広島の水害碑(その3)
広島市安芸区中野 天神宮
大正15年9月の水害
平成30年7月豪雨でも被害
前回は、広島市安芸区中野の専念寺境内にある、鐡道遭難者追弔塔について話をした。
今回は、同じ安芸区中野にあって、同じ大正15年(1926年)9月に起こった水害記念碑の話。
この碑も、『水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-』(広島市危機管理室 2018年1月)に紹介してある。
↓前回については、こちら↓
鐡道遭難者追弔塔
↓「水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-」については、こちら↓
「水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-」広島市
天神宮(画面手前左側)の境内地に立つ水害記念碑(画面右奥)。
天神宮から道路をはさんで西側(画面向かって左手側)を畑賀川(はたががわ)が流れる。
画面奥をJR山陽本線が走っているので、JR山陽本線の車内からは天神宮を見ることができる。
水害記念碑
正五位天野雨石題
安藝(=安芸)郡中野村下中野水害
復舊(=復旧)耕地整理組合建之
大正十五年九月洪水
水害の状況について調べてみると…。
大正15年9月11日未明、連日降り続いた雨によって、畑賀川で土石流が発生。
家屋や田畑、道路、橋などが流され、死者35人、行方不明者1人という犠牲者を出した。
近隣市町村からの応援約2万5千人、当時、広島市にあった陸軍第5師団の工兵隊(こうへいたい。=土木建築などの技術に特化した部隊)約600人で復旧工事にあたる。
その後、国の補助や県による直轄工事として復旧工事が進められ、昭和5年(1930年)すべての復旧が完了した。
『水害碑が伝えるひろしまの記憶』によると、昭和10年(1936年)ころにこの碑が建てられたという。
ということは、水害が起こってから復旧作業、耕作地の区画整理が終わるまで10年ちかくかかったことになる。
一度、大きな災害を受けると、これだけ影響が残るもんなんじゃのう。
↓大正15年9月、豪雨のために広島市内各地で起こった災害については、こちら↓
「大正15年9月広島豪雨災害」ウィキペディア
…以下、余談。
今年、平成30年(2018年)7月の豪雨でも、このあたりは大きな被害を受けた。
畑賀川にはJR山陽本線の鉄橋が架かっていて、その北側(安芸中野駅側)に砂走(すなばしり)第3踏切がある。
その砂走第3踏切から、畑賀川上流を見る。
(撮影日:2018年8月5日)
豪雨災害から約1ヶ月後。
土砂はもとより、大きな石が流されてきていることが分かる。
(撮影日:2018年11月4日)
下流を見る。
(撮影日:2018年8月5日)
(撮影日:2018年11月4日)
ここから500メートルくらい先で、畑賀川は瀬野川(せのがわ)と合流する。
あの日、瀬野川がはん濫し、すぐそばを走る国道2号線が崩れ、通行止めとなったところも。
その影響で、わしゃ東広島市にある職場から広島市にある家に帰ることができず、職場で一泊。
翌日、6時間余りかけて家に帰ることができたんじゃの。
8月18日、JR山陽本線の瀬野駅-海田市駅間が運転再開するまで、このあたりは電車が走っとらん時期があった。
そのためか、踏切の遮断桿(しゃだんかん)が取り外してあった。
遮断桿とは、遮断機に取り付けられた、黄色と黒の縞模様に塗られた竿のことじゃ。
(撮影日:2018年8月5日)
運転再開後は、もちろん遮断桿が取り付けてあります。
(撮影日:2018年11月4日)
今日は、広島市安芸区中野にある水害記念碑について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
広島市安芸区中野 天神宮
大正15年9月の水害
平成30年7月豪雨でも被害
前回は、広島市安芸区中野の専念寺境内にある、鐡道遭難者追弔塔について話をした。
今回は、同じ安芸区中野にあって、同じ大正15年(1926年)9月に起こった水害記念碑の話。
この碑も、『水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-』(広島市危機管理室 2018年1月)に紹介してある。
↓前回については、こちら↓
鐡道遭難者追弔塔
↓「水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-」については、こちら↓
「水害碑が伝えるひろしまの記憶 -過去が教えてくれること-」広島市
天神宮(画面手前左側)の境内地に立つ水害記念碑(画面右奥)。
天神宮から道路をはさんで西側(画面向かって左手側)を畑賀川(はたががわ)が流れる。
画面奥をJR山陽本線が走っているので、JR山陽本線の車内からは天神宮を見ることができる。
水害記念碑
正五位天野雨石題
安藝(=安芸)郡中野村下中野水害
復舊(=復旧)耕地整理組合建之
大正十五年九月洪水
水害の状況について調べてみると…。
大正15年9月11日未明、連日降り続いた雨によって、畑賀川で土石流が発生。
家屋や田畑、道路、橋などが流され、死者35人、行方不明者1人という犠牲者を出した。
近隣市町村からの応援約2万5千人、当時、広島市にあった陸軍第5師団の工兵隊(こうへいたい。=土木建築などの技術に特化した部隊)約600人で復旧工事にあたる。
その後、国の補助や県による直轄工事として復旧工事が進められ、昭和5年(1930年)すべての復旧が完了した。
『水害碑が伝えるひろしまの記憶』によると、昭和10年(1936年)ころにこの碑が建てられたという。
ということは、水害が起こってから復旧作業、耕作地の区画整理が終わるまで10年ちかくかかったことになる。
一度、大きな災害を受けると、これだけ影響が残るもんなんじゃのう。
↓大正15年9月、豪雨のために広島市内各地で起こった災害については、こちら↓
「大正15年9月広島豪雨災害」ウィキペディア
…以下、余談。
今年、平成30年(2018年)7月の豪雨でも、このあたりは大きな被害を受けた。
畑賀川にはJR山陽本線の鉄橋が架かっていて、その北側(安芸中野駅側)に砂走(すなばしり)第3踏切がある。
その砂走第3踏切から、畑賀川上流を見る。
(撮影日:2018年8月5日)
豪雨災害から約1ヶ月後。
土砂はもとより、大きな石が流されてきていることが分かる。
(撮影日:2018年11月4日)
下流を見る。
(撮影日:2018年8月5日)
(撮影日:2018年11月4日)
ここから500メートルくらい先で、畑賀川は瀬野川(せのがわ)と合流する。
あの日、瀬野川がはん濫し、すぐそばを走る国道2号線が崩れ、通行止めとなったところも。
その影響で、わしゃ東広島市にある職場から広島市にある家に帰ることができず、職場で一泊。
翌日、6時間余りかけて家に帰ることができたんじゃの。
8月18日、JR山陽本線の瀬野駅-海田市駅間が運転再開するまで、このあたりは電車が走っとらん時期があった。
そのためか、踏切の遮断桿(しゃだんかん)が取り外してあった。
遮断桿とは、遮断機に取り付けられた、黄色と黒の縞模様に塗られた竿のことじゃ。
(撮影日:2018年8月5日)
運転再開後は、もちろん遮断桿が取り付けてあります。
(撮影日:2018年11月4日)
今日は、広島市安芸区中野にある水害記念碑について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
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