通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

岩国城

2015年05月15日 | 見て歩き
岩国城

吉川広家

岩国藩








「山のふもとからロープウェイに乗って、そこから歩くこと約5分。ようやく岩国城に着きました」

「岩国城は、江戸時代になった慶長(けいちょう)13年(1608年)、岩国藩初代藩主・吉川広家(きっかわ ひろいえ)が建てたお城なんじゃ」

「その岩国城が、なんで取り壊されることになったん?」

「慶長20年(1615年)に幕府から出された「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」は知っとるかいの?」

「えーっと…。ひとつの藩は、ひとつのお城しか持っちゃいけん、いう命令じゃったよね」

「ほうじゃの。戦国時代が終って江戸時代になり、これからは平和な時代がくる。平和な時代になると、戦いのためのお城は必要ありません。ほいじゃけぇ、藩主が住むお城以外はすべて取り壊してしまいなさい、という命令が幕府から出されたんじゃ」

「岩国城は岩国藩のお城なのに取り壊してしもうたん?」

「そのあたりはややこし話になるけぇあとで話をするが、岩国藩は長州藩(ちょうしゅうはん)の支藩(しはん)、本家から分かれた分家のような藩のひとつじゃったんじゃの」

「…どっちにしても、岩国城というお城は慶長13年から20年まで、たった7年間しか建っとらんかったんじゃね」

「それを戦後の1962年(昭和37年)に復興して今に至っとるというわけじゃ」







定礎

起工 昭和36年3月12日






「あとで話すいうた、岩国藩についての話なんじゃけど…」

「岩国藩について話すには、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)から話を始めたほうがええじゃろう」

「関ヶ原の戦いいうたら、俗にいう「天下分け目の合戦(かっせん)」じゃね」

「関ヶ原の戦いは慶長5年(西暦1600年)9月、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の死後の覇権を争って、東軍・徳川家康(とくがわ いえやす)と西軍・豊臣側の石田三成(いしだ みつなり)の間で行われた戦いじゃの」

「この戦いで東軍が勝って、家康が江戸幕府を開いたんよ」

「負けた西軍の総大将じゃったのが、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる毛利輝元(もうり てるもと)」

「輝元は領地を減らされて、長州藩(ちょうしゅうはん。今の山口県)に移されたんよね」

「それまで中国地方一帯を支配し、石高が120万石あった毛利氏は、30万石の長州藩に移されることになったんじゃの」

「負けたとはいえ、石高が4分の1に減らされたいうのは、屈辱的じゃね」

「ところが、家康は毛利家の取り潰しを狙うとって、それを防いだのが吉川広家じゃったということじゃ」

「…???」

「これからは豊臣でなく徳川の世になると考えた広家は、黒田孝高(くろだ よしたか。官兵衛(かんべえ))を通して家康に内通(ないつう)、ひそかに敵に通じ、「東軍が勝った後の毛利家の責任は問わない。 領地はそのまま保障する」という約束を取り付けたんじゃの」

「そうか。毛利両川(もうりりょうせん)、元就の息子はそれぞれ吉川家、小早川(こばやかわ)家に入って、毛利家を盛りたてることになっとったんよね」

「広家はその吉川家。広家は本家である毛利家の今後のため、あえて敵方の徳川家と内通して、毛利家の領土を認めてもらおうと考えとった。実際、関ヶ原の戦いでの広家の寝返りによって、毛利軍はまともに戦うことなく戦いを終えることになったんじゃ」

「それで毛利家の取り潰しは、ないなったん(=無いことになったの)?」

「ところが、広家との約束はなかったことにされて、毛利家の領土は没収、広家に長州藩30万石を与えるということになった」

「ありゃ。毛利家を守ろうとした広家の行動が裏目に出たわけじゃね」

「広家はすぐに毛利家存続のために行動を起こし、広家に与えられるはずの長州藩30万石を、本家の輝元に与えるようにしてもろうたんじゃ」

「で、毛利家が長州藩へ移ったというわけなんじゃね」

「今やっとるNHK大河ドラマ『花燃ゆ』にも、長州藩藩主で北大路欣也(きたおおじ きんや)氏演じる毛利敬親(もうり たかちか)が出てくるよの」

「そうせい!」

「広家もそれに従って、長州藩の東の果てにある岩国藩の初代藩主になったというわけじゃ」

「そういう経緯で、岩国藩ができたんじゃね?」

「吉川家が徳川と通じとったこともあって、長州藩・毛利本家は、吉川家が毛利家を取り潰そうとした張本人とみとった。それもあってか、岩国を支藩とする届けを出しとらんかった。その一方で、徳川と通じた吉川家は、幕府から大名として扱われとったんじゃの」

「確かに、話がややこしいね」

「そんなこともあって、「岩国藩」じゃのうて「岩国領」という呼び方もされることもあるんじゃの」







「お城の瓦にも、吉川家の家紋・蛇の目九曜紋(じゃのめくようもん)が入っとる」







「天守閣からの見晴らしも、えかった(=良かった)のう」

「絶景かな、絶景かな」








「錦帯橋(きんたいきょう)もよう見えるね」

「江戸時代、ここにお城があったら、城下の様子が手に取るように見えたじゃろうね」

「ところが、そうでもないんじゃ」

「…なんで?」

「天守閣を復元するとき、錦帯橋から見えやすいよう、もとの天守台より50メートルほど南に移したんじゃの」









「南に移した? そういや前回、復元された旧天守台がちょっとだけ出てきたけど…」

「あれは、今の天守閣より北側にあって、もともとはあそこに天守閣があったんじゃ」





岩国城跡旧天守台について


岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。
この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和元年(1615)一国一城令により破却された。

城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。

天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。
その隅部には、反りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。
これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。


(説明板より)








「上の図の、下の緑色の部分はむかしのまま残っているところ。真ん中の黄色の部分が修復、上の赤色の部分が復元したところになるんじゃの」





↓岩国城については、こちら↓

「岩国城」岩国の観光.com






訪問日:2015年5月1日




「今日は、岩国城について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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