻や絵画にはそれぞれに特定な意味があり、配置には法則があります。設計者は主題の選定や配置を通して、東照宮建築全体で一つの物語を表現しようとしたのです」(78頁)と言う。

そして、色々な事例で解説している。これらを聞き、読んで、日光を見ずに「ケチ」をつけるな(自省)と思ったが、事実、私は未だ日光を見ていないのである。(ついでに「桂離宮」も、だが・・・)

一般に、「日光を見ずに結構と言うなかれ」と洒落っぽく言われているが、行った後で果たして「結構でした」と言えるのかどうか、楽しみである。それにしても、5173体の彫刻、500面に及ぶ障壁画全部を見るのは並大抵ではない、と言えよう。

パーツ記憶から全体生活を推測ー近過去生活学ー

2010-07-29 | 思いつきから仮説へ
今は絶滅した恐竜の骨などの化石は、今も発見されている。何日か前、テレビでやっていたが、骨が全体の一割位しか見つかっていないのに、他のパーツは、過去の事例から推測して全体像を組み立てて、新しい恐竜の「発見」としていた。「発見」というより「創造(想像)」と言ったほうが良いのに、と思ったが・・・。

恐竜に限らず考古学では、壷や皿や人骨などにおいても大部分が見つかっていないのに、見つかった分だけから全体像を組み立てている。

そのやり方は、まあパーツの欠落した「ジクソーパズル」のようなものだ。

で、私は前に考古学を分節して考近古学、考中古学、考遠古学と三等分してみた。

その考近古学は、別に考現学(今和次郎命名)とか考今学(西山卯三命名)とかと「入り組んでいる」感じだ。

証拠物件は、今も存在する場合は、気づいたら残しておくということも出きるが、残念ながら失われてしまっていたら、後は現存人の記憶に頼るしかない。

記憶について言うと、一気に全体を思い出して、その記憶に基づき、過不足なく全体を叙述するのは至難の技である。個々の「パーツ」については、じっと努力で思い出せば、そこそこ「そうだったな」と同世代、同地方の人には賛同してもらえる場合が多い。

そういう近過去の生活の「パーツ」を出来れば「ポイント部分」を含め、沢山集めて、思い出せない部分は推測して全体像を組み立てるという学問分野が出来ないか。まあ言ってみれば「記憶に基づく近過去生活学」とでも呼んでおこう。

三ヶ月に一度のデンタル・チェック

2010-07-28 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、三ヶ月に一回のデンタル・チェックに奈良の歯科医まで行った。

で、「もう少し丁寧に歯の清掃をして下さい」と言われた。ある色素を含む液を口に含んでから何度かゆすいで、鏡を使って自分の歯並びを見ると、かすが取れていないところは、赤紫に色づいている。又、歯の根元で少し突くと血が出る個所もあるようだ。

「ここは、未だきっちりカスが取れていません、電動歯ブラシをもう少しゆっくり丁寧に動かして取って下さい」とのこと、そうか、と思った。電動ブラシで寝る前に5分くらい磨いているが、これでは駄目なのだ、と思い知った。

とにかく、歯の問題は、最終的に「痛く」なったり、「ぐらぐら」したり、「血が出」たりする自覚症状がないと、「まあ何とかなる」に気分が流れるようだ。(「病気」全てそうだろう。毎日の自覚症状のない悪行の「微分」が病気に連なり、善行の「微分」が積分健康に連なるのだ。)

今日から、5分くらいで済ませていた就寝前の「歯磨き」を10分に倍増して3ヵ月後に備えたい。

使用価値の創造的組み合わせ=ライフスタイル

2010-07-27 | 思いつきから仮説へ
学生時代、4回生の時(1963年~1964年)、卒論で「尻に火」が付いているのに、大部の『資本論』に読みふけっていた時期がある。第一巻の最初が「商品」の項で、資本主義生産の一番の元であり、マルクスは、それを実に精妙に分析していくのだが、そこで商品の価値、交換価値、使用価値という概念が出てくる。

価値は、労働時間で測定できることが示される。交換価値は、価値に規定されるけれども市場で決まってくる。使用価値は、それぞれの時代や人々の「発見」によるとされ、価値のような規定は与えられていない。

現在、市場には多種多様な商品が供給され、人々の需要に応えようとしている。その需要という奴がその時の「使用価値要求」なのだが、それがないと死んでしまう食料品などを「必需品」と言っている。

今は、デフレが世界の多くをおおっており、「必需品」以外、なかなか「手」が出ない世の中になっている。今までは、逆に「ちょっと必要かもしれない」ものまで「インパクト・ショッピング(衝動買い)」した時代で、家に「ガラクタ」が「溜まっている」場合も多い。

これからは、商品の使用価値厳選の時代に入るのではないか。「必需品」の食料品といえども、本当に健康に役立ち、それを保持増進し、なおかつ美味しいもの「少量」に限られてくるだろう。

こうして各人で「使用価値の創造的組み合わせ」を選び、それを使ってのライフスタイル成熟、確立の時代になるだろう。頭と手足と口は益々使う必要があるだろう。


数行書いて空白行置く書き方(新しい文章作法?)

2010-07-26 | 言語・字・言語遊戯
最近、地域SNSの日記などの書き物では、二三行書いては、一行の空白行を置いて次の文章に移る書き方をしている。こちらのブログでも、そういう書き方に最近引きずられている感じだ。

昔なら、改行をして一字下げて次の文章を書いたものだ。今でも本や雑誌、新聞等はそういう書き方である。さて、将来はどうなるだろうか。

元々、数行毎の分かち書きは、読んでもらいたいがための書き方だ。逆に、ずらっと詰めて書くと最初に見ただけで読む意欲がなえてくる。

最初から、よほど面白いことが書いてあるのが明らかなら、まあ我慢して読むかもしれないが、今日のように多大な文字情報にさらされていると、よほど工夫しないと読んでもらえない。

今までも段落を変え一字下げて書くのも、一息入れるためでもあるが、数行毎の分かち書きは、明らかにそれを狙っている。

同時に、情景描写や論理展開の上で、新しい工夫も考えていく新たな形式枠組みともいえる。

果たして、この文章、最後まで読んでもらえたかな。

職場人間から地域人間へ(小文再掲)

2010-07-25 | 地域居住学
「地域居住懇話会」が再開されたと既にブログに書いた。
地域居住懇話会再開ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/a2175ea3a2f886b2208a8734c4c28987

で、再発行されだした『地域居住研究』(Vol.10 2010.6)に載せた小文をここに再掲しておきたい。少し長いが、現在の生活の分析、位置づけと取り組み方向を述べている。
是非、感想も寄せていただくと有難い。


「職場人間」から「地域人間」へ―人生二期(毛)作の実践へ―
         
                                西村 一朗
はじめに
 私は、2005年3月、今からほぼ5年前に奈良女子大学を63歳の定年で退職した。以後4年間ほどは、縁あって平安女学院大学(高槻キャンパス)に勤めたが、2009年3月に退いて、2009年4月以降、現在はほぼ「地域人間」である。平安女学院大学に通っていた4年間も、それまでの「地域生活」を大きく変えていたと言ってよい。だから、ここでは、最近5年間ほどの私の「地域人間」ぶりについて報告し、今後の抱負も述べて、今後の「地域居住学」の研究調査の進化や読者諸子の今後の「地域人間」への移行に資してみたい。

「職場人間」から「地域人間」へ(多くの日本人のライフコース)
 日本では会社員や公務員、要するに「職場人間」には「定年」という働く年齢制限があって、昔は55歳というのが多かったが、現在では60歳から65歳までが多いと言えよう。私自身は、先に述べたように5年前に満63歳で奈良女子大学を定年退職したのである。それに先立って、満50歳前後から「会社人間より居住地人間へ」とあちこち(大学や高校の同窓会誌、同期会誌など)で言い出していた経緯がある。最近では、より一般的に「会社人間」を「職場人間」に、「居住地人間」を「地域人間」にしている。
 まあ、農業、商業の中の自営業者や医者、弁護士、芸術家等のいわゆる自由業の場合は、死ぬまで現役で働くというライフスタイル、ライフコースもあるけれども、多くの日本人のサラリーパーソンにとっては、定年を境にして主に「職場人間」から「地域人間」へ変わる、というライフコースをとる。
その場合、昔は「人生50年」で、定年から寿命がつきるまでの平均余命が少なかったが、現在は平均余命が20年にもなっている。こうなってくると、単に悠々自適の「隠居」以外のライフスタイルを少しばかり「顕居」スタイルで考え実行しても良いのではないかとなってくる。

「地域」は、先ずは小学校区、中学校区だが・・・
 では、「地域人間」と言った場合の「地域」の範囲はどのようなものだろうか。これをライフ・ステージの進展の中で位置づけてみよう。
考えてみると、子どもは成長・発達につれて行動する生活空間を拡張させているといえる。母親に抱きついていた段階から、部屋中を這い這いする段階、たっちして家中歩き回り「危ない」地上に降りたり、場合により二階等にまで行こうとする段階、履物を履いて外に出る段階、乳母車・バギー車等に乗って「遠出」する段階、保育園・幼稚園に通う段階、以下小、中、高と生活圏域は拡張していく。大学や社会人になると、全国的、さらには全世界的に活動し、世界中が「生活空間」とも言える。
 しかし、一方、高齢者、とりわけ定年退職し、「職場人間」から「地域人間」に変わってからは、肉体的「老化」もあり、物理的には徐々に生活空間は縮小していく傾向にあると言えよう。ただし、精神の持ち方如何では、「精神的空間」は、最後まで「拡張・進化」するのではなかろうか。私自身そのような期待を持って日々過ごしている。その場合の肉体的・物理的生活空間の目安として、先ずは小学校区、中学校区の区域をイメージしたい。そこでは、正に小学生、中学生の生活空間であり、地域高齢者のそれと重なるのである。しかし、より広い地域(私の場合、主に「けいはんな学研都市域」であるが)にも元気を出して取り組んでいきたいと考えている。

「地域居住学」専攻者は、率先して「地域人間」へ、はどうだろう
 地域居住学では、地域での住民のより良い生活、それらを支える生活空間のより良いあり方を追求している。だとすると、私は、以前から「地域居住学」専攻者は自ら自分の居住する居住地での生活や生活空間に関心を持ち、追求する必要がないのか、と思ってきた。しかし、研究テーマの展開や取り組みの緊急性等から自分の居住地以外の他の典型的地域で調査研究せざるをえない場合も多かった。
 しかし、「地域人間」になった「地域居住学」専攻者は「職場人間」時代と全く別のライフスタイルをとっても構わないのであるが、時間、労力、費用等を勘案して、率先して自らの居住地において生活や生活空間の改善に取り組むというライフスタイルもありうる。
例えばイギリスの都市計画家のレイモンド・アンウィンは、死ぬまで自ら計画・設計したロンドン郊外のハムステッド・ガーデン・サバーブ(ハムステッド田園郊外)に住んで、その完成・成熟に取り組んだのである。今でも、かってアンウィンの住んだ家には「ブループラーク(青銘板)」(有名人の居住を示す青い銘板)がかかっている。
 以下、ここ5年間の私自身の「けいはんな学研都市域」での「地域人間」実践を中心に報告をしておきたい。

具体的居場所の追求と設定―NPOとブログ開設など―
 「職場人間」の場合は、「新入り」の場合、一定の「教育」を受けて徐々に「職場」に馴染んでいき、それぞれの持ち場を与えられて「仕事」に励み、ポストも一般には徐々に上がって「権限」と「責任」が増えてくる。また、「職場」は一般にピラミッド型の組織になっていて、「職場」全体の進む方向や責任も明確になっている。
 ところが、「地域人間」の場合は「地域人間」になると言っても、その「通過儀礼」も振る舞いかたの「教育」も社会的強制としては一切ない状況と言える。だから個々人で手さぐり状態で進まざるをえない状況である。私の場合、「地域居住懇話会」の協力も得て、10人ほどの方の賛同で定年退職とほぼ同時にNPO法人「地域支援研究フォーラムなら」を立ち上げ奈良県に登録し、私の「セカンドハウス」の「書庫住宅」(近鉄・高の原徒歩5分のコーポラティブ「つなね住宅地」にあり)を事務所とした。しかし、私以外に「専任」の働き手がいず、私自身が以下のボランティア的活動で「忙しく」なり、それらが日常の「居場所」になるにつけ、NPOは開店休業の状態となり現在に至っている。
 NPO法人を立ち上げた2005年4月以降、当時まだ院生だったI.さん、A.さんの協力を得て、パソコン上にNPOのホームページを立ち上げ、また色々と発信するために私自身のブログを立ち上げた。(ブログ「西村一朗の地域居住談義」:http://blog.goo.ne.jp/in0626/)
 このブログは、この6月で満5年となるが、2010年4月1日現在3650以上のコンテンツがあり、今まで平均日に2件のコンテンツ作成(最近は日に1件弱の作成)、アクセス人数は現在、日平均350人位であり、gooブログ百万人以上の3千位のアクセスランクである。勿論、「地域居住懇話会」メンバーにも熱心な読者がいる。投稿カテゴリーは30設定しているが、「地域居住学」は、「時論、雑感」についでコンテンツの多いカテゴリーとなっている。また、奈良女子大学在職当時から、全国的SNSのmixiにも参加しているが、その日記は、現在、このブログ「西村一朗の地域居住談義」にリンクし、代替している。

「けいはんなのまちづくりを考える会」に参加
 私は、現在、京都府精華町桜が丘に住み、書庫のある「セカンドハウス」は一つ南とも言える奈良市にある。精華町も奈良市も「関西文化学術研究都市」(「けいはんな学研都市」とも称する)を構成する市町である。「けいはんな学研都市」全体は、八つの地方自治体のそれぞれ一部の集まりより成っている。その八つとは、京都府では、精華町、木津川市、京田辺市、奈良県では奈良市と生駒市、大阪府では、交野市、四條畷市、枚方市である。八市町全体の人口は百万人を越えている。「けいはんな学研都市域」だけでは、23万人余である。それで、私が5年前に定年退職した時に、この「けいはんな学研都市域」には、既に「けいはんなのまちづくりを考える会」という任意のボランティア組織があり活動していた。その代表が、木津川市に住む知り合いの杉原五郎さん(コンサルタントのアルパック社長)だったこともあり、即座に参加して会員となった。
http://blog.goo.ne.jp/keihanna-machizukuri/3
 この会では、当時、頻繁に「学習会」というか、色々な人を招いて「まちづくり講演会」を行っていた。そこで、私も「コメンテーター」で参加したこともある。講演したのは、前田真子さん(当時、奈良女子大非常勤講師)で、2005年7月15日であり、場所は「けいはんなプラザ」の会議室であったと思う。演題は「これからの戸建住宅地―平城・相楽ニュータウンの調査研究を踏まえて-」というもので、私の定年退職に際して前田さんと共著として発行した『これからの郊外戸建住宅地―「思い出し・思い入れ」から「つながり」へ[平城・相楽ニュータウンを事例に]―』(せせらぎ出版、2005年5月6日発行)に基づくものだった。このテーマは、当地域では依然として正に私自身のものでもある。
前に地域計画の常道で、先ず小学校区、次いで中学校区の範囲で考えよう、と言ったけれども、それはそうとして、実際に則して言うと、私が現在住んでいる地域では上位の「けいはんな学研都市」域のありかたは更に重要で、正に行政の「縄張り」を越えるまちづくりの課題を多々含み、誰もが未だきちんと解いたことのない課題ではなかろうか。

「地域SNSけいはんな・理事」と発信活動
 既に述べたように退職以前からSNSのmixiに入会していたのだが、そこで以前から知り合いの藤田 忍さん(大阪市大教授)にも出会って、少ししてmixiのような巨大なネットではなく、まちづくりにも役立つ「けいはんな学研都市地域に限定した招待制の地域SNSをけいはんな学研都市域で立ち上げないか」という話が起こってきて、その研究会に集ったメンバーで、2007年2月3日に「地域SNSけいはんな」を立ち上げ、藤田 忍さんが代表となり、私は7人の理事の一人となった。
藤田 忍さんによると、最近の「住民参加のまちづくり」の発展経過を見ると、関連NPOの設立と発展、ワークショップという手法の開発と発展、そしてこの地域SNSの出現とコミュニケーションの推進が大きいのでは、とのことである。
 まちづくりの現実の決定、前進は、勿論リアルな住民の話し合いや調査や作業や多数決等によらざるをえない。だが、その過程で、地域SNSでは空間、時間を越えて意見交換が出来、それがそのまま記録になるなどの機能があり、図面や写真や動画、更に「マップ」や「ストリート・ビュー」も活用できるのである。これらについては、藤田さん等と共同で調査研究をしつつあり、日本建築学会等に発表している。(注1)
(注1)「地域SNSが市民まちづくりに及ぼす効果」(1)(2) 藤田 忍、西村一朗、吉村輝彦、水野義之 2008年9月、日本建築学会大会発表

「けいはんな市民雑学大学・代表」として活動
 「けいはんなのまちづくりを考える会」では、多くの講演会を重ね、その延長上に「市民大学」を構想していた。(私自身も1991年段階で、「関西学研都市機構」の研究会で「市民大学」(学ぶだけでなく教えることも含む)を提案している。)また、地域SNSけいはんな」での意見交換を通じて、この種の「大学」の先輩格の「東京雑学大学」から菅原珠子さんを招いて講演会を開催したのが契機となって、2008年3月に「けいはんな市民雑学大学」が発足し、私が11人の運営委員を代表して「学長」(正式名称ではない、運営委員会代表が正式)となり、2010年3月まで満2年23回(ほぼ月に1回)の講座を行っている。
「けいはんな学研都市」域で住み、働き、そこに関心を持つ市民が、「市民学生」となり、同時に「市民教授」になる。
 講座では、まちづくりに資するテーマと雑雑とした市民興味にもとづくテーマを展開しているが、今のところ「雑学」方面に多くのテーマがあるようだ。だが、地域史のテーマなどは良く考えると、まちづくりのテーマでもある。私は、「雑学」を積み重ね、相互に交流・ブレンドしていくと「これぞ学問(That’s 学)」となるのでは、と夢を抱いている。
(ホームページがあるのでアクセスしてみてください。検索で、「市民大学」「雑学大学」でみると多数出てきますが、「市民雑学大学」では、トップに「けいはんな市民雑学大学」が出てきます。)

けいはんな市民雑学大学等からの派生活動
 けいはんな市民雑学大学の一回一回の講座を、「聞き流す」のはもったいない、と思っているが、今のところ中々それらの継続・発展がはかられていない。普通、大学では、継続した「ゼミ活動」によってテーマを深めていくのだが、けいはんな市民雑学大学の一つの可能性として、「地域SNSけいはんな」の「コミュニティ」でそれぞれの「テーマ」を立てることがある。例えば、現在のところ、「内藤湖南」の「コミュニティ」があるが、余り活発ではない。他に「健康調理」に関しても別の「コミュニティ」(「家基都」(かきつ)と称する)が動いているが、こちらは活発である。今後の可能性に期待したい。

既存の民間全国組織との情報交流
 以上の「けいはんなのまちづくりを考える会」、「地域SNSけいはんな」、そして「けいはんな市民雑学大学」の三つは、いわば「兄弟関係」にあり、ある意味で一体的なものである。それに対して以下に上げるのは既存の全国の組織(研究・運動組織)であり、退職以前ないし退職頃から入会し、情報交流しているところの一部である。
(1)新建築家・技術者集団・・・奈良支部の二代目の代表幹事をしている。初代は、亡くなられた湯川利和先生である。奈良での伝統的建築・住宅の保全問題、ならまちや今井町の町並み景観保全問題など奈良固有の問題の他、超高層住宅の是非、デザインと形の問題、視覚の問題等の一般的問題にも関心を抱いている。出来る限り研究会、現地視察、懇親会等に参加している。
(2)日本科学者会議・・・40年以上前の20歳台から活動している。科学・技術の民主的発展、民主的活用を他の分野の人たちとはかってきた。今後も機関誌等を通じて交流していこうと考えている。
(3)家庭科教育学会・・・以前、小中高の「家庭科」の教科書を見たときに、衣食住、家族などのテーマについて、例えば、家族、食物、衣服、住居の順に並んでいて、住居が最後であり、それぞれのページ数を見ると、住居が一番少ないという状況だった。授業でも、これだと例えば「日本史」が明治維新あたりで終わって尻切れトンボだったように、住居に行く前に学期末になってしまう恐れが強いと感じて、ある時、家庭科教育学会で「住居を基本舞台として家庭生活を総合的に」という講演をした。その後、奈良教育大学の鈴木洋子教授を中心に研究会をして、奈良教育大学附属小学校でも、教育実践があり、今度7月の家庭科教育学会(京都)で、それらを共同で研究発表する。
 住居だけでなく地域も同じく地域生活の「基本舞台」なのであり、各種地域生活を総合する場と捉え、考え、取り組んでいきたい。

行政―地方自治体―への協力、参画
 地域での「まちづくり」住民参加と言うと、具体的に何か問題が起こっている時(具体的に見えているとき)には、そこに参加して具体的に実践していけばよい。
 そうではない時には、それらの問題を発掘し認識するためにも地域の行政が行う企画に協力、参画して考え、意見も言っていくことが大切と思う。
 そこで、一昨年(2008年)頃から精華町福祉課管轄、精華町社会福祉協議会等のイニシアで始められた「隣人祭り」へ参加してみている。「隣人祭り」とは、パリで生まれた「運動」で、普通の「祭り」は地域共同体で行われるのであるが、都会で孤立した個々人も最低、隣人と交流する「祭り」が出来るのでは、として始り日本にも波及して来たものである。精華町では今年の3月に2回目の「隣人祭り」があった。関連で4月14日に私の住む町内で「高齢者(60歳以上)サロン」が集会所を場として発足する。これらの動きと自治会、精華町との関係も「好循環」で回していきたいものだ。

一つの生活バックボーン―「健康調理教室」など―と展開方向
 私は、以上のように「職場人間」より「地域人間」になった場合、家に閉じ篭るのではなく、正に地域に出て行って活動するのが、「動物」として基本のことだと考えている。しかし、「職場人間」時代のように「家事のことを殆ど省みない」のは、拙いと考え、「地域人間」になった場合、誰でも特に男性は、「基礎的生活力」を身につけるべし、と言ってきている。「基礎的生活力」とは、「炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所付き合い」の能力である。私自身、これら全てに合格点か、というと必ずしもそうでもない。自覚して「基礎的生活力」をしっかり付けたいと考えている。先ず「トップ」の「炊事」について、2008年5月頃から近所の友人(大学後輩)宅で行われる「健康調理教室」(最近は月一回、始めは毎週一回)に通い始め、ほぼ2年が経過した。実際には、朝食(和食)は私が作ることになり、現在に至っている。
 健康のベースが食事のあり方と考え、それらをベースに置くと、そこから四方に関連する強い「つながり」領域が見て取れる。それらを食事のあり方から発しての展開方向を考えてみる。一つは、健康な食品を供給する農林漁業のあり方だ。今のところ自然農をイメージしている。二番目は、健康をサポートする医療・医学のあり方だ。最近、奈良県立医大の「住居医学」講座からの依頼で研究の外部評価委員をしているが、医療を通じてまた住居(健康住居)に戻ってくるのである。三番目は、食育を通じて教育のあり方につながる。四番目は、家族や地域での人々のつながりのあり方だ。これらを総合すると、正に地域のまちづくりのあり方になるのではなかろうか。

利他(愛他)行為としてのコミュニティ活動(対子ども、対同年輩)
 前に、地域(小学校区、中学校区)は、それらに通う子供たちの生活領域であり、同時に「職場人間」から定年退職で「地域人間」になった人たちの生活領域でもあって、それらは交錯するのではないか、と把握してみた。だとすると、子供たちと「高齢者」が上手く交流し、相互にプラスになるのではないか、と考えられる。ただ、子供たちは、小学校、中学校が責任をもって受け入れているが、「地域人間」になった「高齢者」を全体として責任を持って引き受ける組織は今のところない。だから、子供たちと「高齢者」の意義ある交流の仲立ちを先ずは小中学校にしてもらうのはどうだろうか。また行政の「地域福祉」部門(社会福祉協議会含む)も世話したら良いのではなかろうか。これらの交流は、まあ「地域孫」と、「地域お爺さん・お婆さん」との交流であり、「地域お爺さん・お婆さん」は、実の孫達に対するのと同じように、いわば利他(愛他)行為として愛をもって行うものではなかろうか。(注2)注2:他に、地域小父さん・小母さんもいるであろう。
一寸、対組織関係が複雑になるが、別の事例で奈良女子大学が、奈良地区とけいはんな学研都市地域を対象にした科学好き子どもをつくる「まほろば・けいはんな科学ネットワーク」活動へ市民として昔科学好き人間の地域人間・高齢者が協力しても一向構わないのである。また、子供たちに対するだけでなく、同年齢の困っている人たちに元気な高齢者が手を差し伸べるのも利他(愛他)行為としてのコミュニティ活動と言ってよい。

おわりに―地域人間のモデルの追求―
 今までの定年退職、地域人間の活動イメージは、美味しいものを飲食し、好きな趣味に力を入れ、海外や国内の旅行にも力を入れ、晴耕雨読の悠々自適の生活をすることだったのではないか。それはそれで良いだろう。だが、そういう「生活の慣性」から脱して、同世代や次々世代に接して「生活の創造」をはかり、種としての人間の継続力をつけることが、一つの個性的地域人間活動ではなかろうか。この活動を通じて、私は、人生二期(毛)作に取り組みだしたのである。(2010年4月吉日、散る桜を愛でつつ)


追記:なお、本論考で紹介した「地域SNSけいはんな」に入会して、「けいはんな学研都市」域の「まちづくり」等について「受信・発信」したい人は、メイルアドレスを付して申し出ていただくと、私が招待します。地域SNSの中で「地域居住懇話会」の「コミュニティ」つくってもいいですよ。
また「けいはんな市民雑学大学」については、原則毎月第四土曜日の午後14時より高の原イオン4階の「こすもすホール」で開講しています。参加費100円(資料代)、詳細はホームページを見てください。

山(丘)、宅地、川の配置関係ー「ざあざあ」梅雨の反省ー

2010-07-22 | 地域居住学
今年の梅雨は、昔の「しとしと」梅雨ではなく、「ざあざあ」梅雨だった。主に北九州や山口など中国地方で川が氾濫し、山崩れも起こり、住宅が押し流されたりして独り暮らしや二人暮らしの高齢者が多く亡くなった。

鉄道に乗って地方を旅行し、車窓から眺めていると、「遠くに見いえる村の屋根」で、村の屋根屋根が見えているが、それらのすぐ後ろが山(丘)である。そして列車が走る平野は、田んぼであり川が流れ、時々鉄橋を渡る。

ということは、山(丘)の麓(ふもと)に集落がつくられ、より低地に田んぼがつくられたのだ。これは何故かと言えば、集落は、田んぼにも近く、できれば「水がつかず」、山の林の管理にも便利といった全体を考えて合理的立地をとったのだ。

しかし、そうした状況がくずれてきた。
(1)雨の降り方が、激変してきた。
(2)植林は、安定した「崩れにくい」山(丘)を変えてきた。

治山、治水、集落立地の全体を考え直す時期であろう。次の台風シーズンをこえ、中・長期的に「リッチ」な立地関係を追求してほしい。

政治主導とは、政治の圧倒的「力」が前提

2010-07-21 | 時論、雑感
今回の参議院選挙で、民主党が「負けて」、自民党が一人区で公明党の助けも借りて「勝った」形となっている。また「みんなの党」も「勝った」形、公明党は「ほぼ負けなかった」形、他は皆「負けた」形である。

但し比例区の得票を指標にすると、自民党も減らしていて「歯止め」がかかっていない。で、その後の政治経過を見ていると、「パーシャル連携」で行かざるをえない雲行きだ。

こうなると、官僚の出番、あちこち走り回って「落しどころ」を探ってまとめることにならざるをえない。民主党も「官僚、財務省」に屈服した形だ。「消費税」を菅さんに入れ知恵した財務官僚の「深謀遠慮」というべきか。

やはり「政治主導」というと、去年の総選挙のように民主党の「圧倒的勝利」か、少数だが某党のように政策がぶれない、哲学がしっかりしているか、どちらかの力がないと長年の官僚政治の「慣性」に対して「腰砕け」になるな、と今日この頃思うのである。

ニュータウン縁辺部と農村部の交流

2010-07-20 | 地域居住学
私は、子ども時代、金沢市の寺町台に住んでいたが、そこは「町の縁辺部」で、すぐ外には畑や田んぼが広がり農村部があった。農村部から野菜の振り売りも頻繁に来たし、肥のくみ取りにも来てくれていた。

建築学専攻の院生時代に建設されていた大阪の泉北ニュータウンでも「尾根部」のニュータウン部と「谷部」の農村部の関係が重要な点の一つだった。

そして今、住んでいる平城・相楽ニュータウンの縁辺部のすぐ外(北側)には山田川が西から東に流れて木津川に注ぎ、山田川を越えて北側に旧村がある。それらの旧村と我々ニュータウン部は同じ中学校区であり、「町」の生徒と「村」の生徒が同じ中学に通っている。

先日、この中学校区住民で「地域福祉ネットワーク」の話し合いがあり、いくつか共通テーマを設定した。この新旧地域の間を流れる「山田川の整備・利用・管理」の課題、高齢者も子育て世代も気軽に集える「サロン」の立ち上げ・運営の課題などである。

これからの「話し合い」は、旧村と「新町」の集会所で交互にやって、相互理解を深めようとなった。良かった、良かった。

恐竜(爬虫類)から哺乳類へ、人類へ

2010-07-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日、今日とNHKTVで「恐竜と哺乳類の生存競争」をやっている。

恐竜が地表でのさばっていた頃には、哺乳類は、ねずみほどの小ささで、それこそ岩陰に隠れて生き延びていた。ところが、巨大隕石の落下で巨大恐竜は、ほぼ絶滅してしまう。一部、鳥類として生き延びるようだ。世は哺乳類の時代となる。

さて、今日の夜、哺乳類同士の競争から人類が「のさばってくる」プロセスをやるのかな。

いずれにせよ、我々人類も地表での一時期の生き物に過ぎないのだ。謙虚に生きよう。

過去ブログ:恐竜で検索:http://blog.goo.ne.jp/in0626/s/%B6%B2%CE%B5

加山雄三、千住真理子さんの話聞く

2010-07-18 | 文化論、科学・技術論
昨日、今日とラジオで加山雄三さん(俳優・歌手、73歳)と千住真理子さん(ヴァイオリニスト、48歳)の話を別々に聞いた。二人ともたまたま慶応大学の出身、色々、多面的な人生を生きている。

まあ普通「順風満帆」で来たと思うかもしれないが、色々と苦労していると分かった。そういう悩み、苦労を乗り越えるのが人生だな、とゆっくり噛みしめた。

何でもない「点景建物」保存の重要性

2010-07-18 | 地域居住学
歴史的建築物の保存というと、現在、点的に価値あるものは、国宝、重要文化財として、線的、面的に残っている建造物群は「重要伝統的建築群」として保存という仕組みがある。

ところが、ここにきて、昔は何でもない普通の建物だったが、それを今潰してしまうと、その通りや町には昔を思い出す「よすが」が、写真やスケッチ(場合により模型)しかなくなってしまうのだ。

仮に点景として少し離れていても当時の町並みを形成していた建物がいくつか残っていれば、それらの軒や屋根、壁などを「想像で連続的につないでみる」ことで、当時の町並みが彷彿としてくるのである。

私は、知っている金沢や奈良で、そういう普通の昔の点景建物の保存を訴えたい。

考古学の分節ー考遠古学、考中古学、考近古学ー

2010-07-15 | 私の考え出した言葉
普通、考古学は、文字で書かれた歴史を研究できない以前の人類の歴史を遺物、遺跡を基にして研究する学問と考えられている。

ところが、近世の江戸時代の考古学と称して取り組んでいる方もいる。普通、遺物の発掘は地上で行われるが、水中では、木簡に見られるように「木」などは長年腐らずに残るので、「水中考古学」と称して琵琶湖に潜っている方もいる。

実際、発掘を始めると、表層は現代に近く、そこからも色々な物がでてくる。昔、奈良女子大で大学院の建物を建てるとき、事前に発掘調査が行われた。で、中世の井戸枠も出てきたが、近代の茶碗の欠片や日章旗(小旗)も出てきた。どうも、これは「日露戦争」の時に、兵隊さん送り出しのため打ち振ったものではないか、とのことだった。

古い時代の地層に至る以前の地層からは比較的新しい物が出てくるが、それらも捨てずに保存する要があるだろう。文字の歴史書だけでは分からないこともありうるからだ。

で、これらの時代分節として、考古学を大きくは三つに分けて、考遠古学、考中古学、考近古学と呼んだらどうか、と私は思う。

話は一寸変わるが、最近、既に大半は「失われた」私の子ども時代の金沢の風景や暮らし(1941年ー1960年)を私は主に「思い出し」を中心にして描こうと取り組みだしている。

記憶は、言ってみれば「断片的」である。それらを考古学でやっている壷の断片をつなぎ合わせて「全体」を組み立てるように、断片のメモを前において、分かる範囲の全体地図や全体間取りなども睨みながら全体ストーリーを考えている。まあ「考近古学」の一つの試みである。

7月14日フランス革命記念日

2010-07-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は7月14日あのフランス大革命記念日(1789年)である。日本では「7月14日」というフランス映画を「パリ祭(ぱりさい)」と訳したので、「パリ祭の日」とも言われる。

「百周年」の1889年には万博がパリで開かれ、「目玉」にエッフェル塔が建てられた。

「二百周年」の1989年には、パリ西郊の「デファンス地区」に「アルシェ」という巨大な現代的「凱旋門」風の建物ができた。これは、二度ほど見に行った。

京都では、明後日の7月16日が祇園祭りの「宵山」である。で、今日が宵宵宵山である。ぼちぼち山や鉾が建てられる日だ。出かければ雰囲気が楽しめる。

奈良女に勤めていた頃、ゼミ生を連れて「今宵」室町通りあたりに宵宵宵山見物に出かけることもしばしばだった。で、帰りに東山通りの一条ちかく、京大構内の向いに「日仏会館」があり、皆で行った。当夜は、フランス革命記念日で、赤ワインがふるまわれていた。懐かしい。最近は、どうなっているのかな。