浅田 次郎著
第五夜 ”花と錨”
振袖おこんの異名をとる稀代の女スリおこん姐御が、慶応ボーイと覚しき青年に懸想され、
つきまとわれているのである。
「銀座の縄張内をつかず離れず追っかけられたんじゃ、いかに玄の前のおこんといったって、手も足も出ませんよ。
ましてや私っちに想いを寄せる男が見張っていると思や、指先も鈍りまさあね」
「どんなに言い寄ってくる男がいたって、こっちにその気がないんだからしかたないだろう。
もっとも、親分に寅兄ィ、栄治、常さん、おまえはまだ頭数には入らないが、こんだけいい男に囲まれていたんじゃ、
そこいらの男に目の向くはずもないがね」
「昔、仕立屋の親分に教わった。スリってのは、いつだって自分を欺していなきゃならない。
男に惚れたら、おまんまの食い上げだよって」
「好いた惚れたは人間を正直者にさせちまうのさ。的の前でてめえの心が顔に出ちまえば終いなんだよ。
むろん指先も鈍るしね」 「あたしの恋人は、この5本指さ」
男は船乗り。おこんへ手紙を渡す。相談を受けた安吉親分が、封書を開けたなり、むうと唸って、
こりゃおこん、尋常の付け文じゃあねえぞ。男ん中の男が肚をくくった代物だ。
嫁に欲しいと言う申し出を、受けるにせえ断るにせえおめえの胸三寸だが、これだけの仁義を切られりゃ、
いずれにせえきちんとご返答せずばなるめえよ。
「惚れた腫れたはひとの勝手だが、しょせん花に錨は似合わねえ。そうじゃありませんかい、親分」
「ありがとうのかたじけねえのもったいねえのと、四の五の言やあ未練も残る。
あいつはどうしようもない朴念仁だが、痩せても枯れても醜の御楯の海軍士官、
巾着切りの女なんぞに心を残しちゃならないんだ。私っちがそんな女だと知ったら、
さぞかし驚くだろう嘆くだろう。それにしたってへたな未練を残すより、花と錨のしがらみを、
あの腰に吊るした短剣で、ばっさりと断ち切ってもらおうじゃあねえかい。
さ、泣いても笑っても恋の道行きはこれにて幕だ」
「あいつを、的にかけちまった」おこんは涙を噛みつぶすように唇を噛んだ。
「でも、安心おし。あいつのよこした手紙をね、ごっそり内ポケットにつっこんでやった。
まだ気が付いちゃいないだろうけど」
「世の中に女房と言う女はたんとおりますけど、この振袖おこんは、あいにく一人きりなんですよ。ごめんこうむります」
第五夜 ”花と錨”
振袖おこんの異名をとる稀代の女スリおこん姐御が、慶応ボーイと覚しき青年に懸想され、
つきまとわれているのである。
「銀座の縄張内をつかず離れず追っかけられたんじゃ、いかに玄の前のおこんといったって、手も足も出ませんよ。
ましてや私っちに想いを寄せる男が見張っていると思や、指先も鈍りまさあね」
「どんなに言い寄ってくる男がいたって、こっちにその気がないんだからしかたないだろう。
もっとも、親分に寅兄ィ、栄治、常さん、おまえはまだ頭数には入らないが、こんだけいい男に囲まれていたんじゃ、
そこいらの男に目の向くはずもないがね」
「昔、仕立屋の親分に教わった。スリってのは、いつだって自分を欺していなきゃならない。
男に惚れたら、おまんまの食い上げだよって」
「好いた惚れたは人間を正直者にさせちまうのさ。的の前でてめえの心が顔に出ちまえば終いなんだよ。
むろん指先も鈍るしね」 「あたしの恋人は、この5本指さ」
男は船乗り。おこんへ手紙を渡す。相談を受けた安吉親分が、封書を開けたなり、むうと唸って、
こりゃおこん、尋常の付け文じゃあねえぞ。男ん中の男が肚をくくった代物だ。
嫁に欲しいと言う申し出を、受けるにせえ断るにせえおめえの胸三寸だが、これだけの仁義を切られりゃ、
いずれにせえきちんとご返答せずばなるめえよ。
「惚れた腫れたはひとの勝手だが、しょせん花に錨は似合わねえ。そうじゃありませんかい、親分」
「ありがとうのかたじけねえのもったいねえのと、四の五の言やあ未練も残る。
あいつはどうしようもない朴念仁だが、痩せても枯れても醜の御楯の海軍士官、
巾着切りの女なんぞに心を残しちゃならないんだ。私っちがそんな女だと知ったら、
さぞかし驚くだろう嘆くだろう。それにしたってへたな未練を残すより、花と錨のしがらみを、
あの腰に吊るした短剣で、ばっさりと断ち切ってもらおうじゃあねえかい。
さ、泣いても笑っても恋の道行きはこれにて幕だ」
「あいつを、的にかけちまった」おこんは涙を噛みつぶすように唇を噛んだ。
「でも、安心おし。あいつのよこした手紙をね、ごっそり内ポケットにつっこんでやった。
まだ気が付いちゃいないだろうけど」
「世の中に女房と言う女はたんとおりますけど、この振袖おこんは、あいにく一人きりなんですよ。ごめんこうむります」