西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「世界を変えた10冊の本」より

2011-09-30 | 生活描写と読書・観劇等の文化
池上 彰さんが『世界を変えた10冊の本』という本を書いたようだ。

その10冊とは、池上さんは次のように上げているようだ。

『アンネの日記』、『聖書』、『コーラン』、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウエーバー)、『資本論』(カール・マルクス)、『イスラーム原理主義の「道しるべ」』、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)、『種の起源』(チャールズ・ダウイーン)、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)、『資本主義と自由』。
括弧内に著者名を書いたのは、私。最初の三冊は、ほぼ明らか。聖書は旧約なのか新約なのか。『イスラーム原理主義の「道しるべ」』と『資本主義と自由』は直ぐ著者の名前をあげられない。


なんとなく「池上さんの傾向」が感じられる。キリスト教とイスラム教、マルクス主義と資本主義、進化論とエコロジーにまとめられるかもしれない。

ならば、仏教に「これ」という本はないのか。儒教の『論語』などはどうなるのか。
自然科学では『種の起源』だけだがニュートンやアインシュタインの著書は入らないのか。「二重螺旋」(DNA)の話はどうなのか。

日本人の書いた著書では、世界的に影響を与えたものはないのか。

上の著書で言うと、マルクスが『資本論』を書いたからこそ、その後にウエーバーが『プロテスタンティズム・・・』やケインズが『雇用、利子および・・・』を書いたのであり、『資本主義と自由』もそうに違いない。だから、ここから、更に源流の一冊に絞ると『資本論』になるかもしれない。

明日の朝、NHKプレミアムで池上さんが直接、解説するようだ。

NHKって高給取りなのだな・・・。

2011-09-28 | 時論、雑感
今日、ラジオで国会の参議院予算委員会の議論を聞いていて「ほー」と思うことがあった。

民主党の議員が、NHK職員の平均年収を聞いたら、元NHKにいた厚生労働大臣(女性)が、大略「公務員、民間企業の年収は概略600万円ほどだが、NHKは1100万円ほど」と言ったのだ。

総理以下聞かれた大臣全員が「知らなかった、多すぎる」という感想を述べた。

これじゃ、NHK視聴料の値上げも論外だし、職員の平均給与も下げるべきだろう。

こういう質問は良い、他の大新聞社職員の年収も調べて欲しい。

在日中国人への一つの認識ー野村 進さんー

2011-09-28 | 時論、雑感
今朝、ラジオ深夜便の「明日への言葉」(4時台)で、野村 進さん(ノンフィクション・ライター、拓殖大教授、55歳)の話を聞いた。

最近『島国チャイニーズ』という日本にいる中国人のインタビューによる本を書かれたようだ。中国人で日本に来ている人々は「日本が好きだから来ているのであって、そういう時に「飲み屋」でアルバイトしている中国人留学生に対して名札を見て「(日本語通じにくいから)日本人と(担当)変わってよ」などという日本人に留学生はイタク傷つけられている」、と言う。
日本で傷ついて中国に戻って「反日」に追いやるより温かくつつんで「親日」を深めることとどちらが良いか明らかでは・・・、と言う。

日本の大学には中国人の教授、准教授が2600人もいる、と聞いてビックリした。実はアメリカにいる中国人教授、准教授より多くいて「世界一」という。

日本に来て一年で「日本語検定一級」になり三年で「芥川賞」をとった中国人もいる。2008年に楊逸(ヤンイー)さんの『時が滲む朝』(文學界6月号)が選ばれた。
完璧な日本語を話す「在日中国人」も多くなっていると言う。
東京の池袋の辺りは中国東北部三省(旧満洲)からの中国人が多くなって来ているようだ。知らなかった。

最近、神戸の「中華学校」に、日本人も多く進学しているらしい」。そこの校長は「昔の日本のムラの学校を理想としているという。低学年と高学年がくんずほぐれつ切磋琢磨していて、イジメは皆無と言う。外国語は英語と中国語を教えている。日本の有名高校や有名大学にも多く進学しているようだ。昔のインターナショナルスクール(米英校)への流れが最近は「中華学校」に流れているのでは、とのことだ。将来は、英語も大事だが中国語も同様に大事という認識がベースにあるだろう。

これも知らなかった。

ただ東北地方などに来ている「中国人妻」は、余り上手くいっていないようだ。男性側の思惑と女性側(中国人)との思惑が違っているかららしい。

野村さんは、「インタビューする毎に人間性の練磨がある」という気持ちと言う。真面目なインタビュアーという感じだった。

今後二つの仕事をしたい、とのこと。一つは「認知症」に光をみる施設にいる患者や関係者へのインタビュー(お母さんも認知症のようだ)、もう一つは「日本の森林」探訪ー日本列島の7割は森林ーだ。期待したい。

沖縄の普天間、福島での放射性物質の置き場

2011-09-27 | 地域居住学
沖縄の普天間基地は、県外ないし国外へ、というのが沖縄県民および良識派国民の意見であって沖縄知事も、そのように言っている。

政府は(野田総理は)米国の要求に従い普天間を辺野古に移設と言う破綻した案をごり押ししようとしている。これは全く無理というものだ。

とにかく野田総理は「日米同盟の深化」と言っているが、2001年の9.11.からの米国の世界対応は完全に破綻して(イラクに対する事実認識も違ったし、アフガンの取り扱いも失敗と思う)、世界の動向は、大きく動いている。アフリカでの様々な動きもそうである。米国に付いて行ったら外交は上手くいく、という時代ではないのである。

やはり、ここで沖縄基地は米国に引き取ってもらうのが歴史に沿うやり方と思う。

ところで、福島の東電第一原発の放射性汚染の除染について、除染した土壌をどうするか、これも政府は福島でなんとか、と言っているが、これも問題であるだろう。(国会予算委員会で、志位和夫日本共産党委員長の質問を聞いて)在日米軍を沖縄に「押し込める」のと同じなのではないか。

どうしたら良いか、きっちり考えるべきだ。

ダルガス父子の植林事業(「デンマルク国の話」)より

2011-09-26 | 地域居住学
昨日のブログに内村鑑三の「デンマルク国の話」のさわりをごく簡単に書いた。

で、昨日は、100年も前に「自然再生エネルギー」の重要性と可能性にふれた内村鑑三の偉さを述べたのだが、今日は内村鑑三が感心したデンマークのダルガス父子のユトランド荒野における困難を極め最後に息子の代で成功する植林事業の話をしてみたい。

 1864年(私注:明治維新1868年の4年前)にデンマークはドイツ、オーストリアと戦って破れ南部最良の二州シュレスウイッヒとホルスタインを割譲せざるをえなくなりました。

デンマーク人は、皆、悲嘆にくれ今後どうしていったら良いか分からなかったのです。

そこに戦争中から「もしデンマークが負けたら戦後どのようにして立て直すか」考えていた工兵士官エンリコ・ダルガスがいたのです。(戦争は「勝ったらどうするか」より「負けたらどう立て直し復興するか」がはっきりしていることが大事!)

「ダルガス、年は今36歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終わらざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大部分を占むユトランドの荒漠を化してこれを沃にょうの地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。(78頁)」

「ユトランドはデンマークの半分以上であります。しかしてその三分の一以上が不毛の地であったのであります。面積一万五千平方マイルのデンマークにとりましては三千平方マイルの広野は過大の廃物であります。これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを内にありて償わんとするのがそれがダルガスの夢であったのであります。

しかしてこの夢を実現するにあたってダルガスの執るべき武器はただ二つでありました。その第一は水でありました。その第二は樹(き)でありました。荒地に水を漑(そそ)ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事はなるのであります。(79~80頁)

灌漑には比較的容易に成功したが、難関を極めたのは、どういう樹種が適しているか、であった。

「植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈(あら)わす樹はありやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当たりましたのはノルウエー産の樅(もみ)でありました。(81頁)」

で、ある程度成育するが、やがて枯れてしまう。これに対して、アルプス産の小樅(こもみ)をノルウエー産の樅の間に植えたら、両種はあい並んで成長し枯れることはなかったのです。ところが、一定まで成長するが、そこで止まって大木にならなかったのです。

これに対して長男のフレデリック・ダルガスが見事、ある事実を発見し解決したのです。

「大樅がある程度以上に成長しないのは小樅をいつまでも大樅のそばに生やしておくからである。もしある時期に小樅を切り払ってしまうならば大樅は独り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を試してみましたところ実にそのとおりでありました。(82~83頁)」

植林の効果(1)木材の収穫
(2)ユトランドの気候の温和化(小麦、砂糖大根、北欧産の穀類、野菜の収穫)
(3)海岸より吹き送られる砂塵の荒廃を止める
(4)洪水の害をのがれる
(5)「しかし、木材よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。デンマーク人の精神はダルガス植林成功の結果としてここに一変したのであります。失望せる彼らはここに希望を恢復しました、彼らは国を削られてさらに新たに良き国を得たのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己れの国を改造したのであります。(85頁)

どうですか。日本は、台風12号、15号によって国土に多大の土砂崩れを起こしている。これは、杉、檜ばかり戦後植えてきたという植林の「誤り」も大きいのではないか。デンマークのダルガス父子のような土壌や水や樹種を徹底的に追求するよう、日本の林学者、林業研究者、土壌学者等の奮起を促したい。

デンマルク国の話(内村鑑三)より学ぶ

2011-09-25 | 地域居住学
岩波文庫の青119-4の内村鑑三著『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(1946年10月10日第一刷発行、・・1995年4月5日第65刷発行による)を今朝早く手に取った。そのうち、「デンマルク国の話」を紹介してみたい。

後ろの「解説」(鈴木俊郎さん1976年改版)によると、「「デンマルク国の話」は、明治44年(1911年)10月22日(今から、ほぼ100年前に)、当時講演者(私注:内村鑑三)自身の聖書講堂であった東京柏木の今井館において行われた講演でありますが、それを講演者みずから文章として、翌11月、当時彼が主筆であった『聖書之研究』第136号に掲載したものであります。「後世への最大遺物」より17年後、著者51歳の時であります。
 本文の内容は、デンマークが、1864年いわゆる第二シュレスウイヒ・ホルスタイン戦争の結果プロシアとオーストリアに対しシュレスウイヒ・ホルスタイン二州を割譲させられたのち、戦敗国の戦後の経営としていかなることを行ったか、その国民は戦いに破れていかに精神に破れなかったか、国民が宗教的信仰に拠って立って自然は彼らに対しいかに無限の生産力を示したか、善き宗教、善き道徳、善き精神があって国は戦争に負けてもいかに衰えなかったか、そういうことが、ダルガス父子の植林事業の叙述を主軸として、述べられているのであります。」(106頁)とある。

大変薄い本なので是非、手にとって欲しいものだ。定価310円である。

まあ、内村鑑三は、日本人として当時、天皇制と言う「狭い」日本の制度を越えたキリスト教に立脚したために毅然として天皇制の下での日本政府の方針に終始批判的に対応していたと思う。私は、キリスト教を信ずるものではないが、戦前においては、恐らく少なくともキリスト教とマルクス主義が思想的にも理論的にも天皇制を越えていた、と思う。

内村鑑三は、短い「デンマルク国の話」のまとめの部分で三つのポイントにまとめているが、第二点として、ダルガス父子の行った植林事業に始まるデンマークの事業に対して、次のように言っている。

「第二は、天然の無限的生産力を示します。冨は大陸にもあります。島嶼(とうしょ)にもあります。沃野にもあります。沙漠にもあります。大陸の主(ぬし)かならずしも富者ではありません。小島の所有者かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝さるの産を産するのであります。ゆえに国の小なるはけっして歎く(なげ)くに足りません。これに対して国の大なるはけっして誇るに足りません。冨は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にあります。海の波濤(なみ)にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく冨源であります。かならずしも英国のごとく世界の陸面の六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマークで足ります。然(しか)り、それより小なる国で足ります。外に拡がらんとするより内を開発すべきであります。」(86~87頁)

どうだろうか。今様に言えば、太陽光発電、潮汐発電、風力発電、地熱発電が全てきちんとあげられている。100年前に日本が内村鑑三の指摘を受けて、徐々にでも「再生可能エネルギーの開発」に、それこそ「100年の計」で取り組んでおれば、現在、日本の安全なエネルギーは万全になっており、世界の模範になっていたにちがいない。

内村鑑三は、当時デンマーク対英国を小国対大国のモデルにして述べているが、これも今様に言えば、小国・日本に対して大国・アメリカ、中国、EU、インド、ブラジル、ロシアなどをイメージ出来るだろうか。「大国」の国策を真似するに及ばないのだ。

歴史に「もし・・・たら」がないとしても、そういう先達が明治にいたことを胸にひめ、あと100年間、日本人らしく真面目に取り組めば、脱原発を先にスタートするドイツに追いつき追い越すことも夢ではない。


隈 研吾さん(建築家)の話を聞いて

2011-09-23 | 地域居住学
昨日、ラジオ深夜便の「明日への言葉」で建築家・隈 研吾さん の話聞いた。隈さんは1954年生まれ57歳か。東大大学院教授、前に慶応の藤沢キャンパスで教授だった。・・・

以下、→は、隈発言の私の要約メモ。

→(21世紀の建築、まち)派手より地味へ(私注:この地味という言葉は、そのまま「地の味」と考えたら良いのではないか。)大より小へ、(自然に)「勝つ」建築から 「負ける」建築へ、超高層から低層へ、

→1980年代に事務所をつくり、「目立つ」建築を創ろうとしたが、1990年代のバブル崩壊で東京では一つも仕事がなく、地方でやらしてもらい勉強になった。大学で習ったコンクリートと鉄とガラスの建築から自然素材の建築へ、と転換した。

→根津美術館の竹や和紙の建築(一度、体験してみたい)

→歌舞伎座・・江戸時代の雰囲気の復興(町に開かれている)、後ろの高層建築は大分下げて(セットバックさせて)、窓がなく漆喰を使って、歌舞伎座の白の屏風のように考えた。この銀座―歌舞伎座―築地という「流れ」は大切にしたい。「設計」にあたり歌舞伎役者との話し合いが勉強になった。(役者にとって舞台裏の楽屋が大事、彼らの要望は、舞台から楽屋に向かう廊下の「足触り」が大切、「重い」衣装を着て、「硬い」舞台で足踏み演技をした後で楽屋に帰るのだから「足に優しい」廊下が欲しい・・・これで廊下の床構造、仕上げ、質感を大いに勉強させてもらったとのことである。隈さんは、建築家は図面で廊下の幅とかを考え、材質も考えはするが、役者さんの実体験を聞いて勉強になったと言う。(私注:人間は足二本で重力に抗して立って歩いているのだから、その時が、他の座ったり寝たりする時より体に最もきつい訳だ。建築家は、ともすれば視覚中心で進めるが、そこが死角で、最も基本的な触覚を先ず考慮することが大切、ということを示していると思う。)

→東京には地形上多くの襞があって谷や丘や阪が無数にある。東京一本で考えるのではなく「東京は千のむらで成り立っている」と考えて、そのむらに相応しい建築や「都市計画」に取り組むべきだ。(私注:まあ一つのむらが一万人と考えると、日本は一万のむらで成り立っていると考えて、「国土計画」のベースとして一万のユニークでそれこそ地味な「むら計画」や多彩な建築を考えたら良いのではないか。

→やがて出来上がる新潟県長岡市役所に「注目」して欲しい。

→日本の建築の職人技は世界最高ではないか・・・。

→日本はヘルシーな寿司を世界に普及したように、ヘルシーな癒される空間を世界に発信したらどうか。

→建築技術者というより「生活の達人」になる要がある。(私注:「新建」、西山先生みたいなこと言っているな―と思った。やはり「真理」は浸透していくか。?!

→9月25日から東京で開催の3年に一度の「建築のオリンピック」「世界建築家会議」に期待して欲しい。(隈さんは、学生コンペの審査委員長らしい。)

隈さんの話は、昔、奈良女子大に招いて(上野邦一さんの紹介)学生達と一緒に聞いたことがあり、その後、仙台からの帰りに東北新幹線で乗り合わせ駄弁ったことがある。隈さんの慶応時代だ。新書も四冊ほどもっている。期待して見守っていきたい。

生活空間の基礎(ベース)について

2011-09-22 | 地域居住学
西山夘三先生は、生活空間の科学を目指して奮闘された。西山流小空間の代表である住宅レベルの生活空間については、戦前からのご研究で基本認識が出来たともいえる。

それを越える西山先生のいう「大空間」認識については、構築途上で亡くなられたのではないか。我々「弟子筋」や関心ある後進の大きな課題と言えよう。

それらを考える上で、生活空間の基礎は、何か、どうしてそうなのか、について拙論をメモしておきたい。

我々は他の地表上の万物と同じく引力によって地球表面にいやおうなしに引き付けられている。そのため二本足で立った人間の足の裏と地表(人工的には床)との間に大きな力が働いている。座った場合はお尻と椅子等の座面にも大きな力が働いている。寝る形をとるならば、後頭部、背中、お尻、足、腕等と寝ている材にも大きな力が働く。

いづれにしろ体重を足裏二つで支えるか、お尻で支えるか、人間の裏面全体で支えるかを考えると、寝た形が一番力が分散し、楽な姿勢である。

こういう人間と直接に接する空間(材)が基礎的な「小空間」と言えるのではないか。

以上では、手や指のことを余り言わなかったが、足、尻、背中、後頭部だけでなく手や腕や指に触れる所も「小空間」といえる。

これらの形や材質を考えてみると、形は人間肉体の形にそったものにならざるをえない。椅子の座面だけでなく、自転車のサドル面、浴槽面、枕面などを考えると分かるであろう。手でつかんだり指で握るものについて考えると断面が、茶碗や手すりをみても分かるように○である。

こういう風に、人間が接する空間(材)ー「小空間」ーは、人間のように曲面か、その中でも○となる。引き続き、「中空間、大空間」についても分析・説明を試みていく。


脆弱化しつつある日本国土観察

2011-09-21 | 地域居住学
台風12号で、紀伊半島三県で土砂崩れ被害があったと思えば、今度は台風15号による名古屋市百万人避難などである。大河である庄内川も氾濫した。天白川も溢れた。
都心では栄の地下街にも水が付いた。娘家族が熱田区に住んでいて過去の伊勢湾台風の時、近くの「堀川」が氾濫した「実績」もあるので気が気でなかった。

この分だと台風のコースにより大阪や東京を直撃すれば、更に凄い水害となる恐れもある

今年は、3月の東日本大震災による大津波被害、原発大事故もあった。これらを「通し」で見ると、日本人は、「何かと便利な水辺、河口」に住み、場合によって埋め立てまでして「可住地」を増やしてきた。でも、そこに津波が襲い、洪水が襲い、埋め立てた土地が地震で液状化したのである。

可住地は、即「適住地」ではないのである。治山治水のための植林も「方向を間違えてきた」と言えるのではないか。再考すべきである。堤防もより高く頑丈にすればいいというものでもない。

最近読んだ西田正規著『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫)の「まえがき」書き出しは、 「不快なものには近寄らない。危険であれば逃げていく。この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。」となっている。玩味すべき言葉である。

西山夘三の生活空間論について

2011-09-18 | 地域居住学
最近、西山夘三著作を再度しっかり読み返したいと考えている。戦前の研究活動と成果については、西山先生自らが勁草書房から「生活空間の探究」上下二冊『建築学入門』(1983年3月)『戦争と住宅』(1983年7月)を刊行して自ら明らかにしている。
しかし、戦後については、まとまって振り返り、展望する「もの」がない。

1964年ころまでについては、西山先生自身が、書いているものがある。1964年にオランダで客死された絹谷祐規(きぬたに・すけのり)助教授の著作集(『生活・住宅・地域計画』勁草書房)の長い「あとがき」に絹谷先生の活動史にふれながら、戦後の西山先生ないし西山研究室の研究活動が大略述べられている。

いまひとつは、西山先生が京大を定年退官された1974年5月に行われた「記念講演」(『生活空間の科学』)では、戦前からの住宅計画の研究も含め、特に「地域生活空間計画学講座」教授になられて以降の活動にふれられている。

その中で、住宅(建築)を「小空間」(分かりやすくいうと「起工式、完工式がきちんとあって出来上がりの「はじめ」と「おわり」がはっきりしている)、地域(コミュニティ)や都市、広域、国土などを「大空間」(全体の起工式、完工式はなく、いつの間にか変化している)と捉えられ、それは亡くなるまで、そのようであったと思う。

私も、生活空間の大きさによって性格が違うから分けて捉えたほうが良いと思うけれど、西山先生の「二分法」と少し違って、「小」「中」「大」と「三分法」で捉え、「中」も三つに分けたらどうか、と考えています。(以下の如し)

「小・中空間」・・・部屋や家→主として家族で決定できる。
「中・中空間」・・・通りや街区→地域住民の合意が必要。
「大・中空間」・・・町や都市等→もっと多くの市民全体の合意が必要。

以上、西山先生の1964年文書、1974年文書も導きの書としながら「生活空間全体」の筋道を明らかにすること、これは「西山学派」(というものがあるとすると)に課せられた課題と思います。

また、「空間計画学」全体に視野を広げると、1966年頃以降、西山研究室から分かれた巽研究室(巽 和夫先生主宰)、上田研究室(上田 篤先生主宰)、そして三村研究室(三村浩史先生主宰)での取り組みも位置づけて発展を跡づける必要がある、と個人的に考えます。

私は1966年頃には、個人的には、巽研究室を「建設・生産学派」、上田研究室を「空間学派」、三村研究室を「生活学派」と位置づけていました。

まあ、これら全体をやるのは、「大風呂敷」過ぎるのでボチボチやっていったら、と思います。

西山夘三「昭和のすまい展」の受付等に行く

2011-09-17 | 地域居住学
9月15日に大阪梅田スカイビル(ツウィンビル)の最上階(40階)の空中庭園展望ホール(屋内)で19日まで行われている西山夘三先生の写真からの「昭和のすまい展」に西山文庫から、ということで12時半頃に行った。(展示会は13時から18時)

イースト・タワーの空中庭園行き入口から入り3階までエスカレーター、3階から35階まで高速エレベーター、一寸私は「高所恐怖症」なので、手すりをしっかりつかみ余り下を見ないでおく。35階から39階まで長いエスカレータ。最後の1階は、別のエスカレーターだった。

既に事務局のTさん(女性)が既に来ていて準備中、やがて「手伝い」に近畿大学学生のSさん(女性)が来て私と3人が今日の担当である。この3人と言う「異色の組み合わせ」で、お客が来ない間、あれこれ駄弁った。Tさん(女性)は関東の出身、中・高と横浜の女子校に進み、関東の共学の大学(文科系)から大学院は京大の人間文化研究科に進み幕末の国際関係史をやっているようだ。Sさん(女性)も女子校の出身で、共学の大学に入り一寸戸惑ったらしい。3回生で初めてゼミというのを経験し、何を勉強したら良いか、考え出している模様。

私は、西山ゼミを選んだ理由や、西山先生の指導方法など少し話しておいた。

その日、来られたお客は、何か感想を書き残した人は10人ほどであるが、結構、本も買ってくれている。一番人気は、『日本の住まい』ⅠⅡセット(千円)で私も予約しておいた。自由に書き込みするのに適している値段である。

適当に「交代で」休んでお茶を飲みに行ったりする。私は、円い展望ホールからぐるりと大阪市内から遠望まで眺めたが、アベックで来て、アベック用?の展望高椅子から外を眺めている女の子が、右手と左手の親指、人差し指を上手く合わせて横長の四角枠をつくり、そこから眺めているのを見て真似してみた。

その中に入る少し離れた風景は、(一部高層)大概は中層、低層のコンクリート住宅ばかりで、ああ、これが現代大都市の「空からの」典型風景かと思った。

帰り際に、二人に西山先生のお仕事、とりわけ戦後、最後のほうの景観論、町並み論などに若い頃からの住宅の思想や理論をどう発展的に接続させ、落ち着きを持たせ、21世紀の生活空間論の基礎にするのか、は大事な問題ですね、と言っておいた。自分への「言い聞かせ」でもあった。

この展示会は、19日の午後6時までですよ!


津波、土砂崩れが窓等から「見える」ように

2011-09-14 | 地域居住学
東日本大震災では、海側の「津波」、山側の「土砂崩れ」(これは、主にその後の台風性豪雨による)によって壊滅的被害を受けた、と言ってよい。

どういう復旧、復興をするにせよ、再建された住宅からは「津波」や「土砂崩れ」が、窓等を通じて、はっきりと見えるようにすべきであろう。夜間のことも考えて、外界の音もはっきり聞けるようにすべきでもある。

津波や山崩れが見えるならば、いち早く判断して高台に逃げることも出来るだろう。

再建住宅では、是非、津波や山崩れが見るように窓等の設計をして貰いたい。

西山夘三先生を更に学習し研究する

2011-09-14 | 地域居住学
これは、去る9月11日(日)に行われた「新建」による「西山夘三生誕100周年記念シンポジュウム」「西山夘三の残した業績と受け継ぐもの」で配布された資料集(全26頁)に集録された寄稿の一つで、私が8月11日に書いたものである。

表題は、「西山夘三先生を更に学習し研究する」である。

西山夘三先生を更に学習し研究する 
                2011年8月11日 新建奈良支部 西村 一朗

はじめに 
筆者は、1963年度に京大建築学科の西山(夘三)研究室で卒論を書き、大学院で修士論文を書き、豊田高専に就職の後1970年から1974年まで京大に戻り助手を勤めた。
その間、1972年~1974年の2年間、西山夘三先生が京大を定年退官されるまで最後の助手であった。そこで、日々、西山先生の謦咳に接していた。そういう立場から、西山夘三先生生誕100周年(没後17年)にあたり、影響を受けた幾つかの点と今後更に学習し研究すべき課題についての私見を述べてみたい。

最初の影響―建築評論家としての西山夘三先生
 最初に西山先生の考え方の一端を知ったのは専門課程の3回生になった1962年の夏休みに岩波新書で『現代の建築』を読んだ時だった。この新書(229番、現在絶版)は1956年初版のもので、私が読んだのは1962年7月の第9刷のものだった。結構ロングセラーだったのではないか。この本の成り立ちについて西山研の大先輩とも言うべき扇田 信先生(奈良女子大教授歴任、故人)から伺った話を披露すると、戦後の昭和20年代に近代~現代の世界の建築家の作品や設計の考え方について西山先生を中心に扇田先生を含む何人かで研究会を継続していて、その成果もこの新書に反映しているのではないか、ということだった。 これは、内外の建築家のまとまった批判的紹介であり、言うまでもなく唯物史観が根底に横たわっていた。この新書のソ連の建築の解釈などについて「おかしいな」と思って一度、思い切って西山教授室を訪ねたが、お忙しいのか「いなされてしまった」という経験がある。でも『新建築』や『建築文化』などの雑誌で展開される歯切れの良い建築評論は、いつも愛読し、「出来れば、ああいう風になりたいもの」と秘かに思ったものだ。
再度、読んでみたい。この岩波新書を、再版出来ないだろうか。

卒論に取り組む―住居学者としての西山夘三先生 
1964年の卒業に当たって、筆者のクラスから卒研として卒論か卒計かどちらか一つで良い、となった。色々考えて卒論とした。題名は「ダイニングキッチン成立の歴史的条件および現状についての一考察」ではなかったか。(残念ながら手元にコピーがない。)
先ず読んで参考にしたのが、西山先生の『これからのすまい―住様式の話―』(昭和22年9月10日初版、相模書房)浜口ミホ著『日本住宅の封建性』、そして論文としては西山先生の「〈すまい〉を追い続けて―私の研究生活―」(『建築雑誌』1958年11月号、後に著作集の『住宅計画』に所収)などでした。『これからのすまい』は、毎日出版文化賞を受賞した作品で、一般読者の他にも、建築計画(特に住居計画)専門家のみならず建築家にも長く良く読まれた本で、結構後の雑誌『建築文化』のアンケートでも、建築関係者に良く読まれている本のトップでした。(この『これからのすまい』は、西山夘三記念すまい・まちづくり文庫によって復刻再刊の予定と聞いています。)
『これからのすまい』及び論文の載った『建築雑誌』を、筆者は1963年頃に建築学教室の北側の今出川通りにあった古本屋で手にいれた。これらによって、西山先生が、どのようにして住宅の科学的プランニングの方法に接近していかれたか、良く分かった。勿論、先達の論を参照しつつ、西山先生が、ほぼ独力で方法を確立していく過程に興味を覚えた。海外のものとして、ほぼ唯一とも言うべきドイツのアレキサンダー・クラインの「動線論」を取り上げ、それを一つの足場として前進しておられます。他の多くの工学分野では海外物が大きなベースになっていたようですが、建築計画学は、ほぼ日本独自路線なのだな、と思った。この後を追っていきたい、と大学院に入る時に考えた。

自分史探究者としての西山夘三先生 
筆者が大学院修士課程を終え、西山先生の推挙で豊田高専に助手として就職した頃、1966年(昭和41年)6月に西山先生の『住み方の記』という先生が生れてこのかた、どういう住居に住んできたかの自分史報告といった今までにないユニークな本が文藝春秋新社から出版され、エッセイストクラブ賞を得ました。筆者は熱中して西山先生のプライヴァシーもある程度、垣間見る気分で読みました。自分も何時かこういうものを書いてみたい、と思いました。(筆者著『いい家みつけた―ロンドン借家住まい日誌―』(晶文社刊、1986年4月)は、その一端。)その後、西山先生は、『大正の中学生』(筑摩書房刊、1992年7月)なども書いておられますし、研究自分史として勁草書房より戦前編として「生活空間の探究」上下二冊『建築学入門』(1983年3月)『戦争と住宅』(同年7月)を出しています。
 戦後の足跡についても先生は自ら取り組む意欲を見せておられたが果たせませんでした。誰かが取り組んでまとめるべきものと考えます。又、こういう自分史は、傑出した西山先生級のみならず、普通に生きた経緯としての自分史・個人史も歴史の中では大事と思う。

未来構想家としての西山夘三先生
 西山先生は、1960年代から丹下健三さんの「東京計画1960」に刺激されてか「京都計画」「奈良計画」などの構想計画と言われる系列の仕事をされ、一つの仕上げとして「21世紀の設計」に取り組まれた。日本で幾つかチームが出来たが、関西チームのまとめ役として西山先生が当たられた。丁度、筆者が京大助手をしていた頃である。筆者は、計画設計班の西山先生が代表された「国民生活」部門を、田中恒子さん(当時京大技官、後に奈良教育大、大阪教育大教授歴任)とで支えた。そして、全4巻にまとまった「21世紀の設計シリーズ」の第4巻『国土の構想』(1972年12月刊)の「国民生活」部分は、三人の議論をまとめた筆者の下書をベースに西山先生が手を入れ推敲されたものです。「すべての生活様式を規定する最も大きな要因は、社会的生産の様式である労働の形態である。」(書出し部)

おわりに―今後の一二の課題― 
西山夘三記念すまい・まちづくり文庫(積水ハウス納得工房内)には、メモ魔、記録魔、「資料捨てない派」だった西山先生の未開資料が「山」とある。例えば、連綿と中学時代から亡くなるまで書かれた「日記」には手がついていない。ご自分の著作には赤や青の線や書き込みが沢山書かれており、それらは今後の「発展方向」を示唆していると思われるが、手がついていない。今後の「若手」の取り組みに期待する。(陰の声:分かって いるよ!)
(一部字句を補正しました。2011年9月14日)


「若手」に大いに期待するが、私自らも「地域人間」のかたわらで、「西山生活空間論」の戦後を跡づける努力をしたいと、思う。

西山夘三先生は亡くなられるまで「進化」していた

2011-09-13 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
少し前、9月3日に西山夘三記念すまい・まちづくり文庫主催の「西山夘三生誕100周年記念シンポジュウム」等に参加したことを書いた。

今回、新建築家技術者集団主催の同じく「西山夘三生誕100周年記念シンポジュウム」「西山夘三の残した業績と受け継ぐもの」と題して9月11日に京都市国際交流会館特別会議室」で70人余の参加で開かれた。

この会議室の窓からは比叡山や東山が望まれ、「大文字」も(大文字から見て)左側面から僅かに見えている。片方信也さん(日本福祉大教授、新建全国常任幹事、同京都支部代表幹事、京大大学院修了、私が助手の時に院生・博士課程、その後、三村浩史先生の研究室の助手になり2年間同僚だった)が、「会場をここに設定したのは、西山先生が最後に景観として歴史的スカイラインを大切にする取り組みを京都でされていたことに思いをいたした」旨を前日の「前夜祭」で述べていたが、「そうだな」と思った。

プログラムとして、基調講演が、山本厚生さん(生活建築研究所、新建全国幹事会副議長、東京芸大建築学科卒、1938年生まれで私より3歳先輩、芸大では山本学治先生に師事)だった。基調講演の話をする前に開会挨拶をされた本多昭一さん(新建全国代表幹事、東大建築卒でやはり数年先輩、近代建築技術史専攻、京都府立大名誉教授)の話にも歴史的興味を持った。その話は、戦後「民主主義の建築」ということで「機能主義」を主張した浜口隆一さん(本多さんの先輩・東大建築卒、『日本住宅の封建性』を書いた浜口ミホさんの夫)と西山夘三先生らとの論争は、面白く、実際に当否を問いて論争を続ければ「機能主義」の深化(進化)があったのでは、という趣旨だった。

例えば、劇場建築(私注:西山先生の「卒業設計」は、劇場建築だった・・・)を取り上げると、観客と演劇者だけでなく、大道具小道具さんや照明・音響さん、様々に劇場で働いている人々それぞれに「使いやすいように」劇場に求める「諸機能」があり、今までのように主機能と思われる「見やすい、聞きやすい」「舞台の広さや設えは適当」などということ以外の機能も重視すべきである。このように浜口さんが言ったことに対して西山先生は「その建築に関わりあう人たちの要求する機能を取り上げるのは重要だが、全て満たされるということはなく、そこには対立・矛盾もあるはずだ」と反論したようだ。どうも、ここで論争が中断したようだが、本多さんは「正に西山さんの言う機能上の対立・矛盾を事実として研究し、それらの解決方法を追求していれば「機能主義」の深化(進化)があったのでは・・・、歴史には「~たら」は禁物かもしれないが惜しいことをした、と述べられた。今からでも「遅くない」から、そういう追求とまとめもする必要がある、と思った。

さて、山本厚生さんの基調講演は「西山夘三と新建」という新建ならではのテーマだった。西山先生は、京大を退官された1974年以前からも「新建」創立にかかわり、創立後も初代代表幹事をされ、亡くなられる1994年まで実際の企画・運動にも積極的に参加された。その過程で、「新建」の機関誌である『建築とまちづくり』にも色々と寄稿されている。山本さんは、それら全てを精査し、1970年7月から亡くなる直前の1993年12月まで全部で26本の寄稿をされていることを明らかにしつつ、キーワードとなる7つについて『建まち』に寄稿された西山さんの論考を丁寧に読み解いている。

その山本さんの抽出するキーワードは、「住宅計画学」「科学的社会主義」「運動論」「職能論」「方法と展望」「変革の時代」「21世紀の新建活動」の七つであるが、最後の二つは、この「3.11」以後のことも踏まえた山本さんの提起であった。

そして、22番目と26番目の「最後の方の論考」のコピーを素材として、21世紀への西山先生の「展望」を示された。これらをじっくり読み返したいと思いますが、山本さんの紹介を聞いていて、西山さんは最後まで「考え」を深化(進化)するよう努力された人だ、との思いを強く持った。こうでなくてはならない。

その他、私としては、「建築運動」「建築活動」という懐かしい言葉に触発されて、建築に関する狭い職能だけでなく、「建築界」で息をしているあらゆる人々の「建築活動」を「建築現象」全体である、と考えて(まあ特に建築の中でも住宅に絞って「住宅界」「住宅活動」「住宅現象」「住宅運動」という切り取り方も出来よう)、そこでの矛盾、発展をリアルに考察して提起していくこと、そこに山本厚生さんのいう「すべての人のための豊かな生活空間の創造を」というところに繋がるのではなかろうか。

松本 滋さん(「西山文庫」運営委員長、兵庫県立大学教授)の「西山夘三アーカイブス」とパネルディスカッション「私と西山夘三先生」は今回割愛する。又の機会に報告したい。このシンポのためにまとめられた冊子に私も寄稿しているが、それも又の機会に紹介したい。

政略結婚の研究ってあるのかな

2011-09-09 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
「政略結婚の研究」という研究分野があるのかどうか知らない。
でも、まあ歴史的には洋の東西を問わず、そいうことで世の政治というか権力の状態が大きく規定されてきたのも事実であろう。日本では、天智天皇と藤原鎌足以来、天皇家と藤原家が、互いに娘を相手側に送りこみ姻戚関係をつくり「もちつもたれつ」の関係を千年に渡って築いてきたのも歴史的事実である。

最近の大河ドラマ「江(ごう)」をみていて気がついたのだが(遅い!)、織田信長の姪3人がそれぞれ大名に嫁ぎ、とりわけ茶々(淀)が豊臣秀吉側室に、江が徳川家康の跡継ぎの秀忠に正室で嫁いだことだ。つまり「滅んだ」織田家から次の権力者の秀吉、次の次の権力者の徳川家に嫁いでいる。

これは、旧権力者の残された女性達が新権力者の「嫁や側室」になる傾向が歴史的にあるということかな。豊臣や徳川にとっては織田家は主人筋であり、そこの女性陣が豊臣、徳川の男性筋には、それこそ「姫様」な訳だ。それなりの「躾け、振舞い」にも安心できる訳だ。部下にも「示し」がつくだろう。

平家が滅んだ後、平家の姫様達も「源氏」への「女性供給源」になったというのは本当だろうか。