西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

少ない資源の多重絡み繋がり活用

2011-08-31 | 思いつきから仮説へ
昨日、高槻市で「ブランド化」イベントの話を、まあ「市民代表」「有識者(私もその一人)」、「市の担当課」、「市の関連課(商工観光、文化財)」の人達としていて、色々なことを思ったが、一つだけメモしておく。

昨日のブログで、様々なイベント・アイデアの中から今回は、大きく二つに絞って展開しよう、となったことを書いた。○今城塚古墳(伝継体天皇陵)の活用 ○市中央を北から南に流れ下り淀川に注ぐ芥川の活用(高槻環境芥川賞の創設)である。

で、これらを短期的、花火的に利用したイベントをやって「終わり」にするのではなく、市の多重な行政課題の解決と絡みつけて長期的、発展的に進めていくことが大事だし、必要と思った。

一昔も二昔も前の右肩上がりの経済、財政状況でも、縦割り二重行政は拙かったが、掛け声だけで中々縦割り二重行政は改まらなかった。道というと、国交省も農水省も乗りだしてくるし、ダムもそうである。

もう税金もおいそれとは増えないし、予算は大事に効率よく使わないといけない。

そうなら、まあ行政的にみると多重絡み繋がり活用、となるが、地域住民にとっては「生活的に有効使用」ならオーケーなのだ。住民的総合視点が今こそ必要である。

高槻市のブランド化会議へ

2011-08-30 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
私は、現在「けいはんな学研都市域」(精華町)に住んでいて生活の本拠地域なので、そこの「地域人間」に違いはないが、他に関心ある地域としては、生れ故郷で18年間過ごした金沢市、学生時代、若い時代過ごした京都市(宇治市も)、就職し初めて勤め、結婚し4年間住んだ豊田市、30年以上働いた場所:奈良市などである。

他に最後の4年間(63歳~67歳まで)働いた高槻市がある。

今日は、その因縁で「高槻市ブランド化」の「フォーラム小委員会」に行った。

前にこのブログでも、そのブランド化問題を書いた。
高槻市のブランド化:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/5bd9c95ff914721f900458425f0789a9

まあ二つの目玉を押し出すことになった。

・今城塚古墳(過去ブログで僕が強く言っている!)
・高槻芥川(環境賞)の設置(山岡景一郎委員長が強く主張)

後者は文学賞の「芥川賞」にあやかっている。皆さん注目していて下さいね。

焼酎の「豆乳割り」は如何?!

2011-08-29 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
私は、最近、晩酌ではビールを一寸飲んでから、芋焼酎の「豆乳割り」を飲んでいる。

テレビで誰かがチラッとそういうものを飲んでいる、と言っていたのに共鳴した訳だ。

食前に、こういうものを飲むと、まあ胃腸に入ってアルコールが急速に体内に入るのにブレーキがかかる。第二に、豆乳の植物性蛋白質や食物繊維によって腹がふくれて、以後の食事が少食でよくなる。

皆さん、焼酎の「割り液体」に豆乳を投入したらどうですか。

日本建築学会に最初に報告した論文(1965年9月)より

2011-08-26 | 京都の思い出(学生時代)
私が昔発表した「論文」として、昨日、一昨日と「「原子力発電所」と地域開発」(1973年2月)を上げて再掲してみたが今日は、京大院生時代(1965年9月)に初めて日本建築学会に報告した「論文」の題名、狙いなどを述べてみたい。

その「論文名」は、「道路開発にともなう山村の生活環境条件の変化と問題点」というもので、日本建築学会大会で私が発表したものである。共著者は、三村浩史さん(当時、京大助手、現・名誉教授)、延藤安弘さん(当時、京大院生、同期)であった。

この報告の元データーは、三県山岳地域開発に関する調査研究で、奈良県十津川村の林道等に関して調査したデーターだった。(三県とは奈良県、和歌山県、三重県である)

この論文をまとめるため三村浩史さんと何度も話し合った記憶がある。三村先生は、当時オランダの研究所に、オランダで亡くなられた絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生(京大助教授歴任)の「後釜」として出発準備で忙しい時だった。

ところで私の「論文」だが、道路そのものを対象とすると「土木工学的」となるので、「生活環境条件」という言い方をして、道路の開発と関係した生活条件を探るテーマとしたのである。

林道が開通する以前は、樹木運搬は河川を通じる筏(いかだ)であった。林道が通じてからは、五条にも新宮にも樹木を搬出できることになり、両市場の様子を聞いてから目的地を決めれたのである。林業上、便利になったと言える。

生活上も、自動車やオートバイがあれば便利になったのである。そういう風にプラス面ばかり目につくが、じっくりと自動車もオートバイももてない階層に思いをいたすと、バスなどの公共交通が導入されないと、かならずしも便利になったと言えないのである。また生活空間として道路を捉えると、ゆったりした散歩などには、トラックや自家用車やオートバイは危険要因で、歩道設置ということもある。この論文では、それらのことを明らかにしたのである。今では「当たり前」だが1965年(昭和40年)では、そうでもなかったのだ。

こういう風に、以後、現在にいたるまで、住宅そのものを対象とする研究を中心としてきたが、同時に道路、ダム等の土木空間を生活空間として捉える研究もしてきたが、この「最初の論文」にそれが現れているといえる。地域開発と、個々の空間だけでなく地域全体を問題とするスタンスも得たのではないか。それが「原子力発電所と地域開発」という捉え方に通じるし、後々、「地域居住学」という発想にも通じていくのである。

「原子力発電所」と地域開発(続き)

2011-08-25 | 京都の思い出(助手時代)
昨日の続きである。今日から読まれる人は昨日の分から読んで欲しい。また、昨日読まれた人で「文字面がおかしいな」と思われた人もいたかと思いますが誤字を訂正しました。


<現状で「原発」が地域に与えるマイナス>
 以上によって、「地域開発に役立つ」という内容の一応の批判・検討を終り、その他現在のようなやり方ではどのようなマイナスを地域に与えるかについてふれてみよう。
 まず、「土地の買収」と「漁業補償」である。これらについては極めて早い時期に電力会社が「手」を打ってくる。「土地の買収」にしても目的を明らかにせぬまま行われることもある。また土地を手放したがらない住民には土地収用法の適用をちらつかせたり、地域ボスに金がばらまかれることもしばしば耳にする。「漁業補償」も漁協の一部の幹部と話をつけるというやり方が一般的である。これは地域民主主義、住民自治の観点から明らかにマイナスである。その上、地方自治体の幹部もそれに加わるとき、自治体行政が歪曲されていく。福井県大飯町の前町長は町民に不利な「仮協定書」を秘密裏に電力会社と結んでいたことからリコール運動が起こって辞任せざるをえなくなったのである。
 「土地買収」「漁業補償」はまた結局、農業や漁業の継続にマイナスの要因である。
 次に、「原発」はかなり多量の洗浄用淡水をも要求し、そのことが、農業用水や生活用水と競合する。若狭湾岸大飯町の例では、117.5万kw2基で4千立方㍍/日の淡水が必要といわれ(「安全専門審査会答申」後の資料による)、それは、町人口約6千人の生活用水千8百立方㍍/日に比較しても莫大な量だということがわかる。これを、町を流れる二級河川佐分利川の表流水、伏流水から取水するとすれば、生活上、農業上きわめて問題である。というのは、過去にも5~6年に一度の割で渇水が起こり農作物に被害があることが知られており、また最近の「クーラー」の普及がただちに地下水位の低下に連なったという事実もあるからである。(「同上書」p.52~54)
 その他、「原発」への核燃料や、そこからの廃棄物の貯蔵や運搬の問題、高圧線の電波障害の問題、揚水発電所への送電問題などがある。
 このような問題は、現状のような臨海工業地帯の電力危機論を背景とした強引な原発の過疎地立地主義では解決できない。それが又事故その他安全性の低下にも連なっているのである。地域開発の面から考えても、原子力開発の三原則、自主・民主・公開が守られる必要があるのではなかろうか。(下線は2011年8月25日)

<住民本位の地域開発と「原発」>
 「原発」は現在、日本列島の中の「海岸過疎地」に建設されようとしている。そこは、主として農業、漁業地域であるといえよう。又、その多くは景勝地であり、国立、国定公園の一角、近傍を占めている例も多い。従って、原発によって大々的に田畑を売らされ、漁業権を放棄させられることは、日本の農業、沿岸漁業をくずす重要な要因となり、また国民的レクリエーション地をせばめることに連なっている。
 ところで、大企業本位の地域開発を代弁している『日本列島改造論』ではギマン的な「福祉型発電所」の建設などが主張されている。「上」からのおこぼれとしての「福祉」は地域住民の一部を迷わせるが根本的に住民生活の向上には連ならない。
 現在、町議会で「原発反対」を決議している北海道岩内町では、良好な港を持ち、養殖漁業にも力を入れだした漁業の盛んなところで漁業者は漁業で基本的に生計を成り立たせており、「原発反対」の主力の一つが岩内漁協なのである。又、以前「新宮津火力発電所」を拒否した若狭湾岸京都府民の先頭に立ったのは伊根漁協であった。ここでも、「育てる漁業」を長年にわたって追求し、漁業はほぼ「飯の食える」生業となっている。
 「原発」の「過疎地」への急速な進出という傾向は、残念ながら農漁業の一角を現実に破壊したが、他方その地域の住民本位の発展策を考えさせられる機会となった。このような地域での住民本位の開発といえば、恐らく農業、漁業を中心にすえ、農漁業の安定収入の増加をはかるということにならざるをえない。その上に、地域の条件にマッチした「地場産業」を振興させるということとなろう。それには恐らく地域の環境を生かした観光開発も含まれよう。それは、地域外大資本による環境破壊的開発ではなく、環境保全、資源保護に徹したものであることは言うまでもない。
 このように地域がしっかりした生活基盤を住民本位につくっていれば、かりに「原発」が進出したいと言って来ても(より抵抗の少ない「過疎」な代替地へ流れるかもしれないが)、住民や自治体は安全性や住民福祉などの点を徹底的に追求し、自主・民主・公開の三原則を貫徹しうるであろう。そして、農漁業を守り育てることこそ、日本国土の破かいを防ぎ、過疎化を防ぎ、国内資源の荒廃を防ぐ道に通ずると考える。
 (参考文献:『原子力発電と住民』日本科学者会議京都支部編、その他)
(追)本稿は、西村が「原発研」の研究活動にもとづいて起稿し、木村春彦氏の補筆の上、西村がまとめたものである。


これは私が京大工学部の助手をしていた31、32歳頃の頃の「論」である。木村春彦氏とは、当時、京都教育大教授で「国土研」理事長だった人、故人。若狭湾に一緒に行ったかな。京大理学部助教授だった佐藤文隆さん(現・名誉教授)とも一緒に行ったなあ。

この3月に起こった東電福島第一原発事故以来、原発の安全性については多くのことが判明しつつあるが、「原発設置」は地域住民のための(同時に国民全体のための)地域開発の観点からも極めて問題なものだ、ということを35年以上前に考えていたという記念・記録として明らかにしておきたい。なお論の進め方に「弱い」点があるのも気になる。

機会があれば、若狭湾岸の原発や自治体、住民に再度接して色々確かめてみたい。北海道の岩内にも行ってみたいな。衛生工学で助手をしていた青山君と行ったことあるなあ、科学者会議のシンポジュウムが岩内であった。帰りに積丹半島(しゃこたんはんとう)をぐるりと回り、雷電温泉で湯に浸かって日本海に沈む夕日を見たね。メロンも美味しかったね。 

「原子力発電所」と地域開発(1973年2月『公害と日本の科学者』より)

2011-08-24 | 京都の思い出(助手時代)
今から38年前、32歳だったころ、私は上記のような「論文」を書いた。

長年、書いたことは覚えていたが、内容は明確には覚えていなかった。今日、資料整理で出てきたので、私が「若い」頃、「原発」を地域開発の立場からどうみていたか、記録として再録しておきたい。「原発」認識の初期のころのものだが、基本的には現在の認識と大きく違ってはいない。

<はじめに>
 現在、全国の特に過疎地の海岸部で「原子力発電所」が建設されようとしているが、その安全性や温排水などの問題を中心にしてその地域住民は疑問を持ち「反対運動」が展開されている。そのような場合、設置をしようとする側から出される主張の一つとして「原子力発電所は地域開発に役立つ」ということがある。はたして、主張は本当かどうかを理論的に、また実際に則して検討し、それに対するに地域住民はどのように考えたらよいかについても検討してみるのが本稿の課題である。

<原発が「地域開発に役立つ」という主張の内容とその批判>
 では「原発」が「地域開発に役立つ」という主張の内容はどういうものであろうか。

いくつかに分けてみると、まず第一は、「原発」そのものの存在が地域経済にプラスになるという主張である。具体的には、従業員の地元採用により雇用を増すとか、「原発」の温排水を利用して養殖漁業をしたり、また地域暖房に役立てるなどということである。しかし、雇用増といっても高度な技術を必要とする「原発」の運転・管理に、一般に「原発」が建設されようとする農村、漁村地帯の労働力は対応しえず、せいぜい守衛とか掃除夫とかの雑役に若干の人が雇用されるにすぎないだろう。(注1)
 また温排水利用の養殖漁業であるが、放射能が温排水に皆無という保障はなく、もし極微量でもあるとすれば、食物連鎖で濃縮されて人の口に達する恐れが強い。さらに、地域暖房といっても、そのような過疎地での配管には莫大な費用がかかり、都市部の例(「泉北ニュータウン」)でもそれを行っているのは都心部のみでまだ一般住宅地にはほとんど及んでいないのであり、その実現は疑わしいと言える。
 注1)「原子力発電所の関電1号では、約800人の正社員は地元採用ゼロ、増設のため臨時に40人雇っているだけ。」(『朝日』72.5.12)

 「原発」が「地域開発に役立つ」という第二は、、関連する「公共投資」が増えて過疎対策になるという主張である。その良い例が道路建設である。福井県大飯町の例では、「原発」予定地の大島半島から町の中心本郷へ橋を架けるという地域住民の年来の念願が「原発道路」の建設という形で実現しようとしている。この点について、日本科学者会議京都支部の報告書は次のように述べている。「6年前に大島半島では、道路建設期成同盟がつくられ、県への陳情を繰返してきた。それが、1971年3月原発抱き合わせに幅員5.5m延長13kmの県道(本郷ー赤礁崎線)計画が決定された。工事費25億円のうち、県の負担は3億で、県道とはいっても、関電の建て替え代行建設である。・・・関電の代行によって建設されるという事態は、住民を当惑させ、安全性と利便性を天秤にかける危険な方式である、といわねばならない。この点で、県は、公共負担で、道路事業を実施することを住民に保障しなければならない。」(『原子力発電と住民』p.73)
また、「原発」そのものや道路・港湾等「付帯的公共工事」の増加に伴っての建設労働の増加が地域住民の収入にプラスになるとする意見もある。たしかに建設工事が雇用を増加させるが、そこでは高度な技術や大きな資本を必要とするという点から、大企業やその系列下の建設会社が建設工事の中心となり、従って建設工事の一部にしか地元資本が参加しえず、また地元住民も一部の臨時的不安定雇用を期待できるにすぎない。地域開発は「町民が期待する『生活道路』や『住宅』や『体育館』などの『町づくり』に、地元をよく知っているということや住民との結びつきもあるということから積極的役割も果たしうるという、町民のために町民とともに発展していく別の展望があることを忘れてはならない。」(『同上書』p.68)

 「原発」が「地域開発に役立つ」という主張の第三は「原発」から税金が地方自治体に入りそれが地域住民の福祉に役立つといっていることである。ところで実態はどうであろうか。「美浜町では、関電美浜1号の昨年度固定資産税は、1億2千百余万円だった。しかし、その75%相当分については、国から配分される地方交付税が減額され、”実益”は約3千万円.昨年春に東京電力の福島1号が動き出した福島県大熊町でも、今年度から固定資産税が入るが、同じように”実益”は5千万円ぐらいになりそう。・・・電気事業は、公益性重視ということで優遇され、地方税法により操業後5年間は他の事業の税率の3分の1、次の5年が3分の2.それに、地方交付税は市町村の財政需要額をはじき出し、収入の足りない分を補う目的で配分されるので、収入がふえれば交付税はへらされる。」(『朝日』72.7.22) 「原発」を積極的に誘致した市町村ですら、国に対して”核燃料消費税”と”原発所在市町村特別交付税”の新設を要求しているほどである。(『日経』72.7.22) 一方、「発電所の出来る地区の学校や道路の改修。また町民全体に建設に賛成してもらわねばならず、他の地区も同じように整備する必要がある。このままでは起債がかさむ一方で、財政はピンチだ」(『朝日』72.5.12)ということになるのである。

(続く、<現状で「原発」が地域に与えるマイナス>、<住民本位の地域開発と「原発」>)

まあ、実例として若狭湾の大飯、美浜原発を主に例にだしているが、東電福島第一も「チラッ」と出てきている。




奈良女子大・卒後30周年同窓会に出席

2011-08-22 | 奈良の思い出(助教授時代)
昨日、8月の第三日曜日、奈良女子大・卒後30周年同窓会(29期、1981年昭和56年3月卒)に出席した。今年は、今までのように奈良ホテルではなく、JR奈良駅西口のホテル日航奈良の4Fの「飛天」であった。
―昨年以前にも参加しているので、それらの様子知りたい人は、今頃のブログを見て下さい。―

12時から受付だが、少し早く11時半に着いて受付し、控室に案内された。出席者名簿によると、先生方は、全体で57人、文学部21人、理学部19人、家政学部17人(私含む)だった。

やがて色々な先生方が来られて、広い控室のあちこちに座って近況を言いあったりした。最初に日本史(近代史)学の中塚 明先生、社会学の間場寿一先生が来られた。中塚先生は去年は「日韓併合100周年」にあたり夏休みには講演要望が全国的にあって、この「会」に欠席だったが今年は出席、昔、文学部長もされた間場先生は、今年初めての出席だった。

間場先生は元気そうだが、昨年末の大掃除の折り、自宅庭で階段から落下して意識不明、救急車で搬送、腰の骨を折り頭も4針縫う大けがをしたとのことだった。まあ多くは63歳を過ぎ90歳まで出席の高齢者では、「健康」が大きな話題の一つであろう。間場さんには、63歳で定年退職したら、30年後までこの「会」に招待され参加しようとすると93歳まで生きている必要がある、と言ったら「なるほど、そういうことですな」と言われた。

やがて12時半から記念撮影、去年まで奈良ホテル前の外部空間で三学部一気に撮影だったが、今年はホテル日航奈良内部での学部ごとの撮影だった。これだとルーペでないと確認できないような小さな顔ではなく比較的大きな顔に写って良いと思った。

その撮影場は、「飛天」の間の隅だった。その間(ま)は、奈良ホテル最大の「大和の間」よりも大きく、円系テーブル39卓ならべてもゆったりしていた。ひょっとして来年から会場はこちらになるかもしれない。

13時から「恩師入場」で、卒業生に率いられて57人が入場、私は「まるでサッカーでの子どもたちと手をつないでの入場に似ているなあ」と言ってみた。でも手をつないでは貰えなかった。(陰の声:当たり前!だよ。何考えてるんだ!)

参加卒業生は、名簿によると文学部71人、理学部62人、家政学部72人で、今年は家政学部が一番多かった。

13時15分頃からオープン、開会の辞の後、「黙祷」(亡くなられた恩師、同窓生、ニュージランド大震災、東日本大震災で亡くなられた方々に黙祷!)だった。(ニュージーランド大震災では英語研修中の奈良女子大生の川端恭子さん(2回生、文学部)が亡くなった。)

「学長ご挨拶」は、野口誠之さんの挨拶、野口さんは1975年に理学部助手で赴任、爾来、奈良女子大一筋のようだ。学長3年目、法人化で苦労している話があった。又、女性教員が、30%を越えたと言う。(私の在籍していた頃は半分ほどだった。)

「乾杯」は、先生最長老の井上公正さん(90歳、哲学)が音頭をとられた。「まあ入国審査で「一寸待って」という要注意人物になってください」とご自分のイギリス、アメリカ体験を語られたが、意味が今一つとりにくかった。(93歳まで「乾杯役」頑張って下さい。)

「歓談」は15時15分まで、私のテーブルは、「先生」は、私と今井範子さん(教授)「元学生」は7人、住居学科は三卓で、もう一つは、「先生」は元2講座(住居管理学)の近藤公夫、疋田洋子さん(以上名誉教授)、第三卓では、先生は瀬渡章子さん(教授)、北口照美さん(佐保短大教授、元講師)で「住居学科元学生」は、全員で19人だった。1講座(住生活学)は3人、一番多いのは2講座、3講座(生活環境学)も何人かいたが、先生方が来ておられなくて一寸「残念そう」、4講座(住居意匠学)は瀬渡先生はおられたが、湯川利和先生が退官後すぐに亡くなられ、高口恭行先生も欠席で、こちらも「残念そう」だった。来年はどうなるかな。

「恩師お言葉」は、松生 勝さん(名誉教授、66歳)で中国での(正式)教授体験から「中国との付き合い作法」を示唆された。中国の現状の一端が分かった。

「佐保会(同窓会)理事長のご挨拶」は、川崎和子さん(名誉教授)、 「1981年に皆さんが卒業した時は比較的就職も良かったが、その後10年刻みで大きな事があった、1991年頃にバブルがはじけ、2001年には(9.11事件が起き、かなと思ったが違うことを言われて面食らった)・・・、そして今年2011年は東日本大震災、東電福島第一原発事故、で佐保会として義捐金募集をしている、奈良女子大卒業生の横のつながりだけでなく佐保会を通じて縦のつながりもつけていこう。」と説得力をもって訴えられた。

最後に閉会の言葉で実行委員長の東井浩子さん(生物学科卒)が、しっかり締めていた。


教員参加者名簿(順不同、敬称略):
文学部:亀井雅司、遠藤邦基、奥野陽子;田村しゅく、山本邦彦;中塚 明、佐藤宗諄;金 文子;戸祭由美夫;間場寿一、新 睦人;井上公正;高橋史郎;松井春満;清水御代明、土居道栄;大築立志、小田切毅一、丹羽・・、河本洋子、山本徳郎

理学部:赤川安正、吉岡恒夫;野口誠之、川崎和子、見目正克、藤原 昇;奥村晶子、山本正夫、木村 優、海崎純男、岩井 薫;高木由臣、清水 晃、大石 正、高橋壮二、池口信子、磯辺ゆう、野口哲子、菅沼孝之

家政学部:遠藤金次、梶田武俊、河合弘康、丸山悦子、廣瀬正明;相川佳予子、中川早苗、松生 勝;近藤公夫、疋田洋子、西村一朗、今井範子、瀬渡章子、北口照美;石川 実、今村幸生、竹田美知

本同窓会の元教員としての楽しみ方、味わい方私案

・出来るだけ毎年出れるまで出る、そのことによって健康維持の励みになる。教員同士で情報交換(健康上の留意点、学問上の興味ある点、最近読んだ面白い本ー今回「一冊」読もうと思う本の示唆をえた。)
・会いそうな先生を予測し日ごろから聞いてみたいことを用意しておく。
・他学科、他学部の先生とは、パーティが始まると中々「遠くまで」出向いて話しにくい。何故なら、その学科の同窓生との会話を阻害するからだ。だから、受付前位に行って控室で話をする。質問して話を聞く。

・卒業生名簿を同窓会誌よりコピーして持って行き、顔と名前を出来るだけ一致できるように・・・(30年ぶりの人もいて、同じゼミ以外は、なかなか難しい)
「昭和史年表」(そのうち「平成史年表」も)調べて、彼女らの学生時代の世相を復習するか、間に合わねば持って行って彼女らとチェックする。―今回、川崎和子さん(同窓会理事長)は、調べてきておられて挨拶された。―
・卒業生の生活ぶりを出来るだけ聞く。(最近の仕事上も新しいことを聞いて刺激を受ける)
・「地域人間」としての経験も話して、将来の参考に供する。

大体、先生方にも卒業生にも「最近、どうしておられますか」と聞かれるのが標準質問なので、予め答を用意しておくのが良いと思った。

同窓生の皆さん、元気の限り毎年今頃に「報告ブログ」書く積りなので、出来れば読んでコメント下さいね。(これにも)

同時代人物交流史の面白さ

2011-08-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
録画してあった「三世代史」のうち金田一京助、春彦、秀穂三代と杉山茂丸、夢野久作、杉山龍丸三代の2本を見た。未だ生きているのは金田一秀穂さんのみである。杉山三代がそう繋がっているとは知らなかった。

これらを見ていて、同時代の他の人物との交流が本人の自分史を厚みのあるものにしているなーとつくづく思う。例えば、金田一京助は同郷の石川啄木と一つ屋根の下で暮らしたことがあり、そのことも京助がアイヌ語研究、ユーカラの翻訳に没頭していく契機の一つになっていったり、民俗学の柳田国男に「応援」されて更に邁進、またアイヌ人の何人かに出会って大きな影響を受けたりする。

こういうことは、歴史的に考えても当然のことで、どんなに「偉い」人物であっても、また「普通の」人物であっても親兄弟、先生の他に多くの友人や同時代人から影響を受ける のである。

これらを丹念に見ていくと、へーそうだったんだ、ということが多々分かってくる。最近、更に同時代人物交流史が面白いと感じるようになった。

ヨーロッパは色々

2011-08-17 | 旅はたびたび
日本の近代、現代を考える時、ヨーロッパとの関係が重要だ。

今日、たまたま『オランダ・ベルギー』という本を読んだ。オランダには何度か行ったことがあるが、ベルギーには未だ行っていない。行ってみたいな、と思っている。

元々ベルギーはオランダの一部だった。現在でも北半分はオランダ語を喋り、南半分はフランス語を喋り、ブラッセルは丁度中間に位置し、二つの言葉が通用する。

北半分はプロテスタントでゲルマン系、南半分はカソリックでラテン系である。まあベルギーは民族とキチンと結びついていない「人工的国家」である。

ベルギーは、チョコレート、ビールの「中心」である。又EUやNATO本部があるように、ある意味ヨーロッパの「中心」とも言える。

ヨーロッパは色々と思うのは、ベルギーが元々オランダであった時代もあるように、ノルウエーはデンマークであったし、フィンランドはスウェーデンであったのだ。

そのオランダは、又スペインであったこともある。

このようにヨーロッパは合従連衡、付いたり離れたりしてきたのが歴史である。日本にいては理解しにくい経過であり、事実である。

じっくりみていきたい。

天竺へ(三蔵法師3万キロの旅)を観る

2011-08-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、午後、妻と二人で奈良国立博物館へ、「天竺へ(三蔵法師3万キロの旅)」(=玄奘三蔵絵)を見に行った。日本で言えば「古代」の凄い旅である。

この旅は、後に伝説となり、中国で『西遊記』が生れた。

ところが、この絵巻は、日本の絵師・高階隆兼が鎌倉時代(14世紀)に描いたもののようで、仏教発祥の事実は唐・天竺にあるけれども、後世、それらを日本人が想像し描いたのだ。そこが凄い。

最後に1800円小遣いをはたいて公式冊子を買った。今後、じっくり眺めてみたい。

こういう風に中国とインドは細い糸で繋がり、それが又、日本にも繋がったのだ。

まあ更に西に行って西アジアやヨーロッパにも往来があったに違いない。

世界遺産、世界史との繋がり

2011-08-15 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
テレビの録画した「世界遺産 1万年の叙事詩」の最後の2本を見た、19世紀と20世紀である。

世界遺産は1960年ごろ、古代エジプトのアルシンベル神殿がナイル川のアスワンハイダムによって湖底に沈んでしまう状況から始まった。

それは、エジプト住民のためばかりでなく世界の人々と「繋がっている」ことによって正に世界遺産となったのだ。

現在、900余りの世界遺産を逍遥し、相互の繋がりを広く深く追求することによって初めて世界史が成り立つと言えるかもしれない。

ところで、このシリーズは、正岡正剛さん(編集工学者)とタレントの華恵さん(東京芸大学生)が案内役だ。正岡さんが理論的に「編集し」説明、華恵さんが感心し突っ込んでいる。

彼女は、「ハーフ」である。自分で母親はアメリカ人、しかし「純粋な」アメリカ人というのはいなくて、殆どヨーロッパから渡って来た人である。母親は彼女に、「私はゲルマン系よ」と言ったらしい。

長い目では、こういう風に皆「世界人」になっていくのであろう。

小学校4年生の通知票

2011-08-14 | 金沢の思い出
昨今、資料を整理していたら私の金沢市立十一屋町小学校の昭和26年度(4年生)の通知表(コピー)が出てきた。(担任は吉村不二子先生、校長は藤田清正先生である。)60年も前のことである。

教科についての5段階評価、出欠状況、科外活動、身体状況について書かれている。

教科(教の字も「メ」のつく字)では国語(国も「國」になっている)から始って社会、算数、理科、音楽(楽は「樂」になっている)、図画工作、家庭、体育となっており、家庭(科)のみ評価が入っていないので、4年段階ではやっていなかったのかな。家庭科で豚汁などつくり、運針もやった記憶があるので、5,6年生で家庭科があったのかな。

各教科では、それぞれ3又は5つの評価項目(國語のみ5つ)があり、5段階評価である。
年間を通じて、國語、社会、算数、理科は「5」であり、音樂、図画工作と「4」レベルとなり、体育は「3」レベルである。

出欠状況では、年度末の3月に3回休んでいる、多分「風邪」だ。

科外活動は、「演劇クラブ」になっている。

身体状況では、身長131.4cm、体重は26.6kg・・・である。未だ「痩せひょろひょろ」である。

で、この夏、名古屋に住む孫が3人が両親(母親が私の娘)とともにやってきた。長孫が男で中三、次孫が女で小四、末孫が男で四歳である。長孫と次孫は一学期の「通知票」(小学校は「あゆみ」、中学校は「学びのあしあと」と名付けられている。一歩一歩前進する、というイメージだ。)をもってきた。

そこで、小四の次孫に私の小四時の通知票を見せてみた。彼女は丁度10歳で私と60歳違う、つまり干支は同じなので分かりやすい。彼女の「通知表」の教科の並び方順も私の場合とまったく同じで「家庭」は最初から入っていない。各教科の評価項目も国語は5つだが他は4つとなっていて、私の場合より1つ増えている。評価は、何段階なのか分からない。

彼女は、1教科を除き◎、1教科は○となっていた。◎が「5」とすると、私より「相対的に」頑張ったということになる。「頑張ったね」と声をかけておいた。彼女も60年前の年期ものの「通知票」を興味深く眺めていた。


立法だけでなく行政、司法の民主化も

2011-08-13 | 時論、雑感
民主主義と言うと、立法院の衆議院や参議院の選挙に投票することがある。

まあ立法、行政、司法の三権のうちトップに位置付けられている立法を国民がコントロールする行為で、それはそれで良い。

昨日の『朝日新聞』で、政治哲学者の國分 功一郎さん(37)が、首相の菅 直人さんは、最後の最後、行政の民主化を制度の改革という形でやったのでは、と「評価」している。

確かに最近、行政関連で、自助、共助、公助と三つあるうち自助、共助を「もっとやれ」みたいな論調がある。公助(行政)の力が衰えているためだ。

しかし、公助(狭い意味の行政)に住民参加を強めることが、行政民主主義の大本ではないのか。一歩一歩進めていきたい。司法への参加も大事であろう。

これらは、数年に一回の選挙権の行使の立法民主化参加ではなく、毎日のことなのだ。(でも、昨日は、地域福祉推進ネットワーク会議に行けなかった・・・)

だが、民主主義認識に一歩「進化(深化)」があったかな・・・

奇蹟?!の個人史

2011-08-11 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
最近、『奇蹟』(東京図書出版会刊)という「個人史」的な本をざっと読んだ。著者は、荻田征美(おぎた まさみ)氏である。荻田さんは、面識はないが、私と同じ1941年(昭和16年)生まれ、北大医学部卒のお医者さん、私の妻が荻田さんの奥さんと大学時代の友人である。

本によると、荻田さんのお父さんも北帝大医学部出身で、軍医(中尉)となり満洲に出征、満洲で弟と妹が生まれた。戦争で父親が死んでもおかしくない状況を偶然も働き乗り越える。しかし、敗戦後、お父さんはソ連に抑留、残された家族4人(母親と子ども3人)は、母親の周到な準備の下、色々な出来事を越えて1946年(昭和21年)8月16日に日本の佐世保に帰還。

その後、一旦、荻田さんの父方祖父のいる福井の三国に寄り、北海道の伯父の所に「帰りつく」。父親はソ連・ウズベック共和国のタシケントの捕虜収容所から1948年(昭和23年)夏に無事北海道に復員。

・・・「「お帰りなさい、お父さん!」私達は、漸く終戦を迎えることができた。
事故や病気などで、家族の誰一人失うことなく、小さな荷物一つさえ略奪されることなく、無事、皆、故郷へ辿り着けた。これを奇蹟と言わず何と言うか、私には判らない。」と荻田さんは書いておられる。(33頁)

とにかく、戦乱に巻き込まれている、食料や物資が不足している、略奪の危険がある、色々な事故(列車や船など)が起こりやすい、結核その他伝染病にかかる恐れもある等々10年足らずの間は回りは危険だらけであった。そこで命を落とす、負傷する、家族ちりじりばらばらになる例は無数にあった。その事例も紹介しておられる。荻田さん一家が、それらを乗り切ったのは、やはり「奇蹟」ではないかと思わずにいられない。

私も荻田さんと同じ歴史的時間を同い年として体験しているが、私は「内地=金沢」の母方祖父母宅に留まり、私の父は職業軍人として母と共に満洲に渡り、そこで妹が生まれ、やはり戦後に両親と妹は無事金沢に帰りついた。両親に詳しく聞いた訳ではないが、両親と妹が無事帰れたのも「奇蹟」であったろうし、私が空襲や原爆でやられなかったのも「奇蹟」なのではないか、と思う。

そして、現在まで交通事故にも遭わず、重い病気にもならず、大地震や大津波にも原発事故にも直接遭わず「古希」まできたのも「奇蹟」ではなかろうか。

歴史は、世界史と自分史のつながり・・・

2011-08-10 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
宮崎市定さんの本を玩味している。(『アジア史概説』など)「歴史は、すべからく世界史」という考え方は、魅力的だ。我々が習った四大古代文明ー西から東へエジプト(ナイル川)、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川、インダス、黄河(長江も)ーにも、並列的なものではなく時代的順序、関連性があるのでは、として元々は、シリアの辺りから発祥、との説も興味深い。

まあ、昔の高校の分け方では「世界史」と「日本史」に分けられていたが、「世界史」は並列的に四大文明の説明も含むが、全体として西洋史中心、ところどころ東洋史も出てくる。「西洋史」に対して「東洋史」は、明治以降に日本が始めた分け方である。

だから戦前の旧制帝大の歴史学の講座も、国史(日本史)、東洋史、西洋史の三つに分かれていた。宮崎さんも京都帝大の東洋史講座の出身で、担当だった。そこで、宮崎さんは東洋史(主に中国史)に足場を置きつつ、アジア史、世界史へと視界を広げていかれたのだ。翻って日本史の見かたも専門の日本史の方々とは一風違った見方をされていて面白い。

で、最近、世界遺産というのが出てきて、これらは「世界の人々に意義ある遺産」という捉え方で、それで良いと思う。そして、世界史はアジア史やヨーロッパ史などにつながり、アジア史は西アジア史、東アジア史などにつながり、東アジア史が中国史、朝鮮史、日本史などにつながる、という捉え方がいいのではないか。

これらの「空間史」に、当然、時間的切れ目が入る。

日本史は、また更に地域史につらなっていくだろう。(現代)自分史もこういう大きな「枠組み」の中で考えてみるのもいいのではないか。