西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

名工大 服部(千之研)OBの集いに参加ー通った当時を思い出しつつー

2015-10-19 | 名古屋・豊田の思い出

2015年10月17日(土)、名古屋市地下鉄池下周辺で名工大の服部千之研究室のOB,OGの集いがあった。その様子の概要を記録しておきたい。

集いは、池下橋本ビル会議室Aでシンポジウム、夕方からグリルプランセスで懇親会があった。両方とも35人前後の出席、懐かしい顔も多いが、私が愛知県を去った1971年以降の卒業・修了生が半数以上であった。

私は、名工大の卒業生ではないが、1966年から1970年間での4年間、「客員研究員」のような格好で、ほぼ定期的にゼミに参加させて貰い、議論に参加し勉強させて貰った。また、共同研究にも参加させて貰った。そのため今回の集いにも「呼びかけ」があったのである。服部千之先生は、28年前の1987年50歳台半ばで亡くなられ、以降、遺稿を編集するなどの企画はあったが、今回のような研究室のOB,OGが集まるのは初めてではないだろうか。

私は、1966年(昭和41年)3月に京大大学院修士課程(建築学専攻、西山夘三研究室)を修了し、4月に国立豊田高専建築学科の助手となり、1968年に講師になったが、1970年(昭和45年)に豊田、愛知県を離れ京大助手(三村浩史研究室)で京都に戻ってきた。

名古屋、愛知県の大学で、当時、京大(大学院含む)建築学科、建築学専攻出身で「計画系」の先輩がいるのは、名古屋工業大学建築学科のみで、服部千之先生(助教授)がおられ、西山研究室出身の先輩だった。そこで、4年間、定期的に服部研に通わせて貰ったのである。その間の私の研究は、残っている建築学会(東海支部)報告、豊田高専紀要、雑誌『建築文化』寄稿、『朝日新聞(名古屋本社版)』寄稿等を見ると、住宅企画(情報)の問題、建築技術の問題などやや抽象的な理論的仮説の発表に傾いている。これらは服部先生やゼミでの議論、建築学会東海支部都市計画委員会メンバーとの議論等によると振り返ってそう思う。

高専では未だ4年生が最高学年で、学生を、即調査研究の「戦力」に想定するには少し無理があった。ただ、5年生になる私の豊田2年目から卒論ゼミがあり、私は「兄貴分」として色々議論した思い出はある。

服部研のゼミでは、僅か4年間だったが今回も当然来ておられた当時助手だった桜井大吾さん(のちRIA)のソフトなふるまい、学生・院生だった1967年学部卒薮田仁一郎さん(現・国際開発センター)の学習姿勢など刺激となった。薮田さんと学生の時に同期で、大学院は(計画的に用意周到に)東大都市工に進んだ西山康雄さんがうかつにも最近亡くなられたと知ってびっくりした。(私のこのブログに西山康雄さんの記事がある。ご覧になりたい方は検索でどうぞ)1970年卒・修了までの彼らと議論したり一緒に調査したりした思い出もなつかしい。「客員」だったが残念ながら亡くなられた私の同期(奈良女子大卒)の森下雅代さんも学生時代に「建築学生会議」で一緒したことも懐かしい。今回おやと思った参加者は八尾新太郎さん(名工大1964年卒、京大大学院で私と同期、構造系、のち関西大)だった。伺うと名工大での卒論は構造系だが服部先生ご夫妻には大変世話になったので・・・、と言っている。他の分野、研究室であっても面倒をみる面倒見の良さがうかがえる。

ついでに建築学会東海支部都市計画委員会の方々も懐かしく思い出す。当時委員長だった早川文夫先生(当時、名大教授)には大変お世話になった。今回も来ておられた私より1級上で今回服部研「最年長」の佐藤圭二さん(当時、名大助手のち中部大)、同じく名工大卒の先輩・松尾博雄さん(当時、名古屋市)、亡くなられた長峰晴夫さん(東大卒、当時公団のち近畿大、名古屋大)、玉置伸吾さん(京大卒、先輩、当時公団のち福井大)との議論も懐かしい。

今回、服部先生の奥様の美枝子さんが元気で出席になられると言うので、私は妻と一緒に(少ししんどい面があるが)参加した。妻は、当時、研究生という形で服部研ゼミに参加しており、私はゼミに行って、偶然にも彼女と再会することになり、ああなって、こうなって1968年3月に東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)主税町クラブで結婚することになったが、「頼まれ仲人(司婚者と言っていた)」を結局、服部先生ご夫妻にお願いすることになり、先生や奥さんに公私ともお世話になったのである。今回、奥さんに直接、お礼を言った。服部千之先生、美枝子様、本当に有難うございました。座から「何年かしたら再会しようや」の声も聞いたので、もしそうなったら元気な限り出ていこうや、と妻とも語りあいつつ、名古屋から京都への帰路についた。