栗の実と聞いたら、童謡「里の秋」を思い出す。
”静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろりばた”
父親は、戦争に行っている時代である。
現在では、いろりのある家はほとんどない。懐かしい詩である。
今も栗は落ちているが、拾っているのは猪鹿である。
我が家の栗林も、鹿が24時間監視している。
人間が拾うより先に、鹿が食べる。栗林に行くと鹿と出会う。でも鹿は逃げない。
ジーッと見つめ合う。こちらが動くと、やおら逃げる格好をする。恰好だけで逃げない。
木陰に姿を隠すだけで、人が立ち去るのを待つ。人が姿を消すと、また現れる。
小石等を投げると、山の奥に逃げる。
このまま野獣達が増えると、野菜も稲も収穫できなくなる。
近い将来は、電気柵等をした場所だけに、作物を作る事ができるようになる。
JA主催の「エンディングノートについて」と題する講習会に参加する。
JAでのエンディングノートは、「実りの人生ノート」となっている。
ノートは、6章まである。
第Ⅰ章 私の足あと・・・・・名前、本籍、学歴、職歴、結婚、子育て、思い出等。
第2章 もしもわたしが病気になったら・・・・介護、終末医療、死後の希望等。
第3章 もしもわたしが亡くなったら・・・・・葬儀、通知する人の名前、墓等。
第4章 遺言について・・・・・遺言証書(法的効力を持つには)、家系図等。
第5章 わたしの財産・・・・・預金、各種保健、クレジットカード、土地建物等。
第6章 次世代を育てるために・・・農業の引き継ぎ、伝えたい知識や技等
終わりに感謝の言葉を書き添える。
「とにかく書ける所から気楽に書き込んでみましょう。」との説明である。
気分が向いた時に、書きたい所だけを書き込んで、パソコンの近くにでも置いておこう。
病気になった時や死んだ時には、ブログを消すように頼んでいるから、
パソコンの近くに来て、触るであろうと期待している。
しかし、エンディングノートに気が付かなくても、大したことは起きない。
はこちゃんから、新ショウガを頂く。
はこちゃん:「体温が少し低いから、生姜を飲もうかな!」
ブーコさん:「毎日摂るには、ジュースなら飲めるよ」
はこちゃん:「えっ!まさか!!」
ブーコさん:「毎朝のジュースよ。牛乳・バナナ・生姜少々・ゴーヤ・リンゴ・梨・
ブドウ・きな粉・はったい粉・黒酢が今頃のメニューよ。」
はこちゃん:「ゲーッ!人間の口に入れる物ではない!聞いただけで気分が悪くなる。」
ブーコさん:「一期一会のジュースだよ。入れる材料やその量によって、毎日違う味と色になる。
ブドウとゴーヤの混合比により、紫から暗い緑色まで様々だよ。」
我が家の住人達も、はこちゃんと同じことを言う。気持ちの悪い飲み物を、見たくないので、
誰もいない所で作って飲むように指示されている。健康には一番なのに誰にも理解されない。
「住めば都」との言葉もあるので、「飲めば病み付きになる美味しさ」と宣伝しよう。
Mさんご夫妻は、家で暮らすことが難しくなったので、
数年前施設に入所した。本年8月妻が無くなり、夫だけが残った。
農業をしていたので田畑は沢山あるが、跡継ぎがいない。
2人の娘は夫々に嫁ぎ、マンション生活なので、農業のことはほとんど解らない。
先日、Mさんの属している自治会の会長から、「近所が迷惑しているので、草を刈って欲しい」
との電話が、娘さんに入る。出来ないことが解っているのに、なんと冷たい!
刈って欲しいと言っている面積は多くないので、近所の者が刈ってもよいだろうかとか、
業者を頼もうかとの言葉があってもよさそうに!
弱者になると(仕事ができなくなると)、「石持て追う」ようなことができるのだ。
紳士だと思っていた自治会長も、ヒン士に落ちた。
「正体見たり、枯れ尾花」とは、幽霊のことであった。しゃんとした優雅な姿ではなかったのだ。
正岡子規の俳句について、話を聞く。
句集「ホトトギス」は、現在も続いている。鳥のホトトギスからの連想で、名前を付けたらしい。
ホトトギスには、鳥と山野草がある。
鳥の鳴き声は、「テッペンカケタカ」とか「東京特許許可局」とか聞こえるらしい。
鳴く時に、真っ赤な喉が見えるので、「鳴いて血をはくホトトギス」との言葉がある。
徳富 蘆花の「不如帰」も、鳥のホトトギスからの連想であろう。
鳥のホトトギスの白い胸にある小さな斑点の模様が、
草のホトトギスの花びらの斑点に似ている所から、草にも同じ名前が付いた。
論語の話になり、「恕」に話題が移った。
「恕」に続いて孔子の言われた「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」を、
「己の欲する所を、人に施せ」となったら、薄っぺらな中身になり、
論語の言わんとしていることとずれが生ずるとのことである。