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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(19) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第1回)

2006年05月25日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
若山武義氏手記の解説(大森町大空襲) その5
61年前の5月25日は、爆撃機500機の空襲により、中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、世田谷他で戦災家屋16万5千、羅災人口62万の被害に遭いました。

・ロータリーから呑川までの避難説明地図
避難説明地図(再掲)は、1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編の一部を合成接続して大森町付近を作成したものです。地図上の白色部分が多い場所は、爆撃により家屋が焼失した地域で、大森八丁目や九丁目と森ヶ崎上の地域は家屋が密集しており家屋の焼失被害が免れました。
地図上の赤線は、若林武義氏がロータリーから、命からがら逃げ延びた呑川の川端までの経路を推測したものです。大森第一国民学校を経て、家屋の焼失被害の無い大森八丁目まで辿り付くまでは爆撃直後であり、逃げはじめ時にはまだ自宅が延焼する前であることから、大森町爆心地が猛炎寸前で当に危機一髪の避難であったと予想されます。

・爆撃の被害跡
旧大森区の東側半分の焼失被害地域の有様を、1941年大東京大森区詳細復刻古地図に着色(ここをクリック)してみました。それによると、大森町は広域に爆撃され、大森一~七丁目は壊滅的な戦災に遭い、僅か大森八丁目と九丁目(地図欄外)が爆撃から外れ、ガス会社と東京特殊鋼が戦災を免れました。大森町の隣の入新と新井宿の被害は、一部の戦災で済み、東海道線の大森駅西口周辺は広く爆撃から外れておりますのが判ります。
では、空襲爆撃の跡はどのような惨状であったのかを、東京大空襲・戦災資料センター提供の「天神橋から亀戸方面を望む」拡大写真で見ますと、あたり一面見渡す限りの焼け野原の状態が見られます。

手記第2編 紹介
若山武義氏の手記(1946年記述)「戦災日誌(大森にて)」が、前回で終了しました。
大森町大空襲で焼け出された若山氏は、一たん故郷の仙台に帰省してから、仕事のため東京中野の借家仮住まいのため5月23日に上京し、再度の二回目の戦災を体験されました。
今回からも、東京大空襲の悲惨さを語り継いて頂くため、若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編の「戦災日誌(中野にて)」を引続き掲載しますので、ご覧下さい。


若山武義氏の手記(1946年記述) 第2編「戦災日誌(中野にて)」第1回
再び東京中野での四世帯同居借家住まい
仙台では師団司令部兵務部勤務の本間さんを訪ねて歓談した。会社で共に働いた本間さんと、曹長さんになった本間さんは全く別の人かと思うた。戦災の体験を語り合うて楽しかった。
仙台に来て見て感じた事は、外見は武装してても警報一つなるでなし、全く外国にでも来たかの様静かである。尤も昨年の暮れ、塩釜の一部が爆撃されたけれども、見ないお化けは恐ろしくないと同様、東京はやられても、まさか仙台迄は来ないと安心している。
墓参をすまし、妻子を連れて上京、中野の借家に一時落付いたものの、先に疎開で移転した橋爪さんと、浅草で戦災の三宅さん、王子で同じく戦災の安田さん父娘と私等四世帯混合同居である。故に帝都に残留せねば生活の出来ぬ我等は、現在帝都に安全な処などあろう筈がないが、再び戦災は覚悟の上で落付く処をさがさねばならぬ。毎日空家さがしである。処で伊藤さんから、久ヶ原に借家が二軒ある、今居る処も日本鋼管の寮になるから、どっちもお互いに借りましょうとの事で、万事伊藤さんに頼んでかえったのが五月二十三日の晩である。

前回 大森町界隈あれこれ(18) 鎮魂!大森町大空襲(第11回) 
次回 大森町界隈あれこれ(23) 手記第2編 戦災日誌中野にて(第2回) 
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