西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

湯川夫妻、小出夫妻の向島訪問1984年9月24日

2012-09-27 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
過去の思いだしは、このブログに書いて、後でまとめる、というやり方を取りたい。

1983年8月にイギリス、ヨーロッパから帰って、庭に私の書斎兼書庫小屋を作った。これは1994年の秋に現住地に引っ越すまで、その小屋は「離れ」として使われた。計画したのは私だが、作ったのは後輩の山川元志さんだった。

で、次の年、1984年9月24日(月、秋分の日の振り替え休日)に奈良女子大学の同僚だった湯川利和先生、聡子夫妻と聡子さんの弟の小出さん(医師、京大医学部卒)、及びその奥さん(医師、奈良女子大付属高校、京大医学部卒)の4人が私の向島ニュータウン宅を訪問された。

向島ニュータウンを開発した京都市住宅供給公社が地域の医師用敷地を公募したためだ。
小出さんの奥さんが開業するため適当かどうか調べに来られたのだった。

結局は、僕の話を聞き、現地も見られて見送られた。そして、現在、小出医院のある平城・相楽ニュータウンに来られたのだった。私も1994年の秋に平城・相楽ニュータウンの現住地に引っ越した。

お陰で、小出 操子さんが院長の小出医院は、「梅ちゃん先生」のように地域に根付いた医院となっていて、私も恩恵を受けつつあるのだ。

いわさきちひろ絵本美術館

2006-07-06 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
娘が小学生の時、親子のコミュニケーションの一環で夏休みに家族旅行をしていた。伊勢志摩、伊根、大山、広島等々にも行ったが、ある時、東京の「いわさきちひろ絵本美術館」に行きたいとて、連れて行ったことがある。ついでにNHK も見に行った。今度、信州の方にもいわさきちひろ美術館が出来たようだ。今日、奈良女子大に行ってT.さんと喋っていたら「いわさきちひろのお母さんって奈良女高師(奈良女子大の前身)の卒業だってね。信州の美術館に説明書きがありましたよ」と教えてくれた。
ふと、先日、新井 満さんと喋っていた時の「千の風になって」の絵にいわさきちひろの絵を選んで、本を作る計画がある、という話を思い出した。優しくていいだろうな。一冊買って、思い出を刺激するため娘に送ろうかな。(写真は、いわさきちひろ絵本美術館)

メガロコープ西陣マンションを買うが住まない

2006-06-19 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
私の1941年に生まれてから今までの居住歴は去年の奈良女子大退職記念講演『一住一切、二住二彩、そして・・』でのレジュメに書いたが、そこには、メガロコープ西陣マンションは載っていない。何故なら「買った」が「居住していない」からである。買ったのは1973年8月頃ではなかったか。京大の近くの吉田の民間アパートが娘が4歳になり手狭になってきたので移ろうと思ったのだ。値段も手ごろだった。ところが実際に引っ越す前に実地にもう一度出かけてチェックした時にやめるとなった。それは、4階の住戸だったと思うが、中庭にも窓が面していた。それを開けてみて驚いた。下の中庭は駐車場となっており、排気ガスがまともに上がってくる構造になっていたのだ。実際に「臭い」臭いもした。即座に売る決心をして手続きをした。当時はバブルの前でマンションの値は右肩上がりだったので、すぐ売れて少し「得」をした。私の知り合いは、そこで2年ほど持っていて2倍ほどの値で、今の言葉では「売り抜けた」となるのだろうか。私は以前も以後も中層以上の集合住宅には住んでいない。今の「つなね」はエレベーターのない低層と思っている。(最下層からは4階の中層に見える部分もあるが・・)そして結局は松ヶ崎の建て売り住宅に引っ越すのである。

愛犬ジョンの死

2006-04-19 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
私達が京都の向島ニュータウンに住んでいた頃、多分、今37歳の娘が小学生から中学生だった25年ほど前、雑種の「ジョン」という雄犬を3年ほど飼ったことがある。最後はジョンの死で終った。実は、何故こういう話を持ち出すかというと、本日、大学2回生の「アッセンブリーアワー」で、「学部長と話そう」で教室に私が行った時、自由に私が話をする「お題」を学生から出してもらったら、「犬」という子がいたので、それをテーマに話をすることになったのだ。前提として「自由にお題を貰って3分考えて15分の話が出来るのが知識人だ」といったことを彼女等に話していたこともある。「犬はペットだが、最近コンパニオンとも言われる。私達が飼ったJohn(ジョン)はドイツ語ではJohan(ヨハン)、例のヨハネでもある。犬は人間より寿命が短いので必ず子供は犬の「死に目」に会う。そこで、死とは何か考えることが出来る。死んだ犬や猫が道端に落ちていたらどうするか。黙って通り過ぎるのはおかしい。公園や自宅庭に埋葬するのが「正解」ではないか。それこそ、生き物は、最後に土に帰るということだ。」

向島ニュータウン(17)-向島駅のエレベーター設置

2005-11-26 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
近鉄・向島駅は改札が「空中駅」であるが、地表から駅には、今は階段とエスカレーターで上がっている。ところが、車椅子などで駅にアプローチしようとすると、地表から駅改札へと、そこから駅ホームへの両方でエレベータが必要となろう。向島駅では、現在、それらは工事中である。この近鉄沿線では、可能な所はエレベーターを鋭意設置している。我々の現在住む最寄りの高の原駅では既にエレベータは設置された。だから、前に関空に行った時も楽だったのだ。これらを運転する電気エネルギーは、無駄ではないのか、のチェックが必要なのは論を待たない。(写真は、外から向島駅改札へアプローチのエレベーター工事)

向島ニュータウン(16)-鉄錆(てつさび)

2005-11-26 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンの6街区のバルコニー鉄板の錆について紹介した。5街区では補修したようだが、1街区でもバルコニーに鉄錆が出ていた。ニュータウンを歩いて近鉄・向島駅に戻ってくると、バス停の覆いの鉄ポール、歩道と車道の間の鉄柵、それらに凄い鉄錆が出ていた。これら共通空間においても、早急に何とかしないといけない。これは向島ニュータウンだけの現象だけでなく、高槻市などでも見られ、日本全国の普遍的現象ではないだろうか。皆さんの回りではどうですか。
(写真は、向島ニュータウンのバス停回りのの赤錆)

向島ニュータウン(15)-中央公園の紅葉とスケッチ

2005-11-26 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンの中央公園の紅葉は綺麗だ。今回行った時も落葉樹が紅葉していた。ふと見ると、一人の住民が、紅葉のスケッチをしているのが目に留まった。聞くと、私と同じ位に住み始めたようだ。もう定年後で、悠々と風景スケッチをしているのだった。近鉄・向島駅の近くで、横に人工河川の別の滝と池があった。
ただ、ポツンとスケッチしているのは、やや淋しい風景でもある、と思った。
(写真は、向島ニュータウンの紅葉と住民のスケッチ)

向島ニュータウン(14)-京都市立向島図書館

2005-11-26 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウンの地域公共施設は、京都市立向島図書館ではないか。私が住みだしたころ、2街区と5街区の間にやや広い空地があった。私がイギリスの留学から戻った1983年頃に、ニュータウンの近くで「暴力団」の発砲事件があったりして地域の雰囲気は余り良くなかった。その頃に、この空地の使い方が問題となってきた。私は、もう少し文化的な雰囲気を出すべく、イギリスで地域に多数あった図書館のことを思い出し、伏見区に既に図書館はあったが、ロンドンの良く似た大きさのバーネット区には10以上の地域図書館があることなどを示して、図書館が良いのでは、と『京都新聞』に投稿した。そのことが、どの程度効いたか分からないが、現在ある図書館が出来たのである。(写真は、京都市立向島図書館)

向島ニュータウン(13)-中央公園

2005-11-26 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン6街区の商店街・広場の辺りから近鉄・向島駅に向かって、一番南の宇治市との境にある公営の1街区と先に話した分譲の2街区の間に、中央公園が帯状にある。林の中に散策路をとり、その中心点あたりから東西両方に人工の川を流している。人工川は、それ以前に公団の平城ニュータウンの第二団地でも試みられていた。今から30年ほど前には、人工であっても「河川」が近くにあることが住宅地の「住み良さ」の一つの条件だった。ただ「人工」だから井戸水を汲み上げ循環させるなどの工夫をしていた。それと、絶えず流していないと水路は汚くなる。向島でも、鉄分が滝の石について事実、汚くなっている。散策路を歩きながら、人工河川の管理と改善のあり方を真剣に考える時だな、と思った。(写真は、向島ニュータウン人工川の滝)

向島ニュータウン(12)-センター商店街盛衰

2005-11-24 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン6街区の足元に「センター商店街」があり、近商が中心になっている。別に食料品「市場」もあるが、どうにか営業していた。他に日用品の専門店が並んでいるが、殆ど前の通り営業している。余りはやっている感じがしないが・・。ただ6街区住棟1階に入っていた「大阪ガス」の営業所が閉鎖されていた。又、懐かしのレストラン「コート・ドール」(黄金海岸)は、つい最近閉鎖されたようだった。ここには、娘の誕生日だとか、外からお客が来た時など、一寸出かけても「お洒落」な感じのフランス料理店だった。前に、平城相楽ニュータウンのフランス料理店「セル・ドール」(黄金の塩)に行った記事を書いた時に言及した店が「コート・ドール」だった。(写真は、閉鎖されたばかりのフレンチ・レストラン「コート・ドール」)

向島ニュータウン(11)-「公団」6街区の問題

2005-11-24 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン「公団」6街区は、商店街のある「センター地区」にある。高層の賃貸住宅である。見上げて「おやっ」と思った。バルコニーの鉄板が多く錆びているのだ。建てられてから30年近く経っているのだから一度も補修しないとなると錆が出て当然かな、とも思う。これは後で見た京都市営住宅の1街区でも見られた。早急に補修しなければなるまい。(写真は、向島ニュータウン6街区、バルコニー鉄板があちこち錆びている)

向島ニュータウン(10)-京都市営住宅5街区

2005-11-24 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン1~6街区では、1と5が京都市営住宅である。今回5街区横を通ったが、外壁が他の街区のものより綺麗になっていた。恐らく最近、外壁補修がなされたのであろう。昔、この街区で、公営住宅なので入居条件として収入制限があるのだが、かなり高給の人が入っていて問題になったことがある。一定までは割り増し家賃で対応出来るが、それ以上になると退去しなければなるまい。何故こういうことが起こるかと言うと、収入が低い段階で入居するが、その後に高給になる場合、住み慣れた所から出にくい、それに家賃が安いので住みやすいということだ。日本では一般に公営住宅は、抽選で「がらがらポン」で決まっている場合が多い。イギリスでは、住宅難を客観的に調べて、困難な順に入居させていた。昔、京大建築先輩の牛見 章さんが埼玉県の部長だった時に、埼玉県営住宅で少し取り組まれていたが、あれは今どうなっているだろうか。(写真は向島ニュータウン5街区住棟)

向島ニュータウン(9)-4街区の町並み等

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン4街区の町並みは、写真の如きものである。向島ニュータウンでは、もう一ヶ所、国道24号線の東側の7街区が低層であるが、国道24号線から西側の1~6街区では、4街区が唯一低層2階建てで、あとは全て10階以上の高層である。コンクリートの二戸一棟建て(イギリス風にはセミ・デタッチド)で「テラスハウス」と言っていた。これはイギリスの言い方と少し違う。右側が「北入り」、左側が「南入り」である。私は「北入り」に住んだ。自動車車庫を想定した「開いた部屋的空間」が道に面してあったが、私達は当時、自動車を持つ気持ちがなかったので、そこは「内部化」して「応接間風」にした。その後、26年余が経過している。見ると多くは「内部部屋化」している。自動車は、窮屈そうにその前に置いてある。私の家だった家の前面もすっかり変わった。ここのコミュニティでは、「出合い」でどぶ掃除もしたこともあるし、隣近所の葬儀も手伝って、昔の「田舎風」とも言えたが今はどうなっているだろうか。(写真右手手前は「街区公園」、突き当りの高層は、1街区)

向島ニュータウン(8)-4街区の「街区公園」

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
写真は、向島ニュータウン4街区の「街区公園」である。集会所の道を隔てた所にある。看板には「二の丸児童公園」と書いてある。法律で、児童公園が街区公園に変わったが、この公園は児童公園時代に出来たのだ。最近は、児童は減る一方、一方で高齢者は増えている。高齢者が近くの「公園」で憩おうと思っても、「児童公園」と書いてあると何となく使いにくいし、事実、施設も遊具中心だった。そこで、「児童公園」の名称が誰でも使える「街区公園」に変わったのだ。この「児童公園」は「出合い」で月一で掃除していたのではないか。夏に街区の夏祭りもここを中心に行われた。一度、地面を掘り下げて、青色防水テントを敷いて、インスタント・プールを作って子ども達に喜ばれたこともある。夜、ここに高校生等が溜まってうるさく近所から何とかしてくれ、と町内の自治会に諮られたこともあった。街灯を暗くしたら寄り付かないのでは・・、いや逆に煌々と明るくしたら退散するのでは・・との議論もしたが決め手がなく困った。今はどうなっているだろうか。

向島ニュータウン(7)-4街区の集会所

2005-11-23 | 京都の思い出(松ヶ崎、向島時代)
向島ニュータウン4街区100数十戸の集会所は、共有空間で、全戸で管理組合を作っていた。今もそうであろう。大きな洋室1室で、トイレや流しがついていた。管理組合の役員会が月1回あり、年に1回の総会があったが、それらは勿論、集会所で行われていた。夏休みに子ども達の「お泊り会」を集会所でやって子ども達が大いに喜んだこともある。私は、この4街区に16年8ヶ月間ほど住んだが、一度だけ集会所管理組合の役員(理事)をしたことがあり、その時に、4街区の隅々まで分かった。町内の役員は少なくとも一度はしてみるものである。今度、写真の集会所を訪れると、「高齢者施設」といった看板もかかっていた。恐らく行政(京都市)の「施設」に指定されたのであろう。4街区の共用空間というと、集会所、公園、道路なので、この集会所の敷地内に物置小屋を作って、街区の清掃道具等も置いてあった。(写真は、4街区の集会所、左手は住戸、後ろは3街区住棟、右手に3街区に抜ける小路がある)