西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ラジオ朝一番「経済展望」の識者

2008-04-30 | 時論、雑感
今日の朝の「経済展望」は金子 勝さん(慶応大学教授)で、「後期高齢者医療制度の本当の問題」といったテーマだった。

政府は、75歳以上の本人1割、若い世代4割、政府が5割負担で全体として前と負担割合は変わっていない、と言っているが、事実はどうなのだろうか。

75歳以上の高齢者は一般に「低所得(年金のみ、それも平均10万円台か)」、逆に病気がちで医療費は若い世代より多くかかる。勢い日々の生活は苦しくなる。これは前から分かっていることだ。

75歳以上を「囲い込めば」、病気治療費は、そこの負担になりやすい。負担できなければ、諦めて「死」を待つしかない。

この負担は、政府がすべし、根拠は憲法25条である、と金子さんは言っていて歯切れが良い。「庶民派」的センスがある。税金は本当にお金のあるところから取るべきだろう。もう一人そういう歯切れの良さは、評論家の内橋克人さんに見られたが、今「休養」中だ。「充電」して早く出てきて欲しいな。

木津川市・鹿背山城跡の主郭での「ミニ・コンサート」

2008-04-29 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、地域の友人達と「近所」の木津川市・鹿背山城跡の一番上、標高135mの主郭にハイキングで登った。この山城の歴史的背景・意味や実際の山城構造にも興味あるが、ここで昼食を取った後に参加された「歌手」の森繁 昇さんがギターやマンドリン片手に自作自演で「弾き語り」したのにもひきつけられた。

「ゴスペル」の日本語版といった感じで良かった。お聞きすると、森繁さんは山口県下松市に家があるらしいが、ハワイにも住んでいるという。古いバスを改造して、そこで寝泊りして全国を回っているようだ。

中学生や高校生に聞かせたい「命を大切に」のメッセージだった。

こういう古い場所での思わぬ「ミニ・コンサート」は良い感じだな。

(写真は、「ゴスペル歌手」森繁 昇さん)


見過ごされた車両強度

2008-04-28 | 文化論、科学・技術論
今夕のNHKTV「クローズアップ現代」では「見過ごされた車両強度」をやっていた。3年前のJR福知山線の尼崎での脱線事故で107人が亡くなったことからの教訓の一つである。もし強度の強い車両だったら、衝突による変形が少なくて死者は少なかったに違いない。

今までは「(脱線)事故(等の人身事故)は起こしてはならないもの」という考えで、脱線した時に変形を余り起こさないで内部にスペースを確保して死者を減らそうという思想は日本にはなかった。アメリカでは「事故は起こるもの」という前提で「起こったときには被害は最小限にとどめる」という思想をとってきた。

日本でも、そのようにならざるをえないであろう。日本は毎日6千万人以上、国民の二人に一人が列車に乗っている「列車大国」なのである。私も毎日のように私鉄やJRに乗っている。ただ、現在、競争もはげしい日本では、経営が厳しいので車両の製造コストを上げずに強度を高くすると共に重量も軽くする、デザインも軽やかにするというやや矛盾する課題に応えねばならない。
新幹線でも、44年間、大きな人身事故はないが、今後、車両設計の思想も変えていく必要があるかもしれない。

日本の機械技術陣の奮起を期待する。

旧町と新町の小さなまとまり方の違い

2008-04-28 | 金沢の思い出
私が子供の頃(0歳~18歳、1941年~1960年)住んでいた町は、「金沢市桜畠三番丁」であったが、その後、町名が変わって「金沢市寺町三丁目十五番」となった。これは「町名合併」であり、より「大きな町」である「寺町」に「桜畠」は吸収合併されたのだ。小さい「十三間町(じゅうさんげんまち)」などは、まあ十三間くらいの小さな通りだが、断固、旧町名を押し通し現在に至っている。又、最近は、江戸時代から昭和の中期頃まであった伝統的町名を復活させようとの動きもありいくつか復活した。桜畠(さくらばたけ)も是非復活させて欲しい。

先だってのブログに近辺の地図も貼り付けたので見て欲しい。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1407197942cc7061b45ec7203f85970b

これを見ると、「寺町三丁目十五番」は、ぐるりと道路に取り囲まれたブロックである。私の旧宅敷地(現在、妹夫婦が住んでいる)の両隣は、同じ「寺町三丁目十五番」なのだが、向こう三軒は「寺町三丁目十四番」で別の小さなまとまりに属しているのである。

昔は、そうではなく「向こう三軒両隣」とも「桜畠三番丁」であった。雪かきも道路掃除も通りの向こうとこちらで同じ町内意識で協力してやっていた。

ブロック型のまとめかたではなく、道を挟んだ伝統的まとめかた(京都などもそうである)が良い。(外国でも、イギリスなどもそうで、道を挟んで、片方が奇数番地、他方が偶数番地となっている。)

昔の町名が復活すれば、自ずとまちのまとめかたも復するであろう。


聖火リレーと民族自治

2008-04-27 | 時論、雑感
今年は北京オリンピックの年、あと100日ほどである。

このオリンピックほど聖火リレーが話題になったことは過去にはない。日本では長野で聖火リレー、今日はソウルに行った。ベトナム経由で中国本土だ。どうなるだろうか。今、問題になっているチベットのラサにも行く。

中国は民族の自治をどう考えるのか。もし中国が社会主義を標ぼうするのなら、民族自治を心底サポートする必要があるのだが・・・。

落語家兼医師の笑いの科学

2008-04-26 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
落語家・桂 前治さんは医師・中島英雄さんである。中央群馬脳神経外科病院の理事長でもある。今朝のラジオ深夜便「心の時代」で「笑いの科学」という話をしていて興味を引いた。

笑いも、前に書いた「溜め息」と同じく吐く息(呼気)によっている。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/eb3e7b901baa74881caf95ba791754fb

人間の長い進化の歴史の中で、外界との交流で、死ぬほどの恐怖、緊張が多々あった。

毒のあるものを間違って食べて死んだ人も多かったであろう。しかし、そういう人の遺伝子は、一般に伝わらない。誤って口まで入れても、「危ない!」と吐き出した人も多かっただろう。その時「ああ助かった」と一息入れる時、「はー」と息を吐き出した。恐竜に追われたとき、生きた心地がせず必死に逃げたであろう。逃げおおせた時にも、「ホッ」とするのである。その時も息を吐き出す。こうして生き残った人類の子孫が我々なのである。それらの「はー」「ホッ」がゲラゲラ笑いの元とのことだ。恐怖・緊張に対する弛緩が「笑い」なのである。(緊張が少しはないと効果は薄いか・・・)

ノーマン・カズンズさん(『笑いと治癒力』岩波現代文庫の著者)も引用されていた。中島英雄さん、いや桂 前治さんは病院に「寄席」を開設して「笑いの治癒力」を実践しておられるようだ。

窓ー外からの視点より内からの視点へー

2008-04-25 | 思いつきから仮説へ
今日、建築史の教科書の古典『建築史』(堀口捨己、村田治郎、神代雄一郎、相川浩、川上貢共著、オーム社)を少し読んだ。東大、京大建築学科出身の建築史の先生方の共著である。この本は、西洋建築史、日本建築史、近代建築史の3章構成になっていて便利である。

で、西洋建築史のギリシャ建築のところにこういう説明がある。「天候が恵まれたギリシャでは市民の生活はおもに戸外で行われたので、アゴラと呼ばれる広場を中心として、神殿、官庁、劇場、列柱廊などが設けられた。このような生活は必然的に主要建築を外から見るものとして扱う傾向を強めた。」(p.23)

ギリシャは地中海気候に属し晴れた日が多い。上記の建物のうち、劇場は野外劇場であった。人々は外で日光を浴びて楽しみ、逍遥しつつ哲学もしたのである。オープンスペースのアゴラに集まって直接民主主義の政治も行っていたのである。その外見の一番の建築がパルテノン神殿だったのである。(写真)

一寸時代は飛ぶが、気候が余り良くなく雨も多いイギリスではどうだっただろうか。人々は家にいて内から外を見ていることが多かったのである。そのために窓辺に寄って広角に外が見れるベイ・ウインドウとかボウ・ウインドウのような出窓が発達したのではなかろうか。

では、日本はどうか、晴れも雨もはっきりしている風土である。ということは、外から、内から両方が重要だった。(地域によっても違うと思われる。要研究)

しかし、最近の高齢化に伴い、病院や家で「居たきり」「寝たきり」の総時間も長くなってきている。ということは「内からの視点」がより重要になってきていると言えないか。窓に向かっての景観だけでなく窓からの眺望もより大切になってきている、と言えるのではないか。

そのために窓を再考していこうではないか。
「まあどう」でも良いものではなく、「まど」わずに「窓」に進め!

ある町内20数軒の半世紀

2008-04-25 | 金沢の思い出
私は、金沢市桜畠三番丁(現・寺町三丁目十五番地)で赤ん坊の時から高校を卒業するまで18年間過ごした。(1941~1960.3.)

その頃に住んでいて、代は替わったかもしらないが、半世紀近く経って相変わらず、その町内に住み続けているのは、当時の21軒の丁度1/3の7軒である。

しかもその7軒を含め全部が、その間に建て替わってしまった。「うーん」である。私が「自分史」で思い出して、昔の姿を叙述しても、行って見ると全くそういう情景が見当たらないことになる。まあ道の幅などは変わっていないが・・・。

大通りの寺町に出てみても、昔の面影のある建物は、ポツリポツリで、当時全くなかった鉄筋コンクリートのマンションも幾つか建っている。

これが「伝統都市・金沢」の現実である。それでも記録や記憶は、どうしてこうなったのかの解明も含め大切と考えている。

訃報:志村正順アナウンサー94歳

2008-04-25 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
今朝の『朝日新聞』訃報欄に、元NHKアナウンサー志村正順さんが07年12月1日心不全で亡くなっていたことが写真入りで報じられた。享年94歳。

私のブログで「志村正順」を検索すると五つも出てくる。私が少年時代に憧れていたスポーツアナウンサーだったからだ。最近のを一つだけ引用する。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1c4ac5c26f11a75951426ab57375b77f

野球では小西得郎さん(まあ、何と申しましょうか・・・)相撲では神風正一さんとの「掛け合い」が絶妙だった。ご冥福を祈りたい。

父・瓜生留雄への聞き取り81年5月14日~15日

2008-04-24 | 金沢の思い出
もう27年ほど前のことだ。父・瓜生留雄(明治41年2月14日生)から金沢の妹夫婦宅で聞いた話である。父についての過去ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/0941aba2c428c96c1f019812dcbc918b

私は、自分史をいづれ書きたいと、私が小学校時代に「別れた」父に父が旧制四高の同窓会に金沢に来た折、私も金沢に行って、知らない過去のあれこれを聞いたのだ。そのノートが地下室から出てきた。そこから私の「ルーツ」の一端を記録メモとして書いておく。

「瓜生(うりゅう)の本家は、代々、加賀大聖寺藩の藩医であった。私の祖父・余所吉は、かの海軍大将・外吉とは血縁的には遠く、又従兄弟であったが、それぞれ分家であった。祖父・瓜生余所吉は、幕末に末っ子として生まれ、代々、数十石の若輩の家柄であったが、漢籍の素読など良くこなし、御一新とともに師範学校に入らされ、19歳で卒業の後、直ちに郷里・大聖寺の錦城小学校の校長となり、以後、県教育課長、県視学官、育成院長などを歴任した。明治末に石川県で「教科書疑獄」が起こったが、「瓜生視学官だけは潔白!」と新聞にも書かれたほど清廉潔白な人柄であった。祖父が県庁に勤めていた頃、父(留雄)は、本多町で生まれ住んでいたので県庁の祖父(父からは親父さん)に弁当を届けに行くこともあった。

余所吉のつれあいの「いく」、つまり私の祖母は、大聖寺藩の筆頭家老・佐分利氏の三女で余所吉の母(私からは曾祖母)がその嫁を御家老の娘ということで甘やかしたため、我の強い感じのパーソナリティになったのではないか、と父・留雄は推測していた」

私が生まれた1941年(昭和16年)段階で祖父・余所吉は既に亡くなっている。しかし祖母・いくは存命で、私を大変可愛がってくれたとのことだ。しかし私の記憶が発生する前に亡くなったので全く覚えていない。
(以上は、父に聞いた1/4位である)

関連:瓜生余所吉の業績:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ba7c8803f8cee5f959a2ac0c4501414f

郊外戸建住宅の将来

2008-04-24 | 地域居住学
私自身、「郊外戸建住宅」とも言うべき住宅に現在住んでいるが、こういう形態の住宅は、将来どうなるのか、どうしたらよいのか、自分の問題としても考え続けている。(西村一朗・前田真子著『これからの郊外戸建住宅地』(せせらぎ出版、2005年参照)

で、先だって「研究会」で青木 仁さんの話を聞いたのも刺激になって、戸建住宅そのものが、どうなるのか、どうしたらよいのか少し考えてみた。

青木 仁さんは「細街路、ミニ戸建」でいくべし、と大胆に言い切っておられる。(青木 仁著『日本型まちづくりへの転換 ミニ戸建・細街路の復権』)

戸建住宅に「サザエさん家族」のように三世代が住んでいる場合は、順繰り順繰りにバトンタッチされるので、安定した継続性が保たれる。まあ住宅内部を二分して、「シーソー」のように「上世代」と「下世代ー子供ありー」が入れ替わりながら内装をやりかえて住み続けられる。

「核家族」の場合は、子供が独立して出て行って戻らないとすると、「老夫婦」「一人住まい」そして「空き家」となる方向だ。「空き家」になる瞬間に、子供がこの家を売るなり貸すなりして、新しい若い「核家族」が入居すれば、これも一つの「順繰り」型となる。

「老夫婦」や「一人住まい」の段階で、青木さんは、大きな戸建は不必要、例えば半分は売って、その資金であと半分の「ミニ戸建」を造ったら良い、と言っているが、ここにいくつか問題点があるのでは、と思う。
・子供家族(孫含む)が時々訪問する場合、狭すぎるのではないか。
・近所の人や同好の士が来にくくなるのでは・・。
・過去の「思い出物ー家財や本、アルバム、手紙葉書等ー」の収納・展示は?
・周りの緑の確保は出来るか。
・町並み・庭並みは崩れないか、等。

この段階では、一寸した「仕事場」「売店」や「サロン」、医者や看護師、介護者などの往診や訪問対応、地域の人達に声をかけやすい等々の理由から、道に面した出入りしやすい部屋(応接室になっている場合もあり)を「地域に開かれた空間」としたらどうか、と考えている。そうであれば半分に割りにくい。

もちろん、グループ・ホーム、二人コーポラティブ住宅等の方向もあるだろう。
(考察・続く)

合鴨家族 古野隆雄さんの話

2008-04-23 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
ラジオ深夜便で福岡県桂川町の農家・古野隆雄さんの話をうつらうつら聞いたが「いい農業だな」と思った。合鴨農業である。米、合鴨、ドジョウが取れる。基本的に農薬、化学肥料も要らない。合鴨が雑草を食べて大きくなる、その糞が肥料となる。水があるのでドジョウも育つ。

合鴨がどうしているかな、と毎日見に行く農業は「楽しい」、楽しいと夫婦仲、親子仲もよくなる。

水稲、合鴨、ドジョウを同時進行的に同じ空間で育てる、同時進行複合農業である。アジアのある国で、この農法を推奨したら「初めて米と共に動物たんぱく質も食べれた」と感謝されたという。

古野さんは、還暦を前に長年の体験を博士論文にまとめ昔卒業された九州大学から博士(農学)が授与された。5人の子供、男二人、長男が九大で修士論文(農業経営)、次男が京大で卒業論文(農業経営)を同時期に提出、「農業大好き研究熱心一家」である。

こういう楽しく仲良い農家が増えれば、農業が継承され、自給率も少しは上がっていくだろう。期待したい。

古野農場ホームページ:http://blog.aigamokazoku.com/

奈良、奈良女子大学と私

2008-04-22 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
私はまぎれもなく奈良の地の奈良女子大学に31年間勤めた。

で2005年3月に定年(63歳)で退職したのだが、その際、自分史として『奈良、奈良女子大学と私』という私家本をつくって世話になった方々や卒業生等に配った。

今日、何気なく「西村一朗」でグーグルで検索してみたら、Yahoo!オークションのサイトに私のその『奈良、奈良女子大学と私』も出されているではないか。
http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f66491085

「えー」と思った。誰が出したんだ!と一瞬思う。でも「捨てる神あれば拾う神あり」であるとも思う。関心のある「拾う神」の皆様方は、他の奈良女子大学の○○年史と共に競り落としてくださいね。来年、奈良女子大学は創立百周年だから将来値が上がるかも・・・。

でも、私の冊子だけ欲しい人は、こっそり連絡下さい。送ってあげますよ。

(写真は、私の私家本『奈良、奈良女子大学と私』)

子供の時に何になりたかったか

2008-04-22 | 教育論・研究論
夕べ10人ほどの知り合いの男女と飲みかつ食べながらわいわい喋った。ある会合のあとの「懇親会」である。男性5人女性4人である。60歳代は私一人で後は50歳代以下と思われる。40歳代、30歳代もいたので「いい組み合わせ」だ。これ位だと皆適当に発言できるので良い。小、中、高、大の子供がいる人もいて、つい「教育」の話もあれこれ出る。

で、余り小さいとき、無理に将来何になりたいの、と聞かないほうが良い、自分で決めるまでじっと待つべきだ、という意見があった。最近の「朝ドラ」でも成長過程で自分で「落語家になりたい」とか「旅館の女将になりたい」とか決めている。たしかに、きちんと決めるのは成人する頃かもしれない。

しかし、小さい時「何になりたいの?」と聞かれて気軽に○○になりたい、と言っていたことを思い出す。私の場合、小学生の時は、学芸会の演劇に何度も出たので、「役者になりたい」と言っていたと思う。学芸会の時、先生から「尻を観客席に向けてはいけない」「観客席の一番後ろに声が届くように大きな声でせりふを言いなさい」と言われたこと、今でも思い出す。

中学生の時は、前にも書いたが「スポーツアナウンサーになりたい」と言っていた。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1c4ac5c26f11a75951426ab57375b77f
そのようなことを言いながら、小さい時にでも気軽に「なんになりたい」と聞いてもいいのじゃない?と言ってみた。

ある人が、「西村さんは、今でも役者でアナウンサーみたいな者じゃないの?」と言った。そういえば大声で早口かな・・・。

万緑や 膨張宇宙の 中にゐる

2008-04-20 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
やや理屈っぽい俳句である。万緑や 膨張宇宙の 中にゐる  とは京大総長の尾池和夫さんの句だ。今日の「NHK俳句」(正木ゆう子選者)でゲストとして出演し、披露していた。尾池さんの解説によると、万緑の森の中にいると、周り中の樹木によって向こうを見通すことが出来ない。宇宙にも無数の星があるので、森のように向こうを見通すことが出来ないように夜空がぎっしり星で満員かというと、すかすかで暗いところが大部分である。これは何故かと言うと、宇宙が光速で膨張していると考えれば(エドウィン・ハップル説)、すかすかに見えてよい。万緑の森に入って、そういう大宇宙のなかにいるのだなあ、と感慨深く思った、とのことだ。解説を聞いて分かる句である。

「大宇宙 新緑の中 われ一人」というのならどうだろう・・・。

尾池和夫さんは、私より1級上、地球物理学専攻、「地球の長い歴史で出来た日本列島や日本海、それによって豊かな四季が出来、日本文化の一つ俳句が生まれた」、と言う。(だから、地球物理学の自分が俳句をするのは自然だ・・・・という訳か)