地下宮殿に続いて、アヤソフィアを見学しました。アヤソフィアは広場を挟んでスルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスコ)と向かい合っています。この広場の周囲には、トプカプ宮殿や地下宮殿もあり、イスタンブール観光の中心地になっています。
ビザンティン帝国時代にはギリシャ正教の大本山になっていましたが、後にイスラム寺院に姿を変え、現在では宗教色を排してアヤソフィア博物館になっています。
4本のミナレットは、それぞれ造られた時代が異なるため、違った姿をしています。
なお、写真は、天気の良かった前日のものです。
アヤソフィアの入り口
アヤソフィアは、324年、コンスタンティヌス帝が、ローマ帝国の首都をビザンティウムに移した際に際にギリシャ正教の本山として建築が始まり、コンスタンティヌス2世の時代の360年に完成しました。1453年のコンスタンティノープルの陥落に伴い、メフメット2世により聖堂はイスラム教のモスクに姿を変えられてミナレットが加えられ、内部のモザイク画も漆喰で塗りこめられしまいました。1931年、アメリカの調査団によってモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領のアタチュルクによって、貴重なビザンティン時代の遺跡のアヤソフィアは、博物館として公開されることになりました。
入り口を入った先の皇帝の扉の上には、「キリストに結婚の許しを請うレオン6世
」のモザイク画を見ることができます。
堂内には、リング状の灯りが天井からつるされています。
大ドームは、直径33m、高さ56mあり、世界最大級のドームになっています。
大ドームは、563年に地震によって倒壊し、563年に再建されましたがその後の地震の影響によってゆがんでいるようです。
二階には回廊が巡らされています。
二階の回廊部に取り付けられている円盤は、6個置かれており、直径6.5mで、ラクダの皮にアラー、ムハンマド、カリフの名前が記されています。
柱の上部にも絵がありますが、翼があるところを見ると天使でしょうか。
石畳のスロープを上がって、二階の回廊に出ると、堂内を見渡すことができます。
聖堂の奥には、イスラム教礼拝の際にメッカの方向を示すミフラーブが設けられています。
聖堂正面奥の半ドームには、「聖母マリアと幼子イエス」のモザイク画が飾られています。
回廊を右に進んでいくと、「ディシス(祈願)」のモザイク画があります。
中央は、キリスト。
左は、聖母マリア。
右は、洗礼者ヨハネが描かれています。
さらに、その奥には、「聖母子と皇帝家族」のモザイク画があります。
中央は、幼子キリストを抱いた聖母マリア。
左は黄金の袋を捧げる皇帝ヨアンネス2世。
右は、贈り物を証明する巻物を持った皇后イレーネが描かれています。
さらに「キリストと女帝ゾエ」のモザイク画があります。
中央にキリスト。
左に皇帝コンスタンティヌス9世。
右に女帝ゾエが描かれています。女帝ゾエは、夫が変わるたびに、この皇帝の顔も書き換えたといいます。最初は、ロマノス3世、次はミカエル4世の顔があったといいます。
この女帝ゾエは、歴史上に景況を与えた興味深い結婚をしました。
ビザンティン帝国マケドニア朝のコンスタンティノス8世の後継者選びは難航し、50才であった皇女のゾエを、60才を過ぎていた重臣を、離婚させて結びつけて、皇帝としました。これがロマノス3世になりますが、風呂で急死してしまいます。今度は、30歳以上も年下の24歳の美貌の若者と結婚します。この若者は、ミカエル4世として帝位につきますが、邪魔になったゾエを修道院に幽閉します。ロマノス3世は、32歳で、病気のために修道院に入り、その日のうちに死亡しますが、後継者には従弟を指名します。この新帝がヨハネス5世。ヨハネス5世は、ゾエを始末しようとしますが、逆に反乱を起こされて追放されてしまいます。再び権力の座についたゾエですが、今度は17歳年下の妹テオドラと共同統治を始めますが、二人は仲が悪く、共同統治は二年しかもちませんでした。60代半ばになった女帝ゾエは、42歳の元老院議員と結婚し、コンスタンティノス9世として即位させます。13年後にあいついでこの夫婦が亡くなった後は、再びテオドラが女帝となりますが、彼女には夫も子供もいなかったため、マケドニア朝は途絶えることになりました。
女帝ゾエの肖像画は、輝かしい礼服をまとい、60才とは見えない若々しい姿に描かれています。しかし、この女帝ゾエの時代に、繁栄をきわめていたビザンティン帝国が衰退を進めたことを考えると、黄金の輝きも、帝国最後の光芒のようにしか思えません。
一階に戻って、聖堂内の見学を続けました。これはミンベルと呼ばれる説教壇。
ミフラーブ。礼拝の際にメッカの方向を示すもののため、聖堂の中心とはずれています。
窓には、ステンドグラスが飾られています。
スルタンの御座所。
中央の半ドームに描かれた「聖母マリアと幼子キリスト」のモザイク画。
聖母マリアの手形。
柱にはめ込まれた銅版に手を入れて、離さずに一周できたら願いがかなうといいます。長い列ができており、試みることはできませんでした。
ベルガマの壺
回廊の左右に置かれており、かつては外に置かれていて、イスラム教徒は礼拝のためにこの水で身を清めたといいます。
堂内の見学を終えて、入り口にある回廊を出口に向かいます。
出口手前で振り返ると、「聖母子に献上する皇帝」のモザイク画があります。
コンスタンティノーブルの街を献上するコンスタンティヌス1世(右)とアヤソフィアを献上するユスティアヌス1世(左)が描かれています。
出口から振り返ったアヤソフィア。
東ローマ帝国あるいはビザンティン帝国の名前は、歴史の勉強でお馴染みになっていますが、実際にその遺構に触れることはあまりありません。このアヤソフィアでは、聖堂内のモザイク画が漆喰で塗り隠されたため、時を超えて当時の栄華をかいま見ることができるのは、幸運のたまものといって良いでしょう。
ビザンティン帝国時代にはギリシャ正教の大本山になっていましたが、後にイスラム寺院に姿を変え、現在では宗教色を排してアヤソフィア博物館になっています。
4本のミナレットは、それぞれ造られた時代が異なるため、違った姿をしています。
なお、写真は、天気の良かった前日のものです。
アヤソフィアの入り口
アヤソフィアは、324年、コンスタンティヌス帝が、ローマ帝国の首都をビザンティウムに移した際に際にギリシャ正教の本山として建築が始まり、コンスタンティヌス2世の時代の360年に完成しました。1453年のコンスタンティノープルの陥落に伴い、メフメット2世により聖堂はイスラム教のモスクに姿を変えられてミナレットが加えられ、内部のモザイク画も漆喰で塗りこめられしまいました。1931年、アメリカの調査団によってモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領のアタチュルクによって、貴重なビザンティン時代の遺跡のアヤソフィアは、博物館として公開されることになりました。
入り口を入った先の皇帝の扉の上には、「キリストに結婚の許しを請うレオン6世
」のモザイク画を見ることができます。
堂内には、リング状の灯りが天井からつるされています。
大ドームは、直径33m、高さ56mあり、世界最大級のドームになっています。
大ドームは、563年に地震によって倒壊し、563年に再建されましたがその後の地震の影響によってゆがんでいるようです。
二階には回廊が巡らされています。
二階の回廊部に取り付けられている円盤は、6個置かれており、直径6.5mで、ラクダの皮にアラー、ムハンマド、カリフの名前が記されています。
柱の上部にも絵がありますが、翼があるところを見ると天使でしょうか。
石畳のスロープを上がって、二階の回廊に出ると、堂内を見渡すことができます。
聖堂の奥には、イスラム教礼拝の際にメッカの方向を示すミフラーブが設けられています。
聖堂正面奥の半ドームには、「聖母マリアと幼子イエス」のモザイク画が飾られています。
回廊を右に進んでいくと、「ディシス(祈願)」のモザイク画があります。
中央は、キリスト。
左は、聖母マリア。
右は、洗礼者ヨハネが描かれています。
さらに、その奥には、「聖母子と皇帝家族」のモザイク画があります。
中央は、幼子キリストを抱いた聖母マリア。
左は黄金の袋を捧げる皇帝ヨアンネス2世。
右は、贈り物を証明する巻物を持った皇后イレーネが描かれています。
さらに「キリストと女帝ゾエ」のモザイク画があります。
中央にキリスト。
左に皇帝コンスタンティヌス9世。
右に女帝ゾエが描かれています。女帝ゾエは、夫が変わるたびに、この皇帝の顔も書き換えたといいます。最初は、ロマノス3世、次はミカエル4世の顔があったといいます。
この女帝ゾエは、歴史上に景況を与えた興味深い結婚をしました。
ビザンティン帝国マケドニア朝のコンスタンティノス8世の後継者選びは難航し、50才であった皇女のゾエを、60才を過ぎていた重臣を、離婚させて結びつけて、皇帝としました。これがロマノス3世になりますが、風呂で急死してしまいます。今度は、30歳以上も年下の24歳の美貌の若者と結婚します。この若者は、ミカエル4世として帝位につきますが、邪魔になったゾエを修道院に幽閉します。ロマノス3世は、32歳で、病気のために修道院に入り、その日のうちに死亡しますが、後継者には従弟を指名します。この新帝がヨハネス5世。ヨハネス5世は、ゾエを始末しようとしますが、逆に反乱を起こされて追放されてしまいます。再び権力の座についたゾエですが、今度は17歳年下の妹テオドラと共同統治を始めますが、二人は仲が悪く、共同統治は二年しかもちませんでした。60代半ばになった女帝ゾエは、42歳の元老院議員と結婚し、コンスタンティノス9世として即位させます。13年後にあいついでこの夫婦が亡くなった後は、再びテオドラが女帝となりますが、彼女には夫も子供もいなかったため、マケドニア朝は途絶えることになりました。
女帝ゾエの肖像画は、輝かしい礼服をまとい、60才とは見えない若々しい姿に描かれています。しかし、この女帝ゾエの時代に、繁栄をきわめていたビザンティン帝国が衰退を進めたことを考えると、黄金の輝きも、帝国最後の光芒のようにしか思えません。
一階に戻って、聖堂内の見学を続けました。これはミンベルと呼ばれる説教壇。
ミフラーブ。礼拝の際にメッカの方向を示すもののため、聖堂の中心とはずれています。
窓には、ステンドグラスが飾られています。
スルタンの御座所。
中央の半ドームに描かれた「聖母マリアと幼子キリスト」のモザイク画。
聖母マリアの手形。
柱にはめ込まれた銅版に手を入れて、離さずに一周できたら願いがかなうといいます。長い列ができており、試みることはできませんでした。
ベルガマの壺
回廊の左右に置かれており、かつては外に置かれていて、イスラム教徒は礼拝のためにこの水で身を清めたといいます。
堂内の見学を終えて、入り口にある回廊を出口に向かいます。
出口手前で振り返ると、「聖母子に献上する皇帝」のモザイク画があります。
コンスタンティノーブルの街を献上するコンスタンティヌス1世(右)とアヤソフィアを献上するユスティアヌス1世(左)が描かれています。
出口から振り返ったアヤソフィア。
東ローマ帝国あるいはビザンティン帝国の名前は、歴史の勉強でお馴染みになっていますが、実際にその遺構に触れることはあまりありません。このアヤソフィアでは、聖堂内のモザイク画が漆喰で塗り隠されたため、時を超えて当時の栄華をかいま見ることができるのは、幸運のたまものといって良いでしょう。