平女祭のクロージングは、「平安女学院」全体の吹奏楽だった。平安女学院大学、平安女学院高校の合同での勇壮な吹奏楽だ。「高大連携」の一つの形だ。夕方で一寸寒くなったが、皆、運動場・ステージ前に集まった。理事長・院長以下多くの人が集まった。聞くと、今日は市民も含め全体で4千人の参加だったと言う。「オープンキャンパスに受験生がこれ位来たらよいのに・・」の声も聞かれたが・・。市民向けの企画も多くあり、シニヤ用に「レクレーションの勧め」の講演があったが、教室は満員だった。私も一寸聞こうかな、と思って行ったが、入り口で「先生は、既に楽しむ術を持っているから駄目、むしろ『死にや!』だね(笑い)」と言われてしまった。又、キッヅ(幼児)用の英会話教室も繁盛していた。とにかく今日は成功だったと思う。
先に紹介したメニューの実際は写真の通りである。これで500円だ。60人分を用意したが、幸い予約も含め午前中で売り切れ、「文句」を言われる場面もあったようだ。今日は幸い「晴れ」となったので来訪者が多くなったが、もし「雨」ならどうなのか、も考えて60人分に決めたのだが、来年は80人分、100人分でも「いけるかな」と思った。今回は、予約で大半をさばいたようだ。世話になった高槻市の人や農家の人も来ておられたようだ。これで数年やっているようだが、本格的に「高槻郷土料理」で打って出たら、と思う。皆さんも来年食べにきてくださいね。
11月9日のブログで、平女祭の「出し物」の一つ、高槻郷土料理御膳を紹介した。メニューを再録すると、以下の如し。飯もの・・栗ご飯、山菜ご飯(選択制) 焼物・・鶏肉の山椒煮(焼き?)、出汁巻き卵、海老の黄金焼き 煮物・・炊き合せ(椎茸、人参、高野豆腐、隠元マメ、生麩) 和え物・・酢の物(若布、胡瓜) 吸い物・・麩と三つ葉のお吸い物 寒天物・・寒天コロッケ、角きりそうめん 香の物・・富田漬け デザート・・芋羊羹
生活環境学部の食物分野の先生方の指導の下、高槻市、地域住民の協力も得て、食物分野専攻の学生達が、平安女学院大学の調理室で調理した。講義で「地産地消」も教えているが、それを実践する貴重な機会だった。
生活環境学部の食物分野の先生方の指導の下、高槻市、地域住民の協力も得て、食物分野専攻の学生達が、平安女学院大学の調理室で調理した。講義で「地産地消」も教えているが、それを実践する貴重な機会だった。
10時から平女祭(ST AGNES's FESTIVAL)のオープニングが運動場で行われた。実行委員長の挨拶の後、平安女学院大学の和太鼓部による演奏があった。有名な「鼓童」の「彩り」という曲をアレンジした曲もあった。音の出るパフォーマンスで、一般に心に響きやすいものとはいえる。キリスト教系の大学で「和太鼓」というのもユニークかもしれない。多分、高槻市その他の高齢者施設等からも「お呼び」があるのではないか、と思った。今後、研鑽を更に積んで、外国人が来訪した時などに彼女等の助けも借りたいものだ、と思った。
平安女学院大学の平女祭(ST.AGNES's FESTIVAL)に初参加した。教職員も全員参加でサポートだ。1日だけの「集中」である。朝の10時にオープニングで夕方の17時頃にクロージングである。高槻市民、近所の南平台の住民、平安女学院の高校生、近隣の阿武野高校、芥川高校の生徒も参加した。老若男女が来ていたと言える。
私は初めての参加、学生時代の京大11月祭、勤めてから豊田高専の高専祭、奈良女子大の恋都祭等を経験してきたが、それらのどれとも少し違うものだった。
一つには、幅広い市民層の参加であり、第二に、それらに応えるHospitarityの発露と言うことである。以下、若干紹介したい。
私は初めての参加、学生時代の京大11月祭、勤めてから豊田高専の高専祭、奈良女子大の恋都祭等を経験してきたが、それらのどれとも少し違うものだった。
一つには、幅広い市民層の参加であり、第二に、それらに応えるHospitarityの発露と言うことである。以下、若干紹介したい。
現在、平城・相楽ニュータウンでは、基盤整備工事が行われ、広範囲にわたって歩道が寸断、臨時の歩道がアスファルト舗装で出来ている。これは、過去にブログ(10月16日)でも紹介したが、「イーオン」が出てくるので、そのための「地ならし」である。臨時の歩道から工事現場を見ると、数十年にわたって根付いてきた楠の並木が無残にも切り倒されて「放置」されている。ふと高槻市のように、「バイオマス」利用が出来ないのか(10月12日ブログ)、と思った。この「イーオン」関連のことは、今後も「意見提出」「説明会」など紆余曲折が予想される。地域住民の一員としても見届けていきたい。(写真は切り倒され放置の楠木)
私が豊田高専にいた1966年から1970年にかけて、高専から何度か猿投山(さなげやま)に登った。わらび取りにも行ったと思う。名前も面白く記憶に残った。豊田高専の私のゼミの1回生の金子 宏君はホームページで山登りを楽しんでいる様子を綴っているが、何時も「いいなあ」と思って眺めている。私が今までに登った最も高い山は御嶽山ぐらいで世に「百名山」(ひゃくめいざん)などと言うが、全部登るのは到底無理で、少なくとも郷土の白山や隣の立山あるいは日本一の富士山位は登りたいと思うが、はたしてどうなりますか。
あとは猿投山のように低い近くの山には、時々「散歩」の延長の積りで行きたい。明日も奈良の春日原生林の山に行く予定だ。今後とも高い山は幾つかにして低い山を中心に「百My山(ひゃくまいざん)」で行こうかな。
さて猿投山は、約600m強の山である。豊田高専からも北の方に見えている。山の向こうが瀬戸市である。600mといっても結構きつかった記憶がある。猿投神社の辺りから登る。写真は途中の200段ほどの段を登るところだ(インターネット検索)。当時の豊田高専校長の須賀太郎先生は、名古屋大学工学部教授を定年で辞められた後に来られたので、70歳近くではなかったか。日本山岳会東海支部初代支部長であった。木の杖をついて私の前をゆっくり着実に登られている先生の姿は今も思い出す。私としては、もう一度、豊田高専の卒業生と登るのが一つの夢である。
あとは猿投山のように低い近くの山には、時々「散歩」の延長の積りで行きたい。明日も奈良の春日原生林の山に行く予定だ。今後とも高い山は幾つかにして低い山を中心に「百My山(ひゃくまいざん)」で行こうかな。
さて猿投山は、約600m強の山である。豊田高専からも北の方に見えている。山の向こうが瀬戸市である。600mといっても結構きつかった記憶がある。猿投神社の辺りから登る。写真は途中の200段ほどの段を登るところだ(インターネット検索)。当時の豊田高専校長の須賀太郎先生は、名古屋大学工学部教授を定年で辞められた後に来られたので、70歳近くではなかったか。日本山岳会東海支部初代支部長であった。木の杖をついて私の前をゆっくり着実に登られている先生の姿は今も思い出す。私としては、もう一度、豊田高専の卒業生と登るのが一つの夢である。
11月10日のブログ「高齢者のいる風景」で奈良・小西通りで転倒して救急車で運ばれる老婦人のことを書いた。自分も「還暦」を過ぎ、広い意味で「高齢者」なのを忘れていたが、一寸つまずいて転倒して、「ああそうなんだ」と認識した。駅の階段の上がった所には、視覚障害者のため点字ブロックが埋め込まれているが、その「ポッチ」に靴の先がひっかかり「おっとっと・・」で軽く転倒した。受身の要領でことなきをえたが、カッターシャツのポケットから定期券やUSBスティックが散乱した。幸い土曜日で乗降客は少なく、迷惑にもならず、拾い集めた。それで、考えてみると、今夏、郡上八幡に行ったときにホテルで一度トイレの場所を間違え体をひねった時に転倒、ロンドンでも「おっとっと・・」があったと思い出した。個人的には足は「高く」上げて歩く努力をすると共に、公共空間における「床のスムーズさ(ユニヴァーサルさ)」をよく考え実行していかないと・・と思った。(写真は、ポッチの点字ブロック)