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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

3D頭痛

2010-03-08 21:33:32 | 映画

第82回米アカデミー賞は『ハート・ロッカー』に軍配!
で、対抗馬のジェームズ・キャメロン監督の
3D 作品『アバター』は美術賞、撮影賞、視覚効果賞の
3部門の受賞にとどまった。
3D 技術による圧倒的な映像も、イラク戦争を舞台にした
現実的なストーリーに屈した格好だ。
これまで3D 映像で問題となっていた視聴による頭痛や
吐き気も、新しいデジタル3D 技術により、
かなり減じられてきたということだが、
自律神経に自信のない MrK には今一つ不安が払拭できず、
よって、いまだ『アバター』を観ていない。
ところで近日公開予定のティム・バートン監督の
3D 映像作品、『アリス・イン・ワンダーランド』に出演する
ジョニー・デップもまた、3D 視聴により
頭痛や不快感が起こってしまうのだという。

3月2日付 abcNEWS.com

3-D Movies Like ‘Alice in Wonderland’ Are Just a Headache for Some―Johnny Depp Among the Many People Who Can't See the 3-D in 'Avatar' or 'Up' 『アリス・イン・ワンダーランド』などの3D 映画も人によってはただの頭痛のもと―ジョニー・デップも『Avatar』や『Up』の3D映像を観ることのできない大勢の一人

Avatar

By Joseph Brownstein

 3Dで映し出される映画やテレビが流行となっているが、人によってそれらを見ることで生ずる問題が注目されている。
 近日公開される3D作品 “Alice in Wonderland” でMad Hatter を演ずる Johnny Depp(ジョニー・デップ)はもともと自身の出演作を観ることはないそうだが、Entertainment Weekly のインタビューで、今回の作品では3D効果を楽しむことができないためという特別な理由があると述べた。
 「左目できちんと見えず、変な気持になってしまう。そのため 3Dをちゃんと見ることができないんだ」と、彼は同誌に語った。
 3Dで同じ様な問題を抱えているのは Depp だけではない。正確な数は把握できないが、アメリカ人の5~12%にある程度の stereoblindness(立体盲)が見られると推定されている。Stereoblindness とは奥行きを適切に感ずることができないことである。
 「3D映像を見ているように感じることができないのです」、技術工学のウェブサイト CNET の編集長 Rafe Needleman 氏は言う。「迫真性を感ずるどころか、うんざりしてしまいます。というのも、ほとんどずっと、二重になったゴースト画像を私は見ていたわけですから」
 劇場で受け取るメガネをかけずに3D映像を見れば、2つに分かれた像を目にすることになる。しかし、メガネを使うことで脳が像を一つにまとめるのを補助しイメージに奥行きを与えてくれるのである。
 「それは日常生活の中で起こっていることです。それは統合と立体視(fusion and stereopsis)といいます」と、New York Eye and Ear Infirmary の小児眼科医の Lisabeth Hall 医師は言う。彼女は両眼からのイメージを集約して奥行き知覚を生ずる過程をそう呼んでいる。
 飛行機を飛ばしたり、最高品質のスイス時計を組み立てたりするような作業と同じくらい繊細な3D映画に用いられる奥行き知覚は、目から入ってくる情報に基づいて脳が生み出すことのできる唯一の奥行き知覚というわけではない。一眼であっても、ある被写体がどれくらい離れているかを脳は把握することができる。
 「脳は多くの様々な手がかかりから奥行きについての判断を行うことができます」と Massachusetts Eye and Ear Infirmary と Harvard Medical School に所属する神経眼科の Joseph Rizzo 医師は言う。
 3D 映像の最大効果を受けられない人がいることには多くの原因がある。最適な立体視には次の二つの要因が揃う必要がある。
 第一に、両眼そのものの視力が良くなければならない
 第二に、両眼の位置が合っていなければならず、揃って発達している必要がある。もし小児期に一眼の位置がずれている場合、その子は奥行き知覚を備えていない可能性がある。
Viewing In Stereo 立体的に見ること
 3D映画を見ることの困難さは、両眼のわずかなズレによるかもしれない。たとえその人が毎日の生活で問題のない視力を持っているとしてもである。3D体験の困難さを経験する子供、その両親、そして大人はパニックにならず、診察を受けることを考慮すべきである。なぜなら、現在の積極的なスクリーニング検査をもってしても小児の目の問題は見逃される可能性があるからだ。
 「診察してもらい、診断を受けるべきです。余計な心配の必要はありません」と彼女は言い、わずかな視覚の問題がありながらそれに気付くことなく生涯を過ごす人たちも存在すると説明する。奥行きの知覚に関しては人は様々な程度の能力を持っている可能性があり、クリニックでは視覚の問題を抱える大人や小児でも3D映画を楽しむことができる人たちがいる。
「我々が行う立体視検査に引っかかる小児や成人でもこの奥行き知覚は保持されているということがきわめて多くあります。白か黒かで片付けられる問題ではないのです」と Hall 氏は言う。
 もし問題なく3D映画を見ることができていた人が突然その能力を失った場合、それは潜在的な問題の徴候となっている可能性があると Rizzo 氏は言う。
 「人は視覚を制限する様々な障害を被る可能性があります」と彼は言う。「そのような場合、視覚低下の原因に適切に対処することで視機能が回復することがあります」
 今回の『アバター』、今シーズンのサン・ジエゴ Chargers とオークランド Raiders の NFL のゲーム、そして、昨年のスーパー・ボウル中に放映されたいくつかのコマーシャルなど、最近多くの作品が3Dで発表されている。
 業界は3D対応テレビやこういった画像を捉えるその他の技術を押し進めたいと思っているかもしれないが、それらを正しく認識できない人々についても考慮すべきである、と Needleman 氏は言う。
「3D産業の人たちにとって立体盲の人たちはどれほどの比重を占めているだろうか?私を含めた立体盲の人のために何をしてくれるだろうか?社会的多様性にどう対処してゆこうとするだろうか?」と彼は言い、3D効果を見ることのできない人が、見ることのできる人と一緒に映画に行く場合を例に挙げた。
A Different Viewing Experience 別の鑑賞の仕方
 眼の訓練によって奥行き知覚を回復させることができるだろうか?今のところ、多くの人たちに対して有効と認められた治療法はないと医師は言う。
 3D効果を認識できない CNET 編集長 Needleman 氏は、かえってそのことで得をしたと言う。彼は大々的に宣伝された3Dバージョンを見たいと思っている人々の混雑を避け、2Dで ゆったりと“Avatar” を楽しむことができたと語る。
 「3Dは映像の壮観さを増大させるでしょうが、ストーリーまでさらに面白くさせるとは思いません」と彼は言う。

こういった頭痛を『3D 頭痛』と呼ぶらしいが、
眼筋のわずかな不均衡で、普段は何ともなくても
3D 映画を 3D メガネで見る時には脳に負担がかかって
しまうという。
こういった映画を長時間見ることが、脳や身体に対して
悪影響を及ぼすことはないのだろうか?
それとも、将来 3D 画像があふれる時代に備えて
今のうちに何度も見て脳を鍛えておくべきなのだろうか?

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『セントアンナの奇跡』

2009-07-29 21:55:24 | 映画

今月25日より、米国から約10ヶ月遅れで全国ロードショーが
始まった、スパイク・リー監督の映画、『セントアンナの奇跡』。
前評判は高いものの、映画評論やカスタマー・レビューでは
なかなか厳しい評価も。全編163分の大作だが、長すぎるとの
批判もある。
セントアンナとは、1944年8月、ナチスによる560人の
イタリアの民間人の虐殺があったトスカナ地方の地名である。
これまでアメリカ黒人社会の問題を取り上げてきたリー監督が
今回は第二次世界大戦の戦場を舞台に、
人種差別、戦争、宗教、イタリアを主題とした感動の映画を
作り上げた(少し欲張り過ぎたらしい)。

昨年9月米国公開当時の、かのA.O.Scott 氏による
例によって辛口映画批評を紹介しよう。

2008年9月26日 New York Times 電子版

Hollywood War, Revised Edition ハリウッド戦争映画、改訂版

Stanna  “Miracle at St. Anna(セントアンナの奇跡)” の冒頭、一人の老人がアパートの一室に座って白黒テレビの映画を見ている。その映画は “The longest day(史上最大の作戦)” 、John Wayne をはじめとした当時のほとんどすべての白人の映画スターを出演させた1962年の壮大な第二次世界大戦のドラマで、手厳しい反応を招いている。「私たちもまた母国のために闘った」と、その男性、郵便作業員で陸軍の退役軍人の Hector Negron 氏はつぶやく。
 映画脚本家の James McBride の小説をもとに Spike Lee が監督したこの作品、“Miracle at St. Anna” の存在意義に、Hector (Laz Alonso) のような男たち、すなわちラテン系やアフリカ系アメリカ人兵士たちが、このようなハリウッドの戦闘映画の登場人物と同じくらい勇敢かつ懸命に戦ったという、すでに期限切れの感がある明白な主張を行うという目的が一つある。しかし長い年月が経ち、多くの映画が作られた今、事実関係を明確にすることは必ずしも単なる一つの取り組みに終わらず、歴史的重要性という自己に課した重い責任の下ではこの映画は時折よろめいてしまう。
 フランスのためにナチスと戦ったアラブ兵士を追った “Days of Glory” のフランス人監督 Rachid Bouchareb と同じように、Lee は歩兵映画のしっかりした作り方にこだわり、今回のなじみの薄い顧みられることのなかったストーリーに旧式の技法を適応した。こういった “Miracle at St. Anna” に見られる映画上の伝統主義こそが、おそらく最も満足のいく特徴ともいえる。まさに本領を発揮している点は、小隊の映像である。ただハリウッドが50年代後半から60年代前半に作ったものとは正確には異なるとしたら、それは Lee 氏の主張にある。誰かが当時に戻る勇気と展望を持っているべきだった、そういった類の映画である。遅くはなったが、何もしないよりはまし、なのである。
 “Miracle at St. Anna” がところどころで古臭く、説教的であることに驚くことはない。時折、人種差別について入念に用意された会話や議論に時間を割いているため戦闘のスピードが落ちる。しかし、もしそれに対してあきれてしまいそうになったなら、そういった会話―それらは自由や民主主義を主題にし、ヒトラーとその軍隊によってもたらされたそれらの理想に対する死の脅威について語っている―が、非情かつ皮肉的な第二次世界大戦映画の定番であることを思い出すべきである。そしてこの映画では、“Days of Glory” と同じように、気高い会話と主題を語るシーンが、厄介で重大な矛盾に光を当てている。その矛盾とは、すなわち、全体主義的人種憎悪主義と戦う国々は、自らも深刻な人種問題を抱えているということだ。
 もし Lee 氏がこの主題のみで進めようとしていたなら、“Miracle at St. Anna” はそれほど内容の多いものにはなっていなかったであろう。むしろ、簡潔で理路整然としていたにちがいない。この映画では起こることが多すぎる―5つか6つの異なる映画が2時間半かそこらに不自然に詰め込まれており、あるものは Terence Blanchard の新鮮で悲しげな楽曲によって活気づけられるが、あるものはそれにかき消されてしまう。
1983年のニューヨークが舞台となる最初のシーンで、この映画の大部分を構成する戦時のフラッシュバックの中で解き明かされてゆく殺人ミステリーを展開される。(物事をさらに複雑にしていることに、これらのフラッシュバックの中に別のフラッシュバックが存在するのだ)。ある日、郵便局で Hector Negron は切手を買いにきた客を撃ち殺す。その理由を明らかにしたい思いから、スクープを求める若いレポーター(Joseph Gordon-Levitt) は Negron の所持品の中に彫像の壊れた断片を発見する。この物体がストーリー全体の鍵となるのか、それとも “The Maltese Falcon(マルタの鷹)” 以来最大の映画上の “red herrings(目くらまし)” の一つとなるのか。
 この映画は1940年代から50年代に流行った犯罪サスペンス、フィルム・ノアールの形で始まるが、結局、感傷主義や超自然主義や注意を逸らされてしまう数々の場面であふれかえってしまい、 “Miracle at St. Annna” を構成するストーリーは人を混乱させ説得力に欠ける。しかし、幸いにも頭部が失われた彫像の件は、実際のところこの映画の二つの主たる物語の流れにはさしたる影響を持っていない。物語の主流には、イタリアのパルチザン一団の複雑な運命と、1944年のトスカナの丘の町での黒人だけで組織された陸軍第92歩兵師団の兵士集団とが関わっている。
 ドイツ戦線をくぐり抜けたアメリカの兵士たちは、気性と経歴に関していえば、少なくとも古い歩兵映画の様々な人種の部隊と同じくらい多種多様である。ローマ・カトリック教徒でプエルトリコ人の  Negron の他に、Sam Train (Osmar Benson Miller) が登場する。彼は身体は大きいが心優しい、縁起かつぎな南部人で、地獄のような状況にあっても一種神聖で純真な存在だ。Angelo (Matteo Sciabordi) という名のイタリア人少年との友情関係は、この映画の中ではむしろあり得なさそうな要素ではあるが、最も素晴らしいところでもある。
 アメリカ軍部隊内での重大な衝突は、規律正しい理想主義者で前向きな Aubrey Stamps 軍曹 (Derek Luke) と、世をすねた運命論者の Bishop Cummings 軍曹 (Michael Ealy) との間で起こる。Cummings の金歯とぞんざいな話し方は、Stamps の持つ筋の通った正義と対照的な世慣れた引き立て役として自身の存在を特徴づけている。
 Lee 氏はこれまで、アフリカ系アメリカ人同志の対立や議論に、またアフリカ系アメリカ人の中に存在するイデオロギー的、社会的多様性に長く興味を抱いてきた。映画 “Do the Right Thing” の登場人物 Mookie と Buggin’ Out のように(いや、実際には、その映画で不安定に対をなす抵抗の象徴となっている Malcolm X と Martin Luther King Jr. のように) Stamps と Cummings は人種差別の問題に対して異なる反応を示す。彼らは戦術、政治、白人の信用性などについて議論し、遭遇する女性 Renata (Valentina Cervi) からの好意を求めてライバルにもなる。
 彼女は、かつてのファシスト党の支持者たちが最後まで抵抗を続けるパルチザンと食糧、避難所、あるいは親族の絆を共有するなど、政治的な対立に心を乱される大家族の一員である。 “Miracle at St. Anna” のこの部分は、復讐、裏切り、そして名誉といった主題とともに、イタリア人、そしてイタリア系アメリカ人の映画制作者たちの作品を含めた、イタリアのすべてのものに対して Lee 氏が長年にわたって感じている、しばしば両価的な強い思いを想起させるのである。
 この作品は、明らかに Roberto Rossellini 監督に負うところが大きい。同監督の作品、 “Paisan” はアフリカ系アメリカ人米兵の体験を扱った1940年代の数少ない第二次世界大戦映画の一つである。 “Miracle at St. Anna” はイタリアからの資金提供により制作されたものの、Spike Lee とイタリアとの初めてのジョイント作品となったとは言い難い。この作品は、むしろ “Do the Right Thing” までさかのぼり、 “Jungle Fever” や “Sumer of Sam” につながる一連の異文化間の困難なラブ・ストーリーの最新版であるといえる。
 “Miracle at St. Anna” がそれ自身の壮大さから抜け出し、しっかりした感動的な人間ドラマを語ることは、黒人兵とイタリアの村人との間に形成されるもろいつながりの中にある。それは決して奇跡などではなく、死、責務、友情、名誉である。それらは私たちが戦争映画にこれまでずっと求め続けてきたものなのである。
 

相変わらずの拙訳で申し訳ない。
Scott 氏の難解な文章は何度読んでも
難しすぎる。
しかしこの内容は、映画に対する称賛とは
ずいぶんかけ離れたものであるのは間違いなさそうだ。
本作品、史実をもとにと謳っているが、
ストーリーの大半はフィクションである。
死と隣り合わせの最前線においても
味方の中で人種差別が公然とあったとは
人種問題の根の深さを思い知らされるところだが、
お尻が痛くなることを覚悟してでも
劇場に足を運ぶ価値はあるのかもしれない。

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『天使と悪魔』:レビュー

2009-06-07 22:44:32 | 映画

公開前に好きなこと書いていましたが、
ようやく映画『天使と悪魔』みてきました。
とにかくドタバタの連続の2時間だった、という印象。
あまりにもあわただし過ぎ~。
ま、原作をできる限り生かしながら時間内に
納めようとすれば仕方がないのかも。
プロットは原作からかなり変更を加え、
前半部分やとんでもスーパー・アクション?も
割愛しているのだが…
科学と宗教の対立なんて考える余裕もなく。
ま、原作を読んだ時には想像するしかなかった、
教会を初めとするローマの様々な施設。
割と想像通りの映像でそこは満足しましたね。
原作でもそうですが、
犯人の動機に今一つ納得できないところがあり、
タイトルには説得力がないようです。
例によって New York Times には
日本ではお目にかかることのないような
難解な評論があったので、
ご紹介しておきましょう。

6月1日付 New York Times 電子版

Wisdom in a Cleric's Garb; Why Not a Lab Coat Too? 聖職者の服装には感じられる知恵;なぜ研究者の白衣には存在し得ないのか?

Angelsdemons2

 Tom Hanks 主演、Ron Howard 監督の映画『天使と悪魔』の終盤近くに、一見ほのぼのとした場面がある。
 ハーバード大学の宗教象徴学者 Robert Langdon 役の Hanks 氏は、粒子加速器から盗まれた反物質を用いてヴァチカンを吹き飛ばすと脅迫する凶悪犯の正体をようやく暴く。映画中ずっとHanks 氏を窮地に追いやっていながら、突然キラキラ輝く眼に変わったカトリックの枢機卿は、自分たちを救うために人を遣わされたことに対し神に感謝するささやかな祈りの言葉を口にする。
 Hanks 氏は、自分は遣わされてなどいないと答える。
 もちろんまぎれもなくあなたが遣わされたのであり、あなたはそれを知らないだけだ、とその聖職者は穏やかに言う。Hanks 氏は、驚いていかにも彼らしいオドオドした感じで微笑む。そして突然、彼は確信を持てなくなる。
 これは、ハッピー・エンドに見えるかもしれない。信仰と科学の融和、あるいは少なくとも神秘に直面する時、お互いに批判することを控える。しかし、私にとって、その場面は、それがなければ楽しいはずであった雨の日の午後の2時間をぶち壊してしまった。それは、大衆文化の科学に対する見方にとって不都合な点を露呈させてしまった。科学者や研究者は smart(優秀)であり、片や宗教指導者は wise(賢明)であるということを。
 原子の分割法や遺伝子の組み換え法を知っている自分を優秀だ思っている人たちは、先人たちのしっかりした導きによって本来の立場に置かれる必要がある。
 それはまるでその聖職者がアインシュタインの頭に手をおいてクスクス笑いながら、「坊や、気にすることはない、いつかは君にもわかるだろう」と言っているかのようだった。
 同じ Howard 氏監督、Hanks 氏主役で、Dan Brown による大ベストセラー作品を基にした“The DaVinci Code” の過去を描いた続編に当たるこの “Angels & Demons” は、今ひとつぱっとしない論評ながら5月の興行売り上げ1位で公開となり、いまだに評判は上々である。
 それらの人々すべてが科学と宗教の関係をじっくり考えるために劇場に集まってくるわけではなさそうだ。“Angels” は “24” スタイルのスリラーであり、そこでは、Hanks 氏と、Ayelet Zurer 演ずる彼の協力者である生物物理学者は、枢機卿の一団を殺害しヴァチカンの爆破を予告した何者かを見つけ出すために、ルネッサンスの芸術家で彫刻家のBernini によってローマ市中に残された手がかりを追って時計と競争する。
 この新しい映画には、拷問あり、稼動中の粒子加速器の冷たいショットを初めとする華麗な撮影技術あり、奇抜なプロット、紆余曲折ありで、前回の映画と同じく、鍵を握る瞬間に Hanks 氏は図書館(今回は伝説的なヴァチカン文書保管所)に駆け込み、長らく行方不明となっていた文書を限られた時間内に探し出し、解読する。
 しかしすべてのこういったアクションの骨組みとなっているのは何世紀も続く科学・宗教間の対立である。17世紀初頭より、Galileo や Bernini も加わっていた Illuminati として知られる科学者や懐疑論者からなる秘密のネットワークが、地下に潜って教会との戦争に関わっていたということになっている。
 今年の初めにこの本を読んだ私の反応は、果たしてこの歴史に真実があるのだろうかと思ったことだった。私は当てがはずれてしまったが、その簡単な答えがノーであるとわかった時、特に驚くことはなかった。Brown 氏があまりに上手にその寓話を語ったので業界は彼の誤りを暴くことに躍起になった。
 1776年―Galileo や Bernini には遅すぎる時期だが― Bavaria で結成されたIlluminati と呼ばれる組織は実際に存在していた。しかし、歴史学者によれば、それは10年かそこらで消滅した。それにもかかわらず Illuminati は陰謀説を唱える人たちの想像の中で生き続けている。
 “アポロ13号” や“ビューティフル・マインド”のような映画では、物事を正すことで定評のあった Howard 氏にとって、歴史的事実と、Dan Brown の作品における創作との間にある曖昧さは映画の面白みの一つであるといえる。「彼 (Dan Brown) は物事をでっちあげはしません、想像を作り上げるのです」と Howard 氏は言う。
 1600 年、コペルニクスの太陽中心説を支持したことをはじめ様々な異説を唱えたとして、教会は Giordano Bruno を火刑に処し、1633年、異端の疑いが強いとして Galileo に永久的自宅軟禁の判決を下した。しかし近年カトリックは、米国におけるいくつかの原理主義一派と比較すると、科学とは良い関係となっている。教会は1951年以来、宇宙のビッグ・バン起源説を容認してきた。そして現在の法王である Benedict は、人類誕生の理由まではわからないとしても、少なくとも人類がどのようにして誕生したかを説明するものとして進化論を容認する意向を示唆している。
 最近のインタビューにおいて、Howard 氏は、科学と宗教の間にはなんら軋轢はなかったと思うと述べた。両者はともに大きな神秘に続いて生まれている。科学が何を発見しようとも、「『で、その前は?』という質問が続くことになる」
 私はこの映画や本が歴史を書き換えたことについてさして気には止めていないし、この映画は多くのSF映画に比べると科学をいじったところは少ない。
 しかし、私は例のほんわかとした終盤の場面、頭(MrK註:実際には肩)に手を置くと言う比喩的なシーンにいらいらせずにはいられなかった。すべてが語られ行われた後、信仰を持つということは smart(優秀) であるということよりほんの少しだけ優れていることを意味しているようにとれる。
 映画の中で科学と宗教の歴史のすべてを理解するためにこの映画の砂粒をあまりに重んじすぎているのかもしれない。しかし、もし少年のような Hanks 氏が、より恐れ多い面々、たとえば Frank Langella や Clint Eastwood や Humphrey Bogart のような別人に差し替えてみたなら、そのシーンは使えなかっただろうと私は感じている。
 この映画に楽しみを与えるもののひとつに、古いヨーロッパの伝統に立ち向かう頑固なアメリカ人の古き Henry James 的観念がある。父さんは時代遅れの旧弊な頑固者だと叫んでいる10代の若者のように、私たちは、今や新しい世界なのだと主張すると同時に、いまだにそういったすべての伝統に畏敬の念をいだいているのだ。
 そして、私たちの頭の上に手が置かれているのである。
 なぜ知恵と安らぎは研究室の白衣ではなく、聖職者の襟にあるのだろうか?おそらくは宗教は安らぎを与えてくれるが科学は与えてくれないからであろう。
 かつて、物理学者の故 John Archibald Wheeler 氏は、偉大な指導者に力を与えるものは死を前にしている人たちを安心させる能力であると言った。しかし、現代の物理学の偶像的な成果は原爆であり、それは死の象徴である。
 さらに、Galileo の時代以来、科学者たちは宗教を怒らせることを恐れて形而上学的弁論を極力避けてきた。実際、彼らの多くは神の心を探索しようと確信している敬虔な信者であった。今は亡き古生物学者で作家である Stephen Jay Gould (スティーヴン・ジェイ・グールド)が科学と宗教について『重なり合うことのない権威』と言ったことは有名である。
 この映画でしばしば発せられ、原作でもさらに多く表現されていた嘆きは、科学が、とめどなく疑念を減らしてゆきながら、世界から不思議なことと意味を奪い、人間から、とりわけ道徳的基準を奪ってしまったことだ。
 教会は確信を持って強さを示した。しかし、隣人を愛せよ、汝殺すなかれ、柔和な人たちに幸いあれ彼らは地を受け継ぐであろう―そういった、寓話や戒律や箴言の同じような寄せ集めから始まっていながら、世界の宗教は、例えばゲイ同士の結婚のように、どんな行いが正しく、あるいは誤っているのかについて驚くほど多様な結論に至っている。
 もし科学が世界から確実性を排除しているのであれば、それはたぶん適切であるだけでなく励ましともなる。枢機卿が彼の絶対的なものの安泰を手ばなしで喜ぶ一方で、Tom Hanks と私は、自分自身の宇宙学者になり、自分自身の意味を作り出すという目標によって元気づけられることになる。
 一方、アメリカはもはやそれほど若くなく無垢でもない。そして科学はそれ自身の伝統を、そして、そう、いにしえにさかのぼる知恵を持っている。
 科学においては、その結論は手段―我々がどのような質問をし、それをどのように尋ねるか―によって正当化され、探求の意味は答えからではなく、答えが見出された過程から導き出されるのである。好奇心、疑念、謙虚、忍耐。
 あの父親のように頭に手を置かれることは慰めとなるように思えるが、人生の葛藤や探求への答えとしては何かが欠けている。
 私は父を懐かしく思う。しかし、彼が私に助け舟を出し、家業で身を立たせようとしたがった時、私が自分の立場を守り、著作業を続けてきたことはなによりと思っている。Hanks 氏も自分の立場を守り続けるべきである。

意味不明の評論だが、どうやら著者はこの映画の
宗教優位な表現に不満をお持ちのようだ。
我々日本人は、神や仏を精神上信じてはいても
それが、科学によって否定されるとは思っていない。
宗教は宗教、科学は科学と割り切っている。
そういう意味で、科学と宗教の対立など
真剣に考える気持ちもわかないし、理解もできそうにない。
ともあれ、この映画、
せかされるように一つの現場から次の現場へと
曲りくねったローマの町中を疾駆し続け、
さらに人ごみの中をカメラ映像はぐるぐる回りっぱなしで、
映画が終わった時には
もはや疲れしか残っていなかった…(アーメン)

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『天使と悪魔』:宗教と映画

2009-05-06 10:58:59 | 映画

『ダ・ヴィンチ・コード』の続編となる映画、
『天使と悪魔』がいよいよ、来週、全世界同時公開となる。
前作のキー・パーソンがダ・ヴィンチだったのに対し、
今回はガリレオ・ガリレイ。
『宗教 対 科学』がキー・ワードとなる。
地動説の登場など、科学が宗教的根拠を脅かす存在と
なりつつあった17世紀、
教会はガリレオを逮捕するなど科学者たちへの弾圧を始めた。
科学者集団は秘密結社イルミナティを結成し、地下に潜る。
そして現代、ローマ教皇の選出の儀式、コンクラーベを舞台に、
400年の沈黙を破ってイルミナティの復讐が始まる。
新しい教皇の候補者となる4人の枢機卿が拉致され、
彼らの惨殺が予告される。
また、スイスのセルン研究所から盗み出された『反物質』による
ヴァチカン爆破の脅迫も…
今回、トム・ハンクス演ずるラングドン教授は、
ガリレオが残した暗号を頼りに、ヴァチカンを救うべく奔走する。
創造主である神、そしてイルミナティが武器とするのは
神に匹敵するほどの莫大なエネルギーを生み出す『反物質』。
息をのむ展開が予測されるが、やはりヴァチカンは
この映画に賛意を示していなかったようだ。

5月3日付 abcNEWS より

Ron Howard: Vatican Obstructed ‘Angels & Demons’(ロン・ハワード曰く『“天使と悪魔”をヴァチカンが妨害』)

Angelsdemons

 Ron Howard 監督は日曜日、彼の宗教的スリラー作品 “Angels & Demons” のとあるシーンの撮影許可を得ようとしたところをヴァチカンによって妨害されたと述べた。ヴァチカン側は、そのような非難は単に宣伝目的に過ぎないと反論した。
 Tom Hanks 主演で Dan Brown によるベストセラー小説に基づいて作られたこの映画は月曜日に世界的プレミアとしてローマでも公開される。
 “Angels & Demons” には、イルミナティ(illuminati)と呼ばれる古くからの秘密結社、教皇のコンクラーベ、バチカンを吹き飛ばすことのできるハイテク兵器が登場する。
 日曜日の記者会見で、Howard は、多くのカトリック指導者たちを怒らせた Brown の別の小説 “The Da Vinci Code” の撮影で遭遇した反対に備えてあらかじめヴァチカンへの協力要請はしなかったと述べた。
 しかし、彼の撮影許可に対してヴァチカンは影響力を行使したと彼は語った。そして、背景に教会が映っているローマのシーンを撮影することもまかりならぬと通告された。
 「一般にローマでの撮影に際しては、ヴァチカンは何ら影響力を持っていないというのが公式声明です」と彼は言う。「すべてはきわめて順調に進行していましたが、ロケ地のいくつかで撮影を始める予定の数日前、ヴァチカンが何らかの影響力を行使したと非正規ルートなどから非公式な説明を受けました」
 「驚いたかって?時々悔しい思いをしたかって?そりゃ、そうですよ」と彼は言った。
 それでも、映画のセットで風景を再現することで、多少の制限はあるものの全体として “Angels & Demons” の体験感覚を保持することができたように思うと彼は言った。ただシスチナ礼拝堂(Sistine Chapel)では、止めるように言われるまで、制作スタッフ20人ほどが旅行客を装って教皇が選出される小さな礼拝堂のすべてのフレスコ画、床のモザイクや絵画を撮影したと、映画のウェブサイトには書かれている。
 “Angels & Demons” は “The Da Vinci Code” で一躍有名となった Harvard 大学の宗教象徴学者 Robert Langdon を主人公に配しているが、映画ではこれを Hanks が演じている。同映画ではイルミナティが次期教皇の有力候補と考えられている4人の枢機卿を誘拐し、彼らを一時間毎に一人ずつ殺害し、その後ヴァチカンを爆破すると脅迫してきたことから、ヴァチカンは Langdon を頼ることになる。
 ヴァチカンのスポークスマン Federico Lombardi 師は、教会の介入に関する Howard の申し立てについてコメントを拒否したが、彼の申し立ては単に映画の評判を高めるべく意図されたものだと主張した。
 昨夏、その映画は教会の理念と一致していないとして、ローマ教区は制作者たちが2ヶ所の教会(MrK註:サンタ・マリア・デル・ポポロ教会とサンタ・マリア・デラ・ビットリア教会)の内部を撮影することを禁止していたことを認めた。
 この映画では Hanks 以外には、教皇の死に関わる諸事に対処し、新しい教皇が選出されるまでヴァチカンの運営を行う司教、カメルレンゴに Ewan McGregor を配している。また、枢機卿たちを救出するため Langdon が暗号を解読するのを手助けする科学者 Vittoria Vetra 博士をイスラエル生まれの女優 Ayelet Zurer が演じている。(MrK 註:そのほかにも『マンマ・ミーア』のステラン・スカルスガルド、『ナイトミュージアム』のピエルフランチェスコ・フィヴィーノらが出演)
 2006年の映画 “The Da Vince Code” は世界中で7億5,000万ドルの興行収益を上げたが、この映画は、イエスが結婚し、子供を成したという考えや、保守的なカトリック運動 Opus Dei を殺人的カルトと表現したことで、世界中の教会指導者たちからボイコットの要求を招くこととなった。
 今回 “Angels & Demons” に対する教会指導者たちの反応はその時よりは抑えられているがものの、イタリア人司祭 Antonio Rosario Mennonna は土曜日、この映画はカトリック教会に対して『きわめて侮辱的、中傷的かつ攻撃的である』と述べたと、ANSA news agency は報じた。
 記者会見で、撮影中最も大変だったことは何だったかと聞かれたとき Hanks の答えは笑いを誘った。それは、まさに走ることだったと。
「普通の敷石の道などないし、まっすぐの階段もありません。この永遠都市には横断しやすい道なんてないんです」と彼は言った。「ゆっくりの散歩ならと思って外に出れば、死の落とし穴や足首の捻挫が待ち受けていると言ってもいい。脛を傷めたりすることもなく、また足の周りにエースの包帯を巻かずに撮影できたことは不思議と言っていいでしょう」
 「きっと神のご加護があったに違いありません」と彼は言った。

あくまでフィクションと銘打った映画でも、
実在する宗教名や組織名が登場していたならば
問題なのだろうか?
MrK 自身はクリスチャンではないのでお気楽に
この映画がヴァチカンやキリスト教を冒涜しているようには
まったく思えないと言えるのだが…
こういった宗教的スリラー映画では、
全く架空の宗教でストーリーを繰りひろげても、
何の緊迫感も得られないことだろう。
実在の宗教、実在の施設、実在のイベントをモチーフにしてこそ、
映画としてのエンターテインメント性が
成り立つのではないかと思う。
それが許されないとなれば、
映画にタブーな領域を作ってしまうことになる。
至極淋しいことと思えるのである。

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"Seven Pounds"

2009-03-03 08:28:09 | 映画

映画『おくりびと』は大盛況で、映画館は超満員。

一方、同じシネコンで221から公開中だったこの地味な映画 “Seven Pounds” (7つの贈り物)はガラガラ。確かに共感を持つにはつらい、後味のすこぶる悪い映画であり、ネット上のレビューを読んでも、肯定的な意見は少ないようだ。その理由として、キリスト教的感覚が日本人のそれ異なっているためかもしれないと思ったのだが、存外、米国においても辛辣な評価である。ニューヨーク・タイムズの辛口評論家 A.O.Scott 氏の批評を紹介する。なお、同氏の文章はところどころ難解であり、訳がおかしい箇所もあると思うが、大筋をご理解いただくということでご辛抱いただきたい。

20081219日付 New York Times より Movie Review

An I.R.S. Do-Gooder and Other Strangeness

国税庁の慈善家ぶった人物、その他もろもろの異様さ

Sevenpounds2  Will Smith Gabriele Muccino 監督(同氏は “The Pursuit of Happyness” [幸せのちから] を監督)再びコンビを組んだ作品 “Seven Pounds” は、謎めいた、時間的にバラバラな場面の連続で始まる。いきなり電話で自身の自殺を伝え救急車を要請。場面が変わると、苦情と侮辱の言葉を浴びせて盲目のコール・センターの担当者をしつこく困らせるこの盲目の男 Woody Harrelson が演じていることから、重要な登場人物なのだろうと想像できる。続いて、主人公は素敵な海辺の家で美しい女性を抱き締める。さらには、老人ホームを訪れ、そこの管理者を威嚇し、居住する老人を慰め世話をする。

 しばらくの間、楽しみながらこれら意味不明のできごとを考え話の輪郭をあれこれ想像することができる。つかの間の苦悩や悪意の影に彼の魅力を時々隠すような、いないいないばあ楽しむ Smith 氏を見るのは決してつまらないわけではない。音楽(Angelo Milli の曲のほか何曲かの感動的なポップ・ソング)は Philippe Le Sourd の濃い色彩の映像と融合し、物語からは得られない感情の高まりを呼び起こし、不安からくる戦慄を創り出している。しかし、しばらくして謎の話の断片が噛みあってきた時、それまでの好奇心は信じがたい気持ちにとって代わられるのだ。

 “Seven Pounds” の終盤近くで、注意深くラミネート加工された紙片が現れる。それにはクラゲに触るなと書かれてある。私はそれを夢にも思っていなかった。私は、実際に起こる驚くべきできごとそのすべてが水中生物に関連するわけではないを漏らしてはいけないという警告としてこのメッセージを受け取ることになる。

 しかし、率直に言って、どのような論評をすればこの映画が、これまでの作品の中で、真夜中に友人に電話してもう一度それを修正するようがなりたてたいほどきちがいじみたひどい映画の一つであるかもしれないという事実を実際に覆すことができるのかわからないMrK 註:この文章の訳はおかしいかも)。皆さんには、出かけて行って、自分自身で実際に見ていただきたいのだが、これは私の意見の裏付けの検証をお願いするというよりむしろ推薦と受けとめていただきたい。私は自分で見て理解したと思ったことを果たして実際に理解していたのだろうか?

 私はまさにそれが何だったのかについて、その気になれば詳しく説明できのだが、皆さんは私を信じないだろうし、Sony の人たちは今後試写に私を招待しなくなるだろう。そこで、 “Seven Pounds” で起こることを詳述する

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