戦前の広島県は、移民県でもあった。
【問題】
広島県は海外への移民を多く送り出しましたが、国内にも広島から多くの人が移住し、「北広島市」という名のついた市があります。その市はどこにあるでしょう?
1.北海道 2.青森県 3.山形県 4.秋田県
【ヒント】
市名の公募では、「南札幌市」というものもあった。
ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。
【正解】
1.北海道
【解説】
1894(明治27)年2月に誕生した広島村の開祖の一人である和田郁次郎(いくじろう)は、1882(明治15)年単身で北海道に渡った。
その地に、1884(明治17)年には広島県から25戸103人が集団移住した。
「広島村」は1968(昭和43)年9月の町制施行により「広島町」に、1996(平成8)年9月市制施行により「北広島市」になった。
北広島市は1988(昭和63)年4月に「平和都市宣言」をしており、毎年平和学習の一環として小・中学生の「こども大使」を広島平和記念式典へ派遣している。
広島市からは、8月2日、3日に開催される「北広島ふるさと祭り」に広島観光親善大使を派遣し、親善交流・広島のPRを図っている。
広島県は多数の移民をハワイ・北米・南米・中国・東南アジアの各地に送り出してきた。広島からの移民が特に多いことで知られるのがハワイ。
ハワイ島では、広島をルーツに持つ人が圧倒的に多く、広島弁が標準的な日本語となっている。
「キンサイ、キンサイ ハワイへキンサイ、わしらはみんな広島じゃけん♪」
(小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド「うわさのカム・トゥ・ハワイ」)
1899(明治32)年から1932(昭和7)年までの都道府県別海外移民の累計を見てみると、総計で約55万人。
そのうち広島県からが約9万人(全移民の約17パーセント)と第1位で、第2位の熊本県よりも約3万人も多い。
その理由は何か?
江戸時代に急激に人口が増えたためである。
1721(享保6)年と1872(明治5)年の人口の増加指数を比較してみると、以下のとおり。
全国 100→127
備後 100→142
安芸 100→184
(有元正雄ほか『広島県の百年』山川出版社 1983 P.3)
1721年から1872年の151年間で、備後の人口は全国比で約1.1倍、安芸の人口は全国比で約1.4倍も増えていることになる。
人口は増えたが、耕地がそれに比例して増えたわけではないので、当然、人が余る。
自然と出稼ぎ・移民の人が増えていった。
安芸郡熊野町の筆作り(熊野筆)もそうだ。
江戸のころ、農民たちの多くが農閑期に山仕事で紀州熊野地方や大和吉野地方へ出稼ぎに出た。
出稼ぎが終わると奈良に立ち寄り、筆や墨を仕入れて行商をしながら帰ってきたことがきっかけで、筆と熊野の結びつきが生まれた。
現在では国内生産量の約80%が熊野で生産され、近年、熊野の化粧筆は海外からも注目されている。
今日は、移民のことを勉強をさせてもらいました。
海外移民の数では広島県が全国1位というのは、今回初めて知りました。
(ハワイへの移民だけが、特別に多いのだと思っていた)
今日もひとつ勉強になったでがんす。
移民のことを詳しく知りたい方は、こちらを参考にしてください。
広島市デジタル移民博物館
今回は、「ひろしまファンクラブ 第150号 平成20年7月24日(木)発行」から出題させてもらいました。感謝!
「ひろしま通」の過去問は、「ひろしまファンクラブ」というメールマガジンに出ています。
ほいじゃあ、またの。
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