西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ロンドン報告(33)ハムステッド田園郊外視察-14大きな林と小さな林

2005-09-30 | 地域居住学
生垣、並木とくれば、次は林である。林は、Woodと言われているようだ。HGSの東北隅の方にBig Wood とLittle Woodがあり殆ど連続している。ここも皆に見せたいものだった。それぞれ入り口に案内板が立っていて、これらの林に生息する生き物の説明がしてある。これらは1983年にはなかったと思う。又、大事なのは、これらは後から植樹して出来たものではなく原生林を切り残したものだということだ。日本の鎮守の森を思い出す。鎮守の森は昔、我々の祖先が平地林を殆ど伐採して田んぼにしたため、土地の霊が怒らないように一部切り残して神社を造ったものだろう。1983年に来た時は晴れていて、木漏れ日が漏れ気持ちよい散歩だったが、今回はシャワーも降って曇っていた。林の中は薄暗く原生林の一部なのだな、という感じである。リスがあちこち飛び跳ね木の実をかかえて木登りしている。小さな林で特に見せたかったのは野外劇場である。1983年に来た時は、ここで実際に劇の練習をしていて、流石シェークスピアの国だなと思った。演劇が市民に根付いているのだ。実は、1955年以降の計画的団地の香里団地(大阪府枚方市)のマスタープランは京大の西山卯三研究室でつくったのだが、そこに野外劇場や市民劇場が登場する。これらを提案したのは若くしてなくなった絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生(当時・院生か助手)ではないか、と思う。絹谷先生は、ヨーロッパの事情も良く勉強しておられ、先生が助教授で戻られて院生の私に「都市計画の父」とも言えるパトリック・ゲデスの存在を教えて頂いた。私の恩人の一人である。HGSと香里団地マスタープランの関係、というテーマが一つ出来たかな、と思った。実際、香里では、時期尚早で実施計画に盛り込まれなかったが、文化の時代、今後、再度、考えてみても良いのでは、とも思った。

ロンドン報告(32)ハムステッド田園郊外視察-13生垣と並木

2005-09-30 | 地域居住学
バーネット夫人の計画原則は九つあるが、その中に「境界は壁(wall)ではなく生垣(hedge)か板塀かワイアにしなさい。それは空気を通すためです」というのがある。実際には生垣が圧倒的に多く殆どと言っても良い。手入れ、剪定している住民にもぶつかった。又「道はすべからく並木道にすべきである」としている。昔、ロンドンでは並木道があるかどうかが住宅の値打ちを決め、パリでは天井高が決める、と聞いたことがある。パリのアパルトマンでは上へ行くほど天井高が低くなるためだ。HGSの生垣は絶えず剪定するから1983年に見たままだが、並木の樹木は20年間で生長したな、という印象である。これらがあることが、家から窓を通じて外を見た時に必ず「緑」が目に入る仕掛けでもある。又、前にケンブリッジに行ったときにNa.さんに聞いたように農村のHedge(牧草の境界林)が都市に持ち込まれたとも言えるし、長年、全土の樹木を伐採してきたことに対して少しでも回復したい気分も現れているかもしれない。しかし、樹木は個人で剪定できないので全体でやっているのだろう。何はともあれ、My Hedge, Our Treesを大切にしているのだな、と思った。

ロンドン報告(31)ハムステッド田園郊外視察-12中心広場のベンチ

2005-09-30 | 地域居住学
今回、1983年には全くなかった又は気付かなかったことに、中心広場のベンチのことがある。今回のウォーク(トレイルTRAIL)は、昔地域のヘンドン図書館で買った「ウォーキングマップ」に従って30箇所のポイントに沿って歩くものだが、それは全体で2.5マイル(約4km)、時間は1時間45分かかるとあったが、中心広場の15番まで来るのに、アンウィン卿の家を探すのに手間取ったりして既に2時間近く歩いている。中心広場に来て木のベンチがいくつか目に入ったので座ってホッとして休んだ。ふと背もたれの上部を見るとプレートに何か書いて貼り付けてある。全部に貼ってある。読んでみると「小さな可愛い子供を亡くした、思い出にこのベンチを寄付したい」又逆に「長年ここに住んで天寿を全うした愛する人の記念に寄付したい」といった言葉が書かれている。記念だから実名が書かれている。私は、これは私の前から言っている、地域空間に親しみを持つための「匂い付け」だな、と思った。こうすれば、その人達の「匂い」がここについているのだから関係者に対して「引力」が働き、ここにやって来やすいのである。又、こうすると住民の寄付でベンチ整備が出来ることにもなるのである。HGSでの新たな「発見」の一つだった。

ロンドン報告(30)ハムステッド田園郊外視察-11様々な町(通り)

2005-09-30 | 地域居住学
中心広場から北に進む通りから北方の遥か向こうに1983年には私達が住んでいたMill Hillの巨大なガスタンクが見えていたが、今は見えない。(ロンドン報告(7)参照)この通りもそうだが、先に「様々な住まい」について書いたけれど、HGSでは同時に「様々な通り(町)」を見ることが出来る。壁の煉瓦が見える通り、スタッコ(漆喰)を塗った家でまとめている通り、普通の対面の二列の通り、クルドサック(袋小路)の通りなどである。西山康夫さん(東京理科大)によるとクルドサックはフランス語だが最初にやったのは第一田園都市のレッチワースとのことである。同じアンウィンが計画したのだからHGSも、それを取り入れたのであろう。又別の味があると思う。クルドサックの突き当たりは少し「目立つデザイン」にして突き当たりを横に次の通り(町)に抜けられる細い路地を造っているところもあった。住まいのデパートであると共に通りと住まいのまとめかたのデパートでもあると言えよう。こういう所なので他の地域の住民達も勉強に来るようで、ある通りでは団体が地元の人の解説を聞いていたのにぶつかった。

ロンドン報告(29)ハムステッド田園郊外視察-10中心広場と四つの建築

2005-09-29 | 地域居住学
HGSの中心は、中心広場と三つ乃至四つの建築である。これらを設計したのが、建築家のエドウィン・ルチャン卿(1869-1944)である。彼はイギリスでは、あのセント・ポール寺院等を設計したクリストファー・レン以来の建築家と言われている。前から尖塔がヒース側から良く見えた南側の教会がセント・ジュード教会で英国国教の教会、一方ビザンチン風ドームを持つ北側の教会がフリー教会で英国国教以外のキリスト教会である。私は、これらを知る前に勝手に「勘」で英国国教会とカソリック教会と思っていたが、後者が間違いだった。The Free Churchという名前に注目する必要があった。それはイギリスで最初の全キリスト教のための教会だった。それは、Freeという言葉が示している。実は、この教会の前でうろうろしていると(日曜日なので)サービスが終って出てきた婦人が「何かお調べですか」といったようなことを言うので「どういう教会か知りたい」といったことを言うと「どうぞ中にお入り下さい。我々の会の幹事がいますので・・」と言われ中に招じ入れられた。中は壁が白く明るい。幹事(Secretary)と言われた男性が来て簡単に説明「ここの開発企画者のヘンリエッタ・バーネット夫人の思想により、色々な人たちがHGSに住みだしたので色々な宗派のキリスト教信者がいたため、いわば共同の教会が出来た。これはイギリス初である。ルチャンの設計は窓が大きく明るく床もカーブしていて祭壇に皆が注目できるようになっている・・」といった趣旨だった。一方のSt Jude's Churchは国民的ゴチックといった感じであるが、やはり窓が多く内部は明るいと想像できる。Na.さんは教会の中世風様式建築から抜け出そうという意気込みを感じるが、まだすっきりした近代に入っていないのでは・・と言っていた。三つ目の建築は二つの教会の中間の東側に広場に面して建つHGS協会(Institute)の建築で、ボリュームが一段とあった。(写真のもの)(1983年段階で)バーネット区唯一のGrade1の登録建築である。私は、皆に、これらの建物には鐘楼はあるが鐘はない、(奈良女子大学の記念館の鐘楼を思い出した。)これはバーネット夫人の計画原則に基づきHGSの静穏を保つためである、と説明した。四つ目の建物は、広場の西側から北側に連なる長い低層のフラットで、退屈さを破る意味で立面は色々変化させている。デザインの妙というべきであろう。

ロンドン報告(28)ハムステッド田園郊外視察-9空間の劇的展開

2005-09-29 | 地域居住学
「城壁」の中央から北方に見える教会の尖塔は、歩みだして近づいて行くと尖塔の先のほうから徐々に教会の下部本体が見えてくる。アプローチに若干の傾斜をつけて本体空間がほんの一部から劇的に姿を現す風に計画したのだ。こういう空間の劇的展開は、細い生垣に両側を挟まれた小道を行くと、パッと中央広場と教会が目に入るやり方にも現れている。アンウィンは意識的にこういうことをやったのだ。道のアイストップに何を計画するか、良く考えられた全体計画で、私は先駆的なものと改めて思った。

ロンドン報告(27)ハムステッド田園郊外視察-8本体の「城壁」

2005-09-29 | 地域居住学
ヒース・エクステンションを北上すると「城壁」のような壁にぶつかる。解説によるとアンウィン卿はヨーロッパ大陸の「城壁都市」に一種の憧れを持っていて、ここでHGS本体とヒース・エクステンションをわけるのに「城壁」を計画したようだ。デンマークのラスムッセン教授は『ロンドンーユニーク都市』という本を書いているが、そこではロンドンとパリを比較してロンドンは城壁に囲まれない「散在都市(Scattered City)」パリを城壁に囲まれていた「集積都市(Concentrated City)」と呼んでいる。だからアンウィン卿は、ないものに憧れたのだ。(尤もローマ時代まで遡ればイングランド北端にハドリアヌス城壁等がある)その城壁はレンガ造りで3~4mの高さで続いており、所々に見張り台のような建物を立ち上げている。(これらは何か?)この城壁に沿って中心に行くと、そこから北方に教会の尖塔が道の向こうに見えている。都市計画家としてアンウィン卿は、これをHGSの「南北軸」に設定したに違いない。この本体の南からの入り口には「日光浴広場」があり、ベンチがついている。当日は浮浪者とおぼしき人が一人いた。
日本でも住宅地を新たに造る場合、周りと区画するのに城壁を造ってみるのも「手」だし、日本らしく掘割を造っても良いかもしれない、とふと思った。

ロンドン報告(26)ハムステッド田園郊外視察-7ヒース・エクステンションを歩く

2005-09-29 | 地域居住学
レイモンド・アンウィン卿の家を見た後に、北方に方向を転じてヒース・エクステンション(Heath Extension)を歩いてHGS(ハムステッド田園郊外を以下略して記す)本体へ近づいた。H.E.とは少し南方にある有名なHampstead Heathの延長部ということだ。ヒースとはイギリス独特の風景で辞書では、「(低木の茂った)荒野,荒地.」となっている。小説『嵐が丘』などの情景に出てくる。実際、ここでは林の部分もあるが、手入れをしてきれいな芝生になっている部分もある。丁度,真ん中ぐらいに管理小屋があり女性トイレがあった。犬を散歩させている人が何人もいて犬同士の「社交」も行われていたが日本のように吠え合うということは少ない。良く躾けられていると言った感じだ。馬の「通路」も指定されてあるような標示があった。芝生では、少年たちがイギリス発祥の代表的ボールゲームのサッカーとラグビーを広い場所を使い分けてやっていた。遠くにHGS中心部の教会尖塔が見えた。いよいよ本体の視察である。

久しぶり専用歩道を歩く

2005-09-29 | 地域居住学
久しぶりに「ハイタッチ・リサーチ・パーク」から近鉄高の原駅までの専用歩道を歩いた。植わっている並木の足元の雑草がきれいに抜かれている。業者が抜いている現場も見た。聞くと、木津町の委託でやっている、と言う。今までの夏場は大変だったが、これからは一寸楽になる、と言っていた。確かに雑草が道端にないのは気持ちよい感じがするが、良く考えてみると、自然には、それらが冬に枯れて樹木の堆肥になったのではないか。とにかく「雑草はかわいそう」「That's so!」とばかり言っておれないのでは・・と思った。高の原に近づくと工事用の塀がつくられ「迂回路」が出来ていた。聞くところの巨大ショッピングセンター「イーオン」の工事の下準備であろう。敷地内の立派な楠木並木もなぎ倒されていた。根だけ未だ掘り出されて残されている。痛ましい感じだ。ふとロンドンのハムステッド田園郊外の樹木が大きく育った並木道を思い出した。

ロンドン報告(25)ハムステッド田園郊外視察-6様々な住まい

2005-09-29 | 地域居住学
ハムステッド田園郊外の開発企画者のDame Henrietta Barnett(デーム・ヘンリエッタ・バーネット Dame とは男性で言えばUnwinにも与えられたSirにあたる)は、開発スタート21周年にあたる1937年に「計画9原則」を書いているが、その第一原則が「社会や収入の全ての階級が住むべきであり、ハンディキャップのある人も歓迎」というものだ。(日本の千里ニュータウン等の「混合開発」の元がこれであると言えよう)これに対応して、この住宅地には、デタッチド(戸建て)、セミ・デタッチド(二戸一棟)が目立つとは言え、他のフラットなどの集合住宅も多く組み込まれている。丁寧に見ると、当時の住宅形式のデパートとも言えよう。「マップ」には30のポイントがあるが、4番にHeath CloseのWaterlow Courtがあり、これはBaillie Scottの設計、単身の働く女性のためのフラットである。1909年にルイーズ王女により開所、素晴らしいアーチ群と半鐘塔が見ものだ。我々は、門扉をそっと開けて中庭の所まで入ってみた。中庭の周りにロの字型の配置、内側が回廊になっているが、それがアーチ群になっている。屋根は正面に妻を見せるものが付いているが全体は「平」となっている。外壁は白いスタッコ(漆喰)である。階数は屋根裏も入れて3階建てである。今は、どうも単身女性だけの居住ではないような感じだった。

ロンドン報告(24)ハムステッド田園郊外視察-5レイモンド・アンウィン邸を探す

2005-09-29 | 地域居住学
ハムステッド田園郊外の全体の骨格を計画したのがレイモンド・アンウィン(Raymond Unwin)である。建築家で都市計画家と言える。彼はこの自分が計画した住宅地に住み、死ぬまで住んで実際に建設、形成されていく過程を見守ったのである。最初は1年だけ住んで、これも彼が計画にタッチした第一田園都市のレッチワースに移住する予定のようだったが、気に入ったか、最後まで見届けようとしたのか、このハムステッド田園郊外に住んだのである。その家は、最も南のWyldes Farmという所ににあり、確か後ろにブルー・プラーク(青銘板8月22日ブログ参照)も付いていたはず、と1983年にもこの住宅地に来て見ているので、その辺りに行き探すが見つからない。5人を引き連れてきた言わば第一の目的が、このアンウィンの家を見せることだったので私は必死だった。一軒の家のベルを押して、出てきたパジャマの男性(今日は日曜日!)に「かくかくしかじか」と聞いた。親切に行きかたを教えてくれた。握手して感謝し、言われた通りに行ってみた。つまり、南に向かって一寸左側に南の方向(ハムステッド・ヒースの方向か)に抜ける小道があり、そこを行くと、この住宅群の裏に回る小道が右側にあるので回って裏に行って2、3軒目がアンウィンの家だった。見覚えのある屋根の形、黒い下見板張りの壁、そしてブルー・プラークだった。それらの写真を撮っていると、自動車で帰ったばかりの住人とおぼしき若い女性が「隣の家と昔はつながっていて、そちらにも昔、有名な○○が住んでいてプラークが付いているよ」と教えてくれ、アンウィンのブルー・プラークを背景に我々の記念写真のシャッターも押してくれた。(下見板張りの板が一枚はがれていた)Blue Plaqueには次のように書かれている。「The Original Designer of Hampstead Garden Suburb SIR RAYMOND UNWIN Architect & Town Planner Lived here 1906-1940」 とにかく私はほっとして、今日のウォークも上手くいきそうだ、と思ったのである。

ロンドン報告(23)ハムステッド田園郊外視察-4車道への駐車

2005-09-28 | 地域居住学
先ずROTHEWICK ROADから入った。車道の両側に自動車がズラリ駐車している。思い出してみるとロンドン市街地でも「駐車メーター」による路上駐車している所が多い。考えてみると、ロンドン市街地もハムステッド田園郊外も自動車が大衆化していない時期に計画され骨格が形成された。ハムステッド田園郊外建設は1906年にスタートしたが、大衆車のはしりと言われるフォードT型車は1908年から販売され、特に1914年からはベルトコンベアーによる大量生産方式を取り入れ、値段が安くなり大衆化が始まったのである。だから、その後増えてきた自動車にどう対処するかがハムステッド田園郊外の大きな問題となった。住宅敷地内に切り込んでガレージを造ることも出来るが、それをやめて路上駐車を認める風にしたのである。住宅敷地内に切り込めば生垣も少し切らないといけない。ハムステッド田園郊外の特徴の一つ、生垣の町並みが崩れるのである。それを止めて可能な所は路上駐車を認めたのは一つのやりかたであろう。勿論、そうしてもなお真ん中を自動車が通れる所では可能なのだ。日本でも「駐車メーター」の所も若干あるが、イギリスに比べ全然少ない。日本でも可能な所は更に取り入れたらどうか、と思った。

ロンドン報告(22)ハムステッド田園郊外視察-3ゴルダース・グリーンから歩き出す

2005-09-28 | 地域居住学
ゴルダース・グリーンはバスの終点、郊外ターミナルになっているが、そこは地下鉄ノーザン・ラインの駅のある所でもある。実は、ハムステッド田園郊外の開発が始まった1906年頃に地下鉄が漸くゴルダース・グリーンまで延びてきたのだ。この辺りまで来ると「地下鉄」というより「地上鉄」である。このロンドン都心に行くのに便利になったことに目をつけたのがハムステッド田園郊外の開発企画者のヘンリエッタ・バーネット夫人である。E.ハワードによる田園都市論は働く場も含んでいたが、ここでは、それは止めて地下鉄等を利用して働きに行けば良いとし、いわば(田園都市-職場)の形で成り立っているのが田園郊外である。その後、ゴルダース・グリーン駅周辺も「発展して」町になってきた。私達がいた1983年頃は、日本人も多く「日本人クラブ診療所」もあり、私も家内も世話になった。家内は懐かしそうに周りを見ていた。その診療所も移転したようだ。娘が当時、中2~3年生で世話になった「日本人学校」がノーザン・ラインのカムデン・タウンから1987年に西のイーリング区アクトンに移ったので日本人居住地にも変化が起こったようで、昔はよく見かけた日本人に殆ど会わなかった。ゴルダース・グリーン駅から歩き出し「地上鉄」の下をくぐって東に行くと、いよいよハムステッド・田園郊外が始まる。

ロンドン報告(21)ハムステッド田園郊外視察-2ロンドンはダブル・デッカーで

2005-09-28 | 地域居住学
ハムステッド田園郊外に出かけたのは、9月18日(日)であった。日曜に出かけて良かったことは、追々分るだろう。先ず9時頃に地下鉄のハイ・ストリート・ケンジントン駅に行って5.4ポンドの「1日乗車券」を買った。普通の週日は9時半から有効だが土日は終日有効だ。都心部だけなら4.7ポンドなのだが、郊外のGolders Green(ゴルダース・グリーン)などを含む地域は少し高いわけだ。それでも1100円位で1日地下鉄やバス乗り放題なので「お得」である。私はロンドンに来て、ホテルのある近くのバス停経由でゴルダース・グリーンに行くバス(二階建て、ダブル・デッカーと称す)が行っていることを発見し、直ちに地下鉄ではなく、このバスで行こうと決めた。何故なら、地下鉄は、確かに早く便利であるが、地下をモグラのように走るので町の様子がさっぱり分らない。その点、ダブル・デッカーの、それも2階の最前列に陣取れば町の様子がよく分る。この場合、ロンドンの都心から郊外までの変化の一断面が分ることになる。今回一緒に行ったのは、皆、住宅や都市の計画に関心のある人ばかりである。
是非、ロンドンに行ったら地下鉄の次にダブル・デッカーに乗ることにチャレンジして欲しい。今回は328番のバスで2階最前列に座り約45分間かけて(表示には途中8つのバスストップがあり、ハイストリートケンジントンからの到達時間は41分とあった)ハムステッド田園郊外最寄り駅のゴルダース・グリーンまで行った。田園郊外散歩の始まりである。