ボズナン見学の後はブロツバフに向かい、そこで二泊することになりました。4日目は、まずボレスワヴィエツを訪れ、戻ってからブロツバフの見学を行うことになりました。
ブロツバフはポーランドの南西部にある交通の要所ですが、その西にあるボレスワヴィエツはドイツとの国境50km程の距離にあります。向かう途中の道路標識にも、ポーランド(PL)の他にドイツ(D)やチェコ(CZ)いった国を示す国際識別マークが記されていました。
ボレスワヴィエツは小さな街で、観光バス用の特別な駐車場も無く、ボレスワヴィエツ駅の前でバスを降りました。背後に見える煙突は、陶器工場のもののようです。
歩いて旧市街広場に向かいました。
広場の中央に建つのは15世紀に建てられた市庁舎です。
広場を囲んで、バロック風の建物が並んでいます。
市庁舎脇の建物にナポレオンに関するマークが掲げられていました。
ナポレオンとフランス軍を女性が歓迎するプレートのようです。ナポレオンのボレスワヴィエツ最初の訪問は1807年7月16日だったようです。ポズナンで見た記念プレートの際にも述べましたが、ポーランド分割後、ポーランド・リトアニア共和国は独立を喪失して国家としての実体を失っていました。しかし、ナポレオン戦争中の1807年にティルジット講和条約によってワルシャワ公国が建国されました。ポーランド国民は、ポーランド国家の復活を期待しましたが、ナポレオンが1812年にロシア遠征に失敗した後、ウィーン会議の決議によって公国はプロイセンとロシアに分割されてしまいました。ボレスワヴィエツは、プロシアに併合されてしまいました。
アゴラブックショップという本屋ですが、ナポレオンは、1813年5月25日の4度目の訪問時に、この建物に宿泊したようです。
街灯には美しい花が飾られていました。
きれいな建物が並んでいますが、この街も第二次大戦時に破壊されて、戦後に再建されたようです。
市庁舎の時計台。
ボレスワヴィエツの街の紋章です。
マンホールの蓋に描かれている街の紋章。
一旦広場から少し離れたところにクトゥゾフ記念碑がありました。ミハイル・クトゥーゾフは、ロシアの将軍で、ナポレオンのロシア遠征を失敗に終わらせた立役者です。ソ連時代には、旧市街広場にあったようですが、現在は離れた場所に移されてしまっています。
ナポレオンとクトゥーゾフの人気の差は、ポーランドの複雑な歴史を反映しているようです。
再び旧市街広場に戻りました。
旧市街広場の脇にある聖マリア教会を見学しました。
日曜日とあって、聖マリア教会ではミサが始まるところでした。邪魔にならないように内部をみさせてもらいました。
教会の内部には、派手な飾りが施されていました。
マリア像に熱心な祈りを捧げていました。
キリスト像。
教会の周りには、聖人像が飾られていました。
旧市街広場に戻りました。
行きに前を通り過ぎた陶器博物館を見学しました。
ボレスワヴィエツは陶器の街として有名で、ボレスワヴィエツ陶器は日本でも知られるようになっています。13世紀に家内工業として始まった陶器作りは、この一帯がドイツ領であった18世紀に発展しました。
ボレスワヴィエツは、街の風景を眺めるのではなく、陶器を目当てに訪れる者が多いようです。
陶器博物館では、年代別に作品が展示されていました。といっても陶器には詳しくないので、その歴史までは興味が持ちきれません。
現行製品の展示。
ここの売店は、商品があまり置いていなかったので、陶器工場の直売所に案内してくれることになりました。
陶器博物館の脇に置かれていたボレスワヴィエツ陶器の飾り。
ボレスワヴィエツ陶器の製造工場付属の売店を訪れました。
ここで買い物タイムとなりました。
製品が多くて選ぶのに迷う状態でした。
陶器博物館ですでにカップを買っていたので、ここでは買い物をしませんでした。
ボレスワヴィエツ陶器は、スタンプや手書きなどで模様が書き入れられます。買ったものは、スタンプ押しのもののようです。ボレスワヴィエツでは日本よりも安く買えるようです。ボッテリとしたフォルムで丈夫なため、記念に持って帰るには良いでしょう。
ブロツバフはポーランドの南西部にある交通の要所ですが、その西にあるボレスワヴィエツはドイツとの国境50km程の距離にあります。向かう途中の道路標識にも、ポーランド(PL)の他にドイツ(D)やチェコ(CZ)いった国を示す国際識別マークが記されていました。
ボレスワヴィエツは小さな街で、観光バス用の特別な駐車場も無く、ボレスワヴィエツ駅の前でバスを降りました。背後に見える煙突は、陶器工場のもののようです。
歩いて旧市街広場に向かいました。
広場の中央に建つのは15世紀に建てられた市庁舎です。
広場を囲んで、バロック風の建物が並んでいます。
市庁舎脇の建物にナポレオンに関するマークが掲げられていました。
ナポレオンとフランス軍を女性が歓迎するプレートのようです。ナポレオンのボレスワヴィエツ最初の訪問は1807年7月16日だったようです。ポズナンで見た記念プレートの際にも述べましたが、ポーランド分割後、ポーランド・リトアニア共和国は独立を喪失して国家としての実体を失っていました。しかし、ナポレオン戦争中の1807年にティルジット講和条約によってワルシャワ公国が建国されました。ポーランド国民は、ポーランド国家の復活を期待しましたが、ナポレオンが1812年にロシア遠征に失敗した後、ウィーン会議の決議によって公国はプロイセンとロシアに分割されてしまいました。ボレスワヴィエツは、プロシアに併合されてしまいました。
アゴラブックショップという本屋ですが、ナポレオンは、1813年5月25日の4度目の訪問時に、この建物に宿泊したようです。
街灯には美しい花が飾られていました。
きれいな建物が並んでいますが、この街も第二次大戦時に破壊されて、戦後に再建されたようです。
市庁舎の時計台。
ボレスワヴィエツの街の紋章です。
マンホールの蓋に描かれている街の紋章。
一旦広場から少し離れたところにクトゥゾフ記念碑がありました。ミハイル・クトゥーゾフは、ロシアの将軍で、ナポレオンのロシア遠征を失敗に終わらせた立役者です。ソ連時代には、旧市街広場にあったようですが、現在は離れた場所に移されてしまっています。
ナポレオンとクトゥーゾフの人気の差は、ポーランドの複雑な歴史を反映しているようです。
再び旧市街広場に戻りました。
旧市街広場の脇にある聖マリア教会を見学しました。
日曜日とあって、聖マリア教会ではミサが始まるところでした。邪魔にならないように内部をみさせてもらいました。
教会の内部には、派手な飾りが施されていました。
マリア像に熱心な祈りを捧げていました。
キリスト像。
教会の周りには、聖人像が飾られていました。
旧市街広場に戻りました。
行きに前を通り過ぎた陶器博物館を見学しました。
ボレスワヴィエツは陶器の街として有名で、ボレスワヴィエツ陶器は日本でも知られるようになっています。13世紀に家内工業として始まった陶器作りは、この一帯がドイツ領であった18世紀に発展しました。
ボレスワヴィエツは、街の風景を眺めるのではなく、陶器を目当てに訪れる者が多いようです。
陶器博物館では、年代別に作品が展示されていました。といっても陶器には詳しくないので、その歴史までは興味が持ちきれません。
現行製品の展示。
ここの売店は、商品があまり置いていなかったので、陶器工場の直売所に案内してくれることになりました。
陶器博物館の脇に置かれていたボレスワヴィエツ陶器の飾り。
ボレスワヴィエツ陶器の製造工場付属の売店を訪れました。
ここで買い物タイムとなりました。
製品が多くて選ぶのに迷う状態でした。
陶器博物館ですでにカップを買っていたので、ここでは買い物をしませんでした。
ボレスワヴィエツ陶器は、スタンプや手書きなどで模様が書き入れられます。買ったものは、スタンプ押しのもののようです。ボレスワヴィエツでは日本よりも安く買えるようです。ボッテリとしたフォルムで丈夫なため、記念に持って帰るには良いでしょう。